こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「わたしたち」から「君」へ/『ラブライブ!サンシャイン!!』13話のこと

 『ラブライブ!サンシャイン!!』(以下『サンシャイン!!』と略)13話はよかった。そして、13話を含むこのアニメが投げかけるものは大きい。今回はそのようなことについて書きたいと思います。

 

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 13話は、千歌がこのように呼びかけることで始まります。

今日はみなさんに、伝えたいことがあります!

  「シンくんかよ!」と思ったのは私だけではないでしょう*1。『King of Prism』の一条シンが、ステージ上から劇中の観客に、そしてスクリーンのこちら側へと呼びかけたのと同様に、ここで千歌が呼びかけているのも、劇中の観客であり、画面のこちら側にいるわたしたちです。
 シンくんはあのとき、初めてプリズムショーを観たときのときめき、そしてそこから始まった世界の輝きについて語りました。わたしたち観客は、彼の言葉に沿って、自分もまたプリズムショーとスタァたちに世界の輝きを教えられたことを改めて思い知ります。彼の言葉によって観客は自分の中の感情を再認識させられ、強化される。そして何より、そこで劇中の(虚構の)シンくんと観客は同じ立場となる。虚実の境界線はゆらぎ、ただ「世界が輝いていること」だけが確かなものとして残る。

 

■むつたちの物語

 13話冒頭、千歌の呼びかけはさきほどの一言だけにとどまり、いったん中断します。オープニングとコマーシャルののちに描かれるのは、Aqoursの練習風景です。
 Aqoursは夏の暑さとうまく折り合いながら、ラブライブ地区予選に向けてダンスや歌に磨きをかけています。メンバー同士の間も狭まり、着実に成長しているように見えますが、それでも、浦の星女学院の学校説明会への参加希望は集まっていません。


 千歌のクラスメイトであるよしみ・いつき・むつの三人は、たまたま本を返しにきた学校の図書室で、そんなAqoursに出会います。3話のファーストライブを手伝い、7・8話の東京イベントの出発と帰還に立ち会っていた彼女たちですから、すでにAqoursの活動のことはそれなりに知っているはずです。沼津の花火大会で行われたステージは生で観ている可能性が高いし、東京のイベントや予備予選もネット上の動画などで見ていておかしくない。すでに彼女たちはAqoursがステージ上で輝く姿を知っています。
 それでもむつたちは、この、暑い夏休みに練習をこなすAqours*2の姿を見て驚く。

「練習、毎日やってたんだ」
「千歌たちって、学校存続させるためにやってるんだよね」
「うん」
「でもすごくキラキラしてて、まぶしいね」
「うん!」

 ステージ上の姿ではなく、練習する姿にこそ、むつたちは心を動かされている。
 そのうえで彼女たちは、Aqoursの活動に加わりたい、という気持ちを打ち明けます。裏方として手伝うということかと思いきや、むつたちは大胆にも、自分たちもスクールアイドルになりたいという。

だから、学校を救ったり、キラキラしたり、輝きたいのは、千歌たちだけじゃない

わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかなって

……どうかな

 「千歌たちだけじゃない」。
 Aqoursの特別さ、彼女たち九人だけの才能や共通の経験を否定するともとらえられかねない発言です。しかし、彼女がどんな経緯でこう言ったかに注目する必要があるでしょう。ステージ上ではなく、自分たちの学校で、自分たちの日常と地続きの場所で、日々練習をする千歌たちの姿を見たあとに、むつたちはこう言っている。そこにあるのは、同じ学校の生徒としての共感です。大胆ではあるけれど、傲慢ではない。
 また、この大胆な言葉には、3話のファーストライブにおけるダイヤと千歌のやり取りを思い出させるものがあります。

「これは今までのスクールアイドルの努力と、町の人たちの善意があっての成功ですわ。勘違いしないように」
「わかってます。でも、でもただ見てるだけじゃ始まらないって。うまく言えないけど、今しかない瞬間だから。だから、輝きたい!」

 先に走っている人たちの偉大さを知っていて、自分の矮小さを知ってはいても、それでも挑戦したいという気持ちに、千歌は嘘をつかなかった*3

 

 むつたちは大胆なことを言いますが、千歌の反応にも驚かされます。彼女はむつたちをあっさり受け入れてしまう。
 その晩、千歌は言います。

ラブライブがどうでもいいわけじゃないけど
ここが素敵な場所だってきちんと伝えたい
そして、0を1にしたい

 完成されたパフォーマンスをするよりも、内浦を世の中へ伝えることのほうが優先されています。そのためならば、Aqoursの形が変わってもよい。
 一連のシーンにおける梨子の困った表情を見て、彼女はむつたちがAqoursに加わることに抵抗を感じているのだ、と思った人は多いと思います。わたしもはじめはそう思いました。
 ところが、地区予選の当日、ついに自分の感情を吐露するかに思われた梨子が口にするのは、事前にエントリーしたメンバーしかステージに立てないこと、そして関係者をステージ近くへ集めるような行為も禁止されていること、というルール上の問題だけでした。
 13話において、Aqoursがむつたちを受け入れることは、全く否定的に描かれていません。前述のように、むしろここで梨子が、Aqoursはこれまでともに歩んできた九人のものだ、とむつたちを受け入れないほうが、一般的な感情の動きからすれば自然かもしれません。しかしそれでも、Aqoursはむつたちを受け入れる。

 

 演出もそれを裏打ちします。名古屋の駅前でAqoursと待ち合わせたむつたちに続いて浦の星女学院の全生徒が登場すると、『サンシャイン!!』のメインテーマが鳴り響きます。ここでの音楽演出は暗に、今回の主役はむつたち浦の星女学院の生徒ですよ、と言っている。

 

 一度は応援に徹することになったむつたちですが、けっきょく彼女たちは、規則を逸脱して、Aqoursのステージに参加することになります。
 地区予選のAqoursのパフォーマンス、とくに『MIRAI TICKET』の合間に描写されるむつの姿はとても印象的です。最初は周りの生徒たちとともにサイリウムを振っているむつですが、やがて、Aqoursのパフォーマンスに驚き圧倒されたように、呆然とした表情になります。そして千歌が「みんな、一緒に輝こう!」と呼びかけるに至ってついに、席から立ち上がりステージに駆け寄っていく。
 描かれるのはむつだけではありません。客席に並ぶ数十の浦の星女学院の生徒たちは、一人ひとりにはっきりと個性が読み取れるかたちで描かれています。彼女たちが画面上に登場する時間は非常に短いものですが、そこには明らかに演出上の重みが置かれているように見えます。


 『MIRAI TICKET』を歌うまえ、Aqoursはステージ上で自分たち九人の物語を演じていました。それは、これまで1話から12話までで描かれてきた、九人が一人一人Aqoursに加わっていく過程です。そこに連続するかたちで、まるで十人目のAqoursの物語のように、むつたちは描かれているのです。

 

■演じられることの意味

 ラブライブ地区予選のステージ、千歌の呼びかけがはじまるところに話を戻します。

今日はみなさんに、伝えたいことがあります!
それは、わたしたちの学校、わたしたちの街のことです

 自分たち九人のこと、ではなく、学校と街のことについて話したい、と千歌は言います。ここでも、Aqoursより浦の星女学院が優先されています。

 呼びかけに続いて、千歌たちは制服姿で、これまでの自分たちの遍歴を演じ始めます。
 すでに視聴者はその物語を知っています。それでもあらためて千歌たちが演じる理由はあるのでしょうか。

 

 『サンシャイン!!』という物語のなかで、Aqoursたちはまごうかたなき「主人公」であり、物語の中心に特別な存在として立っています。しかし、ここで自分たちの物語を「演じなおす」ことで、「主人公」を演じる存在=「演者」の立場に移動します。もちろんそこで演じられるのは彼女たち自身の物語ではあるのですが、演じなおすことで、自分たち自身の物語から距離を取っている。図にすると、下記のようになります。

 

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 物語から距離を持って立つ演者の立場というのは、同じく物語を離れて観ている観客の立場と親しいものです。無論、それぞれの物語に対する距離感は個々の演劇や物語によって変わるのですが、13話でAqoursは、制服姿で、セットなし、複雑な演出もなしの状態でステージに立っています。外見は、客席の浦の星女学院の生徒たちとまったく変わりません。先程の図に、次のように観客を当てはめても問題はないでしょう。

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 そしてここでいう「観客」は、彼女たちを見ている浦の星女学院の生徒たち、そしてテレビのこちら側にいるわたしたちのことでもあります。

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 一時的にではありますが、Aqoursは演劇という仕組みを使って、一般生徒、そして視聴者と同じ立場に降りてきている。

 ここで思い起こされるのは、声優としてAqoursを演じている人たちのことです。


 13話の演劇パートにおいて、上記の図のように、劇中のAqoursたちは「主人公」「演者」そして「観客」の立場を移動しています。伊波杏樹さんをはじめとするAqoursを演じる人々も、かつては「観客」として『ラブライブ!』という物語を観ていた人たちでした*4。彼女たちはいまAqoursを演じることで『サンシャイン!!』というアニメ作品の「演者」になったとともに、Aqoursのメンバーとして実人生を過ごすことで、人気アイドル声優という「物語」の「主人公」にもなっています。

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 演劇を演じるアニメキャラクター。そして、そのアニメキャラクターを演じる声優たち。彼女たちが物語の中心と外側を行き来する構造を意識すると、それぞれの立場が交流可能であることが際立って見えてきます。
 人はみな観客であり、演者であり、主人公にもなりうる。このメッセージは、むつたちをスクールアイドルとして受け入れる千歌たちのオープンな姿勢にも通底しています。


 劇中でAqoursが演じることで生じるデメリットもあります。
 演劇とは基本的に、演者と観客があいだに何も介さず、面と向かって行われる芸術です。今、目の前に確かに存在する人が、まったく異なる時間・場所の、別の誰かを演じるのですから、ひと目で嘘だとわかってしまう。観客がそれを嘘だと笑い飛ばさずに信じることで初めて成立するのです。
 アニメのなかの劇中劇として演劇を行うと、明らかな嘘(絵に描かれた嘘=アニメーション)のうえにもうひとつの明らかな嘘(ある人間が自分とは異なるものを演じる=演劇)が重なってしまう。その二重の嘘を信じるのはなかなか難しいことです。
 とはいえ、このように層のように重なった嘘で描かれる物語を、ラブライバーたちはずっと信じ、支えてきたのでした。声優ユニットとしてのμ'sあるいはAqoursが現実のステージで歌い踊るとき、ラブライバーはそこに、二次元のなかのμ's/Aqoursの姿を垣間見ます。バックスクリーンに映し出されているアニメの映像は現実ではなく、ステージの上の声優たちもまた二次元のなかの存在とは全く異なるということがわかっている。わかっているけれども、その両者を意図的に混同することでこそ生じる感動をラブライバーは知っている。
 もしかしたら、13話でこのような虚構性の高いシーンを描くことを決めたとき、演出家たちは、観る側がその嘘を信じてくれること、物語をともに支えてくれることに賭けたのかもしれません。

 

■ひらかれた物語

 わたしは、13話の脚本と演出は一貫して、むつたち浦の星女学院の生徒たちを「十人目」のメンバーともいうべき存在としてAqoursに迎え入れることを目的に、組み立てられているのだとみています。
 13話の放映以降、ネット上で、こうした作り手の考え方に異をとなえる意見を多く目にしました。
 これらが単に演出や脚本の技術的な力不足や作家性の暴走によるものだとしているような意見もあるようですが、わたしの見たところではそれは違う。確かに、いくつかの不自然な部分が生じてしまってはいます。しかし作り手たちはその瑕疵よりも、十人目を受け入れるということのほうを優先させた。重要なのは技術の問題ではなく、考え方の違いです。


 「十人目」を受け入れたAqoursは、13話の最後に念願の「1」を手に入れます。
 直接には描かれませんが、それは、Aqoursでも浦の星女学院の生徒でもない、名も知れない中学生が、学校説明会への参加申し込みを行った、ということです。
 Aqoursがむつたち「十人目」を受け入れて、自分たちの輝きをむつたちへと分けて届ける。その輝きが、これまで届くことのなかった遠くの誰かへとようやく到達する。
 輝きを九人のなかに閉じ込めておくのではなく、外へ向けてひらくことで、より遠くの人と繋がることができる。
 13話が伝えようとしたのは、そのようなことなのだとわたしは思います。

 

 『サンシャイン!!』がこのように、他者に対して開かれること、来るものを拒まないこと、といったことを強く打ち出すことには、作品そのものの成立に関わる大きな理由があると思います。

 

 『サンシャイン!!』は静岡県の沼津・内浦を主な舞台としています。
 前作『ラブライブ!』において、秋葉原が物語の舞台であることは、実際にそこで暮らす人々とのつながりより、秋葉原のアニメ文化・アイドル文化とのつながりを強く意識していたように思います。二次元の美少女を愛好する人々の聖地であり、また現在のアイドルブームの発火点のひとつであるAKBグループの本拠地でもある秋葉原は、スクールアイドルなる架空の存在が活躍する架空の学校の背景として、インパクトと説得力を与えてくれる絶好の土地でした。
 公野櫻子による『School Idol Diary』では神田・秋葉原への憧憬を伺わせる表現が頻出していますし、アニメ一期・劇場版では南ことり星空凛秋葉原の魅力に言及していますが、いずれにせよそれらはもともとある秋葉原という土地のストックから何かを引き出すという方向であって、作品が土地に影響を与えるという方向の接し方ではなかった*5

 『サンシャイン!!』においては、沼津・内浦と作品は双方向に繋がっています*6。劇中の浦の星女学院と同様、内浦や沼津の行政や商業に関わる方々は、人を集めることに苦慮しているでしょう。人がいない、人がやってこない、という悩みは、日本の地方が普遍的に抱える課題です。地元の人たちは少なからず、Aqoursや浦の星女学院の生徒たちに自分を重ねながら、作品と関わっているのではないか。
 『サンシャイン!!』という物語は、そんな沼津・内浦と協力し、聖地巡礼というメディアミックス展開先の一つを獲得し*7、同時に、地元へ経済・文化両面での影響を与えています。
 『サンシャイン!!』という作品自体が、劇中のAqoursのように沼津・内浦の人たちに影響を与え、また反応されている構図は、Aqoursと浦の星女学院の生徒たちとの関係に重なります。
 アニメの聖地巡礼によって多数の観光客を受け入れた土地が、次第に、みずから作品を積極的に受け入れ始め、作品にまつわる商材やイベントを生み出していくようになる例は多数あります。沼津・内浦でもそうした動きは始まっている。それは、「わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかな」と言ったむつたちの行動と同じではないでしょうか。ならば、『サンシャイン!!』はそうした人たちに対してひらかれていなければならない。実在の土地と深く関わる作品である以上、これは避けられないことなのです。

 

 『サンシャイン!!』がひらかれていることのもう一つの理由、それは、Aqoursにあります。Aqoursもそもそも、μ'sによって作られた『ラブライブ!』という物語がそれ単体で終わらずに、新たな物語を生み出そうとしたこと=ひらかれていたことによってようやく成立できる存在だからです。
 かつて『サンシャイン!!』のプロジェクト開始が発表された際、多くの人が、見慣れぬ高海千歌というキャラクターが『ラブライブ!』の物語に名を連ねることについて違和感を抱いたはずです。いきなり登場したキャラクターが、何年もかけて活動してきたμ'sと名を並べるなんて…という空気が確かにあった。それでも多くの人が、高海千歌の未来をわずかでも信じたから、いまのAqoursがある。あのとき、極端なバッシングが大勢を占めていたならば、いまのAqoursは存在しないかもしれない。
 わたしには、13話の終盤、ステージの脇でサイリウムを振り上げるむつたちの姿は、あの、砂浜に一人立って腕を高く掲げる高海千歌と同じような存在に思えます。それを否定したら、Aqoursのはじまりをも否定することになってしまうように思えるのです。

 

■九人の物語、君の物語

 13話のラストに描かれるのは、砂浜にいるAqoursたちの姿です。
 Aqoursは九人に戻っています。一時的に他者と輝きを分かち合い、かつ他者の力を借りた彼女たちは、再びもとの九人に戻る。
 大人数でのライブから、再び九人だけに戻る。わたしは、『ラブライブ! School Idol Movie』の終盤、『Sunny Day Song』から『僕たちはひとつの光』への展開を思い出しました。あのときのμ'sは、その輝きがいかに特別で唯一無二であるかを観るものの目に焼き付けて、彼女たちの物語の幕を閉じました。
 Aqoursの場合はまったく逆です。彼女たちが13話の最後で立つのは、Aqoursとしてのスタートラインです。砂浜に横並びで立つ九人はプロジェクト開始時に公開されたグラビアそっくりですし、一番最後のせりふはファーストシングルのタイトルそのものです。


 13話かけてまたスタート地点に立つなんて、虚しいでしょうか? いやいや、おそらく話は逆なのです。こうしなければAqoursは始まれなかった。13話をかけて解きほぐし、立ち向かっていなければならないほどに、μ'sが、そしてμ'sが広めたスクールアイドルがAqoursに引き継いだものは巨大だった*8


 その、引き継いでしまったあまりに大きなものを、自分のものとして受け止める。そして他人に輝きを引き継ぐことで、輝きを引き継いで始まった自分たち自身の物語を肯定する。

 振り返ってみれば、これまでの物語の随所に、影響を相互に与えあう人々の関係が露わになっていくドラマがありました。
 花丸はルビィがスクールアイドルになりたいという気持ちを後押ししますが、ルビィもまた、花丸がスクールアイドルの経験を経て自分を解放させていることを指摘します。曜は千歌の気持ちを気にするあまりに自分を否定してしまうようになりますが、千歌もまた自分のことを考えていてくれていることを知り、心の平穏を取り戻します。
 果南・ダイヤ・鞠莉の三年生は、相互に思いあい、影響しあっているからこそ複雑に絡み合ってしまった人間関係のなかで停滞していました。しかしその停滞がほどけ、思いが行き交ったとき、彼女たちは爆発的にやさしく、いとおしく思えるものに変化する。

 誰かからもらったものを誰かに返すこと。あるいは、そうした思いを一方向で終わらせず、互いに交換しあうこと。

 一周まわってもとに戻ったように思われるAqoursがおこなってきたのは、そのようなことだったのではないでしょうか。


 μ'sから自由になり、輝きを他者に分け与えたAqoursの物語は、この言葉で幕を閉じました。

かなえてみせるよ、わたしたちの物語を
この輝きで!

君のこころは輝いてるかい?

  『ラブライブ!』のテーマといえば、「みんなで叶える物語」です。

 が、この最後の言葉において、「みんな」は「わたしたち」と「君」の二つに分けられている。
 ここでAqoursは、Aqoursと自己を同一視したい視聴者/ラブライバーとのあいだに一線を引いています。「みんな」という言葉をもちいて、ファンと、演じるもの、創るもの、そしてフィクション内のキャラクターをすべてひとつにまとめてきた『ラブライブ!』らしからぬ演出だ、と言えるかもしれません。
 彼女たちは問いかけてきます。「君のこころは輝いてるかい」。

 それはこのような問いなのではないでしょうか。
 μ'sから受け取ったものを、自分のものとして輝かせる。そしてまた、他者へ引き継ぐ。「君」、すなわちラブライバーのひとびとに、それは可能だろうか。アニメのなかでそれを実現させたAqoursに、そう問われているのではないか。


 「君」と「わたしたち」のあいだに緊張をはらんで、『ラブライブ!サンシャイン!!』はまた新たな道のりを進み始めました。
 わたしは、「君のこころは輝いてるかい」という言葉を、その道のりをゆく鼓舞として、あるいは共闘の呼びかけとして、受け止めたいと思います*9。こんな気持ちにさせてくれた13話が、わたしは好きです。

*1:詳しくは映画『King of Prism』をご覧ください。当ブログでも記事を書きました:「世界は輝いている/『KING OF PRISM by Pretty Rhythm』」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/02/21/225933

*2:余談ですが、水分補給を奨励し、精神的には余裕があっても体力を重視して暑い時間帯の練習を行わない、といったことが描かれているのが、よいなあと思いました。よく高校野球にたとえられることの多い『ラブライブ!』ですが、こうした描写はきちんとアップデートされており、旧態依然とした青春物語の消費には終わっていません。

*3:3話についての詳しい記事はこちら。「千歌が越えた一線と、言葉について/『ラブライブ!サンシャイン!!』3話までの感想を語る」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/07/20/013537

*4:複数のメンバーが、公式なインタビュー上で、プロジェクト参加以前から『ラブライブ!』に触れていたことを公言しています。また、各個人のSNS上でも『ラブライブ!』のライブ参戦やグッズ購入についての発言が複数確認されています。

*5:高坂穂乃果の実家のモデルとなった竹むらをはじめとして、もともと存在した秋葉原・神田の店舗や団体は、『ラブライブ!』という作品に対して自主的なアプローチを仕掛けてはいません。神田明神のみが活発なコラボレーションを行っているものの、この由緒正しい神社はAKBグループとの関わりも多く、『ラブライブ!』固有の動きとは言い難いでしょう。オタクグッズ小売店やゲームセンターなどの店舗においても同様のことが言えます。

*6:以下の沼津・内浦に関する文章については、現地を訪れたことのない状態で書いています。インターネットを経由して得られる情報、現地を訪れた人たちのレポート、そして現地の人たちからの発信をもとに考えたことですが、違和感を抱く人がいたらぜひご意見ください。

*7:マンガやゲーム、ライブと様々なメディア展開を行って消費者に多角的な娯楽を提供する現代のアニメーション作品にとって、聖地巡礼もまた、そうしたものと並ぶメディアの一つとして確立された、とわたしは思っています。現在の聖地巡礼は、偶発的に発展して「奇跡」と呼ばれるほど素朴でもなければ、「大人の事情」と揶揄されるほど粗雑でもない、ということです。それは例えば小説家によるノベライズのように、アニメーション作品の作り出した世界を拡げ、支えていくのです。

*8:12話でAqoursがμ'sから自由になったことについては次の記事で書きました:「Aqoursの「自由」について/『ラブライブ!サンシャイン!!』12話までのこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/24/181454

*9:ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンを思い出したりもしています。

Aqoursの「自由」について/『ラブライブ!サンシャイン!!』12話までのこと

 現在のアイドルがどれほどに「自由」なのか。アイドルを愛好する人間ならば、一度はそのようなことについて考えを巡らせたことがあるのではないでしょうか。
 AKB48によってあらためてクローズアップされた苛烈な競争制度を、アイドルが飛び込まざるをえない「不自由さ」としてイメージする人は多いと思います。しかしその不自由さはあえてアイドルによって自主的に選び取られているのであり、その競争のなかで自分の思い通りに戦うことで「自由」になるアイドルもいるかもしれません。
 いっぽうで、インターネット、そしてSNSや動画配信サイトの発達はアイドルに「自由」な発言・行動の場を与えたようにみえますが、ファンや関係者によってつねに見られていることで新たな「不自由」さを産んでいるとも言えるでしょう。
 なんにせよ、どちらがよい、悪い、と断言することは極めてむずかしい。究極的には、アイドル個人が、そのとき・その場所で楽しく感じるかどうかに思いを馳せつづけるしか、このテーマへの対処方法は存在しない、とわたしは思います。

 

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 『ラブライブ!』が作り出した「スクールアイドル」という概念は、アクロバティックな方法でこのテーマへの回答を弾き出してきました。フィクションのなかで「自由」なスクールアイドルたちを描き出すことで、実際には確定できないアイドルの「自由」を保証してみせたのです。


 『ラブライブ!』アニメ二期、そして 『ラブライブ! School Idol Movie』の劇中で、μ'sは三年生卒業と同時の解散を自ら選択します。学院理事長やファンたちからの穏やかな反対・嘆きの声は描かれつつも、スクールアイドルとしてのμ'sの「自由」はそのまま世の中に受け入れられる。
 アニメのなかでμ'sが解散を選び取り、それが尊重されている以上、現実のμ'sもまた同様の行動をしてもよい――アニメ内のμ'sの解散は、そのような価値観を現実世界のファンや関係者たちに刷り込んだはずです。その刷り込みあればこそ、現実のμ'sもまた16年4月のラストライブをもっていったんの活動終了を無事に迎えることができたのではないでしょうか。二次元のキャラクターのダンスシーンを、三次元の声優がライブ上で再現してきたように、μ'sは二次元で獲得した解散の自由を、三次元でも行使したのでした。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』12話において、Aqoursもまた「自由」を手に入れます。ずっとμ's、そして高坂穂乃果を目指してきた千歌が、ついに自分たちが歩むべき道を、μ'sの姿の外にみいだすのです。千歌はこのように言います。

 

 μ'sみたいに輝くってことは、μ'sの背中を追いかけることじゃない。

自由に走るってことなんじゃないかな!

全身全霊!

なんにもとらわれずに!

自分たちの気持ちにしたがって

 

 『サンシャイン』はそのシリーズを通して、μ'sを繰り返し取り上げてきました。Aqoursの憧れの対象として、あるいはAqoursの背中を押してくれる存在として。その言及の頻繁さは、シリーズ作品としての先輩格へのリスペクトを感じさせてくれる、ファンとしては嬉しいものでありつつ、一方でμ'sがAqoursに投げかけるものの重さを感じさせるものでもありました。

 そんなμ'sから、ついにAqoursは自由になる。しかも、μ'sの美点を理解することによって。
 フィクションのなかでも、現実でも、今後Aqoursがどんなにμ'sと異なることをしたとしても、そこに安易な批判や拒絶を加えることは難しくなるはずです。なぜなら、Aqoursの自由さは、μ'sの美点に立脚しているのですから。

 

 ただし、この「自由」と、μ'sの獲得した「自由」とは大きく異なる、ということもわたしは忘れられません。
 μ'sは、スクールアイドルであるがゆえに、(スクールアイドルより大きな意味での)「アイドル」という存在でなくなること(=解散)を選び取る自由を手に入れました。
 12話におけるAqoursは、プロデューサーや世間からの指示に従うのではなく、自分たち自身で活動方針を決められる、というスクールアイドルの特徴をもちいてμ'sからの脱却を可能にしたわけですが、それはAqoursとしての存在がようやく始まったということでもあります。

 

なんか、これでやっとひとつにまとまれそうな気がするね

 

 果南がこのように言うとおり、これは始まりに過ぎない。むしろAqoursは、これからアイドルとしての苛烈な活動に身を投じていかなければならない。μ'sから自由になったということは、同時に、μ'sの加護を失ったということでもあるのです。

 

 そのようなことを考えながら、わたしはこの、『ラブライブ!サンシャイン!!』13話が放映されるまでの七日間を過ごしてきました。
 自由であることは、不確かであるということでもある。
 このような不安に、μ'sの古参ファンは、そして数多のアイドルファンは耐えてきたのか。わたしは彼らを尊敬してしまう。

 こんな気持ちは、Aqoursたち「18人」の抱える気持ちに比べれば大したことはないはずです。
 そう頭ではわかっていますが、まあ、そのように動いてしまう気持ちというのは、どうしようもない。


 AqoursAqoursとして「自由」に活動していくとき、彼女たち――そしてファンであるわたし――の拠り所になりうるのは、なんでしょうか。
 その一つは、Aqours自身が通過してきた過去の積み重ねではないでしょうか。
 そのように考えてこの三ヶ月を振り返ったとき、わたしの目の前には、極めて丁寧に作られた12話のアニメーション作品が存在する。
 前回の記事でのべたように、言いたいことはたくさんある。あるけれども、たしかにAqoursの過去はそこに積み重なっている。

 先日、久しぶりにファーストシングル『君のこころは輝いてるかい』におさめられた、Aqours九人それぞれによるメッセージボイス「はじめましてのごあいさつ」を聴き直してみました。伊波さんの芯の確かさはこのころからみごとなものだなあ、とか、小林愛香さんはだいぶ甘々な雰囲気を作っていて微笑ましいな、とか、小宮有紗さんの演技の確かさはさすがだなあ、とか、今の声優さんたちの声と比べると感じ取れるものがたくさんあって、実に楽しかったです。
 きっとこれから何年か経ったら、今日、ひとまず完結するであろうアニメもまた、そのように振り返ることができるのでしょう。
 そんな日を、楽しい気持ちで迎えられるように、祈っていたいと思います。

渡辺さんはそれでいいんですか/『ラブライブ!サンシャイン!!』11話のこと

 『ラブライブ!サンシャイン!!』11話を観て一週間が経ちました。その間、スクフェス全力疾走しながらえんえん考え続けていた渡辺曜さんのことについて書きます。

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 11話は脚本も演出もとても力が入っているのがわかって、というかもう『ラブライブ!サンシャイン!!』は毎週のように最終回のような密度・熱気が感じられて、もう圧倒されるほかないのですけれども、それでもやっぱり正直に言わざるをえない。11話、なんか引っかかる。

 

 10話で、梨子にはAqoursよりも自分のことを優先してほしいと言った千歌。彼女の心はいま明らかに梨子のほうを向いています。その姿に戸惑う――あるいは戸惑う自分に戸惑う曜。11話は、彼女を中心に、ラブライブ地区予選に臨むAqoursが描かれました。

 

 鞠莉は、曜は嫉妬しているのだと言います。曜はそれを否定するけれど、鞠莉は自分の気持ちを正直に言うよう諭す。自ら言うとおり、正直になれなかったからこそ、彼女と果南・ダイヤは二年間すれ違い続けたのですから、その言葉には重みがあります。

 けれども曜は、「正直に言うって何を?」と思い悩む。千歌に、梨子と自分のどちらを取るかはっきり訊く? 正面から好きだと告白する? ……思い悩む彼女の妄想が次々とコミカルに描かれますが、そのいずれもが彼女にはしっくり来ません。
 そうこうしているうちに、今度は東京に行っている梨子からの電話がかかってきます。話しているうち千歌は、自分は千歌に必要とされていないのではないかという心情を、彼女にとってはもっとも千歌に必要とされているように思われる梨子に対して吐露します。いわば、恋敵に対して弱音を吐く。
 なぜ曜はそのように思うのか。
 曜は鞠莉に、要領がよいと見られがちな自分が、千歌にとっては一緒にスクールアイドルを続けたくないたぐいの人間なのではないか、という疑問を明かしています。やや飲み込みづらい話だと思うのですが、これは恐らく、梨子と比べてのことでしょう。ピアノの曲が作れないからと、東京から内浦まで引っ越してくるのですから、梨子はまったく要領がよくありません。けれども、そのように音楽と格闘している梨子だからこそ、千歌は彼女との出会いに運命を感じた。

 

 梨子に、千歌もまた曜のことを強く思っていることを聞かされた曜。彼女のなかで、何かが変わります。そこにちょうど千歌が現れて、ラブライブ地方予選では、梨子の代わりではなく、曜のために作りなおしたダンスを踊ろう、と呼びかける。そんな千歌に、昂ぶった曜は思い切り抱きつく。その訳を千歌に訊かれても彼女は答えません。
 やがてラブライブ予選でのステージと梨子のピアノコンクールの様子が交互に描かれるみごとなライブパートに移って、11話は終わります。

 

 さて、11話の最初と最後で、曜はどう変わったのでしょうか。なぜ曜は予選のステージで、あれほどまでに晴れ晴れとした顔でいられたのか?

 ライブパート直前に語られる梨子と曜の会話に拠るならば、曜は千歌が自分を含めた「仲間たち」と一緒にスクールアイドルをやりたがっているということを理解したことで変わった、ということになる。

梨子「私ね、わかった気がするの
あのとき、どうして千歌ちゃんがスクールアイドルをはじめようと思ったのか。スクールアイドルじゃなきゃ駄目だったのか」
曜「うん。千歌ちゃんにとって、輝くということは、自分一人じゃなくて、誰かと手を取り合い、みんなで一緒に輝くということなんだよね」
梨子「私や曜ちゃんや、普通のみんなが集まって、一人じゃとてもつくれない、大きな輝きをつくる。その輝きが、学校や、聴いている人に広がっていく。つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルのなかに見つけた、輝きなんだ」

 これは、1話でμ'sについて語る千歌の言葉ともきちんと符合しています。

「みんなわたしと同じようなどこにでもいる普通の高校生なのに、キラキラしてた。
それで思ったの。一生懸命練習して、みんなで心を一つにしてステージに立つと、こんなにもかっこよくて、感動できて、素敵になれるんだ、って」

「気づいたら全部の曲を聴いてた。毎日動画見て、歌を覚えて。そして思ったの。私も仲間と一緒にがんばってみたい。この人たちが目指したところを、私も目指したい。
私も、輝きたい、って!」

 

 自分が一番に、とか、ある特定の誰かと、とかではなく、「みんなで」あるいは「仲間と」輝くことこそが千歌の目指すスクールアイドルだ、というわけです。だから、千歌はセンターで組む梨子だけではなく、曜を含むAqours全員を必要としている。
 と同時に、梨子によれば、千歌は曜とスクールアイドルをやり遂げることも強く想ってくれている。
 これらのことを理解して、曜は自分のなかの不安を解消する。

 

 恐らくわたしがこの曜の変化を飲み込めないでいるのは、ここで曜が求められているのが、(少し強い表現になりますが)自分の否定だからです。
 曜以外の人々はみな、自分を解放することでAqoursの一員になってきました。スクールアイドルへの思いを解放したルビィ、彼女によって自分も気づいていなかった気持ちを解放される花丸*1。突飛なキャラを解放できる場としてAqoursに迎え入れられた善子、そしてそれぞれの感情を露わにすることで和解することができた三年生たち。

 程度の差はあれ、彼女たちはみな、自分のなかの気持ちを肯定されてAqoursに入ってきた。ですが、曜は違う。11話で起きたのは、曜の変化であって、彼女の千歌を求める気持ちが肯定されたわけではありません。いや、千歌は確かに曜を求めてはいるのですが、それはこれまでの話数でたびたび描かれてきた曜の千歌への視線に見合うほどのものではないように思える。
 視線ということで言うならば、曜の家を訪ねてきた晩、千歌は曜を正面から見ることができていません。それは涙を見られたくない曜のせいでもあるし、どこかとぼけた態度の千歌のせいでもある。視線の行き違ったままの二人の抱擁は、10話ラストで描かれた梨子と千歌の手を繋いでの愛の告白とは、到底並び得ない。

 

 11話ラストの『想いよひとつになれ』を聴いていてわたしは複雑な気持ちになりました。

何かをつかむことで/何かをあきらめない
想いよひとつになれ/どこにいても同じ明日を信じてる

 確かに梨子はピアニストとしての道とAqoursにおける繋がり、両方をつかみとっています。けれど曜は、「みんな」のなかの一人になることで、千歌にとっての特別な一人になることをあきらめてはいないか。そのように思えてならないのです。

 

 わたしはかねがね『ラブライブ!』シリーズをある種のドキュメンタリーだと思っているので、多少の物語の不備や、自分が飲み込みづらい部分があったとしても、「とはいえ現実にAqoursたちがそうやって生きているんだから、部外者のぼくが文句をつける筋合いはないな」というややトチ狂ったスタンスで静観することができます。だから今回も基本的にはそのように思っている。思ってはいるのですが……ぐぬぬ

 

 三年生の和解のドラマですでに示されているように、『ラブライブ!サンシャイン!!』においては、複数の話数をまたいで展開されるドラマや行動、繰り返しの表現が実に効果的に使われています。
 ですから、曜と千歌のあいだにおいても、今後、曜がさらになんらかの決定的な行動をすることで、真の決着がつくことを期待しています。
 これまでの話数でもっとも印象的な曜の行動といえば、千歌が苦境に陥ったときにあえて「辞めちゃう?」という声をかける、というものでしょう。最初は効果的だったその言葉も、東京でのイベント開催後には事態を変えることはできませんでした。そのとき千歌を助けたのは梨子です。
 ならば、もう一度彼女の口から、「辞めちゃう?」という言葉が放たれ、今度こそ千歌を変えることになる、そんな展開があってほしい。あるいは、これまでの曜なら「辞めちゃう?」と言っていたはずの状況で、それを言わないことで、千歌を変える、ということでもよさそうです。
 一度果南が否定した鞠莉の「ハグ」を、果南から鞠莉へ投げ返すことでかなまりの関係が再生されたように、ようちかにおける「辞めちゃう?」も彼女たちの関係を決定的に変えてくれるのではないか。

 

 かような期待をわずかに持ちつつ、残りの二話を思いっきり楽しみたいと思います。Aqours、いったいどうなるんだろうなあ。

浦の星女学院の三人の矢澤にこ/『ラブライブ!サンシャイン!!』6話までのこと

 『ラブライブ!サンシャイン!!』第6話を観た。

 

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 5話を観終わった段階で、どうも鞠莉は作為的にμ'sに近い環境にAqoursを置くことによって、第二のμ'sを内浦に生み出そうとしているのではないか、ってそれ『メタルギアソリッド2』じゃん!S3計画かよ!*1などと思っていたわけですが、いよいよそういう彼女の思惑が明らかになってきました。『ラブライブ!』シリーズ上もっとも腹に色々抱え込んでいるふうの鞠莉さん、とてもよい。
 でも、廃校のことがわかったとき、千歌が絶望なんぞ全くすることなくむしろ音ノ木坂学院と同じ境遇であることを喜んで、「廃校!キター!」とはしゃいでいて笑った。
 なんにせよ非常にメタフィクションな展開でおもしろい。視聴者にとって「廃校の危機」自体はあまりサプライズになっていないけれど、「廃校の危機」というμ'sと共通の視点から自分たちと内浦の町を振り返る機会が、シリーズ中盤になってから生じたのは非常によいタイミングだと思う。Aqoursが挑む試練が、シリーズの進展にあわせてどんどん大きくなってきているわけで。
 それでお次の7話はサブタイトルが『TOKYO』とくる。内浦を再発見した千歌たちが、今度は東京と内浦を比較することになるんだろう。


 今日の本題にうつります。

 Aqoursの9人には、μ'sの9人の様々な要素が分配されている。
 例えば、1stシングル『君の心は輝いてるかい?』で、大サビを歌うのは千歌と梨子だ。μ'sの場合、多くの楽曲の大サビを穂乃果が一人で担当していた。楽曲の中心となるメインボーカルの役が、二人に割り振られているわけだ。
 ともに強烈な「キャラ」を演じていること、そして第5話のサブタイトル『ヨハネ堕天』と『ラブライブ!』1期5話『にこ襲来』の相似からもわかる通り、矢澤にこの役割を色濃く継いでいるのは津島善子だろう。
 では、Aqoursの三年生とμ'sの三年生はどんな関係にあるのだろうか。Aqoursの三年にはにこを引き継ぐものはおらず、絢瀬絵里東條希の二人を三人で分けあっているだけなのか。
 恐らく、そうではない。Aqours三年の三人は、三人ともに、矢澤にこを引き継いでいるのではないか。
 第6話で示されたとおり、松浦果南・小原鞠莉・黒澤ダイヤの三人は、矢澤にこと同様、かつて一度はスクールアイドルを目指し、失敗した人間だ。彼女たちはみな矢澤にこなのだ。

 

 にこは、μ'sの誕生から遡ること二年、音ノ木坂学院アイドル研究部の仲間とともにスクールアイドルの道を歩もうとした。しかし彼女の理想が高すぎたことを主因に仲間が離れていき、一度はスクールアイドルとして表舞台に立つことを諦める*2

 一方、これはアニメ中の断片的表現からの推測ではあるが、果南たち浦の星女学院の三年生もまた、一年生のころにスクールアイドルの道を歩もうとしながら挫折している。
 にこも果南たちも、挫折から二年間、学校のなかでくすぶってきた人間だ。いずれもが、大きな挫折を経て再生する運命にある。『にこ襲来』で、μ'sに加わったにこの物語がユーモラスながらも非常に感動的であったように、果南たちがAqoursに加わるこれからの物語も非常に感動的なものになるだろう。
 更に、ここで見逃してはいけない、にこと果南たちとの間の決定的な違いがある。にこは仲間に去られて一人になったが、アイドル研究部の部員として、最後までスクールアイドルに関わることをやめなかった。それに対して果南たちは、三人が三人ともに、スクールアイドルの道を一度完全にはずれている。すなわち、にこの元を去っていった元部員と同じ側の人間でもあるのだ。

 

 かねがねわたしは、にこの元を去っていった元部員たちがその後どんな学校生活を送ったのか、ということが気になっていた。彼女たちは、どんな目でμ'sの活躍を見守っていたのだろうか。
 一度はにこの仲間だったのだから、スクールアイドルが好きだったはずだ。にこや、花陽や、千歌と同じように。それでもにこの理想についていけず、彼女を見捨ててしまった。
 三年になった彼女たちは、にこが穂乃果たちに出会い、学校内にとどまらない活躍を果たすさまを、目の前で見続けることになったはずだ。それを彼女たちは素直に受け入れられただろうか。そのとき彼女たちは、後悔と葛藤を抱えざるを得なかったのではないか。そんな彼女たちとにこは、再び顔をあわせて笑うことができただろうか。
 にことともに走りきれなかった――μ'sになりきれなかった、名も無き三年生たちの物語は、もちろん『ラブライブ!』本編中では描かれない。それは当然のことだが、しかし「μ'sになれない人間」という、視聴者のわたし自身に近い存在*3である彼女たちのことについて、わたしは時折考えを巡らさざるを得なかったのだった。

 

 浦の星の三年生はみな「矢澤にこ」であると同時に、この「矢澤にこを見捨てた同級生」でもある。
 これから『サンシャイン』本編では、彼女たちの過去がさらに詳しく描かれていくのだろう。それは、あの名も無き音ノ木坂の人々の語られざる物語の変奏であるのかもしれない。


 にこの同級生がμ'sになれなかったように、また果南たちがμ'sになれなかったように、誰もがμ'sになれるわけではない。
 6話のラストシーンで示されたように、愚直なまでにμ'sの後を追ってきた千歌は気づき始めている。μ'sと自分は違うのだと。
 結局、果南たちがなぜμ'sになれなかったのか(にこの同級生たちがなぜμ'sになれなかったのか)といえば、それはただ単に彼女たちがμ'sとは異なる人間だったからだ。極めて単純かつ残酷なことに、人はどんなに憧れても理想の他人とまったく同じ人間にはなれない。だから自分たちのことを(秋葉原ではない、内浦を)見つめなおすしか道はない。6話で、Aqoursと内浦の双方をPRするためのPVを作成した千歌は、そのことに気づいている。
 千歌は、果南たちの心をどのようにときほぐしていくのだろうか。その物語は、果南たち三年生だけではなく、かつてのにこの仲間たち、そしてμ'sを目指しながらもμ'sには決してなれないAqours自身、その三つの層を貫いて解放をもたらす物語*4になりうるように、わたしには思える。そしてそれは間違いなく、Aqoursにしか語れない物語だ。

*1:プレステ2用アクションゲーム『メタルギアソリッド2:サンズ・オブ・リバティ』は、世界的大ヒット作『メタルギアソリッド』の続編として作られた。一作目と同様に伝説の兵士・スネークの物語であるとみられていたが、発売直前に新人兵士・雷電の物語であることが明らかにされ、ファンの間に物議を醸した。雷電はニューヨークで起きたテロ事件の現場へと潜入するミッションに挑むが、徐々にその事件がかつてスネークが解決したシャドーモセス島事件を模倣していることが明らかにされていく。小島秀夫らしいメタフィクショナルな語り口を織り込みながら、運命を乗り越える人間の力強さを描いた傑作で、個人的にはシリーズ中でいちばん好き。ていうか『ラブライブ!』の記事なのになんでこんなに脚注でメタルギアの話してんの?と思わないではないけど、「作り手が制御できないくらいに大ヒットしてしまった一作目の続編をどうやって作るか」という問題をメタフィクションな語りで突破するという意味で、両作は強く共鳴しうると思うのですよね。

*2:ラブライブ!』アニメ一期5話、東條希の証言に拠る。

*3:などと劇中の人間と自分のことを引きつけて語るのって超きもいと思うんですけどこういう人間なのでご容赦ください。

*4:中心の一人だけではなく、色々な立場の人間が同時に解放される、あるいは自分を解放する。『ラブライブ!サンシャイン!!』はそういう物語なのだと思う。それは、絶対的な「善きこと」を語るのではなく、複数の価値観を共存させることを重視する昨今のハリウッドメジャー(というか、ディズニー)の傑作群とも重なることのように思う。6話で描かれる『夢で夜空を照らしたい』の情景が傑作『塔の上のラプンツェル』を強く連想させることも、その印象に拍車をかける。