『ラブライブ!サンシャイン!!』(以下『サンシャイン!!』と略)13話はよかった。そして、13話を含むこのアニメが投げかけるものは大きい。今回はそのようなことについて書きたいと思います。
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13話は、千歌がこのように呼びかけることで始まります。
今日はみなさんに、伝えたいことがあります!
「シンくんかよ!」と思ったのは私だけではないでしょう*1。『King of Prism』の一条シンが、ステージ上から劇中の観客に、そしてスクリーンのこちら側へと呼びかけたのと同様に、ここで千歌が呼びかけているのも、劇中の観客であり、画面のこちら側にいるわたしたちです。
シンくんはあのとき、初めてプリズムショーを観たときのときめき、そしてそこから始まった世界の輝きについて語りました。わたしたち観客は、彼の言葉に沿って、自分もまたプリズムショーとスタァたちに世界の輝きを教えられたことを改めて思い知ります。彼の言葉によって観客は自分の中の感情を再認識させられ、強化される。そして何より、そこで劇中の(虚構の)シンくんと観客は同じ立場となる。虚実の境界線はゆらぎ、ただ「世界が輝いていること」だけが確かなものとして残る。
■むつたちの物語
13話冒頭、千歌の呼びかけはさきほどの一言だけにとどまり、いったん中断します。オープニングとコマーシャルののちに描かれるのは、Aqoursの練習風景です。
Aqoursは夏の暑さとうまく折り合いながら、ラブライブ地区予選に向けてダンスや歌に磨きをかけています。メンバー同士の間も狭まり、着実に成長しているように見えますが、それでも、浦の星女学院の学校説明会への参加希望は集まっていません。
千歌のクラスメイトであるよしみ・いつき・むつの三人は、たまたま本を返しにきた学校の図書室で、そんなAqoursに出会います。3話のファーストライブを手伝い、7・8話の東京イベントの出発と帰還に立ち会っていた彼女たちですから、すでにAqoursの活動のことはそれなりに知っているはずです。沼津の花火大会で行われたステージは生で観ている可能性が高いし、東京のイベントや予備予選もネット上の動画などで見ていておかしくない。すでに彼女たちはAqoursがステージ上で輝く姿を知っています。
それでもむつたちは、この、暑い夏休みに練習をこなすAqours*2の姿を見て驚く。
「練習、毎日やってたんだ」
「千歌たちって、学校存続させるためにやってるんだよね」
「うん」
「でもすごくキラキラしてて、まぶしいね」
「うん!」
ステージ上の姿ではなく、練習する姿にこそ、むつたちは心を動かされている。
そのうえで彼女たちは、Aqoursの活動に加わりたい、という気持ちを打ち明けます。裏方として手伝うということかと思いきや、むつたちは大胆にも、自分たちもスクールアイドルになりたいという。
だから、学校を救ったり、キラキラしたり、輝きたいのは、千歌たちだけじゃない
わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかなって
……どうかな
「千歌たちだけじゃない」。
Aqoursの特別さ、彼女たち九人だけの才能や共通の経験を否定するともとらえられかねない発言です。しかし、彼女がどんな経緯でこう言ったかに注目する必要があるでしょう。ステージ上ではなく、自分たちの学校で、自分たちの日常と地続きの場所で、日々練習をする千歌たちの姿を見たあとに、むつたちはこう言っている。そこにあるのは、同じ学校の生徒としての共感です。大胆ではあるけれど、傲慢ではない。
また、この大胆な言葉には、3話のファーストライブにおけるダイヤと千歌のやり取りを思い出させるものがあります。
「これは今までのスクールアイドルの努力と、町の人たちの善意があっての成功ですわ。勘違いしないように」
「わかってます。でも、でもただ見てるだけじゃ始まらないって。うまく言えないけど、今しかない瞬間だから。だから、輝きたい!」
先に走っている人たちの偉大さを知っていて、自分の矮小さを知ってはいても、それでも挑戦したいという気持ちに、千歌は嘘をつかなかった*3。
むつたちは大胆なことを言いますが、千歌の反応にも驚かされます。彼女はむつたちをあっさり受け入れてしまう。
その晩、千歌は言います。
ラブライブがどうでもいいわけじゃないけど
ここが素敵な場所だってきちんと伝えたい
そして、0を1にしたい
完成されたパフォーマンスをするよりも、内浦を世の中へ伝えることのほうが優先されています。そのためならば、Aqoursの形が変わってもよい。
一連のシーンにおける梨子の困った表情を見て、彼女はむつたちがAqoursに加わることに抵抗を感じているのだ、と思った人は多いと思います。わたしもはじめはそう思いました。
ところが、地区予選の当日、ついに自分の感情を吐露するかに思われた梨子が口にするのは、事前にエントリーしたメンバーしかステージに立てないこと、そして関係者をステージ近くへ集めるような行為も禁止されていること、というルール上の問題だけでした。
13話において、Aqoursがむつたちを受け入れることは、全く否定的に描かれていません。前述のように、むしろここで梨子が、Aqoursはこれまでともに歩んできた九人のものだ、とむつたちを受け入れないほうが、一般的な感情の動きからすれば自然かもしれません。しかしそれでも、Aqoursはむつたちを受け入れる。
演出もそれを裏打ちします。名古屋の駅前でAqoursと待ち合わせたむつたちに続いて浦の星女学院の全生徒が登場すると、『サンシャイン!!』のメインテーマが鳴り響きます。ここでの音楽演出は暗に、今回の主役はむつたち浦の星女学院の生徒ですよ、と言っている。
一度は応援に徹することになったむつたちですが、けっきょく彼女たちは、規則を逸脱して、Aqoursのステージに参加することになります。
地区予選のAqoursのパフォーマンス、とくに『MIRAI TICKET』の合間に描写されるむつの姿はとても印象的です。最初は周りの生徒たちとともにサイリウムを振っているむつですが、やがて、Aqoursのパフォーマンスに驚き圧倒されたように、呆然とした表情になります。そして千歌が「みんな、一緒に輝こう!」と呼びかけるに至ってついに、席から立ち上がりステージに駆け寄っていく。
描かれるのはむつだけではありません。客席に並ぶ数十の浦の星女学院の生徒たちは、一人ひとりにはっきりと個性が読み取れるかたちで描かれています。彼女たちが画面上に登場する時間は非常に短いものですが、そこには明らかに演出上の重みが置かれているように見えます。
『MIRAI TICKET』を歌うまえ、Aqoursはステージ上で自分たち九人の物語を演じていました。それは、これまで1話から12話までで描かれてきた、九人が一人一人Aqoursに加わっていく過程です。そこに連続するかたちで、まるで十人目のAqoursの物語のように、むつたちは描かれているのです。
■演じられることの意味
ラブライブ地区予選のステージ、千歌の呼びかけがはじまるところに話を戻します。
今日はみなさんに、伝えたいことがあります!
それは、わたしたちの学校、わたしたちの街のことです
自分たち九人のこと、ではなく、学校と街のことについて話したい、と千歌は言います。ここでも、Aqoursより浦の星女学院が優先されています。
呼びかけに続いて、千歌たちは制服姿で、これまでの自分たちの遍歴を演じ始めます。
すでに視聴者はその物語を知っています。それでもあらためて千歌たちが演じる理由はあるのでしょうか。
『サンシャイン!!』という物語のなかで、Aqoursたちはまごうかたなき「主人公」であり、物語の中心に特別な存在として立っています。しかし、ここで自分たちの物語を「演じなおす」ことで、「主人公」を演じる存在=「演者」の立場に移動します。もちろんそこで演じられるのは彼女たち自身の物語ではあるのですが、演じなおすことで、自分たち自身の物語から距離を取っている。図にすると、下記のようになります。
↓
物語から距離を持って立つ演者の立場というのは、同じく物語を離れて観ている観客の立場と親しいものです。無論、それぞれの物語に対する距離感は個々の演劇や物語によって変わるのですが、13話でAqoursは、制服姿で、セットなし、複雑な演出もなしの状態でステージに立っています。外見は、客席の浦の星女学院の生徒たちとまったく変わりません。先程の図に、次のように観客を当てはめても問題はないでしょう。
そしてここでいう「観客」は、彼女たちを見ている浦の星女学院の生徒たち、そしてテレビのこちら側にいるわたしたちのことでもあります。
一時的にではありますが、Aqoursは演劇という仕組みを使って、一般生徒、そして視聴者と同じ立場に降りてきている。
ここで思い起こされるのは、声優としてAqoursを演じている人たちのことです。
13話の演劇パートにおいて、上記の図のように、劇中のAqoursたちは「主人公」「演者」そして「観客」の立場を移動しています。伊波杏樹さんをはじめとするAqoursを演じる人々も、かつては「観客」として『ラブライブ!』という物語を観ていた人たちでした*4。彼女たちはいまAqoursを演じることで『サンシャイン!!』というアニメ作品の「演者」になったとともに、Aqoursのメンバーとして実人生を過ごすことで、人気アイドル声優という「物語」の「主人公」にもなっています。
演劇を演じるアニメキャラクター。そして、そのアニメキャラクターを演じる声優たち。彼女たちが物語の中心と外側を行き来する構造を意識すると、それぞれの立場が交流可能であることが際立って見えてきます。
人はみな観客であり、演者であり、主人公にもなりうる。このメッセージは、むつたちをスクールアイドルとして受け入れる千歌たちのオープンな姿勢にも通底しています。
劇中でAqoursが演じることで生じるデメリットもあります。
演劇とは基本的に、演者と観客があいだに何も介さず、面と向かって行われる芸術です。今、目の前に確かに存在する人が、まったく異なる時間・場所の、別の誰かを演じるのですから、ひと目で嘘だとわかってしまう。観客がそれを嘘だと笑い飛ばさずに信じることで初めて成立するのです。
アニメのなかの劇中劇として演劇を行うと、明らかな嘘(絵に描かれた嘘=アニメーション)のうえにもうひとつの明らかな嘘(ある人間が自分とは異なるものを演じる=演劇)が重なってしまう。その二重の嘘を信じるのはなかなか難しいことです。
とはいえ、このように層のように重なった嘘で描かれる物語を、ラブライバーたちはずっと信じ、支えてきたのでした。声優ユニットとしてのμ'sあるいはAqoursが現実のステージで歌い踊るとき、ラブライバーはそこに、二次元のなかのμ's/Aqoursの姿を垣間見ます。バックスクリーンに映し出されているアニメの映像は現実ではなく、ステージの上の声優たちもまた二次元のなかの存在とは全く異なるということがわかっている。わかっているけれども、その両者を意図的に混同することでこそ生じる感動をラブライバーは知っている。
もしかしたら、13話でこのような虚構性の高いシーンを描くことを決めたとき、演出家たちは、観る側がその嘘を信じてくれること、物語をともに支えてくれることに賭けたのかもしれません。
■ひらかれた物語
わたしは、13話の脚本と演出は一貫して、むつたち浦の星女学院の生徒たちを「十人目」のメンバーともいうべき存在としてAqoursに迎え入れることを目的に、組み立てられているのだとみています。
13話の放映以降、ネット上で、こうした作り手の考え方に異をとなえる意見を多く目にしました。
これらが単に演出や脚本の技術的な力不足や作家性の暴走によるものだとしているような意見もあるようですが、わたしの見たところではそれは違う。確かに、いくつかの不自然な部分が生じてしまってはいます。しかし作り手たちはその瑕疵よりも、十人目を受け入れるということのほうを優先させた。重要なのは技術の問題ではなく、考え方の違いです。
「十人目」を受け入れたAqoursは、13話の最後に念願の「1」を手に入れます。
直接には描かれませんが、それは、Aqoursでも浦の星女学院の生徒でもない、名も知れない中学生が、学校説明会への参加申し込みを行った、ということです。
Aqoursがむつたち「十人目」を受け入れて、自分たちの輝きをむつたちへと分けて届ける。その輝きが、これまで届くことのなかった遠くの誰かへとようやく到達する。
輝きを九人のなかに閉じ込めておくのではなく、外へ向けてひらくことで、より遠くの人と繋がることができる。
13話が伝えようとしたのは、そのようなことなのだとわたしは思います。
『サンシャイン!!』がこのように、他者に対して開かれること、来るものを拒まないこと、といったことを強く打ち出すことには、作品そのものの成立に関わる大きな理由があると思います。
『サンシャイン!!』は静岡県の沼津・内浦を主な舞台としています。
前作『ラブライブ!』において、秋葉原が物語の舞台であることは、実際にそこで暮らす人々とのつながりより、秋葉原のアニメ文化・アイドル文化とのつながりを強く意識していたように思います。二次元の美少女を愛好する人々の聖地であり、また現在のアイドルブームの発火点のひとつであるAKBグループの本拠地でもある秋葉原は、スクールアイドルなる架空の存在が活躍する架空の学校の背景として、インパクトと説得力を与えてくれる絶好の土地でした。
公野櫻子による『School Idol Diary』では神田・秋葉原への憧憬を伺わせる表現が頻出していますし、アニメ一期・劇場版では南ことりや星空凛が秋葉原の魅力に言及していますが、いずれにせよそれらはもともとある秋葉原という土地のストックから何かを引き出すという方向であって、作品が土地に影響を与えるという方向の接し方ではなかった*5。
『サンシャイン!!』においては、沼津・内浦と作品は双方向に繋がっています*6。劇中の浦の星女学院と同様、内浦や沼津の行政や商業に関わる方々は、人を集めることに苦慮しているでしょう。人がいない、人がやってこない、という悩みは、日本の地方が普遍的に抱える課題です。地元の人たちは少なからず、Aqoursや浦の星女学院の生徒たちに自分を重ねながら、作品と関わっているのではないか。
『サンシャイン!!』という物語は、そんな沼津・内浦と協力し、聖地巡礼というメディアミックス展開先の一つを獲得し*7、同時に、地元へ経済・文化両面での影響を与えています。
『サンシャイン!!』という作品自体が、劇中のAqoursのように沼津・内浦の人たちに影響を与え、また反応されている構図は、Aqoursと浦の星女学院の生徒たちとの関係に重なります。
アニメの聖地巡礼によって多数の観光客を受け入れた土地が、次第に、みずから作品を積極的に受け入れ始め、作品にまつわる商材やイベントを生み出していくようになる例は多数あります。沼津・内浦でもそうした動きは始まっている。それは、「わたしたちも一緒に、なにかできること、あるんじゃないかな」と言ったむつたちの行動と同じではないでしょうか。ならば、『サンシャイン!!』はそうした人たちに対してひらかれていなければならない。実在の土地と深く関わる作品である以上、これは避けられないことなのです。
『サンシャイン!!』がひらかれていることのもう一つの理由、それは、Aqoursにあります。Aqoursもそもそも、μ'sによって作られた『ラブライブ!』という物語がそれ単体で終わらずに、新たな物語を生み出そうとしたこと=ひらかれていたことによってようやく成立できる存在だからです。
かつて『サンシャイン!!』のプロジェクト開始が発表された際、多くの人が、見慣れぬ高海千歌というキャラクターが『ラブライブ!』の物語に名を連ねることについて違和感を抱いたはずです。いきなり登場したキャラクターが、何年もかけて活動してきたμ'sと名を並べるなんて…という空気が確かにあった。それでも多くの人が、高海千歌の未来をわずかでも信じたから、いまのAqoursがある。あのとき、極端なバッシングが大勢を占めていたならば、いまのAqoursは存在しないかもしれない。
わたしには、13話の終盤、ステージの脇でサイリウムを振り上げるむつたちの姿は、あの、砂浜に一人立って腕を高く掲げる高海千歌と同じような存在に思えます。それを否定したら、Aqoursのはじまりをも否定することになってしまうように思えるのです。
■九人の物語、君の物語
13話のラストに描かれるのは、砂浜にいるAqoursたちの姿です。
Aqoursは九人に戻っています。一時的に他者と輝きを分かち合い、かつ他者の力を借りた彼女たちは、再びもとの九人に戻る。
大人数でのライブから、再び九人だけに戻る。わたしは、『ラブライブ! School Idol Movie』の終盤、『Sunny Day Song』から『僕たちはひとつの光』への展開を思い出しました。あのときのμ'sは、その輝きがいかに特別で唯一無二であるかを観るものの目に焼き付けて、彼女たちの物語の幕を閉じました。
Aqoursの場合はまったく逆です。彼女たちが13話の最後で立つのは、Aqoursとしてのスタートラインです。砂浜に横並びで立つ九人はプロジェクト開始時に公開されたグラビアそっくりですし、一番最後のせりふはファーストシングルのタイトルそのものです。
13話かけてまたスタート地点に立つなんて、虚しいでしょうか? いやいや、おそらく話は逆なのです。こうしなければAqoursは始まれなかった。13話をかけて解きほぐし、立ち向かっていなければならないほどに、μ'sが、そしてμ'sが広めたスクールアイドルがAqoursに引き継いだものは巨大だった*8。
その、引き継いでしまったあまりに大きなものを、自分のものとして受け止める。そして他人に輝きを引き継ぐことで、輝きを引き継いで始まった自分たち自身の物語を肯定する。
振り返ってみれば、これまでの物語の随所に、影響を相互に与えあう人々の関係が露わになっていくドラマがありました。
花丸はルビィがスクールアイドルになりたいという気持ちを後押ししますが、ルビィもまた、花丸がスクールアイドルの経験を経て自分を解放させていることを指摘します。曜は千歌の気持ちを気にするあまりに自分を否定してしまうようになりますが、千歌もまた自分のことを考えていてくれていることを知り、心の平穏を取り戻します。
果南・ダイヤ・鞠莉の三年生は、相互に思いあい、影響しあっているからこそ複雑に絡み合ってしまった人間関係のなかで停滞していました。しかしその停滞がほどけ、思いが行き交ったとき、彼女たちは爆発的にやさしく、いとおしく思えるものに変化する。
誰かからもらったものを誰かに返すこと。あるいは、そうした思いを一方向で終わらせず、互いに交換しあうこと。
一周まわってもとに戻ったように思われるAqoursがおこなってきたのは、そのようなことだったのではないでしょうか。
μ'sから自由になり、輝きを他者に分け与えたAqoursの物語は、この言葉で幕を閉じました。
かなえてみせるよ、わたしたちの物語を
この輝きで!
君のこころは輝いてるかい?
『ラブライブ!』のテーマといえば、「みんなで叶える物語」です。
が、この最後の言葉において、「みんな」は「わたしたち」と「君」の二つに分けられている。
ここでAqoursは、Aqoursと自己を同一視したい視聴者/ラブライバーとのあいだに一線を引いています。「みんな」という言葉をもちいて、ファンと、演じるもの、創るもの、そしてフィクション内のキャラクターをすべてひとつにまとめてきた『ラブライブ!』らしからぬ演出だ、と言えるかもしれません。
彼女たちは問いかけてきます。「君のこころは輝いてるかい」。
それはこのような問いなのではないでしょうか。
μ'sから受け取ったものを、自分のものとして輝かせる。そしてまた、他者へ引き継ぐ。「君」、すなわちラブライバーのひとびとに、それは可能だろうか。アニメのなかでそれを実現させたAqoursに、そう問われているのではないか。
「君」と「わたしたち」のあいだに緊張をはらんで、『ラブライブ!サンシャイン!!』はまた新たな道のりを進み始めました。
わたしは、「君のこころは輝いてるかい」という言葉を、その道のりをゆく鼓舞として、あるいは共闘の呼びかけとして、受け止めたいと思います*9。こんな気持ちにさせてくれた13話が、わたしは好きです。