こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

祝・松浦果南センター獲得、とAqoursの九人について考えて書くよという話

 松浦果南さん、サードシングル総選挙・センター獲得おめでとうございます!
 いやはやめでたい。
 自分が票を入れた人がトップ当選するなんて、これまでの人生で投票してきた選挙のなかで初の体験かもしれない。まったくもってめでたい、まったくもってうれしい。
 当選には様々な背景があると思います。Aqours界隈には有能なシンクタンクが存在するので、これから各種の分析がなされていくでしょう。
 個人的には、

 

1.アニメ版において、出番の多さ、印象の強さ、物語上の重要性などが常に上昇していた。下降すること(最初は目立ったが終盤は目立たない、など)がなかった
2.アニメ内で、感情的な見せ場・萌え的な見せ場・歌唱/ダンス的な見せ場、と各分野の見せ場がすべて揃っていた
3.渡辺曜に似ていた。優しい体育会系に男性オタクは弱い。
4.鞠莉という本命がいながらも、確固たるカップリングとしては成立していない(あくまで鞠莉は鞠莉が果南を追っかけているだけだから。果南にはAqoursの誰とでもくっつける余白があると思いますね…)。

といったあたりが当選の要因だったかなと思います。諏訪さんがかわいいから?そんなことは大前提ですよ!言うまでもないよ!

 

 でも色々言えるいっぽうで、「これだ」という人気の理由はいまいち見当たらない人だなあとも思います。

 まあ単純に「渡辺曜の次に見栄えのする水着グラビアがあったから」とかなのかもしれないですけど。

 

 そもそも松浦果南ってどういう人なのか。

 ぼくは彼女のことが大好きなんだけど、そのうえで、全貌がつかめていないという実感がある。
 具体的には、アニメ版における二年前の彼女が東京のイベントで踊れなかった理由にいまだ完全には得心がいっていないのですね。だから、8話のあの残酷なまでに頑なな果南の姿に心をかき乱された瞬間こそが個人的な松浦果南の最大瞬間風速のタイミングで、それ以降はちょっと距離をもって見ている感覚がある。
 果南ほどの人間でもすくんで踊れなくなってしまう。今のスクールアイドルのステージというのは、そんな恐ろしい場なのだ――ということが強く押し出されていたほうが、物語の内と外の双方でAqoursが背負うものの大きさをより強く訴えられるように思うのですが、9話の描かれ方だと、踊らなかった理由のほとんどは鞠莉のためだった、という印象になる。じゃあもしあの場で彼女たちが踊れていたらそれなりに活躍できていたのか?というとそれはちょっと違う気もするし。
 とはいえ果南は12話で、SaintSnowをかつての自分を見るようであり、かつ、彼女たちとは違うスタイルを望む。このへんに、彼女が初めての東京で踊れなかったことの余韻みたいなものが漂っているような感じもします。
 色々考えてみると、芯はしっかりしつつも、エピソードや設定のあいだの余白がたくさんあることが彼女の特徴のような気もしています。点と点をつなぐラインはどのようにでも引けるので、各人が愛したいやりかたで愛せる、というか。

 まだぜんぜん彼女については考えがまとまっていないので、いずれはきちんと書きたいと思っています。

 

 なんにせよ松浦果南がセンターという結果には諸手を挙げて大喜びしているわけですけど、その他の順位、そして同時発表の浦ラジパーソナリティ総選挙中間発表の結果などには言いたいことも多々あります。
 とくにルビィ/降幡愛の不遇っぷりには声を大にして文句を言いたい……ってんならまず自分が投票しろよって話なんですが、いや、ふりりん、ぜったい浦ラジパーソナリティになったらいいと思うんだよ!あの時々突発的にやってるsakusakuみたいなニコ生、すげー雰囲気がいいんだよ!あれを毎週聞きたいよわたしは!降幡・小宮・諏訪の落ち着いている系三人による放送がいいなあ。浦ラジが駄目なら他メディアで、深夜放送的にやってくんないかな…。


 さてさて、アニメの本放送が終わったとはいえ、かように『ラブライブ!サンシャイン!!』は様々な動きをみせてくれています。
 選挙にラジオにニコ生にグッズ発売にリスアニTVに、そして沼津・内浦の公式イベントや地元商店の様々な自発的取り組みなど、ものぐさなわたしには到底すべてを追うことはできず、ただただ呆然としてしまうのですが、そのような流れに身を任せていては見えるものも見えなくなってしまう。こういうときこそ意識を集中させて『ラブライブ!サンシャイン!!』というものに向き合っていかねばならぬ……などと考えている今日このごろです。
 で、じゃあ何について考えるべきか、といえば、Aqoursの九人でしょう。

 

 というわけで、しばらく、Aqoursの九人それぞれに焦点をあわせて、各人の魅力をわたしになりに考えていく記事を書いていきたいと思います。全9本をファーストライブまでに書きたい。初回はダイヤ様の予定です。近日更新の予定です。よしなに。

「向こう側」へ行く/新海誠監督の話を聞いて『何者』を観たこと

 今日は『言の葉の庭』を観て、新海誠の話を聞き、そして『何者』を観ました。これってけっこうすげーいい体験だったのでは?と思ったので、簡単に記事を書きます*1

 

 今日・10月23日に『言の葉の庭』の上映と新海誠監督のトークショーが行われたのは、中央大学でのこと。同大の卒業生向けの「ホームカミングデー」というイベントの一貫でした。卒業生が親交を温めて、人脈を拡げたり、家族サービスの場にしたり、大学としては卒業生の子供や知り合いに中大を知ってもらって将来の学生増につなげよう、というイベントです。著名な卒業生の講演会などもいくつかあって、新海誠監督も同大の卒業生として招かれていました。なお、イベント自体は『君の名は。』公開以前から発表されていたので、今年新海監督に目をつけた企画者は大金星といったところではないでしょうか。
 で、基本は卒業生向けなものの、一般客も自由に入場可能でしたので、友人と一緒に出かけてきました。

 

 開場の30分ほどまえに現地に着いたのですが、ホールの前には長蛇の列ができていました。観客の5割くらいが現役の学生で、1割くらいが新海誠ファン、あとの4割が卒業生、といった感じだったでしょうか。
 イベントの第一部は、新海監督の前作『言の葉の庭』の上映会。ぼくは初見でした。公開当時のタイムラインで、監督ファンだけでなく、アニメと実写映画を両方たくさん観ているタイプの人たちから好評を得ていた印象があったのですが、それも納得のよい映画でした。まず新宿の街、自然の描写がすばらしい。終盤の大雨のシーンには息をのみました。他の映画でも感じられるナイーブな饒舌さも、クライマックスの叫びまで連続していてひとつの表現として活かされているし、その言葉を発する入野自由花澤香菜の声と演技がすばらしいからどうしたって気持ちいい。ぼくが嫌悪する『秒速5センチメートル』の卑怯さ*2とも一線を画していて、なるほどこれがあってこそ『君の名は。』だなあ、という感想を抱きました。
 花澤香菜演じる27歳の女教師は、年齢的にも精神的も、今まで観た新海誠作品のなかでいちばん共感できる人物だったかもしれません。べつにあんな辛い目にあったわけじゃないけど、昼間っから酒を飲みたくなる感覚はすごくすごくわかる。

 

 続く第二部では、新海誠監督と、同じく中大卒の川田十夢さんが登壇し、約一時間ほどのトークショーを行いました。
 川田十夢さんは「AR三兄弟」の長男。個人的には、セカイカメラなんかが話題になっていたころ、ネットの記事でよくお名前を拝見した記憶があります。お二人は川田さんがパーソナリティをつとめるラジオ番組に新海監督が出演したことをきっかけに知り合ったとのこと。心底新海誠作品が好きであり、かつ、なぜ新海誠作品はよいのか?ということをよくよく考えフレッシュに言語化できる、更に、自分自身もとてもおもしろい人、というトークショーの相手役としては大正解な方でした。

 トークショーの話題は多岐に渡り、最後の質疑応答まで含めて大変興味深く、また心に残るものでした。後日、大学のサイトで配信される予定もあるそうなので、新海監督ファンのかたはぜひ目にされるとよいと思います。

 

 母校でのトークショーですから、大学在学中を中心に若い頃の話題が多かったのですが、印象的だったのは新海監督が子供のころは作り手になるとは考えたことも望んだこともなかった、という話です。大学になっても明確にやりたいことはなく、アルバイトに熱心だったそうです。しかし、常に何か焦っていた。確固たるやりたいことがあるわけではなく、ただ、きっと何かが自分にはあるんだ、という気持ちがあったとのこと。
 川田さんがこれに対して、若い人がこれを聞いたら希望を持てると思うんです、だってあの新海誠ですら大学生のときには何か作っていたわけじゃなかったんだから、と返すと、監督いわく、中高生などの若いファンから、アニメを作りたい、といった悩みや質問の手紙をもらうことが多いけれど、みんななんてシリアスなんだ、と思う。自分がアニメを仕事にしようと思った、向いているかもしれないと思ったのは『秒速5センチメートル』をつくった三十代なかばのころです、と*3

 

 そういう話の途中で出たのが、映画『何者』の話題でした。監督はつい最近同作をご覧になったそうで、そうした自分の学生時代の焦りの気持ちを思い出しつつ、SNSでそうした気持ちや人間関係が見えるようになってしまった現代の辛さを感じた、と仰っていました*4

 

 トークショーのあと、近所で『何者』がちょうどすぐ上映されることを確認して、ぼくは映画館へ向かいました。劇場にはぼくと同じく新海監督のトークショーからそのまま流れてきたと思しき青年もいた*5

 

 『何者』はいい映画でした。
 ぼく自身は大学を出てから十年以上経っていますが、仕事の関係で学生と接する機会が多少あるので、この映画が描き出す就職活動にまつわる息詰まる感覚はとてもリアルだろうと推察できます*6
 その息詰まる状況で、登場人物たちは、自分がどうありたいのか、どうあるべきなのか、を見つけようと右往左往します。
 映画は彼らの姿をときにおかしく、ときにまがまがしく描きながらも、ひとつずつ彼らをとらえる枷のようなものを解き放っていきます。
 映画の最後で描かれるのは、ある人物が、自分自身の物語を背負いはじめる瞬間です。要約と嘘が自分たちの武器だと言っていた人間が、短い言葉では語りきれない自分自身の物語を語り、その物語を背負うことを恥じないと決める瞬間。
 けっきょくそれはただ背負い始めることを決めた瞬間に過ぎません。その物語がどのような物語になるのか、その物語の中心にいる自分が何者になるのかはまったくわからない。
 けれどその、自分自身の物語を背負うことの怖さ、辛さ、その選択の瞬間の尊さを描くことに、この映画は成功しています。
 そしてそれは、『君の名は。』が、その題名どおりの問いかけが行われる瞬間をもって終わることと通底しているように、ぼくには思えました。

 

 トークショーの最後に行われた質疑応答で、こんな受け答えがありました。
 「自分は『君の名は。』を観て自分の心臓をつかまれたように感じました。ご自分にとってのそんな作品を教えてください」という学生からの質問に対して、川田さんが、やはり自分にとっては新海誠の映画がそういう作品なんだ、と前置きしてこう言います。新海監督の映画には、「向こう側」へ行く物語が多い。その、「向こう側」へ行くきっかけをどうやってつかんだんだっけ?と思いながら新海作品を見返す。
 そして新海監督いわく、就職も「向こう側」だしね。物語は、どうやってみんなが「向こう側」へ行っているのかを教えてくれるんです。

 

 『何者』もまた、「向こう側」への行き方を教えてくれる映画だと思います。かつて「向こう側」へ渡った人も、これから「向こう側」へ渡る(渡らなきゃいけない)人にも、この映画たちは色々なことを示してくれる。

 こんなわけで、『言の葉の庭』と『何者』とを、立て続けに観て、映画のそんな部分について考えることのできた今日は、なかなかに楽しい一日でした。『君の名は。』とまではいかずとも、『何者』もまた多くの人に届くとよいなあ、と強く強く思います。

*1:文中、トークショーの内容に多々触れていますが、録音できず正確な引用ではありません。誤りを見つけたかたは教えてくれたらうれしい。

*2:決して再会は不可能ではないのに勝手に諦めて自閉し、甘い記憶に浸ってよしとする主人公の判断と、その怠慢をまるで運命が強いたかのように錯覚させる山崎まさよし『One More Time』の打ち出す欺瞞。

*3:そしてこれに続く、自身と宮﨑駿のキャリア・才能を比較分析し自分のできることを探っていったくだりもまたたいへん興味深い話でした。たいへんだったんだなあ。

*4:ただし『何者』は決してこうした息苦しさが現代の情報化社会固有のものではなく、人間社会に普遍のものだということにも触れており、非常にフェアです。

*5:入場者が渡される、大学のパンフレットが入った袋を持っていたのでわかった。

*6:ただしこれは関東圏在住の感覚で、地方に住む学生たちの就職活動にはまたかなり異なる空気感があるのだろうと思います。唯一、そうした地方の空気感を有村架純が少しだけ垣間見せるのですが、あの話、もうちょっと描かれてもよかったなあ。

「わたしたち」から「君」へ/『ラブライブ!サンシャイン!!』13話のこと

 『ラブライブ!サンシャイン!!』(以下『サンシャイン!!』と略)13話はよかった。そして、13話を含むこのアニメが投げかけるものは大きい。今回はそのようなことについて書きたいと思います。

 

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 13話は、千歌がこのように呼びかけることで始まります。

今日はみなさんに、伝えたいことがあります!

  「シンくんかよ!」と思ったのは私だけではないでしょう*1。『King of Prism』の一条シンが、ステージ上から劇中の観客に、そしてスクリーンのこちら側へと呼びかけたのと同様に、ここで千歌が呼びかけているのも、劇中の観客であり、画面のこちら側にいるわたしたちです。
 シンくんはあのとき、初めてプリズムショーを観たときのときめき、そしてそこから始まった世界の輝きについて語りました。わたしたち観客は、彼の言葉に沿って、自分もまたプリズムショーとスタァたちに世界の輝きを教えられたことを改めて思い知ります。彼の言葉によって観客は自分の中の感情を再認識させられ、強化される。そして何より、そこで劇中の(虚構の)シンくんと観客は同じ立場となる。虚実の境界線はゆらぎ、ただ「世界が輝いていること」だけが確かなものとして残る。

 

■むつたちの物語

 13話冒頭、千歌の呼びかけはさきほどの一言だけにとどまり、いったん中断します。オープニングとコマーシャルののちに描かれるのは、Aqoursの練習風景です。
 Aqoursは夏の暑さとうまく折り合いながら、ラブライブ地区予選に向けてダンスや歌に磨きをかけています。メンバー同士の間も狭まり、着実に成長しているように見えますが、それでも、浦の星女学院の学校説明会への参加希望は集まっていません。


 千歌のクラスメイトであるよしみ・いつき・むつの三人は、たまたま本を返しにきた学校の図書室で、そんなAqoursに出会います。3話のファーストライブを手伝い、7・8話の東京イベントの出発と帰還に立ち会っていた彼女たちですから、すでにAqoursの活動のことはそれなりに知っているはずです。沼津の花火大会で行われたステージは生で観ている可能性が高いし、東京のイベントや予備予選もネット上の動画などで見ていておかしくない。すでに彼女たちはAqoursがステージ上で輝く姿を知っています。
 それでもむつたちは、この、暑い夏休みに練習をこなすAqours*2の姿を見て驚く。

「練習、毎日やってたんだ」
「千歌たちって、学校存続させるためにやってるんだよね」
「うん」
「でもすごくキラキラしてて、まぶしいね」
「うん!」

 ステージ上の姿ではなく、練習する姿にこそ、むつたちは心を動かされている。
 そのうえで彼女たちは、Aqoursの活動に加わりたい、という気持ちを打ち明けます。裏方として手伝うということかと思いきや、むつたちは大胆にも、自分たちもスクールアイドルになりたいという。

だから、学校を救ったり、キラキラしたり、輝きたいのは、千歌たちだけじゃない

わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかなって

……どうかな

 「千歌たちだけじゃない」。
 Aqoursの特別さ、彼女たち九人だけの才能や共通の経験を否定するともとらえられかねない発言です。しかし、彼女がどんな経緯でこう言ったかに注目する必要があるでしょう。ステージ上ではなく、自分たちの学校で、自分たちの日常と地続きの場所で、日々練習をする千歌たちの姿を見たあとに、むつたちはこう言っている。そこにあるのは、同じ学校の生徒としての共感です。大胆ではあるけれど、傲慢ではない。
 また、この大胆な言葉には、3話のファーストライブにおけるダイヤと千歌のやり取りを思い出させるものがあります。

「これは今までのスクールアイドルの努力と、町の人たちの善意があっての成功ですわ。勘違いしないように」
「わかってます。でも、でもただ見てるだけじゃ始まらないって。うまく言えないけど、今しかない瞬間だから。だから、輝きたい!」

 先に走っている人たちの偉大さを知っていて、自分の矮小さを知ってはいても、それでも挑戦したいという気持ちに、千歌は嘘をつかなかった*3

 

 むつたちは大胆なことを言いますが、千歌の反応にも驚かされます。彼女はむつたちをあっさり受け入れてしまう。
 その晩、千歌は言います。

ラブライブがどうでもいいわけじゃないけど
ここが素敵な場所だってきちんと伝えたい
そして、0を1にしたい

 完成されたパフォーマンスをするよりも、内浦を世の中へ伝えることのほうが優先されています。そのためならば、Aqoursの形が変わってもよい。
 一連のシーンにおける梨子の困った表情を見て、彼女はむつたちがAqoursに加わることに抵抗を感じているのだ、と思った人は多いと思います。わたしもはじめはそう思いました。
 ところが、地区予選の当日、ついに自分の感情を吐露するかに思われた梨子が口にするのは、事前にエントリーしたメンバーしかステージに立てないこと、そして関係者をステージ近くへ集めるような行為も禁止されていること、というルール上の問題だけでした。
 13話において、Aqoursがむつたちを受け入れることは、全く否定的に描かれていません。前述のように、むしろここで梨子が、Aqoursはこれまでともに歩んできた九人のものだ、とむつたちを受け入れないほうが、一般的な感情の動きからすれば自然かもしれません。しかしそれでも、Aqoursはむつたちを受け入れる。

 

 演出もそれを裏打ちします。名古屋の駅前でAqoursと待ち合わせたむつたちに続いて浦の星女学院の全生徒が登場すると、『サンシャイン!!』のメインテーマが鳴り響きます。ここでの音楽演出は暗に、今回の主役はむつたち浦の星女学院の生徒ですよ、と言っている。

 

 一度は応援に徹することになったむつたちですが、けっきょく彼女たちは、規則を逸脱して、Aqoursのステージに参加することになります。
 地区予選のAqoursのパフォーマンス、とくに『MIRAI TICKET』の合間に描写されるむつの姿はとても印象的です。最初は周りの生徒たちとともにサイリウムを振っているむつですが、やがて、Aqoursのパフォーマンスに驚き圧倒されたように、呆然とした表情になります。そして千歌が「みんな、一緒に輝こう!」と呼びかけるに至ってついに、席から立ち上がりステージに駆け寄っていく。
 描かれるのはむつだけではありません。客席に並ぶ数十の浦の星女学院の生徒たちは、一人ひとりにはっきりと個性が読み取れるかたちで描かれています。彼女たちが画面上に登場する時間は非常に短いものですが、そこには明らかに演出上の重みが置かれているように見えます。


 『MIRAI TICKET』を歌うまえ、Aqoursはステージ上で自分たち九人の物語を演じていました。それは、これまで1話から12話までで描かれてきた、九人が一人一人Aqoursに加わっていく過程です。そこに連続するかたちで、まるで十人目のAqoursの物語のように、むつたちは描かれているのです。

 

■演じられることの意味

 ラブライブ地区予選のステージ、千歌の呼びかけがはじまるところに話を戻します。

今日はみなさんに、伝えたいことがあります!
それは、わたしたちの学校、わたしたちの街のことです

 自分たち九人のこと、ではなく、学校と街のことについて話したい、と千歌は言います。ここでも、Aqoursより浦の星女学院が優先されています。

 呼びかけに続いて、千歌たちは制服姿で、これまでの自分たちの遍歴を演じ始めます。
 すでに視聴者はその物語を知っています。それでもあらためて千歌たちが演じる理由はあるのでしょうか。

 

 『サンシャイン!!』という物語のなかで、Aqoursたちはまごうかたなき「主人公」であり、物語の中心に特別な存在として立っています。しかし、ここで自分たちの物語を「演じなおす」ことで、「主人公」を演じる存在=「演者」の立場に移動します。もちろんそこで演じられるのは彼女たち自身の物語ではあるのですが、演じなおすことで、自分たち自身の物語から距離を取っている。図にすると、下記のようになります。

 

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 物語から距離を持って立つ演者の立場というのは、同じく物語を離れて観ている観客の立場と親しいものです。無論、それぞれの物語に対する距離感は個々の演劇や物語によって変わるのですが、13話でAqoursは、制服姿で、セットなし、複雑な演出もなしの状態でステージに立っています。外見は、客席の浦の星女学院の生徒たちとまったく変わりません。先程の図に、次のように観客を当てはめても問題はないでしょう。

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 そしてここでいう「観客」は、彼女たちを見ている浦の星女学院の生徒たち、そしてテレビのこちら側にいるわたしたちのことでもあります。

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 一時的にではありますが、Aqoursは演劇という仕組みを使って、一般生徒、そして視聴者と同じ立場に降りてきている。

 ここで思い起こされるのは、声優としてAqoursを演じている人たちのことです。


 13話の演劇パートにおいて、上記の図のように、劇中のAqoursたちは「主人公」「演者」そして「観客」の立場を移動しています。伊波杏樹さんをはじめとするAqoursを演じる人々も、かつては「観客」として『ラブライブ!』という物語を観ていた人たちでした*4。彼女たちはいまAqoursを演じることで『サンシャイン!!』というアニメ作品の「演者」になったとともに、Aqoursのメンバーとして実人生を過ごすことで、人気アイドル声優という「物語」の「主人公」にもなっています。

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 演劇を演じるアニメキャラクター。そして、そのアニメキャラクターを演じる声優たち。彼女たちが物語の中心と外側を行き来する構造を意識すると、それぞれの立場が交流可能であることが際立って見えてきます。
 人はみな観客であり、演者であり、主人公にもなりうる。このメッセージは、むつたちをスクールアイドルとして受け入れる千歌たちのオープンな姿勢にも通底しています。


 劇中でAqoursが演じることで生じるデメリットもあります。
 演劇とは基本的に、演者と観客があいだに何も介さず、面と向かって行われる芸術です。今、目の前に確かに存在する人が、まったく異なる時間・場所の、別の誰かを演じるのですから、ひと目で嘘だとわかってしまう。観客がそれを嘘だと笑い飛ばさずに信じることで初めて成立するのです。
 アニメのなかの劇中劇として演劇を行うと、明らかな嘘(絵に描かれた嘘=アニメーション)のうえにもうひとつの明らかな嘘(ある人間が自分とは異なるものを演じる=演劇)が重なってしまう。その二重の嘘を信じるのはなかなか難しいことです。
 とはいえ、このように層のように重なった嘘で描かれる物語を、ラブライバーたちはずっと信じ、支えてきたのでした。声優ユニットとしてのμ'sあるいはAqoursが現実のステージで歌い踊るとき、ラブライバーはそこに、二次元のなかのμ's/Aqoursの姿を垣間見ます。バックスクリーンに映し出されているアニメの映像は現実ではなく、ステージの上の声優たちもまた二次元のなかの存在とは全く異なるということがわかっている。わかっているけれども、その両者を意図的に混同することでこそ生じる感動をラブライバーは知っている。
 もしかしたら、13話でこのような虚構性の高いシーンを描くことを決めたとき、演出家たちは、観る側がその嘘を信じてくれること、物語をともに支えてくれることに賭けたのかもしれません。

 

■ひらかれた物語

 わたしは、13話の脚本と演出は一貫して、むつたち浦の星女学院の生徒たちを「十人目」のメンバーともいうべき存在としてAqoursに迎え入れることを目的に、組み立てられているのだとみています。
 13話の放映以降、ネット上で、こうした作り手の考え方に異をとなえる意見を多く目にしました。
 これらが単に演出や脚本の技術的な力不足や作家性の暴走によるものだとしているような意見もあるようですが、わたしの見たところではそれは違う。確かに、いくつかの不自然な部分が生じてしまってはいます。しかし作り手たちはその瑕疵よりも、十人目を受け入れるということのほうを優先させた。重要なのは技術の問題ではなく、考え方の違いです。


 「十人目」を受け入れたAqoursは、13話の最後に念願の「1」を手に入れます。
 直接には描かれませんが、それは、Aqoursでも浦の星女学院の生徒でもない、名も知れない中学生が、学校説明会への参加申し込みを行った、ということです。
 Aqoursがむつたち「十人目」を受け入れて、自分たちの輝きをむつたちへと分けて届ける。その輝きが、これまで届くことのなかった遠くの誰かへとようやく到達する。
 輝きを九人のなかに閉じ込めておくのではなく、外へ向けてひらくことで、より遠くの人と繋がることができる。
 13話が伝えようとしたのは、そのようなことなのだとわたしは思います。

 

 『サンシャイン!!』がこのように、他者に対して開かれること、来るものを拒まないこと、といったことを強く打ち出すことには、作品そのものの成立に関わる大きな理由があると思います。

 

 『サンシャイン!!』は静岡県の沼津・内浦を主な舞台としています。
 前作『ラブライブ!』において、秋葉原が物語の舞台であることは、実際にそこで暮らす人々とのつながりより、秋葉原のアニメ文化・アイドル文化とのつながりを強く意識していたように思います。二次元の美少女を愛好する人々の聖地であり、また現在のアイドルブームの発火点のひとつであるAKBグループの本拠地でもある秋葉原は、スクールアイドルなる架空の存在が活躍する架空の学校の背景として、インパクトと説得力を与えてくれる絶好の土地でした。
 公野櫻子による『School Idol Diary』では神田・秋葉原への憧憬を伺わせる表現が頻出していますし、アニメ一期・劇場版では南ことり星空凛秋葉原の魅力に言及していますが、いずれにせよそれらはもともとある秋葉原という土地のストックから何かを引き出すという方向であって、作品が土地に影響を与えるという方向の接し方ではなかった*5

 『サンシャイン!!』においては、沼津・内浦と作品は双方向に繋がっています*6。劇中の浦の星女学院と同様、内浦や沼津の行政や商業に関わる方々は、人を集めることに苦慮しているでしょう。人がいない、人がやってこない、という悩みは、日本の地方が普遍的に抱える課題です。地元の人たちは少なからず、Aqoursや浦の星女学院の生徒たちに自分を重ねながら、作品と関わっているのではないか。
 『サンシャイン!!』という物語は、そんな沼津・内浦と協力し、聖地巡礼というメディアミックス展開先の一つを獲得し*7、同時に、地元へ経済・文化両面での影響を与えています。
 『サンシャイン!!』という作品自体が、劇中のAqoursのように沼津・内浦の人たちに影響を与え、また反応されている構図は、Aqoursと浦の星女学院の生徒たちとの関係に重なります。
 アニメの聖地巡礼によって多数の観光客を受け入れた土地が、次第に、みずから作品を積極的に受け入れ始め、作品にまつわる商材やイベントを生み出していくようになる例は多数あります。沼津・内浦でもそうした動きは始まっている。それは、「わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかな」と言ったむつたちの行動と同じではないでしょうか。ならば、『サンシャイン!!』はそうした人たちに対してひらかれていなければならない。実在の土地と深く関わる作品である以上、これは避けられないことなのです。

 

 『サンシャイン!!』がひらかれていることのもう一つの理由、それは、Aqoursにあります。Aqoursもそもそも、μ'sによって作られた『ラブライブ!』という物語がそれ単体で終わらずに、新たな物語を生み出そうとしたこと=ひらかれていたことによってようやく成立できる存在だからです。
 かつて『サンシャイン!!』のプロジェクト開始が発表された際、多くの人が、見慣れぬ高海千歌というキャラクターが『ラブライブ!』の物語に名を連ねることについて違和感を抱いたはずです。いきなり登場したキャラクターが、何年もかけて活動してきたμ'sと名を並べるなんて…という空気が確かにあった。それでも多くの人が、高海千歌の未来をわずかでも信じたから、いまのAqoursがある。あのとき、極端なバッシングが大勢を占めていたならば、いまのAqoursは存在しないかもしれない。
 わたしには、13話の終盤、ステージの脇でサイリウムを振り上げるむつたちの姿は、あの、砂浜に一人立って腕を高く掲げる高海千歌と同じような存在に思えます。それを否定したら、Aqoursのはじまりをも否定することになってしまうように思えるのです。

 

■九人の物語、君の物語

 13話のラストに描かれるのは、砂浜にいるAqoursたちの姿です。
 Aqoursは九人に戻っています。一時的に他者と輝きを分かち合い、かつ他者の力を借りた彼女たちは、再びもとの九人に戻る。
 大人数でのライブから、再び九人だけに戻る。わたしは、『ラブライブ! School Idol Movie』の終盤、『Sunny Day Song』から『僕たちはひとつの光』への展開を思い出しました。あのときのμ'sは、その輝きがいかに特別で唯一無二であるかを観るものの目に焼き付けて、彼女たちの物語の幕を閉じました。
 Aqoursの場合はまったく逆です。彼女たちが13話の最後で立つのは、Aqoursとしてのスタートラインです。砂浜に横並びで立つ九人はプロジェクト開始時に公開されたグラビアそっくりですし、一番最後のせりふはファーストシングルのタイトルそのものです。


 13話かけてまたスタート地点に立つなんて、虚しいでしょうか? いやいや、おそらく話は逆なのです。こうしなければAqoursは始まれなかった。13話をかけて解きほぐし、立ち向かっていなければならないほどに、μ'sが、そしてμ'sが広めたスクールアイドルがAqoursに引き継いだものは巨大だった*8


 その、引き継いでしまったあまりに大きなものを、自分のものとして受け止める。そして他人に輝きを引き継ぐことで、輝きを引き継いで始まった自分たち自身の物語を肯定する。

 振り返ってみれば、これまでの物語の随所に、影響を相互に与えあう人々の関係が露わになっていくドラマがありました。
 花丸はルビィがスクールアイドルになりたいという気持ちを後押ししますが、ルビィもまた、花丸がスクールアイドルの経験を経て自分を解放させていることを指摘します。曜は千歌の気持ちを気にするあまりに自分を否定してしまうようになりますが、千歌もまた自分のことを考えていてくれていることを知り、心の平穏を取り戻します。
 果南・ダイヤ・鞠莉の三年生は、相互に思いあい、影響しあっているからこそ複雑に絡み合ってしまった人間関係のなかで停滞していました。しかしその停滞がほどけ、思いが行き交ったとき、彼女たちは爆発的にやさしく、いとおしく思えるものに変化する。

 誰かからもらったものを誰かに返すこと。あるいは、そうした思いを一方向で終わらせず、互いに交換しあうこと。

 一周まわってもとに戻ったように思われるAqoursがおこなってきたのは、そのようなことだったのではないでしょうか。


 μ'sから自由になり、輝きを他者に分け与えたAqoursの物語は、この言葉で幕を閉じました。

かなえてみせるよ、わたしたちの物語を
この輝きで!

君のこころは輝いてるかい?

  『ラブライブ!』のテーマといえば、「みんなで叶える物語」です。

 が、この最後の言葉において、「みんな」は「わたしたち」と「君」の二つに分けられている。
 ここでAqoursは、Aqoursと自己を同一視したい視聴者/ラブライバーとのあいだに一線を引いています。「みんな」という言葉をもちいて、ファンと、演じるもの、創るもの、そしてフィクション内のキャラクターをすべてひとつにまとめてきた『ラブライブ!』らしからぬ演出だ、と言えるかもしれません。
 彼女たちは問いかけてきます。「君のこころは輝いてるかい」。

 それはこのような問いなのではないでしょうか。
 μ'sから受け取ったものを、自分のものとして輝かせる。そしてまた、他者へ引き継ぐ。「君」、すなわちラブライバーのひとびとに、それは可能だろうか。アニメのなかでそれを実現させたAqoursに、そう問われているのではないか。


 「君」と「わたしたち」のあいだに緊張をはらんで、『ラブライブ!サンシャイン!!』はまた新たな道のりを進み始めました。
 わたしは、「君のこころは輝いてるかい」という言葉を、その道のりをゆく鼓舞として、あるいは共闘の呼びかけとして、受け止めたいと思います*9。こんな気持ちにさせてくれた13話が、わたしは好きです。

*1:詳しくは映画『King of Prism』をご覧ください。当ブログでも記事を書きました:「世界は輝いている/『KING OF PRISM by Pretty Rhythm』」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/02/21/225933

*2:余談ですが、水分補給を奨励し、精神的には余裕があっても体力を重視して暑い時間帯の練習を行わない、といったことが描かれているのが、よいなあと思いました。よく高校野球にたとえられることの多い『ラブライブ!』ですが、こうした描写はきちんとアップデートされており、旧態依然とした青春物語の消費には終わっていません。

*3:3話についての詳しい記事はこちら。「千歌が越えた一線と、言葉について/『ラブライブ!サンシャイン!!』3話までの感想を語る」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/07/20/013537

*4:複数のメンバーが、公式なインタビュー上で、プロジェクト参加以前から『ラブライブ!』に触れていたことを公言しています。また、各個人のSNS上でも『ラブライブ!』のライブ参戦やグッズ購入についての発言が複数確認されています。

*5:高坂穂乃果の実家のモデルとなった竹むらをはじめとして、もともと存在した秋葉原・神田の店舗や団体は、『ラブライブ!』という作品に対して自主的なアプローチを仕掛けてはいません。神田明神のみが活発なコラボレーションを行っているものの、この由緒正しい神社はAKBグループとの関わりも多く、『ラブライブ!』固有の動きとは言い難いでしょう。オタクグッズ小売店やゲームセンターなどの店舗においても同様のことが言えます。

*6:以下の沼津・内浦に関する文章については、現地を訪れたことのない状態で書いています。インターネットを経由して得られる情報、現地を訪れた人たちのレポート、そして現地の人たちからの発信をもとに考えたことですが、違和感を抱く人がいたらぜひご意見ください。

*7:マンガやゲーム、ライブと様々なメディア展開を行って消費者に多角的な娯楽を提供する現代のアニメーション作品にとって、聖地巡礼もまた、そうしたものと並ぶメディアの一つとして確立された、とわたしは思っています。現在の聖地巡礼は、偶発的に発展して「奇跡」と呼ばれるほど素朴でもなければ、「大人の事情」と揶揄されるほど粗雑でもない、ということです。それは例えば小説家によるノベライズのように、アニメーション作品の作り出した世界を拡げ、支えていくのです。

*8:12話でAqoursがμ'sから自由になったことについては次の記事で書きました:「Aqoursの「自由」について/『ラブライブ!サンシャイン!!』12話までのこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/24/181454

*9:ファイト・クラブ』のタイラー・ダーデンを思い出したりもしています。

Aqoursの「自由」について/『ラブライブ!サンシャイン!!』12話までのこと

 現在のアイドルがどれほどに「自由」なのか。アイドルを愛好する人間ならば、一度はそのようなことについて考えを巡らせたことがあるのではないでしょうか。
 AKB48によってあらためてクローズアップされた苛烈な競争制度を、アイドルが飛び込まざるをえない「不自由さ」としてイメージする人は多いと思います。しかしその不自由さはあえてアイドルによって自主的に選び取られているのであり、その競争のなかで自分の思い通りに戦うことで「自由」になるアイドルもいるかもしれません。
 いっぽうで、インターネット、そしてSNSや動画配信サイトの発達はアイドルに「自由」な発言・行動の場を与えたようにみえますが、ファンや関係者によってつねに見られていることで新たな「不自由」さを産んでいるとも言えるでしょう。
 なんにせよ、どちらがよい、悪い、と断言することは極めてむずかしい。究極的には、アイドル個人が、そのとき・その場所で楽しく感じるかどうかに思いを馳せつづけるしか、このテーマへの対処方法は存在しない、とわたしは思います。

 

www.b-ch.com

 

 『ラブライブ!』が作り出した「スクールアイドル」という概念は、アクロバティックな方法でこのテーマへの回答を弾き出してきました。フィクションのなかで「自由」なスクールアイドルたちを描き出すことで、実際には確定できないアイドルの「自由」を保証してみせたのです。


 『ラブライブ!』アニメ二期、そして 『ラブライブ! School Idol Movie』の劇中で、μ'sは三年生卒業と同時の解散を自ら選択します。学院理事長やファンたちからの穏やかな反対・嘆きの声は描かれつつも、スクールアイドルとしてのμ'sの「自由」はそのまま世の中に受け入れられる。
 アニメのなかでμ'sが解散を選び取り、それが尊重されている以上、現実のμ'sもまた同様の行動をしてもよい――アニメ内のμ'sの解散は、そのような価値観を現実世界のファンや関係者たちに刷り込んだはずです。その刷り込みあればこそ、現実のμ'sもまた16年4月のラストライブをもっていったんの活動終了を無事に迎えることができたのではないでしょうか。二次元のキャラクターのダンスシーンを、三次元の声優がライブ上で再現してきたように、μ'sは二次元で獲得した解散の自由を、三次元でも行使したのでした。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』12話において、Aqoursもまた「自由」を手に入れます。ずっとμ's、そして高坂穂乃果を目指してきた千歌が、ついに自分たちが歩むべき道を、μ'sの姿の外にみいだすのです。千歌はこのように言います。

 

 μ'sみたいに輝くってことは、μ'sの背中を追いかけることじゃない。

自由に走るってことなんじゃないかな!

全身全霊!

なんにもとらわれずに!

自分たちの気持ちにしたがって

 

 『サンシャイン』はそのシリーズを通して、μ'sを繰り返し取り上げてきました。Aqoursの憧れの対象として、あるいはAqoursの背中を押してくれる存在として。その言及の頻繁さは、シリーズ作品としての先輩格へのリスペクトを感じさせてくれる、ファンとしては嬉しいものでありつつ、一方でμ'sがAqoursに投げかけるものの重さを感じさせるものでもありました。

 そんなμ'sから、ついにAqoursは自由になる。しかも、μ'sの美点を理解することによって。
 フィクションのなかでも、現実でも、今後Aqoursがどんなにμ'sと異なることをしたとしても、そこに安易な批判や拒絶を加えることは難しくなるはずです。なぜなら、Aqoursの自由さは、μ'sの美点に立脚しているのですから。

 

 ただし、この「自由」と、μ'sの獲得した「自由」とは大きく異なる、ということもわたしは忘れられません。
 μ'sは、スクールアイドルであるがゆえに、(スクールアイドルより大きな意味での)「アイドル」という存在でなくなること(=解散)を選び取る自由を手に入れました。
 12話におけるAqoursは、プロデューサーや世間からの指示に従うのではなく、自分たち自身で活動方針を決められる、というスクールアイドルの特徴をもちいてμ'sからの脱却を可能にしたわけですが、それはAqoursとしての存在がようやく始まったということでもあります。

 

なんか、これでやっとひとつにまとまれそうな気がするね

 

 果南がこのように言うとおり、これは始まりに過ぎない。むしろAqoursは、これからアイドルとしての苛烈な活動に身を投じていかなければならない。μ'sから自由になったということは、同時に、μ'sの加護を失ったということでもあるのです。

 

 そのようなことを考えながら、わたしはこの、『ラブライブ!サンシャイン!!』13話が放映されるまでの七日間を過ごしてきました。
 自由であることは、不確かであるということでもある。
 このような不安に、μ'sの古参ファンは、そして数多のアイドルファンは耐えてきたのか。わたしは彼らを尊敬してしまう。

 こんな気持ちは、Aqoursたち「18人」の抱える気持ちに比べれば大したことはないはずです。
 そう頭ではわかっていますが、まあ、そのように動いてしまう気持ちというのは、どうしようもない。


 AqoursAqoursとして「自由」に活動していくとき、彼女たち――そしてファンであるわたし――の拠り所になりうるのは、なんでしょうか。
 その一つは、Aqours自身が通過してきた過去の積み重ねではないでしょうか。
 そのように考えてこの三ヶ月を振り返ったとき、わたしの目の前には、極めて丁寧に作られた12話のアニメーション作品が存在する。
 前回の記事でのべたように、言いたいことはたくさんある。あるけれども、たしかにAqoursの過去はそこに積み重なっている。

 先日、久しぶりにファーストシングル『君のこころは輝いてるかい』におさめられた、Aqours九人それぞれによるメッセージボイス「はじめましてのごあいさつ」を聴き直してみました。伊波さんの芯の確かさはこのころからみごとなものだなあ、とか、小林愛香さんはだいぶ甘々な雰囲気を作っていて微笑ましいな、とか、小宮有紗さんの演技の確かさはさすがだなあ、とか、今の声優さんたちの声と比べると感じ取れるものがたくさんあって、実に楽しかったです。
 きっとこれから何年か経ったら、今日、ひとまず完結するであろうアニメもまた、そのように振り返ることができるのでしょう。
 そんな日を、楽しい気持ちで迎えられるように、祈っていたいと思います。