千歌の特別な人
Aqoursの1stシングル『君のこころは輝いてるかい』は、聴くもののなかに様々な感動を呼び起こしてくれます。そのなかでもわたしにとってもっとも印象深いのは、楽曲のクライマックスで高海千歌(伊波杏樹)と桜内梨子(逢田梨香子)のふたりがサビを歌う部分です。
PVでは、内浦でスクールアイドル活動を始める千歌に、遠く音ノ木坂学院からやってきた梨子が出会い、ともに歌うにいたる物語が描かれています。その物語の頂点、ついにふたりがひとつになれる瞬間が楽曲の大サビで示されているわけです。
わたしの記憶では、それまでの『ラブライブ!』の楽曲、すなわちμ'sの楽曲において、ふたりのメンバーが大サビを歌うものはなかったように思います*1。大サビを歌い上げるのはもっぱら、高坂穂乃果の役割でした。もちろん楽曲によって他のメンバーがセンターポジションを担うことはありましたが、それは臨時のものという位置づけだったように思います。とくに、わたしがリアルタイムで深く親しんだアニメ二期以降の、μ'sにとっての節目になるような楽曲ではそうした雰囲気が濃厚にあった。
μ'sのセンターポジションに堂々と立ち続ける穂乃果といえど、『ラブライブ! School Idol Movie』でも改めて描かれたように、その中身は頼りない、世間知らずの十代の人間です。それでも(あるいはそれゆえに)、μ'sの輝きの核となる楽曲の大サビは、彼女一人によって担われてきた。穂乃果一点に様々なものが集中する傾向は楽曲だけではありません。アニメ一期・二期の物語も、彼女が中心にいた。あるいは、彼女が物語を前進させた。
それがリーダーたるものの務めであると言ってしまえばそれまでですし、それはその重責を背負える穂乃果(と彼女を演じる新田恵海)の強さを示しているということもわかる。でも、そんな辛いことってあるか、とわたしは思ってしまいます。一人でぜんぶ背負わなくたっていいじゃないか。
だから、1stシングルというAqoursにとってこの上なく重要な楽曲である『君のこころは輝いてるかい』の大サビが千歌と梨子のふたりによって歌われているのを聴いたとき、わたしはようやく穂乃果の背負ってきた荷物が軽くなったように思ったのです。穂乃果の背負ってきたものを引き継いで音ノ木坂からやってきた梨子が千歌に出会う。そしてその引き継いだものを、二人でともに背負っていく、というイメージ。
Aqoursの物語は、リーダーの千歌だけがすべてを背負うようなものにはならない。梨子が千歌と二人で背負っていく、そのような物語になるのだ、と期待したのです。
実際、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメの物語は、千歌と梨子をひとつの核として展開されていきます。
普通である自分からの脱却を目指し、Aqours結成の口火を切る千歌に対し、梨子は自身の才能の行き詰まりを契機に内浦を訪れ、Aqoursに参加します。
千歌は、地方の内浦で、μ'sが象徴する「輝き」を求めてスクールアイドルを始める。いっぽう梨子は、秋葉原には決して存在しない「海」の音を聴くために内浦へやってくる*2。
秋葉原と内浦。外の街で輝く光と、海の中で響く音。千歌と梨子に関連付けられるキーワード、行動や背景は、いつもセットになっている。それぞれのもつイメージは対照的で、美しい。『ラブライブ!サンシャイン!!』という大きな物語のなかで並走する二つの要素として、よくできています。
二人は、互いの物語を動かす役割も担います。千歌は梨子をスクールアイドル活動にいざない、それまで彼女が聴けなかった「音」を聴かせる。一方梨子は、東京でのイベント後の千歌から、渡辺曜すら引き出せなかった「くやしい」という本心を引き出すことに成功します。
家が隣り合い、ベランダ越しで言葉をやり取りする彼女たちの姿は、『赤毛のアン』のアン・シャーリーとダイアナ・バリーにさかのぼる、少女たちの友情の古典的なスタイルを思わせます。二人のみせる友情の物語の輝きは、アンとダイアナに影響された幾多の青春物語の系譜に並べても遜色ないでしょう。2話のベランダのシーンや、8話の浅瀬でのシーンなど、二人だけの名シーンにも事欠きません。そもそも、Aqoursの9人のなかで、二人だけ家が隣り合っているというだけで、梨子と千歌は特別な組み合わせといえるはずです。
梨子が同人誌を買う理由
しかし最終的に、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、梨子と千歌の物語として決着することはありません。
1stシングル以降、千歌と梨子がダブルでセンターを担う楽曲はないし、物語の後半、千歌と梨子の組み合わせは少しずつ解体されていく。
7話、東京・秋葉原に出かけたAqoursは各々の趣味に沿った買い物を満喫します。そのなかで、梨子はたまたま見つけた「女性向同人誌専門店 オトメアン」なる店で、同人誌を購入しています。梨子が手に取っているのは、女性同士の恋愛物語を扱ったもののようです。本作における「女性向同人誌」にまつわる表現については慎重な検討が必要でしょうが、ここではひとまず措いておきます*3。ここで注目したいのは、梨子が女性同士の関係をフィクション(物語)として楽しむ人間になった、ということです。
物語内人物が、物語のなかで物語に親しむ、ということは様々な性質をその人物に付与することになります。さすがに梨子が極端なメタ的視点を持つことはないのですが*4、オタク的に描かれる梨子のさまは、千歌と自分の関係を含め、俯瞰的な視点を彼女が獲得しているように受け取れます。彼女によるコメディ描写が、シリーズ前半では犬のしいたけとのやり取りだったのに対し、後半では同人誌関連に切り替わっていき、最終的には千歌の母親をまじえた、自分のかわいさをわかっている(自分と千歌の関係の可能性を理解している)くだりになる、というのもおもしろい変化です。
もともと、千歌や内浦・沼津出身の人々に対するよそものとしてツッコミ役的な挙動を頻繁に行っていた梨子ではありますが、「女性向同人誌」に親しむことで彼女は明確に「自分たちの関係を外部から見ることができる」という性質を獲得することになる*5。
東京遠征後、梨子は千歌との関係を深めていくものの、それと比例するように、「女性向同人誌」へもいっそう傾倒していきます。彼女と千歌の関係がひとつの頂点を迎えるのが、千歌によってピアノコンクールへの参加を促される10話のラストですが、その後12話で東京を再訪した千歌が再会する梨子は、きわめて大量の同人誌を購入しています。
梨子と千歌の親密さは、渡辺曜を中心に描く第11話『友情ヨーソロー』において決定的に解体されます。千歌との関係に思い悩む渡辺曜に、梨子は自ら曜に電話をかけ、自分と千歌との間にはなく、千歌と曜の間にしか存在しないものについて語る。
ここで彼女がしているのは、人間関係の調整役です。自分もその渦中にいながら、冷静に曜の抱える屈託を把握し、千歌と自分、千歌と曜の関係を比較して分析してみせている。結果、曜と梨子、千歌の三人の関係が結び直され、梨子と千歌の特別さは後退します。
11話のラストで、彼女たちはこのような言葉を口にします。
梨子「わたしや曜ちゃんや、普通のみんなが集まって。一人じゃとてもつくれない、大きな輝きをつくる。その輝きが、学校や、聞いてる人に広がっていく。つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルのなかにみつけた、輝きなんだ」
彼女たちの個人的な人間関係の悩みは、スクールアイドルAqoursのあるべき姿を考えることで解消されていく。
この問題の変換は、あきらかに物語の運びに歪みをもたらしています。わたしが「渡辺さんはそれでいいんですか」*6と思ったように、終盤の展開をじゅうぶんに受け止められない視聴者が多かった原因のひとつは、この歪みにあるように思える。そのような危ういことをなぜ行ったのか?
それは、おそらくそこに『ラブライブ!』という物語の重要なルールが存在するからです。
『ラブライブ!』のメインテーマは「みんなで叶える物語」です。ここでいう「みんな」は、「ファンと作り手」「二次元と三次元」などの垣根を取り払い、作品に関わる人すべてが物語に参加していくイメージを指していると思われます。『ラブライブ!』に関わるのなら、どの立場の人も物語にとって重要な存在である、というコンセプトが込められているとみていいでしょう。
このコンセプトは、物語の内部に対しても適用されます。京極尚彦は『ラブライブ!』アニメ化に際し、μ'sの「9人が絶対必要なお話じゃなきゃいけないと、脚本の花田(十輝)さんにはずっとお願いしてい」たといいます*7。もちろん『サンシャイン!!』においては京極尚彦から酒井和男へと監督がバトンタッチされていますが、「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズは作品の様々なところで提示されていますし、この考え方は継承されていると考えてよいでしょう。
集団内の個人を対等に扱うには、個人どうしの関係性についても対等に扱わなければなりません。ある特定の人物たちの関係性が、物語のなかで大きくなりすぎてはいけないのです。μ'sにおいては、希と絵里、凛と花陽といった明らかに他のメンバーとは異なる深い関係性を結んでいる二人組がいるものの、その関係はμ'sの大きな物語とは深く関わりません*8。
すでに見てきたとおり、『ラブライブ!サンシャイン!!』において、梨子と千歌の二人によって大きな物語が動く瞬間は複数存在します。これ以上に梨子と千歌が特別な関係になってしまっては、全体のバランスが崩れてしまう。それでは、Aqoursの物語ではなく、梨子と千歌の物語になってしまうのです。それは「みんなで叶える物語」ではない。
聴こえないけれど聴こえる
では梨子は特別な存在ではないのか。
梨子と(あるいは曜と)千歌との間に縮めてはならない距離が定められているのなら、それは孤独と同じではないのか。高海千歌は高坂穂乃果と同様に、一人で孤独に歌う存在なのか。
思うに、問題はそういうことではない、というのが『ラブライブ!サンシャイン!!』からの回答ではないでしょうか。
どういうことか。
11話、梨子と曜と千歌の三者のあいだは均等に調整されます。
千歌との間に距離を感じていた曜は、予備予選のステージで、彼女とペアになってパフォーマンスを行う。いっぽうそれまでもっとも千歌と距離が近いように思われていた梨子は、予備予選のステージには立たず、遠く東京で一人、ピアノコンクールに出場する。
しかし、予備予選とピアノコンクールの二つのパフォーマンスは、ひとつのステージ上で行われているかのように演出されています。物理的には曜のほうが梨子よりも千歌の近くにいるけれども、アニメーションの演出によってその距離は無効化される。
予備予選の楽曲『想いよひとつになれ』で、梨子の声を聴くことはできません。しかしそもそも、このとき演奏されるピアノ曲『海に還るもの』、そしてAqoursの『想いよひとつになれ』の原型となった内浦の「海の音」は、実際に聴こえるのではなく、心でイメージされるものとして示されていたのでした*9。ここでの梨子の声は、「聴こえないけれど聴こえる音」としてそこにある。
だから、不在の梨子は、それでも確かに千歌と同時に歌を歌っている。
物理的には曜が一番近く、観念的には梨子が一番近い。そのふたりに、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、優劣の順位をつけません。「想い」は「ひとつ」であるから。きわめてアクロバティックなやりかたで、梨子と曜のふたりが同時に千歌にとっての特別な存在になりえている。
それでも、とこのアクロバティックなロジックに疑いを差し挟む余地は、12話で完全に消し去られます。音ノ木坂学院を訪れたAqoursは、μ'sが自分たちの痕跡をすべて消していったことを知る。劇中の完全なμ'sの不在は、現実の2016年4月1日以降のわたしたちが日々感じる喪失感と同じです。それでも、きれいにその活動の幕を閉じたμ'sを、誰より大きく感じていることを、ラブライバーなら誰でもその心をもって知っているはずです。
同じステージに立たない梨子、そして完全にその痕跡を消したμ's。
かれらは、千歌のもとを離れることで、このようなことを示してくれています。不在であることは無ではない。千歌は一人で歌っていても孤独ではない。
梨子が教えてくれること
梨子と千歌がお互いだけの特別な存在になれるときはくるのでしょうか。あるいは、なぜここまでAqoursの物語は9人全員が等しく特別であることが求められるのでしょうか?
わたしはずいぶん長いことこの点について考え込んでいたのですが、今日、12月27日になってようやく自分のなかでの答えが見いだせたように思います。
ひとつめのヒントは、今日27日発売の『電撃G's Magazine』2017年2月号です。東條希と絢瀬絵里が神前結婚式を挙げている(ようにしかみえない)グラビアが掲載されたのです*10。
もともと深い関係を結んでいた希と絵里ではありましたが、このように決定的なヴィジュアルが発表になったのは初めてではないでしょうか。
これは、すでに現実世界でのμ'sが活動を一区切りし、μ'sの大きな物語に幕が引かれた現在だからこそ可能な出来事であるように思えます。
千歌と梨子の関係が、希と絵里のそれに比肩しうるかどうかはわかりません。でももしかしたら、Aqoursがいつの日か彼女たちの大きな物語を終えたとき、二人は二人だけの関係を結ぶことができるかもしれない。ならば、いまはまだAqours九人の対等な特別さのままでいてもいいんじゃないだろうか。
もう一つのヒントは、ほかでもない今日、12月27日に豊洲PITで行われたAqoursのライブイベント「ラブライブ!サンシャイン!!Aqours冬休み課外活動」です。
というか、イベントそのものというよりは、このイベントをどう受け取るか、というファンの側のことです。
わたしは豊洲PITに行くことができませんでした。仕事が終わったあと、映像配信サービスで画面越しに観ることしかできない。
ではわたしは、会場に行けないわたしは、Aqoursの「みんなで叶える物語」の「みんな」には含まれないのでしょうか。
Twitterを開けば、わたしと同じく、今日のイベントに参加できない人たちの嘆きの声をたくさん見つけることができます。わたし同様に抽選に外れた人。東京から遠くはなれた場所で暮らす、遠征のための時間もお金もない人。あるいは、みごとに入場チケット抽選に当たったにもかかわらず、急な仕事のために自分を犠牲にせざるをえない人。
かれらと、会場の豊洲PITに入場できた人たちに、ファンとしての優劣はあるでしょうか。
パフォーマンスを肉眼で見れたかどうか、肌で会場の空気を感じ取れたかどうか。それはたしかに物理的な違いとして明確に存在する。それはとても特別な経験です。今日、豊洲PITでAqoursの姿を目撃した人たちは、その場でしか結べない関係をAqoursとのあいだに結んだ。それは確かです。
けれども、千歌と同じステージに立たない梨子が、千歌のすぐとなりにいる曜と同じ関係を千歌と結べるのならば、豊洲PITにいなかったわたしたちもまた、会場にいる人たちと同様に、Aqoursとの関係を結べると信じてもいいのではないか。
梨子が自分の音楽を奏でるためにピアノコンクールのステージに立ったように、わたしたちはそれぞれのステージに立って自分の音を響かせることで、自分なりの関係をAqoursとのあいだに結ぶことができるのではないか?
不遜を承知で言います(ちょっぴり狂人じみていることも承知で)。
物語やコンテンツの定石を外して、歪みすら生み出して守られる「みんなで叶える物語」のルールは、もしかしたら、そのような希望をわたしたちが抱くためにあるのではないか。
もしそのような考えを抱くことが許されるなら、Aqoursとは遠く離れた場所に立っているとしても、11話の梨子のように、輝きをつかむことができるかもしれない。
すばらしいライブの映像を観てざわつく心を鎮めるために、今日くらいはこの偏った考えを胸に抱いていてもいいのではないか、といまのわたしは考えています。