こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

もう三角形はみえない/Trident ラストライブ 「Thank you for your "BLUE"」レポート

www.hmv.co.jp

 

 他人を理解するのは難しい。
 片目をつぶってものを見ると遠近感が失われてしまうように、一人だけで他人と向き合っていても、お互いの心の距離や、相手の感情の細部がつかめない。
 二人だけではなくて、三人いれば事情が変わる。A地点までの距離を、BとCから見たときの角度の違いをつかって正確に測る三角測量法のように、Aさんのことを、Bさんと、Cすなわちわたしから見たときののイメージの違いを比べる。
 他人と一対一で相対するのは難しくても、もう一人他人を増やすのだ。そしてその他人の目を借りる。Bの目を通して見たAの話を聞く。もちろんB-C間のコミュニケーションが失敗することもあるけれど、A-C間だけで全部を済ますよりはまだましだ。
 そうして、二つの心で眺めることで、他人の心が立体的に浮かび上がってくる。複雑な互いの心のありさまを、より細かく把握していく。互いの心がどれだけ離れ、どれだけ近づいているかを、もう一人の目を借りて確認して、より近づこうと一歩を踏み出すことができる。

 一人ではできないこと、一人と一人ではできないことが、三人ならばできる。一人の能力が増えたわけではなく、厄介な要素である他人の数が増えただけなのに。
 他人がひたすら増えていったものが社会と呼ばれるものなのだろうと思う。三人はその原型だ。原型だから覚束ないけれど、いったん完成されてしまえば強い。そしてその構図の美点がはっきり見えるようになる。

 

 Tridentは、渕上舞沼倉愛美、山村響の三人で構成されたユニットである(であった)。
 実際のところ、彼女たちの関係がどのようにして解散時の状態まで出来上がっていったのか、一ファンに過ぎないぼくには想像することしかできない。ましてや、おおよそこの一年強という短い間しか追いかけなかった身としては。
 けれどもその輝きはあまりに強く、三人の関係は見事に過ぎて、だからぼくはその構図に特別なものを見出そうとしてしまう。冒頭に述べたのはそういう妄想の一部だ。心の三角測量法、とか呼んでいる。ぼんやり『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ Cadenza』でのイオナとムサシとヤマトのことを考えていて思いついた*1。わたしと他人、ではなくてわたしと他人と他人。三人だからこそできる心の交流の形式。
 まあこれはぼくの妄想だけれども、きっと、Tridentの三人のあいだにはぼくの想像もできないようなマジカルなものがあったに違いないのだ。ぼくはライブやラジオやアニメを通して、そのマジカルななにかを垣間見て、心をゆさぶられてきた。


 4月3日、Tridentのラストライブが行われた。会場は幕張メッセ・ホール8。とてもとても大きな会場だ。
 ぼくはフロアの中央よりやや後ろ、花道の突端を右斜め前方に見るあたりの席だった。ステージ上のTridentを肉眼で見ることは叶わないと思えたが、ライブ冒頭、Tridentはステージ上からさらに上に構築されたところから登場した。ステージの上にさらに小さなステージが作られていた、と表現すればわかりやすいだろうか。
 さらにそのステージ上ステージを中心に、上下左右の全面をディスプレイ*2が映しだす映像が彩る。
 会場の後ろ側からも見やすいうえに、視界の全面でTridentを中心とした映像表現が展開するため、没入感も高い演出となっていた。映像が、ほんらい『蒼き鋼のアルペジオ』が舞台とする海よりも、宇宙のイメージを多く扱う印象だったのもよい。海を舞台にしつつ、重力を操る未知の生命体と人類の対話という、ファーストコンタクトSFでもある作品の印象を再確認させ、そして原作の今後の展開を妄想させもする*3、楽しい演出だった。


 三人そろって登場したTridentは、やがて二人組になる。渕上さんと山村さん、渕上さんと沼倉さん、沼倉さんと山村さん。それぞれの組み合わせで歌われたキャラソンのパートだ。
 曲と曲のあいだのトークのなかで、お互いへの自分の気持ちを言い合う、というようなくだりがあった。どの組み合わせでも、ふたりがひたすら褒め合っているような雰囲気なのが楽しかった。にぎやかで、親密で濃密な楽しさがあふれていた。パフォーマンスも、どんどん熱を帯びていく。
 そして二人組は一人になる。ソロパートでは、いっそう雰囲気が高まっていった。三人が三人ともに、たったひとりでステージに立ち、そこにはいない、各自が演じたキャラクターたちのために歌う。不在の誰かを呼び、そして別れを告げる。彼岸とやりとりする祭事のようなおごそかささえ感じた。
 渕上舞さんは投影映像で架空の「青い鳥」を自分の傍らに呼び込んだ。明言はされなかったが、これには明らかに、昨年5月に亡くなった渕上さんの愛鳥チェルシーを悼む意味が込められていたはずだ。終始ほがらかな雰囲気なものの、とても親密で、切実な、観るものの心を打つ演出だったように思う。
 暖色系の照明のなか、『またあした』を歌った沼倉愛美さんは、極めて堂々として見えた。一際高くなる歓声のなか、それが聞こえてはいても動じてはいない、と思わされるような凛とした姿だった。しかし、この人はなんて強さを持っているのだろう、と感嘆していると、声のなかにふいにはかない響きがあったりして、これまた感嘆させられるのだった。
 山村響さんが歌った『Words』は、未知の感情に揺さぶられる痛み、苦しみをあつかった曲だけれども、この日のパフォーマンスは、一瞬だけ、そんな未知の感情に揺さぶられる喜びをも表現していた。ファーストライブ・セカンドライブ・そして今回と、変化した『Words』のパフォーマンスは、キャラクター・ハルナだけでなく、山村さんの変化をも表していたのだろう。
 そしてソロパート最後の『Yellow Carpet』。これまでキャラクターと自分が歩いてきた道のりに模した花道を、山村さんが一人でゆく。たった一人だけれども、その傍らには確かにハルナがいたし、劇中でハルナと共に生きていく蒔絵とキリシマがいた*4
 一人一人の声優が、キャラクターと対話をするようなソロパートは、とても濃密なパフォーマンスばかりだったけれども、それは各キャラクターにいったん別れを告げる儀式でもあって、声優がたった一人になっていくさまを見せつけられる時間でもあった。ついに、『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という作品が終わりを迎える、という悲しみも増してゆく。


 けれども、続く展開がその悲しみと寂しさを吹き飛ばす。先ほどまでステージに一人で立っていた山村さんに、わたしたちがいるじゃん!とばかりに、登場する渕上さんと沼倉さん。そして歌われるのは、『Blue Sky』!
 "Can I go with you?"と互いに呼びかけ、そして観客も一体となって「You! You!」とコールして、「あなた」とともにある喜びを高らかに歌う。
 このとき、Tridentは花道とステージ上手・下手の三ヶ所に分かれて立っていた。それは、その日形づくられた最も大きな三角形だった。
 ぼくの席からは、花道の突端にいる山村さんと、その向こうのステージ上手(向かって右側)の渕上さん*5が一直線上に並んで見えた。二人の距離は遠く、けれど交わし合う視線や表情が二人の近さをはっきり物語っていた。それは下手にいた沼倉さんとの間だって同じだったはずだ。すでにTridentは、ステージ中央に隣り合っていなくても、遠く離れていても、大丈夫なのだ。三人のつくった大きな三角形は、そんな確信を抱かせてくれた。


 『Blue Sky』の演出で客席に撒かれた銀テープには、Tridentからのメッセージが書かれていた。ぼくの右側のお客さんが、二本拾ったからどうぞ、と差し出してくれた。それをもらったぼくの左側のお客さんがメッセージに気づいて、すげえ!すごいっすね!と声を交わしあった。おこがましいけれど、われわれ観客も、Tridentの大きな三角形にプラスアルファの一点として参加できていたのかもしれない、という喜びもそこにはあった。
 そして続いたのは新曲だ。このタイミングで誰も予期していなかった新曲*6だ。しかも新PVつき! なんというサプライズ。Tridentの音楽プロデューサー西辺誠氏や、ついさっき、ライブ開始直前まで物販スペースで自らパンフレットを売っていた南健プロデューサー*7、サンジゲン・松浦裕暁氏といった、この仕掛けに関わったであろう『蒼き鋼のアルペジオ』の裏方たちのほくそ笑む姿が目に浮かんだ。
 そしてそして続いて登場するのが、中年の星ことBlue Steels!
 そう、Tridentのこれまでの活躍は、Tridentとともに全力で併走する他のキャストやスタッフがいたからこそ、より一層輝いて見えたのだった。すばらしいTridentの歌にふさわしいアニメ本編、そしてライブに登場するたび彼女たちを凌駕するほどの喝采を集めるBlue Steels。Tridentという三角形の外側を、さらにたくさんの図形が取り囲んで、輝きを反射させ、増幅させてきた。そのことをもう一度強く強く思い知らされる演出と展開。


 あとはもう一気呵成だった。最終的にライブは5時間に及び、アンコール前後では終電の都合なのか会場をあとにする人々が続出したが、多くの人がとても悔しそうだったのが印象的だった。ぼくの左隣にいた青年も、すごく申し訳なさそうに、残念そうにぼくの前を横切って退出していった。ライブあとに感想を交わしたかったのだけれども。


 ライブの終盤、渕上さんが、Tridentが解散すると自分の居場所が一つなくなってしまうような気がして嫌だった、ということを仰っていた。いやいや、大洗女子学園もあるじゃないですか――とも思いつつ、それほどにユニットや作品のことを強く想ってくれていることを、Tridentの中心にいる渕上さん本人が口にしてくれたのは、なんだか嬉しかった。それは、われわれファンが、解散の悲しみを分かちあう拠り所にもなるのだから。
 渕上さんは、嫌だと思いつつも、三人で集まったときにそれぞれが新たに関わる仕事や作品の話を聞いて、みな新しいステージに踏み出しているんだ、と感じて解散を受け入れることができたと語る。
 ラストライブにおいて、三人の今後が示されるようなことは当然ないわけだけれども、あの日あのステージを目にした人なら、Tridentが解散して離れても、目に見えないつながりはずっと続くのだと確信できたのじゃないかと思う。
 ライブの最後、アンコール曲として『ブルー・フィールド』を歌い終わったTridentは、長い挨拶のあとゆっくりと去っていった。最後にもう一度ぎゅっと固まって、観客には聞こえない言葉を交わし合って、それから三方向に分かれて舞台裏へ消えた。


 三人はそれぞれ別の道をゆく。さまざまな仕事のなかで、あるいはプライベートにおいて、時折彼女たちは再会するだろう。でもそれは個人としてであって、Tridentとしてではない。だからもうTridentという三角形をぼくが目にすることはない。
 それでも、あの三人が、かつて形作った三角形をぼくは忘れられない。そして時折、それぞれ別のところにいる輝く彼女たちの間に線を引いて、大きく広がった三角を想像する。冬の夜空に、大三角を見つけようとするように。


 ライブのあと、ぼくは前々からTwitter上でやり取りをしていた道人さんと落ち会った。何度もTridentのライブでニアミスしていたのだけれど、今回ようやく初めてお会いすることができたのだった。
 ぼくと道人さんの席はだいぶ離れていて、ライブの見え方もずいぶん違ったようだった。それぞれの視点で見たライブの感想、感動した場面のことなどを語り合うのは大層楽しかった。帰り道の途中でお別れするまで、時間は大した長さではなかったけれども、ライブのこと、Tridentのこと、それ以外のおたく的な話題も色々話した。
 Tridentのファーストライブに参加した昨年の三月から、この四月まで、Trident以外のものも含めてぼくは何度かライブに参加してきた。いずれも単独行だったから、そうして他人の言葉を、ライブ直後に直接聞くのは初めてのことだった。
 過去のブログでTridentのことを語るとき、コミュニケーションの難しさだとか、周りの観客のネガティブなところだとかをこだわって俎上にあげてきたことからわかる通り、ぼくは偏屈な人間であり、人付き合いがうまいほうではない。一人でいたほうが気楽でいいや、といつも思っている。
 でもその夜は、人と一緒にいれてよかった、自分じゃない他人の目から見たTridentの姿を知れてよかった、と思った。記憶のなかのTridentの姿が、より鮮やかになったように思えたから。


 Tridentという三角形はもう見えない。
 しかしぼくの記憶のなかにそれは残っている。また、音楽を聴けば、ライブ映像を観れば、そこにあの三角形の残像はある。
 そしてまた、自分が不似合いにも、他人と話すのっていいなあ、なんて思ったりすること自体も、あの輝ける三角形が残してくれたまばゆい光の小さな名残りなのだった。

 


Trident 「ブルー・フィールド〜Finale〜」MUSIC CLIP


*過去のライブレポート、キャラソンレビューをまとめておきます。

 あのすばらしいファーストライブに参加して、それまであまり熱心でなかったライブへの参加ががぜん楽しくなったのだった。

 

tegi.hatenablog.com

 

 

 Trident以外のキャラソンも大好き。自分の、キャラソン文化への見方もだいぶ変わりました。

 

tegi.hatenablog.com

 

 

 セカンドライブのときはちょっと大人気なかったなーとか思っている。 

tegi.hatenablog.com

 

 解散の報を受け止めるのは辛かった。

 

tegi.hatenablog.com

 

 で、最後まで強がってこんなことを書きました。

 

tegi.hatenablog.com

 


 またそのうち、山村響さんのライブレポートも書こうと思います。ぜひ読んでくださいね!

*1:劇中、イオナは過去の事件をムサシ・ヤマトふたりの視点から眺める。

*2:プロジェクションマッピングだったかもしれない。

*3:といってもこの「きっと霧の艦隊は地球外生命体由来のものに違いない」という妄想には根拠がほとんどないんですけど。

*4:そしてもっと言えば、昨年山村さんが演じたもう一人のYellowな人、天ノ川きららもその花道/ランウェイを歩いていたはずだ。

*5:もしかしたら山村さんと渕上さんの位置は逆だったかもしれないし、渕上さんじゃなくて沼倉さんだったかもしれない……。記憶力がなくてすみません。

*6:このとき流されたPV映像を製作したのが、遊技機向け映像の制作会社としてウルトラスーパーピクチャーズとサミーが共同で設立したギャラクシーグラフィックスなので、いつか『蒼き鋼のアルペジオ』が遊技機化されたときには正式にリリースされるのかもしれない。製作元情報は松浦裕暁氏のツイートに拠る。https://twitter.com/MatsuuraHiroaki/status/716632340970086400

*7:マジびっくりしたが、テキ屋のおじさんよろしく長蛇の列をさばいていく姿がかっこよかったのだった。

「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート

 今回取り上げるμ'sのラストライブ、そしてその直後に行われたTridentのラストライブから、すでに一ヶ月が経ちました。その間、仕事がすごく忙しいうえに風邪で数日寝こんだりしていて、もう遠い昔のような感覚がします。

 それでも、あの二つのライブについては書いておかねばならないことがたくさんあります。
 今日はまず、μ'sについて。たいへん長い上に抽象的で個人的なことばかり書きました。


 4月2日、TOHOシネマズ府中・スペシャルビューイング*1にて鑑賞しました。
 昨年のライブ時も府中のライブビューイングに参加しましたが、その時より、やや年齢層が高めで20代中心といった印象。あとカップルが多かった気もする。ライブ当日が平日でしたから、土曜に開催されたスペシャルビューイングは社会人が多かったのでしょう。
 そのせいか、コールはややおとなしめ。いや、それでも、ほかのスクリーンで映画を観ている観客に迷惑がかかっていないか心配になる熱狂ぶりではありましたが。


 ライブとしては、とてもコンパクトだったという印象があります。約5時間に及ぶものであり、途中で何度も幕間映像(主にキャストのインタビュー)を挟む構成でありながら、全体が緊密で「この構成でしかありえない」と思わせるシンプルな印象がありました。
 おおむねμ'sの歴史に沿った曲順であること、かつ「最後のライブならばこの曲をやっておかなくてはいけない」という曲を着実に演奏していく選曲が、そうした印象を産んだのだと思います。
 だから、次にどんな演出がくるのか、全体の構成がどういったものか、ある程度予測できてしまうわけです。ユニットに分かれて、盛り上がって、それで終わりが見えてきて…といったふうに。でも、それは退屈には繋がらない。なぜなら、あらかじめわかってしまう構成が、μ'sの終わりを示すひとつのメッセージになっているから*2。μ'sの側から「これが終わりだよ」ときちんと差し出してくれているのですから、ファンたる自分はそれを胸を張って受け取らなければならない。μ'sが差し出す一つ一つの曲に、ファンは、そうだよね、と頷きを返す。そんな雰囲気のあるライブだったように思います。


 でも、「終わりを受け取らなければならないんだ」と頭でわかったからといって、心がそれに100%従えるわけではありませんでした。
 終盤で『Sunny Day Song』の衣装を着たμ'sが登場したとき、ぼくは、その日いちばんの辛さ、悲しみ、そして虚無感に襲われました。μ'sのだれも口に出していないけれど、もうはっきりとそこには「これで終わりだよ」というメッセージがあったから。
 崩れそうになる膝に力を込め、嗚咽が漏れそうな口をおさえ、キンブレを振り歓声をあげたときの苦しさは、とうぶん忘れられそうにありません。


 なぜμ'sの終わりが辛いのか。
 二度と彼女たちのパフォーマンスが観られなくなるから。それが前提ではあるものの、加えてぼくには、「置いていかないでくれ」という、自分勝手な気持ちがあったのです。
 この二年くらい、ぼくはμ'sに強く惹かれて日々を過ごしたのだけれども、その根底にあるのは、「μ'sになりたい」という願望でした。……自分で書いていても超きもいしドン引きしているのですが、真実なので我慢して書きます。我慢して読んでほしいけど無理はしなくていいです。
 自分が高校生のころに、μ'sのように輝く青春を生きていたかった、という、過去の話ではありません。いま、たったいま、会社員として働いているいまの自分が、μ'sのようになりたい。そういう、現在の問題なのです。愚かしく、狂人のように思われるだろうけれども、その気持ちは否定しようがない。
 ぼくはμ'sになりたい。
 仲間を牽引していく強さが欲しい。お互いに委ねあえる信頼が欲しい。逆境を乗り越える能力が欲しい。
 ふつうの働く人が、スティーブ・ジョブズの立志伝やGoogleの企業風土に憧れる感情と、さほど差はないのだと思います。
 μ'sのように生きたい。ともに働く人たちにも、μ'sのように楽しく生きてほしい。そういう場を作り出せる人間になりたい、けれど、できない。
 『ラブライブ!』という物語のなかできらめくμ'sの輝きを見るたび、その輝きに欠けた自分の不甲斐なさがおもわれて、一層やるせなさが高まるのです。
 μ'sの、そして『ラブライブ!』の恐ろしいところは、その輝きがフィクション内に留まらず、現実での成功をも伴っていたことです。オタク史、いや日本のアイドル史に残りうる、独特かつ正統的な成功を収めたコンテンツだと言ってさしつかえないでしょう。それは、作り手たちの「仕事」の成果でもある。μ'sのすばらしい活躍の舞台裏では、多くのスタッフたちが、すばらしい仕事をしていたはずです。だから、「あれは嘘の物語だから」なんて言い訳が通じない。実際にゼロから初めて、ドームまでの道を走り切った人たちがいるのだから。
 こうして、フィクションの輝きと、現実の輝きが、二つ揃ってぼくの目を射る。もちろんそれに励まされることもあるけれど、4月のあの日のぼくはその輝きを受け止める気力も覚悟もなかった。打ちのめされてばかりでした。
 そしてμ'sは、そんな不甲斐ないままの自分を置いて去っていってしまう。
 『Sunny Day Song』の衣装を見たとき、あんなにも辛かったのは、そうした気持ちが最も大きくなっていたからなのでしょう。


 ライブの最後の曲は『僕たちはひとつの光』でした。
 「今が最高」というフレーズを、μ'sも、観客も、ぼくも、繰り返し歌いました。
 前述のとおり、観ているぼくは「最高」じゃなかった。それでも「今が最高」だと歌っていた。
 そこには現実逃避と欺瞞がある。
 でも、そういうことをずっと考えながら観ていたライブにおいて、「今が最高」という言葉を発していた瞬間、もっとも自分の現在とかけ離れた言葉を大声で発したあの瞬間に、ぼくは確かに解放されたように感じたのでした。


 あの瞬間、μ'sと観客と演出と、これまでのμ'sの歴史と、μ'sをめぐるすべてのものごとが噛み合って、真に「最高」なものが現れていた。ぼくは最高じゃないし、これからも最高になれるかどうかわからない。けれども今確かに目の前に最高な瞬間が現れていて、ぼくもその一端を、ほんのほんのごく一部だけれども、担っている。
 世の中に「最高」は存在しうるし、自分がその一部になることもできる。ならば、いつか自分が「最高」になることも、決して不可能ではないのではないか? ならば、そのために走っていくことに意味はあるはずだ。
 ――そのように、自分が信じ直すに足るだけの「最高」なものがあの瞬間にはあった。だからぼくはほっとしたのだと思う。


 翌日、Tridentのライブに行く途中、ぼくはニコライ堂*3神田明神に立ち寄りました。とくに神田明神には、ラブライバーの姿が多く見られました。みんな和やかで穏やかな笑顔だった。
 ニコライ堂で参拝を終えて、敷地の外側から建物の写真を撮っていたところ、初老の女性に話しかけられました。ぼくが観光で通りかかったのだと勘違いして、堂内の参詣をすすめようとしてくれたらしい。絢瀬絵里のことを身近に感じたくて――とまでは言わなかったものの、ニコライ堂と正教徒に関心があって立ち寄り、すでに堂内も見学した旨を明かすと、彼女も親近感をもってくれたらしく話が弾み、小一時間ほどの長い立ち話をしました。
 ぼくは特定の宗教を信じる人間ではないけれども、ニコライ堂にも神田明神にも、あるいは他の寺社仏閣にもなにかよきものを感じるのだ、という話をすると、いわく、「人の祈りが積み重なった場所には、共通のなにかが生じるのよ。それは正教もプロテスタントも、仏教でも同じだわ」。
 内心ぼくは、「それは二次元でもアイドルでも同じだ」と思いました。神田明神はもともと平将門を祀った社だけれども、ラブライバーはそこでμ'sを想う。強引で勝手な上書きではあるが、そこに積み重なっていくのは確かにある種の「祈り」です。もしかしたら、その祈りは、普遍のなにかを生み出しているのかもしれない。
 彼女はまた、自分が正教徒になろうと決めたときのことも話してくれました。多分に個人的なエピソードだったので詳述は控えますが、いわば彼女はそこで、正教の信仰対象たるイイスス・ハリストスという理想の存在の一端に触れて解放されたのでした。
 その話を聞いていたときには全く気づかなかったのですが、いま振り返ると、彼女の体験はそのままぼくがμ'sのライブで感じたことに重なると言えそうです。
 理想を叶えることは難しい。だから、理想を宗教やアイドルといったかたちでこの世の中に現出させる。理想の者それ自身になることはできないけれども、その一端に触れることで人は癒され、励まされる。
 ハリストスもμ'sも、人が作り出した理想という意味では同じです。正教徒にもラブライバーにも、あんなものと一緒にするなと怒られるかもしれませんが、時代も文化もまったくことなる人の営みが、共通のよきことを生み出していることに、ぼくは穏やかな感動を覚えたのでした。


 正教徒の女性は、近々、東欧をめぐる長い旅行に出るのだ、と話してくれました。宗教と政治によって数多くの血が流されてきた土地です。荒廃しているところもあるが、各地の教会に宿を借りながら移動し、復活祭はコソボで迎える、という。
 悲惨な争いが行われた土地で、それでも神のことを想う。よき世の到来を願う。
 彼女いわく、人は不完全だから、人間の行いを見ていると、信仰を失いそうになってしまう。だから、神のことを考え続けるのが大事なのよ、と。


 ぼくも、μ'sのことを考え続けようと思います。

*1:生中継ではなく、ライブ翌日に録画を放映したものバージョン

*2:だから、すごく儀式的だと思いました。極端な言葉を使ってしまえば、あれはμ'sという存在をいったん彼岸へ送り出す葬儀だったのだと思う。

*3:神田明神に比べてラブライバーの注目度は低いですが、『School Idol Diary』で描かれる通り、絢瀬絵里が幼少時に通い、穂乃果・海未と初めて出会ったとされる重要な場所です。

新人アニメーター寮のクラウドファンディングに参加した

 この一ヶ月、μ'sとTridentのラストライブ以降、あまりのショックに身体を壊し――というわけではないんだけど、まあ更新が途絶えております。二つのライブのことについて書いては消し書いては消しの繰り返しです。
 で、あんまり間があくのもなんなので、表記の件についての記事をアップしておきます。自分用メモですが、関心持ったかたがいたら嬉しい。あと誤認とかあったら教えてください。

新人アニメーター寮とはなにか

 「新人アニメーター寮」とは、NPO法人アニメーター支援機構という団体が運営する寮のこと。収入が低いにも関わらず、都内の家賃が高いエリアで生活しなければならない新人アニメーターを支援するための安価な寮なんだそうです。

 

animator.main.jp

readyfor.jp

 

 寮が最初に開設されたのが2014年で、ぼくは昨年行われたクラウドファンディングをきっかけに知りました。そのとき支援したかどうかは忘れた。

 「アニメーター支援機構」でぐぐると、ネガティブな情報も散見されます。

matome.naver.jp

matome.naver.jp

 どうも当初は、著名な作家のイラストをもちいたチャリティで資金を集めようとしていたらしい。確かにそれはどうかと思う。

togetter.com

 アニメーター支援機構が行う講習会について、北久保弘之氏が質問をぶつけた際のまとめ。
 このやり取りを見ると、支援機構は情報の示し方があまりうまくなく、それで誤解や反発を受けてしまうことがあったようだ。

 2015年のクラウドファンディングの際には、(あくまでぼくの観測範囲内だが)ネット上で大きな反発が起きるようなことはなかったと思う。二回行われた募集がいずれも目標達成できていることも、支援機構の活動が軌道に乗っており、また世間にも認知されつつあることの証左だろう。
 チャリティという、ものの売買を間に介した方法ではなく、直接出資を求めるというスタイルにしたのもよかったのだと思う。

 現在の寮のようすは、寮生が更新するFacebookが一番参考になる。

 

Facebook - 新人アニメーター寮

https://www.facebook.com/AnimatorDormitory/

 

 寮生の方々が、寮で行っている活動や、自分の仕事の様子、はたまた折々の日常生活などをかなり頻繁にアップしている。

 簡単にまとまったものとしては、2014年の下記のまとめがわかりやすい。

togetter.com

 Twitterで「新人アニメーター寮」で検索すれば、現在居住している人のアカウントを見つけることもできる。

  総合的に判断して、現在、新人アニメーター寮は信頼に値する運営がなされているように思える。むろん、100%確かなことはないし、ここで支援されたアニメーターさんたちがこれからどんな生き方をするかは全くわからない。たとえば寮を出た途端にアニメーターを辞めてしまうかもしれない。

 けれど、まあ、そのくらいのリスクは気にしない。そもそもそこまでの大金をつっこむつもりはない。そんな余裕はぼくにもない。

 

で、結局支援は必要なのか

 一般的な事実として、東京で暮らすにはとてもお金がかかる。部屋を借りるには、最初に敷金・礼金として一ヶ月分の家賃と同額あるいは倍額の金を支払う必要がある。さらに、二年ごとに更新費用として一ヶ月分の家賃を支払わなければならない。
 空き部屋がごろごろある地方から考えると異様に思えるが、とにかく東京の賃貸業者は強気なのだ。
 そのような住居環境で、賃金の安い業界に飛び込む若い人が引き受けなければならない負荷はとてつもなく大きい。
 もちろん、やりたい仕事のためには死にものぐるいでやれ、という意見もあるだろう。だが、リスクがあるよりはないほうがマシだ。辛い道と楽な道、どちらを通っても成果が同じなのならば、楽な道ばかりになったほうがいい。

 個々の支援より、業界全体の構造改革が必要だという意見もあろう。しかし大きな変化には長い年月が必要だ。今なら故郷を飛び出すことのできる若者が、数年後には家庭の事情や社会情勢の変化から、そうできなくなるかもしれない。

 アニメーターの懐を潤すなら、ソフトやグッズを買えばいいのではないか? それはもちろんそうだ。アニメ業界の人たちのことを思いながら、自分の欲しいものを買う、それだけでも充分だとは思う*1
 しかし、どうもぼくは業界全体というよりは、個人を応援したいという気持ちのほうが強いらしい。声優や監督といった表舞台に立ちやすい人たちならば、ソフトの購入が彼らへの「支援」になると思う。しかし、まだまだ無名の若手アニメーターの場合は、ソフトの購入だけでは厳しいだろう。

 と、いうわけで、ごくごく低額ではあるが、ぼくは新人アニメーター寮のクラウドファンディングに参加したのだった。
 締切は5月31日。クラウドファンディングなので、これまでに目標が達成されなければ、ファンディング企画全体が失敗ということになる。成立すればいいなあと思います。

readyfor.jp

*1:というかそもそもふつうの人は娯楽としてアニメを享受しているだけでよい。作る側が設定する対価を支払っているかぎり、そんなマジメなことを考える義務はない。それは大前提ではある。

Tridentが解散したって悲しくなんかない

 

BLUE(初回限定盤)(Blu-ray Disc付)

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 いよいよTridentのラストライブ*1まであと一週間となりました。
 まったくの偶然ですけど、Trident同様にぼくが愛するμ'sもまたあと数日でラストライブを迎えます。なんたる符合。偶然ではありますが、あと数日で自分の好きなものの終わりが二つもやってくるかと思うと、その欠落に自分が耐えられるのか不安になってきます。いや、きっと自分のなかでなにか大きな変化が起こるのだけれども、大きすぎて予測ができない。そんな気分です。

 でも、Tridentにせよμ'sにせよ、当の本人たちからは、悲壮感みたいなものはあまり伝わってきません。ライブという大きな仕事を前にしているのですから、悲しむ暇なんてない、ということもあるのでしょう。大人が仕事として準備をしているのですから、当然です。
 ですが同時に、ことTridentについては、Trident自身もファンも、こうした「終わり」を迎え入れる準備はあらかじめできていたのではないか、という気がします。
 別れを前にしても、悲しみに暮れなくてよいのだ、とみな頭でわかっている。
 Tridentを産んだ『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という作品が、そのことを示しているからです。

 

 『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の主人公であるイオナ*2は、自分が超越的な存在・ヤマトによって恣意的に創りだされたかりそめの存在であることに悩みます。世界の危機を回避するために、彼女は自分のなかにバックアップ保管されていた創造者たるヤマトを解放しなければならない。ヤマトを解放したとき、おそらく自分の自己同一性は保たれず、ひとつの終わりを迎える。自分の生は他者のためのものであっただけでなく、終着点までもあらかじめ決められていたのです。
 彼女は恐怖に怯えます。仲間の危機を前にしても、自分を失う恐怖から、何もできないでいる。
 そんな彼女の背中を押すのは、かつて自分の愛するものを失った悲しみにとらわれ暴走するも、イオナによって救いを得たコンゴウでした。

消えるわけがないだろう
お前の存在はずっと私の中にある
お前がこれからどうなろうと
私が覚えている限り
お前がいたという事実は消えはしない*3

 すでに愛したものを失ったコンゴウが口にするこの言葉には、とても説得力があります。とはいえ、容易に頷くことは難しい、とても厳しい言葉でもある。
 他者の記憶という不確か極まりないものにしか、自分を託すことはできない。そんなことを信じて自分を投げ出せるのか。
 そもそも、イオナの生は他者によって定められたものでした。そのような生を、自分だけのものとして認め、誰かに認めてもらうことができるのでしょうか。
 自分の生に、他者に託せるほどの意味はあったのだろうか? もしぼくが彼女の立場になっても、そのように怖気づくはずです。
 もちろんぼくを操るヤマトのような超越者はいません。ですが、身体や能力によって、ぼくのできることはとても小さく限られている。自分が歩める狭い狭い道だけをなぞっていく己の生が、ときおりひどく虚しく思えてしまう。思い悩むイオナに、ぼくは強く共感します。

 

 が、それでもイオナは、自分のなかのヤマトを復活させることを選びとります。
 あらかじめ定まったルートを通ったのだとしても、
それでも世界は複雑さに満ちていて、そこから自らの大切なものを選びとることはできる。
 たとえ自分の記憶がなくなり、アイデンティティーが消え去っても、それを誰かに引き継いでもらうことは可能だ。
 そこに意味は必ず生じる。
 イオナの選択は、そのような信念に基づいているのだ、とぼくは思います。

 

 人の生は、運命を超えて意味を得ることができる。
 そのようなことを考えるとき、ぼくは、2015年3月のTridentファーストライブにおける『Innocent Blue』歌唱中の一場面を思い出します。
 ハルナ役・山村響さんとタカオ役・沼倉愛美さんの間に立って、ひとりソロパートを歌おうとするイオナ役の渕上舞さん。その背中に、左右から沼倉さんと山村さんの手がそっと添えられます。感極まった渕上さんは、思わず声をつまらせます。こぼれる涙。いたわりあうように、互いの感情を交換させるように、寄り添うTridentの三人。
 渕上さんの背中に手を添える振付は、事前に沼倉さんによって考案されていたものでした。ですが、落涙というアクシデントによって、その動作は、渕上さんをいたわる二人の心の現れとして見えるようになった。
 大げさですが、あらかじめ定まっていたはずの振付という運命を超えて、新たな意味が生じたのです*4

 

 より大きくTridentの活動を見渡すと、Trident自体も、あらかじめ定まっていた運命のなかで、意味を見出していくことを実践したのだと言えるように思います。本人たちの自主的な希望でも、自然発生的なものでもなく、アニメ放映前から段取りされた、作品の利益のために組まされたユニット。それがTridentでした。
 Tridentがその活動初期に「不仲」というキーワードをもって世間から誹謗を受けたのも、作品内ユニットという存在の向こうに透けて見える「大人の事情」が忌避されたからかもしれません。ファンタジーであるはずのアニメ作品が、好きでもない仕事を声優たちに強いている。そんな歪んだ現実は、オタクたちの見たいものではないのだから。
 しかしいま、彼女たちの歌に、ラジオでのトークに、そしてステージでの姿には、そのような定められた運命を窮屈にこなす不自由さは感じられません。作品の終わりと同時に活動を終えさせられる、そんな運命を辿らされている真っ最中だというのに。

 

 決められたことをこなすなかでも、自分にとってかけがえのない意味を見出すことができる。
 Tridentの、そして『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』の発するそんなメッセージに、この最近のぼくはずっと勇気づけられてきました。
 Tridentは、規定された活動のなかで、規定以上の輝きを見せてくれました。ならば自分のような人間も、日々の、どうしようもなく平凡に規定された人生を、意味あるものにできるのではないか。そう信じさせてくれたのです。

 

 ぼくにそんなことを信じさせる力をくれた人たちの、最後の道のりが、このラストライブです。ならば、悲しみに暮れることはない。Tridentの姿を心に焼き付けて、ラストライブのあとも、ぼくはまた大いに語って語って語り倒します。
 そしてコンゴウのように、「大丈夫だ/私がお前を忘れはしない」、そう口にしてみせるのです。

私に世界を、世界との繋がりを与えてくれたのはお前だ
そのお前が自分を否定するようになってしまっては
私も立つ瀬がないではないか
大丈夫だ
私がお前を忘れはしない
私たちは、繋がっているのだろう?

 Tridentが解散したって、悲しくなんかない。
 そこで悲しんでいたら、自分のなかに何かを残してくれたTridentの、「立つ瀬がない」ですから。

 

 ライブのチケットはまだ一般発売中のようです。
 今からでも遅くはありません。あなたも、Tridentの航跡を目にしてみませんか。
 幾多の運命と偶然を越えて活躍してきた彼女たちの最後の舞台に、一人でも多くの人が、それまでの人生のルートからちょっとだけ足を踏み出して参加してくれたら、きっと素敵なことになるだろうと思うのです。
 幕張でお会いしましょう*5

*1:4月3日、幕張メッセで開催予定。

*2:美少女アニメというジャンルからすればイオナは「ヒロイン」ですが、ここは「主人公」と呼びます。「主人公」である群像と同じく、戦い、悩み、成長した彼女には「主人公」という名前こそふさわしいと思うからです。

*3:『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ Cadenza』より、コンゴウのせりふ。以下同。

*4:正直に言えば、ぼくの記憶のなかでは落涙→手を添えるという順番に改変されてすらいました。ブルーレイで確認して順序が逆だったことに気づいた。記憶の曖昧さに苦笑しつつ、それでもやはり、そう思ってしまうのも仕方ない名場面だよな、と思います。

*5:e+のURLはこちらです(笑)。http://sort.eplus.jp/sys/T1U14P0010163P0108P002144333P0050001P006001P0030003