こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『六月生まれのスクールアイドル』

 六月に生まれた二人のスクールアイドルのことを思って書きました。


『六月生まれのスクールアイドル』

■六月九日

 理事長室の扉を開いたとき、鞠莉は机に座って窓の外を眺めていた。
 手元には何かの資料らしき紙の束があった。右の手でその開いたページを押さえて、鞠莉は遠くを見ている。
「いやな季節ね」
 こちらを見ないで鞠莉は言った。
「空と海の境がわからないの」
 まだ梅雨は始まっていない。空は果なく続く灰色の雲に覆われていた。今夜は降るかもしれない。
「来週の、この」
 私は手元のオフホワイトの封筒を振って、
「ご招待は残念ながら受けられませんわ」
 鞠莉は黙っていた。
 指が少しだけ動いて、資料の紙がかさりとこすれた。
 ぐるん、と椅子を派手に回して鞠莉はこちらに向き直る。
「ちょっと見てよー、ダイヤ」
 急激にオーバーになる身振り。高くなる声。
「これさー、今日会社の人が持ってきたの。まったくオオギョウな」
 資料をくるりと手元で回し、私のほうから字が読めるようにする。
 『浦の星女学院 再生案』という見出しが目に入った。
「まず間違いなくお母様の差し金。会社の人達が慌てて作ったのがバレバレよ。悪くないけど、肩に力が入りすぎ」
 ほら見て、と鞠莉は資料を差し出す。私はざっと目を通す。
 前半は、昨年度までの浦の星女学院の概要をまとめている。周辺地域の十五歳人口は下がる一方。教職員は高齢化し、施設は老朽化、後援会の所属人数も減っていく。通学のための交通機関も存続が危うい。
 私たちが三年になるまで学校が続いたことが、不思議に思えてくるくらいの状況。
 後半では、そんな浦の星のどこに資本を使い、入学希望者を増やすかが語られる。資料の作成者たちが選んだのは、全寮制で世界標準のハイレベルな教育を得られるハイパーエリート校に生まれ変わらせる、という方策だ。ITや語学など、特定の教育分野に集中してお金と人をつぎ込むことで、地方にあっても全国から優秀な生徒を集めることに成功したいくつもの事例が紹介されている。
「でも、わたしがしたいのはそういうことじゃないんだよね~」
 鞠莉は両の手のひらをあげて、お手上げ、というポーズを作ってみせる。
「国中から生徒が集まるようなエリートの学校になったら、名家の気弱な次女だとか、隣町の中学校にいづらくなった不思議ちゃんが出会えるような学校じゃなくなっちゃうじゃない」
 名前をあげずとも、つい最近、この学校で素敵な出会いを果たした後輩たちの話をしていることがわかる。
 私は頭のなかで鞠莉の言葉に付け足す。あるいは、地元の零細ダイバーズショップの娘と、世界的なホテルグループのお嬢様が、一緒に通えるような学校でもなくなる。
「世界、日本、東海地方、そんな大きなスケールは考えない。沼津で、みんなが行きたいなって思える学校にする。そのためのスクールアイドル。この戦略は、間違っていないとわたしはおもう。
 こっちにだって成功事例はあるんだから」
 こんなの余計なのよ、言いながら資料を閉じて、ばさん、と乱暴に引き出しに放り込む。
「十三日のことだってさ」
 学校の話――ビジネスの話――の延長のように鞠莉は言う。
「私ももっと慎ましくお祝いしてもらいたかったのよ? なのにお父様ったら、最近建てた品川の新しいホテルを会場に決めちゃって。
 海外VIP向けのゴージャスなペントハウスなんですって。そりゃ仕事関連の人のウケはいいでしょうけど、品川じゃあ内浦のみんなも来れないよね」
 私は自分の用事に話が戻ったのを幸いに、言葉を引き取る。
「ええ、ごめんなさい。私も行けそうにありません」
「わかってるわかってる。気にしないで~」
 くるりと椅子を再び回す。窓を見て、
「曜ちゃんの誕生日、楽しそうだったわね~。四月のさ。ダイヤも見たでしょ? Aqoursのブログ」
 渡辺曜の誕生日は四月十七日だった。
 まだその時点では、浦の星女学院に新たに作られたスクールアイドルグループ・Aqoursは、二年生の三人だけだった。残りの二人、高海千歌桜内梨子は、放課後、千歌の家でお祝いをしてあげたそうだ。手作りのケーキ、慎ましいけれど心のこもったプレゼント。笑顔の三人を写した写真が何枚か、ブログにアップされていた。
「ほほえましかったですね」
「部屋の飾りつけ、曜ちゃんが海好きだからって大漁旗を使うのは正直ないよね~」
「でも、渡辺さん、とても嬉しそうでしたわ」
「けっきょく三人でお泊りしちゃったんでしょ? まったく、まるで――」
 まるで。
 鞠莉はそのまま、黙ってしまう。私も何も言わない。何と言いかけたか、訊かずともよくわかったからだ。
 まるで私たちみたい。
 ――二年前、私たちも同じことをした。
 鞠莉の誕生日、六月十三日に、何日も前から私と果南は用意周到に準備を進めた。果南が自分でケーキを作ると言い出して、松月のお姉さんにレシピを教えてもらったにも関わらず、クリームは甘すぎたしスポンジケーキは焦げていた(オーブンの温度調整を間違えたのは私だ)。
 それでも鞠莉は喜んでくれた。涙をこぼしそうにしながら。
 あの夜、彼女は言った。私はいつまでも二人と一緒にいたい。二人と一緒にスクールアイドルをがんばって、浦の星女学院がいつまでも続くようにする。何年も何年も先の後輩たちが、私たちみたいな素敵な学校生活を送れるように。
「そういえばさ、ダイヤ」
 遠い昔の記憶にとらわれて、何も言えないでいた私に、鞠莉は理事長席の向こうから訊ねた。
「μ'sってバースデイイベントのたぐいはしていたのかしら」
「――確か、矢澤にこの誕生日から行うようになったはずです。彼女は七月の生まれでしたから、μ'sが九人揃って初めて行った校内ライブと近いタイミングで、ちょうどよかったのでしょう」
 それじゃあ――と鞠莉は机の上の手帳をめくった。
「一年の津島善子ちゃんが来月の生まれね。ナイスタイミング!スケジュールに組み込んでおくよう、千歌に言っておかなくちゃ」
「μ'sをお手本にしているのですね」
「まあね。成功する人達にはそれなりの理由がある。もちろんμ'sとわたしたちは別人だけど、いいところは真似して損はないはずだよ」
「それはそうかもしれませんけど。でも、スクールアイドルとして人の心をつかむには、誰かの真似ばかりでは――」
「さっきのレポートの後半、見たでしょう? たくさんの成功事例。人を説得するには、先に成功した見本が必要なの。お金や決断できる権利を持っている人に、『こんなにうまくいっているんですからあなたも安心して』、そう言って説得するのよ。そういう意味でも、μ'sは「使える」」
 さきほど資料を投げ込んだ引き出しから、別のファイルを取り出してみせる。高坂穂乃果を始めとしたμ'sのプロフィール、大まかな活動の履歴。
「ダイヤほどじゃないけど、わたしなりに真面目に色々調べてもいるのよ。μ'sはどんな人たちで、どんなふうに活動していたのか。そこを考えていけば、μ'sみたいに人気を獲得できるはず。前は、ダイヤと果南に言われたとおりやっていればよかったけど、今は違うから」
 μ'sをビジネスの道具みたいに扱わないで、そう言いかけた私は、鞠莉の皮肉めいた言葉に口をつむぐしかない。
「あら、今日は誰かの誕生日だったみたい。ええと……ヒガシ……」
「とうじょうのぞみ」
「ふむふむ、この人も三年ね。七月、アヤセエリにつづいて最後に加入、と」
 顔をあげて、私に屈託のない笑顔を向ける。
「ほらね。二年、一年、最後に三年生。Aqoursもμ'sと同じ」
 ――そうだ、この人はあくまで、自分もAqoursに戻るつもりなんだ。
 たぶん、果南も私も戻ると思っている。さきほど、彼女がAqoursのことを「わたしたち」と呼んでいたことを思い出す。
「お手本の希さんも、誕生日はまだ一人だったのね。なら、わたしもだいじょうぶ」
 でしょ?
 鞠莉は私の顔を、見上げるように覗き込む。目と目が合う。
 笑顔だけれど、彼女が私に何を求めているのか、私にはわからなかった。
 私は必死に、何か、言葉を口にするための勇気を自分の中に探す。
「……なんてね!」
 おどけて言って、鞠莉は目をそらした。
「大丈夫よダイヤ、Aqoursはきっとμ'sみたいになれる」
 つぶやいて、くるりと椅子を向こうへ回す。
「十三日のこと、わざわざどうも」
 会話は終わり。そういう響きの言葉だった。
「どういたしまして」
 私は頭を軽く下げた。そのまま身をかえして、部屋を出る。
 扉を閉めるときまで、鞠莉はそのままの姿勢でいた。視線は窓の外のまま。
 窓は淡島の方向に向いていた。


■六月十三日

<二〇一三年七月 μ's 第三回学内ライブ/撮影者:同級生有志>

(中規模の教室。黒板にチョークで、ライブタイトルやイラストがカラフルに描かれている。その手前、教壇や机を移動して開けた空間がステージのかわりだ。楽曲のアウトロが終わり、決めポーズをとったμ'sの九人がほっとした表情でもとの姿勢に戻る。盛んな拍手と歓声が客席から投げかけられる。特に、絢瀬絵里を対象とした歓声が目立つ)
高坂穂乃果、ステージ中央に進み出てくる)
穂乃果「絵里ちゃん人気、すごいね……」
(穂乃果の後ろで、ありがとね、と小さく言って絢瀬絵里が手を振る。再び歓声)
穂乃果「ではここで、本日二つ目のスペシャルコーナーです!先ほどは、七月生まれの矢澤にこちゃんのお誕生日をみんなでお祝いしたわけですけれども!」
矢澤にこ「やーん、みんなありがとー!!にこ、まだ感動で泣いちゃいそうで~す」(矢澤にこ、笑顔を振りまきながら穂乃果の横に並ぶ)
(会場笑う)
にこ「笑うところじゃないにこー」
穂乃果「ま、まあまあ……でも、私たちがこうして九人になる前に、誕生日が終わってしまったメンバーがいるんです!」
にこ「そんな、にこ、誕生日をお祝いされないかわいそうな子がいるなんて耐えられないよ~!」
穂乃果「というわけで!再びのサプライズ!!六月九日生まれの東條希ちゃん、おめでとうございまーす!!」
(カメラ、東條希に寄る。驚いた表情の希)
希「ふぇっ、う、うち?」
にこ「一ヶ月遅れちゃったけど、みんなでお祝いしてあげる!」
希「え、ええんよ、うちはそんな、だって先月のことやし、うちはμ'sに入ったばかりなんやし」
穂乃果「いいからいいから!」
にこ「そうそう、素直に祝われなさーい」
(でも、と渋る希に、脇から西木野真姫が声をかける)
真姫「早くしなさいよ。あなたが祝われなきゃ、四月生まれの私も祝われないでしょ」
にこ「ちょっとあんた、なんでこの後の段取り知ってるのよ」
真姫「だってさっき、穂乃果さんが、私たちのプレゼントを用意してるの見ちゃったから」
にこ「な、なんですって~」
穂乃果「ご、ごめんね……」
(客席笑う)
穂乃果「このサプライズアイディアはにこちゃん発案なんだ。自分も祝われる側なのに、真姫ちゃんと希ちゃんの誕生日を私に教えて、二人も祝われなきゃいやだ、って」
希「にこっち……」
絵里「意外と優しいのね」
にこ「そ、そういう舞台裏はいいから!ほら穂乃果、進めなさいよ!」
穂乃果「は、はい!えーと、改めて、六月九日生まれの希ちゃん、そして四月十九日生まれの西木野真姫ちゃんをお祝いしたいと思います!」
にこ「ほら、ふたりとも、こっちこっち」
西木野真姫、ありがとうございます、と言って前に進み出る)
穂乃果「希ちゃんもほらほら、前に来て」
(絵里、希の背中を押す)
希「もー、えりちまで」
(希、真姫の横に立つ。かしこまった表情、少しだけ背中が小さくなっている。
 穂乃果が二人に向かって話し始める)
穂乃果「真姫ちゃんも希ちゃんも、誕生日からだいぶ経っちゃったけど……でも私、ちゃんと伝えたかったんです。こうやって、同じ学校に来て、スクールアイドルになってくれて、歌を、ダンスを一緒にやっている仲間に。大好きな仲間に、おめでとうって言いたかったんだ!!
 だってわたし、真姫ちゃんも希ちゃんも、大好きだもん!」
(わあっ、と一際大きく客席がわく。
 拍手と歓声のなか、舞台袖に隠してあったプレゼントボックスを、園田海未南ことりが持ってくる。真姫と希にボックスを渡す二人。ピンクと紫に飾り付けられた箱を抱えた真姫と希に、客席から更に大きな拍手が送られる)
真姫「あ、あの、ありがとうございます」
希「穂乃果ちゃん、にこっち、みんな、ありがとう……」
海未「希さんに喜んでもらえてうれしいです。みんな、あなたのことが大好きなんですから」
ことり「真姫ちゃんのことも、にこちゃんのこともね。好きな人の誕生日をお祝いしたいって思うのは、当然だよ!」
真姫「ふぁっ、ちょっとあんた、何泣いてるのよ」
(希、目元をぬぐう)
凛「あっ、真姫ちゃんも目が赤くなってきたにゃー」
真姫「泣いてないし!」
花陽「もらい泣きしちゃうよお……」
凛「か、かよちんも!?」
穂乃果「それでは会場のみなさんもご一緒に!」
(ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、とμ'sが歌い出す。客席が続く。希と真姫、目と顔を少し赤くしながら、歌に加わる)
「「「ハッピー・バースデイ・ディア・希ちゃんと真姫ちゃん! ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー!!!」」」
穂乃果「にこちゃん、希ちゃん、真姫ちゃん、」
(全員が息をあわせる。全員が笑顔でいる)
「「「誕生日、おめでとう!!!」」」

 

♪♪♪

 

 私は動画サイトの一時停止ボタンを押す。
 あと十五分で日付が変わる。六月十四日になる。
 照明を落として、机上のランプだけが灯る自分の部屋で、タブレットPCの中のμ'sの笑顔を私は見つめている。数年前の彼女たちの、誕生日おめでとうという声の残響が、頭のなかで繰り返されている。
 今日、六月十三日、品川で小原鞠莉のバースデイパーティが行われているころ、私は父と勉強会に参加していた。父の知己の大学教授を囲んで、父と同じ党派の市会議員数名を筆頭に、沼津や近隣の自治体や地元企業から、百名ほどが集まった。参加者はせいぜい若くても大学生で、私は最年少だったろう。
 勉強会に誘ってくれたのは父だ。先生の専門は経済学だけれど、地方の教育についても造詣が深いんだ。ダイヤの学校のことを考えるヒントもあるかもしれない。そう聞いた私は喜び勇んで同行を申し出たのだけれど、大学教授の講演と意見交換の二時間ほど、私は話についていくだけで必死だった。話の早さと言葉の密度は、私がそれまで接したことのないものだった。できうるかぎりの事柄をノートに書き取ったけれど、様々な知識や経験を前提とし、冗談と建前と本気が入り混じった意見交換の時間はほぼお手上げだった。そこに軽々とついていき、むしろ場の空気を支配している父の姿を見て、私は自分の家を現代まで持続させてきた人達の優秀さを思い知った。
 会のあと、熱を帯びた頭を持て余している私を見て父は、打ち上げには参加せず家に帰りなさい、と笑った。残念ながら主賓のはずの先生も東京へとんぼ返りだそうだ。外の人がいないと、打ち上げは少々乱れるからね、そう言って父は、会場の一角に群れた大人たちのほうへ去っていった。
 会場のコミュニティセンターの外でタクシーを待っていると、背後から声をかけられた。講演をした大学教授だった。会の前に自己紹介を済ませていたが、私は改めて自分の立場と、今日の講演の感想を告げた。
「まだ高校生なのにずいぶんしっかりしていますね。黒澤さんといい小原さんといい、沼津の名家の娘さんは度胸がすわっている」
 突然予想もしていなかった名前に驚いている私に、
「もともと、黒澤さんとは小原さんのご紹介で知り合ったんですよ。最初に沼津に来た時は、淡島のホテルにお世話になったし」
 あの夜は楽しかったなあ、三人でバーで遅くまで飲んでね、と教授は朗らかに笑った。
「つい先日も、観光関係のフォーラムで小原さんと娘さんにばったりお会いしましたよ。高級旅客鉄道の事例紹介を聞きに来た、と仰っていたな。娘さん、最近留学から戻られたんでしょう?」
「ええ、アメリカに一年半。あちらにお住まいのお母さまと暮らしていたそうです」
「日米間で、優秀な娘さんの取り合いだね。そういえば小原さん、珍しく娘さんにわがままを言われたなんてぼやいていたけど」
「わがまま、ですか」
「ええ。彼女の誕生日パーティの会場に、真新しいホテルのペントハウスを確保させられた、なんてね。そうそう、今日だったはずですよ。私も誘っていただいたんですが、こちらの約束が先にあったから、お断りしたのだった」
 大学教授は、私がそのパーティの場ではなく沼津にいることに気づいて、怪訝そうな顔をした。彼を迎えに来たタクシーがちょうど現れて、気まずくなりかけた空気は消えた。彼を乗せたタクシーが去り、私は夜の暗闇のなかに一人残された。
 灯りの少ない沼津の夜の風景にふさわしく、私の心は暗かった。
 品川でパーティをしたのは、親の意向ではなかった。鞠莉が自ら、内浦から遠く離れたところを会場にしたのだ。
 品川なら、内浦の人々が一人も来なくても――大人はともかく、同級生ならなおさら――言い訳がたつ。わがままな娘のふりをしてまで、鞠莉は彼女の誕生日を素直に祝えない私と果南から距離を置いた。離れてさえいれば、祝福されなくても自分は傷つかないし、私たちが気に病むこともないから。
 そういうことだ。
 先週鞠莉と話したとき、その可能性に思い至らなかった自分が不甲斐なかった。そして何より、勉強会に熱中した自分が、今日が鞠莉の誕生日であることを忘れていたことに、私は強く幻滅した。
 いま、自分の部屋の暗闇のなかで、私はもう一度時計を見る。あと10分で今日が終わる。
 タブレットのなかのμ'sのみんなが、「おめでとう」と声を張り上げたままの姿勢と表情で静止している。
 私も口にしてみる。
「おめでとう」
 その声が思っていたより大きく部屋に響く。もう一度繰り返す。
「おめでとう、鞠莉さん」
 名前を口にして、胸の奥に、きゅ、とつぼまる苦しさが芽生えた。
 ――途端に後悔が襲ってきた。
 なぜこの言葉を直接言わなかったのだろう。
 いや、言えないような状況に、なぜわたしたちはいるのだろう。
 やりきれなくて、私はタブレットの画面を指で弾いた。また動画が再生される。流れるμ'sの賑やかな声。
 おめでとうとありがとうが行き交うステージを、カメラはズームアップする。祝われている三人が順に大写しになる。満足そうなにこちゃん。照れながらも、脇の凛ちゃんと花陽ちゃんにありがとね、と小さく伝える真姫ちゃん。
 希ちゃんは黙って、胸元にかかえた大きなプレゼントボックスを、見つめていた。
 目が潤んでいた。眉間に少しだけ力が入って、困っているような、自分で自分を持て余すような笑顔だった。カメラが移動する直前、彼女は両の腕で、もう一度、ぎゅっとプレゼントボックスを抱きしめた。
 私はタブレットを置いて、スマートフォンを取り上げる。
 メッセージアプリを開く。
 画面をスクロールする。一昨年の夏からずっと、一度も言葉のやり取りがなかったメッセージグループを開く。果南と鞠莉と私の、二年間ずっと空白だった場所。
 希ちゃんの顔を見て私は思い知った。私は言うべきだ。何かを。言葉を。おめでとうという言葉は、その言葉で伝わった気持ちは、誰かを幸せにできる。希ちゃんの表情が絶対の証拠だ。
 あんな顔を見たあとで、言わないでいるなんてできない。
「鞠莉さん、誕生日おめでとう」
 テキストを打ち込む。送信する。二十三時五十五分。
 お願い、鞠莉、スマートフォンを見て。
 お願い、果南。
 二十三時五十八分。
 私のメッセージの横に、「既読」のマークがついた。
 続けて、「既読2」のマーク。
 二人が見てくれた。
 間に合ったんだ。
 放心している私の前で、画面が更新される。果南のメッセージ。「おめでとう」。
 鞠莉が入力中であることを示すアイコンが表示された。明滅するそれはしばらくのあいだ変わらない。鞠莉はきっと、どう返すか悩んでいる。二年ぶりに交わす言葉だ。私も何か言いたい。でも言えないでいる。
 ようやく鞠莉がメッセージを返してきたのは、日付が変わる前のさいごの数十秒のことだった。
「ありがとう」
 一言だけ。
 それだけだった。
 私と鞠莉と果南が、交わした言葉はそれだけだった。スマートフォンの画面のほとんどはまだ空白のまま。
 あと数秒で今日が終わる。スマートフォンの画面の端で、時計が、ゆっくりと残された時間をカウントしていく。
 けれども、これだけで十分だ、と私は思った。
 今日、とりあえず今日、この日は。
 今日はただそれだけで、私たちは十分幸せだった。

 

(おしまい)

黒澤ダイヤが『シング・ストリート』を観た、という話

 好きなフィクションの登場人物が、自分の好きな映画を観てくれたらぜったい楽しいに決まっている……!というたいへん身勝手な思いつきをきっかけに、10日くらいで書きました。
 同人誌即売会「僕らのラブライブ!」が行われると聞いて、あー、自分も二次創作書きたいなあ、という気持ちを発散させるためでもあります。なんとか僕ラブ当日に間に合ったー!(と即売会直前に言ってみたかったのだった)

 それでは、予告編のあとで本編をお楽しみください。


SING STREET - Official US Trailer - The Weinstein Company


黒澤ダイヤが『シング・ストリート』を観た、という話』

 

 

 教室の扉を開けると、窓際の席で、イヤホンをつけた鞠莉が海のほうを眺めているのが見えた。朝の白い陽が彼女の肌をいっそう輝かせている。近づくと、どうやらイヤホンの音楽にあわせてハミングしているらしいことがわかる。たぶん、わたしが昨晩見た映画のエンディング曲。少し嫌な予感が、しないではない。
 後ろから近づく格好になったから、彼女は私が自席に着くまで気が付かなかった。降ろした鞄を開けて、さて何と言おう、と溜め息をつくと、後ろから、
「おっはよー!!」
 教室の中央にある私の席まで、一瞬でたどり着いたみたい。
「おはようございます」
「で、どうだったどうだった~?」
 わかりきっているけど一応聞く。
「なにがですか」
「も~、決まってるじゃない!」
 鞠莉は腰に両手を当てて、大げさなふくれっ面をしてみせる。「これのこと、ですよね」
 鞄から、ブルーレイの入った茶封筒を取り出して鞠莉に渡す。「ありがとうございました。なかなか楽しい映画でしたわ」
 差し出されたブルーレイを鞠莉は受け取らず、「うんうん、それで?」
「楽しかった……です」
「うん、それでそれで?」
 目を輝かせて、まるで給餌を待っている犬みたい。
「音楽も物語も……まあ、楽しかった」
「それは何度も聞いたよー!!もっとこう、色々あるでしょー!!」
「色々?」
「歌とか、せりふとか、登場人物のこととか!」
「歌は......途中の"Up"という曲が素敵でした。主人公と友達が二人で歌い始めて、やがてバンドのみんなが揃っているという...あれ、どうやって撮影したのかしら」
「さつえい? んー、よくわかんないけど。でも楽しいよねあそこ!あとはあとは」
「夢を追いかけていく主人公たちの姿に感動しました」
「うんうん、感動するよね~。あのラストの船が見えたときのさ~」
「あれはちょっと不自然ですね」
「でも感動するじゃん!」
「そもそも、いくらアイルランドとイギリスが近いとはいえ、あんなことをするなんて主人公たちは無謀すぎます。お兄さんも止めるべきでした」
「ええー、ダイヤ、本気~?」
「本気です。本当に弟のことを思うなら、ロンドンに渡るためのお金を働いて用意してあげるくらいのことはしなくては。ライブが成功したあとの勢いのまま、軽率な判断を……」
「もういい。そういうときのダイヤ、つまんない」
「つ、つまらないって…わたしは鞠莉さんが映画の感想を求めるから、一所懸命」
「んー、わたしが求めてた反応と違った。ま、そうね、そこそこ楽しかったんならよかったわ~」
 鞠莉は皮肉っぽい言葉を置いて、ひらひらと手を振りながら踵をかえして自席に戻っていく。
「あ、ブルーレイ、お返ししないと――」
「果南が借りるって言ってたから。渡しといてー」
 気の抜けた声で言うと、イヤホンを耳につけ、腕を枕に、机に突っ伏してふて寝を決め込む。すっかり拗ねてしまった。
 うまく言えなかったかもしれないけれど、私、この映画、嫌いじゃないのに。なんと言えば機嫌を直してくれるか、そもそも、なぜそんなに機嫌が悪くなってしまったのか、悩んでいるうちにクラスメイトたちが登校してきて、私は鞠莉に話しかけるタイミングをすっかり失ってしまった。

♪♪♪

「まー、そりゃ鞠莉としては、もっと感動してほしかったんだろうね」
 果南が教室に顔を出したのは、昼休み、私が弁当をそろそろ食べ終わろうかというころだった。鞠莉は四限が終わるなり教室を出ていった。朝のこと、そんなに怒っているのだろうかと一瞬不安になったけれど、数日前彼女が、学院後援会の人たちとランチミーティングする予定だと話していたことを思い出した。
 果南は私からブルーレイを預かるなり、図書室に行くけどどう、と言う。昼は家で食べてきたのだろう。それにしても、座って一息ついてもよさそうなのに、私が頷くと、じゃあ行こ、と早速大股で歩き出す。家の手伝いで早朝から忙しくしていたはずなのに、さすが体力の化け物。
 その体力の化け物が大股で進んでいくのについていきながら、私は朝の顛末を話した。
「でも私、悪い映画だと言ったわけではないのですよ。なのに鞠莉さんったら随分むくれてしまって」
「まあまあ、許してやって。それだけ思い入れがあったんだよ。前々から、二人でダイヤに観せたいねって言ってた映画だから。私も映画館で一度観たんだよね」
 意外な話の展開に、私は思わず立ち止まる。
「私に……?なぜですか」
「だってあの映画、兄弟の話じゃん。バンドを始めた主人公と、昔音楽をやっていたけど、もう辞めちゃったお兄さん。ね?」
 果南は同意を求めて小首をかしげる
「はあ……」
 確かに『シング・ストリート』にはそんな兄弟が登場する。夢を追いかける弟と、それをけしかけ、時には非難する兄。
「えっ、わかんないかなあ」
「兄弟……きょうだい……姉妹?!え、まさかあなたたち、私とルビィのことを」
「そうだよ~」
「いや、でも、あちらは兄弟で私たちは姉妹ですし」
「性別は問題ないでしょ」
「それにルビィも私も、あの映画のなかの二人とはまるで違って」
「そうかなぁ~」
 ニヤニヤと笑って果南は私の顔を覗き込む。
「私はあのお兄さんみたいにやさぐれていませんし、ルビィにリスキーな生き方を選ぶよう、けしかけたりしません」
「でもスクールアイドルのいろはを教えこんだり、色々言いながらも妹の夢を応援したりはするよね」
「で、でも……!」
「物語と現実を重ね合わせちゃうっていうのはそういうものなの。多少の表面的な違いはあってもさ、ダイヤとあのお兄さんは魂は一緒だよ」
「そんな無茶な」
「ともかく、私と鞠莉はそんなふうに感じててさ。ダイヤの感想が聞きたいね、って話てたの。きっとすっごく感動するよ、って」
 果南は屈託なく笑う。私はちょっと呆れてしまう。
 確かに『シング・ストリート』はいい映画だ。80年代のアイルランドを舞台にした、爽やかな音楽と青春の映画。鞠莉にも話した通り、音楽を通じて辛い現状を変えようとする主人公たちと、私たちAqoursの現実が重なって、私は勇気づけられた。
 でも、私たち姉妹と、あの兄弟を重ねるというのは強引だ。さらに、そんな見方を本人にも期待するなんて、なんというか――デリカシーに欠ける、と言えばいいのか。
 そうこうしているうちに、私たちは図書室に着いてしまっていた。扉を開けた果南の肩越しに、カウンターのなかで本を読んでいる国木田花丸の姿が目に入る。さすがに一年生の前で言い争いをするのは気が引けて、私は果南にぶつけようとした不満をしまい込む。
「こんにちは、花丸ちゃん。――わっ、参考資料ってそれ?」
 カウンターの上に積み上げられた本を見て果南がのけぞる。銀色がかった紺色の分厚い本が四冊と、文庫本が何冊か。分厚いほうは誰かの文学全集だろうか。それから、バラバラのサイズの写真集が何冊も。
「えへへ……つい夢中になっちゃって。あっ、ダイヤさんも、こんにちは」
「二人で「参考資料」とやらを集めて……何かの相談ですか」
 ちょっとだけ困った顔を見せて、果南が説明する。
「昨日、曜ちゃんから連絡が来てさ。新曲のPVがあと少しでできない、って」
「え……でも、この前のミーティングのとき、みんなで観たじゃありませんか」
「あれは仮編集版だよ。曜ちゃんもあのときは自信があったみたいなんだけど、いざ完成、というときになって、結末がしっくり来なくなっちゃったらしいんだ」
「それで、今度の曲――『HAPPY PARTY TRAIN』は、果南さんがセンターで、その次に目立つのは善子ちゃんと私だから、三人の意見が聞きたいって曜さんが」
「曜ちゃん、昼休みは部室で衣装の仕事をしなきゃいけないから、放課後に四人で会って打ち合わせる約束なんだけど、その前に私たちだけでもちょっと話しておこうか、って約束してたの」
「津島さんは」
「『地獄に堕ちた映画監督の魂を召喚してよきアイディアを』とかなんとか言いながら占いを始めたので放っておきました」
「地獄に行ったんなら、才能がないんじゃ」
「悪魔に魂を売って傑作をものにした、ということじゃないでしょうか」
「なるほど」
「そんなことはどうでもいいでしょう……曜さんはどこが気に入らないのかしら」
「この部分だそうです」
 準備良く、花丸が手元のファイルから紙を取り出して広げる。簡単なイラストと説明のメモ書きが並んだ、絵コンテというものだ。先々週の撮影のとき、渡辺曜がみなに配ってくれた、PVの設計図といえるもの。
 今回のPVは、大まかなストーリーが設定されている。沼津の街を、果南が電車に乗って旅立つ。合間に、Aqoursのみんなの日常が描かれる。果南は一人旅を続けるけれど、やがて故郷に戻ってくる。合間に、学校の屋上で撮影したダンスパートが挿入される。
 旅と言っても、遠方まででかける余裕はないから、撮影には三島駅伊豆長岡駅を使った。それでも、以前からビデオ撮影やネット配信に親しんでいた渡辺曜津島善子の技術のおかげで、雰囲気のあるなかなかのものに仕上がりつつある、と思っていた。
 花丸が差し出した絵コンテは、PVの終盤の部分のものだ。果南が伊豆長岡駅のホームに降り立ち、改札を出る。そこには彼女を迎えるAqoursのみんなが待っている。笑顔になった果南。曲の大サビを屋上のダンスで描いて、フィナーレとなる。
「これのどこが駄目なんでしょう」
「大サビのわたしのソロ、うまく踊れてなかったのかな」果南はカウンターに軽く腰かけて溜め息をつき、花丸の顔と絵コンテを覗き込む。
「そんなことないです!あのパート、撮影後に見せてもらいましたけど、すごく素敵でした」
「花丸ちゃんがそう言ってくれるなら……大丈夫、かな」
「あ、あの、おらだけじゃなくてもちろん、曜さんも、千歌さんもそう言ってたずら」
 花丸の顔が少し赤い。少し弱気になったときの果南の、低い声と下がった眉とかすかに濡れた目は、時々こういう反応を呼ぶ。
 不用意に距離を縮めて下級生の心を乱している旧友の腰を軽く叩いて、カウンターから降りるよう促す。
「具体的に、曜さんは何か言っていないんですか」
「私も気になるので、さっきラインしてみました。返事がこれです――
『素材はとてもいいんだよ~』
『でも、流れ?っていうか、すわり?っていうか』
『なんかしっくりこないんだよね~』
『もう一声!もう一声なんだよ』
 ――以上です」
「なんじゃそりゃあ」
「漠然としてますわね」
「こうなると、色々自由に考えてみたほうがいいのかなって。それで」
「これだけたくさんの資料を集めた、と」
 果南が山の一冊を手にとって開く。
「『日本の私鉄のあゆみ』……。西武線って聞いたことあるなあ」
 それは東京の私鉄ではないのか。複雑怪奇な路線図の映像が脳裏に閃いて、子供の頃迷子になった記憶に、背中を冷や汗が伝う。
「今回の曲のテーマの一つは電車ですから、その歴史を辿ってみては、と」
「こっちは『世界鉄道全史』……?」
「花丸さんの探究心旺盛なところ、私は好きですが、いくらなんでも辿り過ぎでしょう」
「こっちのは写真集だね」
「『世界の旅客列車』、『豪華列車でいく日本のまだ見ぬ風景』、『廃線写真集』……まあ、確かに綺麗ですが」
「うわ、見てよダイヤ。この豊後森ってところ、雰囲気あっていいねえ」
「ライトアップが綺麗ですね」
「星空も……!あー、こんなところで天体観測、できたらいいなあ。ここでクライマックスのダンスシーンを撮影するってのはどう?」
「いまさらそんな遠くまで出かける余裕はありません」
大分県ですからね。九州です」
「ええっ、そうなの。そりゃさすがに厳しいか」
「鉄道や旅行をテーマにした写真集はとても美しいですけれど、PVに取り入れるにはハードルが高いですね」
「ダイヤさんの仰るとおりです……。でも、そのあたりのきれいな写真を見ていたら、こんなものも思い出して」
 花丸は先程まで読んでいたと思しき本を手にとって、私たちに表紙を示す。
「『銀河鉄道の夜』」
宮沢賢治かあ。小学校のとき、国語の授業で習ったな」
「私も、子供のころに読んだきりだったので、先程読み返してみました」
「友達と二人で銀河鉄道の旅に出るんだよね。ええと、確か、主人公の名前がカムパネルラで」
「主人公はジョバンニでは。一緒に旅をする友人のほうがカムパネルラです」
「外国の人の名前は覚えづらいんだよ……くつくつ笑うのは?」
「それはクラムボン
「『やまなし』ですね。賢治の言葉はよく耳に残ります」
「カムパネルラ、っていう名前もきれいな響きだよね。でもそのカムパネルラは……」
「そう、銀河鉄道の旅は、ジョバンニが野原でうたた寝して見ていた夢でした」
「街にもどるとカムパネルラは川に溺れて死んでいた」
「ダイヤが言うとすごく残虐な話に聞こえる」
「文句は宮沢賢治に言ってください」
「はは……でも、賢治も最初はカムパネルラの死を描いていなかったんですよ」
「どういうこと」
「『銀河鉄道の夜』は未完なんです。賢治は何年もかけて『銀河鉄道の夜』の手直しをしていたんですが、結局、完成させる前に亡くなってしまいました。残された原稿は、色々な時期に書いた部分を組み合わせた不完全なものなんです」
「でも、こうやって本になってるよね」
「賢治の死後、他の人が原稿を編集して発表したんです。そして最初に公になったのが、カムパネルラが死なない『銀河鉄道の夜』」
 これがそうですね、と花丸は分厚い『宮沢賢治全集』のうちの一冊を開く。
「ここには、川で溺れたカムパネルラのエピソードはありません。もちろん、鉄道の中の会話で、彼が死んでいるだろうことは暗に示されているのですが」
ブルカニロ博士?こんな人、出てきたっけ」
「そう。こちらの『銀河鉄道の夜』では、銀河鉄道のシーンは、主人公のジョバンニにブルカニロ博士が見せていた幻影だったという設定なんです。博士はジョバンニに、銀河鉄道のなかで抱いた他者へ尽くす心を忘れず、大志を抱いて生きるように諭します」
「なんだかこのジョバンニ、使命感に燃えてるね」
「この『銀河鉄道の夜』は多くの人に親しまれてきましたが、のちに、それぞれの原稿が書かれた順番を詳しく検証した研究にもとづいた、こちらの『銀河鉄道の夜』が出版されました」
 こちらも宮沢賢治全集。開くと、「『銀河鉄道の夜』第四次稿」とある。
「研究の結果、宮沢賢治は大きく分けて四回、原稿に手を入れたことがわかったんです。ブルカニロ博士が登場するものが三番目の原稿で「第三次稿」、そしてこれが「第四次稿」と呼ばれている、私たちがよく知っている内容のものです」
「本当だ。カムパネルラ、死んでる」
「果南さんの物言いのほうが残酷だと思います」
「いや、だってさ、カムパネルラのお父さんがすごく冷静に言うじゃん。『もう駄目です。落ちてから四十五分たちましたから。』。正直、冷酷だよね……」
「こちらのジョバンニも、理想を目指そうと決意して現実に帰ってきますが、その後でカムパネルラの死に直面するんです。それも、ジョバンニが理想とする自己犠牲の精神を全うしたすえの死です」
「やるせないね」
「いまだに、前の版のほうがいい、というファンも多いみたいです」
「でも――やっぱり、こっちのほうが『銀河鉄道の夜』、だな」
 果南の言葉に花丸が顔を輝かせる。
「やっぱり果南さんもそう思うずら?!」
「うん。ブルカニロ博士はさ、なんていうか、答えを全部言っちゃってる感じ、っていうか。それじゃあ、ジョバンニとカムパネルラの今までの旅は何だったの、って思うよ」
「そうずら!ジョバンニにとって一番大事なのは、カムパネルラと一緒に旅をして、最後にカムパネルラを失うことだったはずずら。カムパネルラはジョバンニにそっくりずら。同じ理想を目指して、ともに生きていた友人を失ってしまう――それはとてもつらいことだけれど、それでこそジョバンニはきっとこれから強く生きていけるはずずら!」
 熱のこもった花丸は永遠に話していられそうだ。私は割り込んで言う。
「それで、このお話をどうPVに活かすのです」
「果南さんにとってのカムパネルラを登場させるのずら……!」
「私にとってのカムパネルラ?」
「そうずら。共に旅に出て、一緒に新たな景色を目撃し、成長し、笑いあい……」
「おおー、電車に乗るのが私だけじゃなくなるんだね。この場合、やっぱり千歌かな。いや、友達ってことなら鞠莉かダイヤ」
「そう!果南さんは大切なAqoursの誰かとともに旅に出るずら。そして最後に、カムパネルラは死んでしまうずら」
「ええっ、死ぬの」
「旅の途中、居眠りしてしまった果南さんが目を覚ますと、車両のなかには誰もいないずら。慌てて電車を降りる果南さん。駅のホームにAqoursのみんなが待っています。あれ、でも、一人足りない。悲しい顔をしたみんなが言います、彼女は狩野川で溺れてしまって……」
「いやいやいや」
「カムパネルラこと高海千歌は、いじめっ子のザネリこと津島善子を助けるために川に飛び込んだまま帰らぬ人となったのずら……PVのラストシーンは、『45分たちましたから』という志満さんと、泣きながら牛乳瓶を持って走ってゆく果南さんのロングショットずら~」
「誰がザネリよ!」
 図書室のドアから、津島善子がひょっこり顔をのぞかせた。
「打ち合わせはどんな具合かと思って来てみたら、案の定ずら丸の文学妄想大会じゃない」
「映画監督は降霊できたの?」
「よくよく考えたらまだ生きてる人しか知らなかったわ。昔の映画の本を借りてまた放課後やってみる」
「往生際が悪いよ善子ちゃん」
「だからヨハネよ! だいたい往生際が悪いのはずら丸だって同じじゃない。今さら登場人物を増やすアイディアなんて。電車のなかのシーン、撮り直しじゃない」
「それに、誰かが死んじゃうっていうのはどうなのかな……。スクールアイドルのPVは、あくまで楽しい雰囲気にしておきたいかな」
「で、でも、古今東西の優れた物語の多くは悲劇ずら! 『オイディプス王』、『ロミオとジュリエット』、『ボヴァリー夫人』に『こころ』……」
「そ、それはそうなのかもしれないけど。でも、ほら、タイトルも『HAPPY PARTY TRAIN』だし」
「人が死ぬような内容だと、学校や地域の評判も悪くなるかもしれないわよ」
「た、確かにそうずらね……前言撤回ずら」
 意気消沈した彼女に追い打ちをかけるように、授業開始五分前の予鈴が鳴った。
「――花丸さん、この本、借りてもよいですか」
 もちろんです、と花丸は少し慌てて言う。私は懐から生徒手帳を取り出して花丸に渡す。手慣れた様子で花丸は裏表紙のバーコードと、私が示した一冊の本のバーコードをパソコンに読み込ませて、手続きを済ませてくれた。
「さあ、五限が始まりますよ。打ち合わせは終わりにしましょう」
「ええーっ、PVのアイディアは。それに五限は確か自習でしょ。ちょっとくらい遅れたって」
「自習とはいえ授業は授業。定刻までに着席していなくてはいけません。だいたい、一年生のお二人は自習ではないでしょう」
 かたぶつめ、と毒づく果南は放っておき、カウンター周りの片づけをしている花丸と彼女を手伝う善子に「それではまた放課後」と声をかけて、私は図書室を出た。

♪♪♪

 五限が始まって間もなく、私は自習用に持ってきていた参考書を読むのを諦めた。机のなかに入れた本が気になって仕方なかったからだ。
 文庫本の最初の数ページに、モノクロの写真が掲載されている。作者である宮沢賢治自身の写真や、彼の故郷の岩手県の風景に混ざって、賢治の妹である宮沢トシの写真があった。大昔の写真にありがちな、硬い表情とぼんやりした陰影のせいで、彼女の感情は読み取れない。
 賢治とトシの顔を交互に見比べる。兄と妹。
 先程図書室でこの文庫本をぱらぱらとめくっていたとき、巻末の解説のなかの一文が目に残った。
「第三次稿と第四次稿には様々なちがいがある。ブルカニロ博士をはじめとするいくつかの人物が増減し、場面が差し替えられた。しかし、宮沢賢治本人にとって最も変化したのは、カムパネルラだったのではないかとわたしは考える。第四次稿において彼に関する描写は大きく変わらないが、賢治はそこに、急逝した妹の姿を重ねて見ている。結果として、賢治にとって『銀河鉄道の夜』という物語がもつ意味じたいが、大きく変わっているのだ。理想を讃える物語から、亡き妹を思う物語へと」
 そう、宮沢賢治にも妹がいたのだった。どうにも今日は、きょうだいの物語に縁がある。
 私は『銀河鉄道の夜』第四次稿を、最初から読み直す。ジョバンニとカムパネルラの姿を思い浮かべる私の頭に、賢治とトシの姿がフラッシュバックする。それから、『シング・ストリート』の兄弟たち。
 そして、私の妹。
 銀河鉄道の旅を終え、現実に戻ったジョバンニは、カムパネルラの死を知る。哀しみを抱えて家へと走るジョバンニの姿に、私は励ましの声をかけてあげたくなる。文庫本のページと私の頭の間のどこかにある空想の宇宙のなかで、ふいに、ルビィの髪の赤い影がわずかに瞬いたように思えた。
 ジョバンニとカムパネルラは兄弟ではない。けれども解説の文章が訴える通り、この二人の間には、兄弟のような繋がり、似たところがあるように感じた。
 鞠莉と映画のことでもめたせいだろう、自分はきょうだいの物語を意識しすぎている。表面的には、兄弟の物語ではないのに。これから兄弟姉妹を扱う映画や小説を目にするたび、こんなふうに苦しくなったら厄介だ。
 そういえば、と私は思う。
 『シング・ストリート』も、もしかしたら『銀河鉄道の夜』も、兄弟関係を扱った物語だけれど、果南や鞠莉のようにきょうだいがいない人間によっても愛されている。宮沢賢治とトシのエピソードも同じだ。
 ということは、問題は、兄弟であるかどうか、肉親であるかどうかということではないのだ。
 だから賢治はカムパネルラをジョバンニの兄弟という設定にはしなかった。ブルカニロ博士のエピソードをまるごと削除できたのだ、やろうと思えば二人を兄弟にすることなどわけもないだろう。
 ジョバンニとカムパネルラは兄弟ではないが、ほとんどきょうだいだった。
 自分にとても似通った、けれど決定的に違う他者。そのことさえ満たしていれば、きょうだいの物語は成立するのだ。
 わたしはPVにどのように手を加えればよいか、わかったように思った。文庫本を閉じて、教室の左右を見る。前の席のクラスメイトに、英語の構文を教えてあげている鞠莉。机に突っ伏して寝ている果南。
 時折、私には二人の横顔がそっくりに見える。本人たちはきっと否定するから、そう言ったことはない。でも、彼女たちだって、きっと立派な「きょうだい」だ。

 ♪♪♪

 六限と学活のあと、帰り支度をしていると、教室のドアをけたたましく開けて渡辺曜が入ってきた。
「ダイヤさん!あのアイディア、いいです!絵コンテにしてみました!」
 私の席まで一気に駆け寄って、クリアファイルに入った絵コンテの束を差し出す。
 周りの三年生たちがあっけにとられているのにも構わず、コンテを見せながらまくしたてる。好きなおもちゃを見つけた子供みたい。こういうところは高海千歌とそっくり。
「変更は二番のサビからです。電車のなかで、果南さんの向かいの席にもう一人の果南さんが現れます」
 私は絵コンテを受け取って読む。
 そう、物語に描かれるきょうだいたちは、みな主人公の写し絵なのだ。自分そっくりのもうひとりの自分。そして主人公たちは、自分そっくりの、しかし決して同じではない相手のことを見て、悩み、成長していく。
 PVでは、それを果南一人で描いてしまってはどうか。
 私は五限と六限のあいだの休み時間でそんなことをメールに書き、渡辺曜に送った。彼女はそれを受け止めて、六限の間に絵コンテを作ってきてくれたらしい。授業はどうしたのと言いたいけれど、自分の考えが間違っていなかったように感じられて、私は少し上気する。
 何コマか、一度描かれて斜線を引かれたものがある。曜の最初のイメージは、子供のころの果南やAqoursの面々が、果南の周りにいる、というものだったようだ。
「さすがに昔のみんなの撮影はできませんから。子供の頃の写真を挟み込むっていうのも考えたんですが、そんなことをしていたらどんどん完成が遠のきそうだし」
「でも、素敵ね」
 ありがとうございます、と曜が笑う。
「電車の中のもう一人の果南ちゃんは、ストックの映像を反転させて使えばうまくいきます」
 絵コンテの次のコマで、二人の向かい合った果南は、夕焼けの屋上に移動している。私服姿の果南と、ダンス衣装の果南だ。手を触れ合わせると、二人は光に包まれる。
「この屋上のシーンは追加撮影が必要です。できれば今日にでも」
「いいねー、やろうやろう」
 いつの間にか私の真横に来て絵コンテを覗き込んでいたらしい果南が賛同する。彼女も乗り気らしい。
「大サビと、曲のあと、駅でみんなに迎えられる果南さんは今のままです。ただ、このシーンが……」
「去ってゆくもう一人のわたし、か」
「この前の撮影のとき、私は果南さんと同じ電車に乗っちゃったから、ホームからみた果南さんの映像がないんです」
「それなら、たぶん、鞠莉さんが録っているはずですわ」
 みなの目が一斉に鞠莉に集中する。
「え?わたし?」
 突然自分が話題の中心になって、少し離れたところにいた鞠莉は目を丸くする。
「ロケのとき、わたしと鞠莉さんは電車に乗った撮影チームと分かれて、三島駅に残ったのですわ。沼津駅の方面に用事があったから」
「あ、そういえば」
 そのとき、彼女は予約していた『シング・ストリート』のブルーレイを取りに行ったのだ。これも映画のことを考えていて思い出したこと。
「鞠莉さん、果南さんをスマートフォンで撮影していたのではないかしら」
 よく覚えてるねえダイヤ、と言いながら鞠莉は手元のスマートフォンを操作する。オゥ、ほんとだ、と自分で自分に驚いて、動画の流れる画面を皆にみせる。
 ゆっくり動き始める電車のなかの果南。撮影されていることに気づいてこちらを向く。にっこりと笑って、手を振る。
 とてもいい笑顔だ。
 またネ~、と、撮影しているときの鞠莉の能天気な声が教室に響いた。
「おおー、OKOK!これと、屋上の追加撮影分をうまく組み合わせれば、イケる!イケるよダイヤさん!」
 曜がガッツポーズで喜ぶ。
 と、教室のドアがさっきよりももっとけたたましく開かれる。声を聞かなくても誰かわかる。「失礼します!曜ちゃん、置いてくなんてひどいよー」
 高海千歌だ。その後ろから、失礼します、と言って桜内梨子が続く。「ごめんね曜ちゃん、ダイヤさんに早く見てほしくて――」合流した二年生と果南が、新しい絵コンテを囲んでにぎやかに騒ぎはじめる。大騒ぎしているだけのようで、着々と屋上での追加撮影の算段が決まっていく。これでPVは一安心。
 私は鞠莉に話しかける。
「朝はごめんなさい」
「あ、映画のこと?あ、いや、ワタシも大人げないっていうか……」
「たぶん、あまりに身近な物語って、近すぎるせいでよく見えないことがあるの。大きい山の近くからだと、頂上が見えなくなる、というような。だから、兄弟の物語って、たぶんちょっと苦手」
 鞠莉の眉が八の字になる。いや、だから、そんな顔をさせたいんじゃなくって。
「でもあの映画は好き。嫌いじゃない。それはほんとう」
「ダイヤ……!」
 下がっていた眉があがる。
「それで、サウンドトラックはいつ貸していただけるのですか」
「そうこなくっちゃ―!ダイヤー!!」
 鞠莉が私を全力で抱きしめる。全く大げさな人。でも、サウンドトラックが楽しみだから、私も笑う。
 鞠莉に抱きしめられたままの格好で、教室のドアのほうが視界に入る。一年生たちもそこにやってきている。さすがに上級の教室であることに気後れして、足を踏み入れていない。興味津々といった顔の善子と花丸の後ろから、ルビィが恐る恐るこちらを覗き込むのが見えた。
 私は、ルビィと目を合わせて、軽く手を振った。自分でも、こんな風に振る舞うのは珍しいな、と思いながら。
 ルビィがほっとした笑顔で、手を振り返す。私と同じペースで、その小さな手が揺れるのを見て、私はもっと笑顔になる。

(おわり)

 


Adam Levine - Go Now (from Sing Street)

 

聴こえるのはだれの声?『ラブライブ!サンシャイン!!』オリジナルサウンドトラック レビュー

 

 

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の劇伴を、シリーズ前作の『ラブライブ!』のものと比べたとき、誰でもわかる大きな違いが一つあります。
 それは、スクールアイドル以外の「声」が含まれていることです。


 まずはサウンドトラックCDのディスク1・8曲目(1-8と略。以下同様)『ニネンブゥリデスカ』を聴いてみてください。アニメ放送当時、大いに話題を呼んだコミカルな曲です。女性らしき声のコーラス*1だけでシンプルに構成されていますが、アニメ第1話でこの曲をバックに派手に自家用ヘリで登場し、曲名にも用いられた「ニネンブゥリデスカ」と含みのある謎のせりふを残す小原鞠莉のわけのわからなさを引き立て、結果としては恐らく本作のサントラ中でもっとも人々の記憶に残った一曲となったといえるでしょう。
 この声が全面的に使われるのは、1-20『Carrot & Stick』です*2。第2話、生徒会室でダイヤがμ'sについて熱く語るさまと、学校前バス停でルビィと千歌がユーモラスにじゃれつくさまを交互に描くシーンで使われています。1-8とはがらりと変わり、様々な楽器が賑やかに鳴る楽曲です。音頭のような脳天気な雰囲気に、バンジョーとバイオリンが加える若干の愁いと民族音楽風の響きがとても魅力的です。
 1-24『ウチウラータイム』では、コーラスではありませんが、口笛が主旋律を奏でています。これも人の口による楽器ですから、「声」に準じたものと言ってもいいかもしれません。曲名からわかる通り、これは沖縄の音楽の雰囲気を取り入れるためでしょう。ウクレレとエレクトリックギターの音色とあいまって、穏やかでのんびりした内浦の空気感を魅力的に伝えてくれます。
 続く1-25『スクールアイドルに恋してる』では、再びコーラスが用いられます。高海千歌が抱くμ'sへの憧れを高らかに歌い上げる一曲です。それまではキャラクターや物語の舞台の個性を表していた「声」がまずは低く響いて、その後、高揚感のあるメインテーマの変奏が奏でられていきます。まるでその展開は、内浦で暮らす千歌たちの人生に、スクールアイドルという輝かしい存在が現れた物語の経緯を示しているかのようです。


 『ラブライブ!』、特にアニメ一期の劇伴は打ち込みが多く、二期、映画と後の作品になるに従って生楽器が増えていきます。恐らく、作品のヒットに伴い、音楽づくりに費やせる予算と労力が増えたということなのでしょう。『サンシャイン!!』において、人の声*3を始めとする『ラブライブ!』になかった楽器が多数使われていることも、そんな製作事情が大前提としてあるに違いありません。
 それをわかったうえで、わたしは考えます。この「声」はだれの声なのか、と。


 映画やアニメの劇伴において、ある楽器が物語の登場人物を象徴して用いられる、ということはよくあることです。というか、『ラブライブ!サンシャイン!!』の場合、その技法が極めてわかりやすく効果的に使われています。言うまでもないでしょうが、ピアノ=桜内梨子、ということです。
 1-2『桜色の風』を始めとして、梨子の関係する楽曲ではピアノが中心になっていますし、梨子を除くAqours8人の歌う『想いよひとつになれ』においては、まさしくピアノの音が梨子の「声」として扱われています。
 同様に、劇伴におけるコーラスの「声」もまた、作品世界のなかの人々の「声」として扱われているのではないでしょうか?
 それは誰かといえば、Aqours以外の沼津・内浦の人々です。


 サウンドトラックに収められている楽曲のなかで「声」が用いられているトラックは、前述のものに加え、『LET'S GET DOWN』『新理事長がやって来るOh! Oh! Oh!』『妄想作戦会議』『It's a sunny day!』『陽だまりのリハーサルスタジオ』『ウキウキ夏合宿』があります。いずれも、ステージに立っていない、日常のAqoursを描くシーンで用いられた楽曲です。Aqoursの日常に存在する音としてこの声は用いられている。
 一方、内浦や沼津を舞台としていても、各メンバーの物語が劇的に展開する場面、たとえば千歌と梨子が初めて出会ったり、鞠莉と果南が和解したり、といったAqoursたち本人しか介在しない場面においては、この声は響きません。
 こうしたことからすると、この「声」がAqours以外の人々を表すものだというのも、そう無理な考えではないのではないでしょうか。
 しかし、『ラブライブ!』という作品において、主人公たち以外の「声」が響くということには極めて重い意味が生じます。


 『ラブライブ!』、特にアニメ版の物語は、μ'sの9人になかば非現実的なほどに的を絞って組み立てられています。『ラブライブ!』の京極尚彦監督は、μ'sの9人全員がいないと成立しない物語を作ろうとしたと語っていますが*4、それは同時に、9人さえいれば成立する物語だ、ということでもあります。二期第9話における音ノ木坂学院の生徒や、映画における全国のスクールアイドルなど、物語のなかで重要な役割を担う他者はいるものの、いずれも一期でμ'sというグループの物語が確立したあとのことですし、それでもそうした演出に対するファンからの反発もあったように記憶しています。
 また、ライブにおいても、μ'sのメンバーが「1」、「2」...と点呼していくくだりで、一部の観客がファンも十人目のメンバーであるという意味で「10」と声をあげる行為も、多くの観客から批判されていたようです。
 μ's九人に的を絞った作劇によって成り立ち、人気を得た『ラブライブ!』という作品においては、かように、主人公たち以外の「声」が響くことは、それまでの作劇の方針から外れることでもあるし、ファンの親しんだ世界観を崩すことでもあるわけです。


 しかし、『サンシャイン!!』のアニメ13話で、その不文律は大きく崩されました。
 わたしは、13話は、物語中の浦の星女学院の生徒たちや地元に住む人々、ひいては画面のこちら側にいるファンたちをAqoursの「十人目」のメンバーともいうべき存在として迎え入れることを一つの目的としていると考えています*5
 そこから逆に考えると、音楽においてAqours以外の声が響いていたことは、その13話の描くテーマを物語の当初から準備するためだったのではないか、とさえ思えてくるのです。

 

 前述の通り、あくまで劇伴のなかの声は、Aqoursの日常のなかでしか響いていません。
 アニメ13話で描かれ、また多くの視聴者が問題としたのは、Aqours以外の人々がステージの前へと招かれることでした。劇伴が行っていたAqours以外の「声」の扱いから、さらに一線を超えた演出です。
 13話以降の物語を描くであろうアニメ二期において、果たしてAqours以外の人々はどう扱われるのでしょうか。そのことは、劇伴にも影響を及ぼすでしょう。アニメ二期の劇伴で、どこで「声」は響くのか。案外そのことは、作品全体のテーマを大きく左右することになるのかもしれません。

 


TVアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』オリジナルサウンドトラック「Sailing to the Sunshine」CM

*1:ハミング、あるいはスキャットと呼ぶべきなのでしょうか?

*2:サウンドトラックの順番では1話で流れる『LET'S GET DOWN』のほうが先なのですが、コーラス部分はほぼ使われていません。

*3:なお、サウンドトラックCDのクレジットには、コーラスについてのクレジットがありません。とすると、この声はシンセサイザーで作られた人工的なものなのでしょうか? 素人の耳には人の声のように聴こえるのですが...。

*4:ラブライブ!TVアニメオフィシャルBOOK』

*5:「わたしたち」から「君」へ/『ラブライブ!サンシャイン!!』13話のこと」 http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/10/05/012803

内浦・長浜の津元のこと/大川家と黒澤家について考える

*この記事をもとにした同人誌を発刊しました。詳しくは以下の記事をご覧ください。(2018年1月15日)

tegi.hatenablog.com

 

EPUB版を公開しています。ダウンロードのうえお好きなリーダーでお読みください。

kurosawa.epub - Google ドライブ

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』に登場するふたりのスクールアイドル・黒澤ダイヤとルビィの姉妹が生まれた黒澤家は、「十五代を数える、古い網元の家」*1だとされています。

 網元とはなんでしょうか。なんとなく、漁師たちのなかの偉い人、というイメージがあると思いますが、現代も続く職業というわけではありませんし、具体的に説明できる人は少ないのではないでしょうか。ですが、黒澤家がもつ「内浦の網元」という来歴は、実に特別な意味を持っています。
 物語の舞台となる静岡県沼津市の内浦地域には、とても有名な網元――この土地では「津元」と呼ばれます――が存在しています。16世紀からの長い歴史を持つ、長浜地区の大川家です*2
 大川家の外見は、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメにおいて、黒澤家の外見のモデルとして引用されていますので、すでに同家の存在を知るファンも多いでしょう。
 あくまで大川家は黒澤家の外見のモデルであり、黒澤家の内実や歴史はすべて架空のものではある*3のですが、黒澤家=「内浦の津元」という存在のことを考えるにあたっては、大川家のことに触れていかざるを得ません。
 それは、この大川家が、かつて周辺地域でも群を抜いて栄えた津元であったこと、そして津元制度が消失したのちも、往時の多くを伝える大量の歴史的史料を残していたこと、の二点によります。


 1932年(昭和7年)、実業家であり歴史学民俗学にも造詣の深かった渋沢敬三が、この大川家に伝えられていた大量の歴史的文書を発見しました。大川家の人々は、ときの権力者や商売相手と取り交わした文書や、家のなかで用いた備忘録などを保存し、子孫へと代々伝えていたのです。
 古くは1518年(永生15年)に北条早雲が捺印した書面など非常に貴重な文献を含む大川家の大量の文書は、近隣地区の他の津元が保存していた文献とともに渋沢らの手によって『豆州内浦漁民史料』としてまとめられ、公刊されました。歴史学民俗学の分野に多大な貢献を果たし、今も多くの研究者たちの研究対象となっています。この文書群によって、津元としての実体を失った現代にあっても、大川家は強い存在感を保ち続けています。


 繰り返しになりますが、大川家が黒澤家の直接的なモデルである、とは言えません。ですが、大川家のことを調べるうち、私は何度もその歴史に黒澤ダイヤをはじめとする『ラブライブ!』の物語の様々な要素を重ねて見てしまいました。
 今回の記事では、津元としての大川家に関する基本的な事柄をおさえつつ、その向こう側に垣間見えるかもしれない『ラブライブ!』世界とのつながりについて、書いてみようと思います。

 以下、四つの章と文献紹介に分かれています。

 

  1. 津元とはなにか
     津元が内浦の漁業においてどんな役割をもっていたのか、基本的なところをまとめました。
  2. 津元の終わり
     明治時代、津元は名実ともに消失します。その経緯と当時の大川家の反応をまとめました。
  3. 神田へ
     大川家最後の津元・大川四郎左衛門がたどった遍歴を紹介します。
  4. ラブライブ!サンシャイン!!』ファンからみた大川家
     フィクションと歴史を重ね合わせて考えることについて書きました。自分の考えが中心ですが、作品の鑑賞や二次創作のヒントがあるかもしれません。
  5. 津元を知るためのおすすめ文献
     今回あたった文献のなかから、特に入手しやすくおすすめしたいものを三点紹介します。
     内浦の通史がこれから刊行されるかもしれないらしいからみんなで応援しようぜ的な話もあります。


■1.津元とはなにか

 伊豆地方では、大川家のような存在は「津元」と呼ばれています。網元または津元のあり方は地域ごとによって大きく異なるようですが、ここでは内浦の津元にしぼってその特徴をみてみましょう。
 内浦では、建切網という規模の大きな漁法が営まれていました。これは、湾のなかに入り込んできた魚の群れを大きな網で囲い込んで捕獲する、定置網の一種です。穫れるのは、マグロやカツオ、アジ、イルカなどでした。
 大きな網を使うということは、それを操作する複数の人と舟が必要です。また、網を始めとする道具の維持費など、様々なコストもかかります。
 これらのコストを負担し、漁を取りしきるのが津元でした。実際に海に出て漁を行う人間は「網子」(あんご)と呼ばれました。

 

 19世紀初旬ごろの状況をみると、長浜村の軒数は40、うち3軒が津元で、網子が30軒でした。三つの津元はいずれも姓は大川で、屋号が大屋・大上・北方となっていました。このうちの大屋家が、今回の記事で扱っている「大川家」です。
 長浜では網子は6人ごとに一つの「網組」を形成していました。長浜の5つの網組のうち、3つを大川家が率いていたそうですから、大川家の繁栄ぶりが伺えます。
 建切網を行うにあたって、津元と網子の主従関係は絶対でした。網子は津元が取り決めた漁場で漁を行い、漁獲のうちのどれだけを税として納め、津元が取り、網子が取るか、という配分も極めて細かく津元が采配していました。

 内浦の近辺には、駿河湾内をぐるりと回り込むように流れる黒潮に乗って回遊してきた大型魚が多く入り込みます。そのため特に漁獲量が多く、それぞれの時代の為政者にとって重要な税収として認識されていたようです。
 江戸時代の代官所をはじめ、税の納め先は大きな権力を持っていましたから、そこと繋がる津元もまた、網子たちに対して権威となっていました。このことは、津元制度を長く維持させる後ろ盾となります。
 自然のことですから、不漁が続く時期もあります。普段は網子が得た収穫を取りまとめて納税しつつ、時には減税を陳情するようなことも、津元の役割の一つでした。代官所など支配者の手先でありつつ、村の代表者でもあったのが津元でした。

 津元は網子を支配するとともに、その生活の面倒を見る責任も負いました。網子が貧窮した際は金を貸し、また問題を起こした網子には網組から追放するなどの罰を与えました。基本的に津元と網子の主従関係は代々引き継がれ、両者の身分差が揺らぐことはありませんでした。
 他の地域では、特別に優秀な網子をめぐる津元同士の引き合いもあったようです。また、大川家では「くびつり粥」という毎年正月の風習があり、津元の振る舞う粥を網子が食べることで、その一年間の契約を結ぶ、ということになっていたそうです。
 なお、網子の更に下で、日雇い的に労働を行う人間もいたようで、それらの人々は水揚げした魚の内臓などを対価に雇われていました。内臓は売れば肥料になるので、給料を現物支給されていたわけですね。


 長浜村の範囲は、大雑把に言うと、いまの三津シーパラダイス先のトンネルを抜けたあたりから、長浜城跡のあたりまでです(両隣は「三津村」と「重須村」)。浜の長さは1キロもないでしょう。
 その長浜の海は、5つの漁場(網度場)に区切られています。
 各津元が率いる網組は、この5つの網度場をその日ごとに順番に受け持ちます。漁場によって生じる獲得量の不公平を、通年でバランスが取れるよう、村のなかで調整していたわけです。
 村の高台には海を見張る人間が待機しており、魚群がやってくると合図をしました。網子が舟を出し、魚の群れを捉えていきます。大きな群れがやってきたときには、群れを網で囲ったまま複数日を過ごし、何度かに分けて水揚げをしたこともあったようです。非常にスケールの大きな漁業をしていたことが想像できるのではないでしょうか。
 なお、津元はそうした漁業の現場での作業を行うことはありませんでした。水揚げ後の漁獲の配分を指示するだけで、漁業のリーダーといっても、実際に魚を取ることはしていませんでした。


 それぞれの漁場で漁を行う権利は、「網度持ち」が持っていました。
 もとは、津元がこの権利も持っていました(津元=網度持ちだった)。あくまで言い伝えではありますが、かつて津元たちが魚が穫れる土地であることを見つけ、漁の邪魔になる岩を除くなどして漁場を開拓したことがその根拠でした。
 時代が下ると、網度場の権利は現代の株式のように分割されて売り買いされるようになり、津元と網度持ちも別々になっていきました。1666年(寛文6年)の記録では、長浜の網度場の権利の半分は村外の人間が持っていたようです*4


 津元が関わっていたのは、漁業だけではありません。蓄積されていく資金をもとに、金銭や土地を貸して利益を得る、金融業・地主としての側面ももっていました。
 歴史学者の中村只吾氏の研究によれば、19世紀中頃の大川家は、長浜にとどまらず、修善寺などの伊豆半島の内陸部や、駿河湾を挟んで相当な距離がある今泉や吉原の人々にまで貸付を行っていたそうです*5。数両程度の少額な生活資金を個人に貸すこともあれば、百両ほどの大金を、商人や他村の有力者に貸していることもあったようで、大川家が相当な資金力と、借りる側からの信頼を集めていたことが伺えます。こうした金融業は、大川家に限らず多くの津元によって行われていました。津元たちは、漁業における取引先である運輸や小売などの他業者との関わりや、各地の有力者たちとの縁戚関係を活かして、こうした事業を円滑に進めていったようです。
 金融は、貸す側と貸される側に、一層の蓄財の格差を生じさせる行いではあります。ですが一方で、村社会を存続させるための責任ある仕事でもあった。嘉永7年(1854年)の安政東海地震の際には、津波によって甚大な被害が生じた長浜の隣・重須村に対し、大川家が復興のための多額の資金を貸し付けています。営利だけを求めるのではなく、非常時に村社会を支える役割も担っていたのです。
 また、これは大川家の例ではありませんが、少し離れた戸田村の勝呂家は、沖を行き来する異国の船に関する情報や、遠く離れた北海道での騒乱の記録なども収集していました*6。海で生計を立てる人々を統括するリーダーとして、漁場となる近海の情報のみならず、海の向こうの政治・社会にまつわる広範な情報を集めるのもまた津元の務めだったのかもしれません。


■2.津元の終わり

 このように、津元は漁業を中心に、その地域のリーダーとして様々なことを行っていました。
 ですが、津元が津元として振る舞えるのは、代々、網子たちの上に立ち、彼らの労働が産んだ利益を集約することが許された、封建的な社会制度あればこそでした。それは、当時の村のなかに確かに存在した貧富の差を示すものでもあります。
 江戸時代、特に後期になるにつれ、そうした津元と網子の関係のなかで生じる軋轢が徐々に表面化していきます。網子が津元の立ち会いなしに水揚げを行い、漁獲を自分たちで分配し商人に売り渡す、といった出来事が生じるのです。これは漁における津元の役割を完全に無視した行いですが、一方で、津元なしでも漁が完結しうる、という津元制度の脆弱さを表してもいました。津元は漁を取り仕切るリーダーだということになってはいますが、漁の現場で働くのは網子たちだけで、津元自身が海に出ることはありません。網子たちがいさえすれば、魚を捕ることそのものは十分に行えてしまうのです。
 そして明治維新を迎えると、網子と津元の関係はついに崩壊します。


 津元としての大川家の最後の当主となったのが、のちに渋沢敬三と知り合い、大川家の史料を託した大川四郎左衛門でした。
 1851年生まれの彼にとって、明治維新(1868年)は17歳のときのこと。まもなく津元を継ぐはずだった彼は、がらりと変化していく世の中の流れに直面することになります。
 津元と網子のあいだの対立は早くも維新の翌年・1869年(明治2年)には表面化し、網子からの訴えを受け、漁獲の配分見直しが行われました。そして1876年(明治9年)の海面借用権の国有化検討によって事態は決定的になります。国から海で漁業を行う権利を誰が借り受けるか、津元と網子が真っ向から対立してしまうのです。津元は自分たちが借り受け、そのもとで網子が漁業を行うというこれまでと同じ構造を保とうとしますが、網子は津元を排除し自分たち自身で海面を借りることを求めたのです。
 津元たちは、「津元が当地での漁業を開拓したのだ」「漁や納税、商売に関する習慣や規則を知る津元こそが当地の漁業を導くべきだ」といった言い伝え・習慣を根拠にこれまでの津元制度の正当性を主張しましたが、網子の訴えは明治政府が標榜する平等主義的な方針にもかなっており、長年にわたる争いは最終的に網子側に有利な決着をみました。十年の猶予ののち、海面借用権を国に申請する際の津元の優位性はなくなり、津元と網子は同じ立場に立たされることになったのです。


 渋沢敬三が聞き取った、四郎左衛門自身の回想をみてみましょう。彼が81歳のときに往時を振り返ったものです。

 

(津元は)何しろ昔から大層な勢力で、大瀬崎から清水港を見通した線から奥は皆、自分の海だくらいに考えていたのですから、この達しには一同驚いて大変な騒ぎになりました。
 ようやくのことですぐ取り上げられることが止まった代りに、十年間海面借用という形式でその権利は延びましたが、それから後は津元の勢力もめっきり弱りました。
 私は明治8年カソリックに入りましたが、それでも今まで顎で使っていた網子に馬鹿にされてくるのが、口惜しくてたまりませんでした。そこで明治十何年か頃に長浜の三十軒の網子の外にいた人々を糾合して六人で一組を作り、一時県庁から許可を得て漁業をやってみましたが、多勢に無勢、とうとう敗けてしまいました。
(中略)
 その後私はここに居るのが嫌になったので東京に出てニコライに行ったり、当時、盛名を馳せた大井憲太郎を基督教に引込んだり、油屋をやってみたりしていましたが、そのうち縁あって伊豆の大島へ移り永らく同地で暮らしていまして、近年帰ってきたのです。

渋沢敬三「『豆州内浦漁民史料』序」より、大川四郎左衛門からの聞き書き*7

 

 顎で使っていたのに……などと、非常に封建的な物言いに反感を覚えてしまいますが、そうした上下関係が当たり前だったのだから仕方のないことなのかもしれません。話の相手が、規模の差はあれ同じ資本家である渋沢であったことも、ざっくばらんな物言いを促したのでしょう。いずれにせよ四郎左衛門の言葉には、自分たち津元が長浜の漁業の中心となるべきなのだという強烈な自負が見てとれます。
 津元のなかには、江戸時代からの津元制度の弱体化に適応し、金融など漁業以外の仕事を生業の中心にしていく変革を成功させていた家もありました*8。しかし、大川家はそうした変化もできず、急速にその力を失っていく。むしろ、失った権威を取り戻そうと再び漁業に挑戦して失敗しさえする。
 この再挑戦の際、大川四郎左衛門はかつての網子たちから法的に訴えられ、一時は漁を中断せざるをえない状況に追い込まれています。旧網子たちは、「漁場を整えてきた自分たち以外の新参者が漁業を行い、海を荒らすのを防ぐべきだ」として、四郎左衛門たちを訴えたのです。明治初期、保守勢力として既得権益を守ろうとした大川四郎左衛門たちが、今度は逆に既得権益を脅かすものとして責められたわけです。実に皮肉な話ですが、それだけ旧網子たちが抱える津元への反感は強かったということなのでしょうし、そのような反感を買っているというのに、それでも当地での漁業を行おうとする大川四郎左衛門の強情さも伺い知れます。
 中村只吾氏は、さきほどもふれた論文のなかでこのように分析しています。

 

大川(大上)家や土屋(西)家のような津元家は、時代の変化のなかで、漁業にこだわり過ぎることなく、経営の多様性を活かして生き延びることに一定程度成功した。それに対して、経営的にも、また、自らのアイデンティティとしても、漁業上の立場を揺るがせにすることに耐えられなかった大川(大屋)家のような津元家は、網子からの非難も正面から受け続け、経営方針の転換も上手く図ることができず、漁業経営と連動する形で、経営全体も弱体化の一途を辿ってしまった。

(中村只吾「近世後期~明治初期、津元家の存在実態とその背景に関する再考察」*9

 

 情勢の変化に対応できないリーダーほど、指揮される側にとって疎ましいものはありません。その立場が、世襲制によって維持された封建的な制度を根拠とするものならばなおさら。
 渋沢敬三とともに大川家の史料の整理にあたった祝宮静をはじめとして、後年大川家ほかの津元を分析する多くの歴史家は、制度のうえで自らの立場を守り、利益を確保してきた津元たちに対して批判的な視点を取ることが多いように思えます。実際、それはある程度正しい批判でしょう。
 しかしわたしは、偶然にも変化する時代に生まれてしまい、不器用に失敗していくリーダーたちの姿に、言いようのない共感をおぼえてしまいます。


■3.神田へ

 四郎左衛門ら大川家の若者たちは、頑なに津元としての誇りにすがる一方で、新たな価値観に救いを見出そうとします。
 先程のインタビューに出てきた「ニコライ」という言葉にぴんときた人もいるのではないでしょうか。これは、明治時代、ロシア正教を日本に広めた宣教師ニコライと、彼が東京・神田の駿河台に建築し、彼自身の名前を愛称として親しまれた「ニコライ堂」こと東京復活大聖堂のことを指すと思われます*10。文中では「明治8年カソリックに入りました」と記載されていますが、おそらく「カソリック」というのは渋沢あるいは大川本人の間違いでしょう*11。大川四郎左衛門は、当時信仰者を増やしつつあった正教会ロシア正教)に入信したのでした。


 キリスト教の一派である正教は、1875年(明治8年)、旧沼津藩士の尾崎容(ひろし)と山崎兼三郎によって内浦に伝えられました。正教というと北海道・東北に信者が多いイメージがありますが、当時は伊豆周辺でも多くの信者を獲得しており、その信仰者のコミュニティは現代までも連綿と続いています。
 尾崎ら旧沼津藩の人々は、明治の時代にあっては旧幕体制に近い者として政府からは疎んじられる立場にありました。旧幕臣で、沼津を拠点に政治・教育・実業の各分野で名を残した江原素六も、キリスト教プロテスタントの信者でした。明治政府に受け入れられないアウトサイダーたちは、正教に限らず、当時の新たな宗教の担い手となっていたようです。
 ニコライがロシアに送り、公刊された報告書にも、大川家の人々の様子が記載されています。日本の信徒たちがいかに苦労しつつも熱心に信仰に励んでいるかを描いた部分の一節です。少し長くなりますが引用します。

 二年前、伊豆のある村で、正教信者である学校教師によってキリスト教が広められはじめた。その教師のことばに最初に耳を傾けた人たちの中に、すでに家族持ちであったが一人の若い男がいた。かれは、頼朝(最初の将軍)の時代から続いているその地方の名家で財産家の跡取りであった。狂信的な仏教徒であった父親は、息子がキリスト教に傾きつつあると知ると烈火のごとくに怒り、息子を引き戻すために直ちに父親としてのあらゆる手段を講じた。しかし息子は動じないで、自分の妻をもキリスト教に導き入れた。それを知った父親は息子夫婦の相続すべき財産を取りあげ、乳飲み子ともども家から追い出してしまった。息子は東京へやって来て、洗礼を受け、自分で働いて生活しはじめた。
 老いた父親は、次男は他家の養子になっていたので三男を跡継ぎにしようと考えた。ところが、この三男までが心の中ではキリスト教を信じていると知ったとき、父親の憤りはとめどないものになった。かれはこの三男に対しても父としてあらゆる手をつくして叱りかつ戒めたが、結局どこへなりといってしまえと三男も勘当してしまった。そこで三男も東京へ出て来て、信者となり、兄と一緒に暮らすようになった。夏休みが終わって、二人とも伝教学校に入学を許可された。かれらは熱心な伝道者になるであろう。

(ニコライ/中村健之介訳編『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館

 

 家庭内の争いを生々しく伝える文章です。四郎左衛門たちの信仰を受け入れようとしない父親の強烈な怒りぶりには、四郎左衛門の津元制度へのこだわりにみられる頑固さに通じるものがあるようにも思われます。そのような自身の価値観を疑わず守ろうとする精神性は、家父長制のなかで代々育まれ、引き継がれてしまったものでもあるのかもしれません。

 この報告にある通り、四郎左衛門と弟の胸治は、ニコライたちが布教の拠点としていた駿河台へと赴きました。そこには、一年間で伝道者としての基礎を学ぶ伝教学校がありました。ニコライの報告書によれば、当時学校には全国から28人が集まっており、ニコライ本人が教鞭を取っていました。およそ半年の座学ののち、年の後半には東京周辺で伝道の実地研修を行い、卒業後は出身地等に戻って伝道者となることが期待されていました。司祭のような要職をつとめるのではなく、地域に根ざして教えを広めるための人材を育成する学校です。


 四郎左衛門はどのような気持ちで駿河台に立ったのでしょうか。
 津元としての過去を否定するために、万人の救いを標榜するキリストの前で許しを乞おうとしていたのでしょうか。それとも、変わりゆく時代に反抗する気持ちで、神秘的・秘教的ともいわれる正教の教えや文化に魅了されたのでしょうか?
 彼が正教をどのように信仰していたのか、実際のところはわかりません。また、彼が学校を出たあと、どのように正教と向き合っていたのかについても、今回は調べがつきませんでした。
 彼が伝教学校に学んだ翌々年の1880年明治13年)、長浜における津元と網子の争いが一応の決着を見、津元としての特権が消失することが確定します。
 四郎左衛門たちは父親に勘当されたはずですが、その後長浜に戻り、大川家の当主としての活動を行います。それが先程触れた1885年の漁業への再挑戦でした。その際に受けた反発は前述の通りです。そして彼はその漁業にも失敗し、長浜を数十年に渡って去ることになる。

 大川家にはかつて四郎左衛門が愛用していたイコンが複数残されていたそうで、現在その一部は沼津市歴史民俗資料館の所蔵品となっています。イコンとは正教の聖人を描いた絵画で、信仰上の大きな意味を持ちます。渋沢敬三と出会ったころ、伊豆大島から長浜に戻ってきたときにもまだ彼はイコンを持っていた。彼はまだ正教を信じていたのでしょうか。いったいなにを求めて?
 先程引いた渋沢敬三によるインタビューからは、津元としての過去も、正教徒としての過去も遠い昔のこととして無邪気に振り返り、今は生地でのんびりと生きる老人としての姿が、明るく伝わってくるのみです。


■4.『ラブライブ!サンシャイン!!』ファンからみた大川家

経営的にも、また、自らのアイデンティティとしても、漁業上の立場を揺るがせにすることに耐えられなかった大川(大屋)家のような津元家は、網子からの非難も正面から受け続け、経営方針の転換も上手く図ることができず、漁業経営と連動する形で、経営全体も弱体化の一途を辿ってしまった。

 繰り返しの引用になって恐縮ですが、わたしはこの中村論文の一節を読んでいたとき、目頭が熱くなってしまいました。
 そこで描写される大川家の姿が、衰退してゆく学校と地域を前にしても、旧来の生徒会活動にひきこもることしかできなかった黒澤ダイヤを思い起こさせたからです。そして、ダイヤが憧れる、絢瀬絵里のことも。
 ですから、大川家のことを調べているうちに、絢瀬絵里とその家族が信仰する正教、そして彼女が幼いころ通ったニコライ堂*12と大川家のつながりをみつけたとき、驚くとともに、妙な納得すら感じてしまったのでした。


 このつながりは、ただの偶然だと思います。東京と静岡、これだけ近い距離の場所と人に、色々なつながりがあったとしたって不思議ではない。ですから、これまで書いてきたようなことをもって、『ラブライブ!サンシャイン!!』の作り手たちの意図などを推測したりするような気にはなりません。実際、そこまでの大きな繋がりというわけでもないと思う。けれども、偶然だから、小さなことだからといって無意味だと忘れ去るにはあまりに感慨深いというのもまた事実です。だからこのような長文を書きました。
 人の歴史というのは、繁栄とその終わりの繰り返しによってつくられていきます。『ラブライブ!』と『ラブライブ!サンシャイン!!』という、学校や町の「終わり」に直面してしまった人々を描く物語を頭に置きながら実際の歴史をみたならば、そこに、フィクションのなかの人々の行動や心情に似たものが垣間見えるのもまた当然のことなのかもしれません。


 とはいえ、大川家はいまでも続いているし、長浜の町も存在します。
 今回の調べものにおいては、大川四郎左衛門が直面した津元制度の終わりの時代までしか概観することができませんでした。彼はその後どう生きたのか、興味はつきません。現代に接近すればするほど、存命の方の個人的なことがらにかかわってきますから、そう簡単に手をつけるべきではありませんが、今後も機会があれば調べ続けていきたいと思っています。


 今回思い知ったのは、大川家のことにしても、はたまたそれ以外のことにしても、過去のことがらを足がかりにすると、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語の様々な要素に、より一層の空想を働かせることができる、ということです。
 例えば3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』におさめられたオーディオドラマで登場する、黒澤家の「財宝」の意味。なぜあんなものが秘匿されなければならなかったのか。明治や大正のころの宗教や政治のことを調べれば、実際にあの「財宝」のようなものが重大な事件を引き起こした例はいくつも見つかります。劇中でダイヤが言う通り、そういう「時代」だったのです。ダイヤはフィクションのなかから、わたしは現実から、同じそういう「時代」のことを考え、それぞれの「今」の尊さを考える。そんなことも可能です。
 あるいは、神田と静岡の繋がり。ニコライ堂がある近辺は「駿河台」といいます。駿河の台。当然、静岡にゆかりのある地名なわけです。沼津とはちょっとずれますけど。
 あるいは、神田明神近くの昌平坂からの眺め。江戸のころは富士山が美しく見える景勝地として有名だったそうです。先日、歌川国芳が描いた昌平坂と富士山を描いた浮世絵を見つけて、思わず絵葉書を買ってしまいました。これ*13なんですけど、μ'sとAqoursが感じられて、超エモくないですか。


 大なり小なり、世の中の色々なことがつながっている(ようにみえる)。歴史を探るということは、そのつながりを可視化して、自分やフィクションがうまれたこの世界の豊かさを知っていくことでもあります。
 ちょっと大げさになりましたが、この文章が、『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品や、沼津、そして何より大川家の蓄積してきた歴史と文化へのさらなる関心や親愛の情を呼び起こす助けになれたのなら、これ以上のよろこびはありません。


■5.津元を知るためのおすすめ文献

 今回の記事は、「沼津に直接行ったり、関係者に聞いたりしなくてもわかることしか書かない」という安楽椅子探偵的な方針で書きました。近所の公共図書館大学図書館、インターネット、そして誰でも取り寄せ入手可能な資料だけをもとに書いています。
 これは、現地に行くだけが「聖地巡礼」じゃない、本や地図といったものを読み込むことも、ある種の聖地巡礼につながるのではないか、というここ最近の自分の考えにもとづくものです。

 沼津・内浦はとてもいいところです。わたしも二度行きましたし、今すぐにでも再訪したい。大川家の中にも入ってみたい。大川四郎左衛門の子孫のかたから直接話を聞いてみたい――と、「直接触れたい」という欲望はどんどん膨らみますが、いや、そのまえにできることがあるじゃん、と思う。
 ヒートアップしつつある沼津への「聖地巡礼」ムーブメントに対する、別角度からのちょっとした提案みたいなものにもなればいいなあ、と思ってもいます。読んでくださったみなさんが、こうした資料のなかから新たな楽しみを見つけるヒントになっているとよいのですが。


 というわけで、以下、おすすめの文献です。

渋沢敬三『『豆州内浦漁民史料』序』

『豆州内浦漁民史料』序 - 祭魚洞襍考 第一部 日本水産史研究 / 渋沢敬三 | 著作詳細 | 著作・記事を読む | 渋沢敬三アーカイブ

http://shibusawakeizo.jp/writing/01_01_014.html

 大川家ほか、内浦に残っていた貴重な資料を再発見し、手を加えることなく公に広めるというすばらしい事業を行った渋沢敬三による、資料発見の経緯をまとめたエッセイです。
 渋沢はもともと子供のころから静浦などに避暑で訪れたことがあったそうです。資料発見時は、自分の療養のために内浦に長期滞在していました*14
 文章の多くが大川四郎左衛門からの聞き取りで占められており、大川家の歴史をコンパクトに知るにはうってつけの文章です。さらに、大川家のことのみならず、渋沢からみた当時の内浦の海の自然や漁業の様子も生き生きと描かれており、エッセイとしての読み応えもあり。
 驚くべきは、これをはじめとする渋沢敬三の文章の多くがインターネット上で無料公開されているということです*15。さすが金持ちたちはやることが違う。お茶の間にいながらにして内浦や大川家の歴史を知ることのできるすばらしい文章ですので、ぜひ一読いただきたいと思います。

 

・渡辺尚志編『移行期の東海地域史』(勉誠出版

移行期の東海地域史 : 勉誠出版

http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100666
 今回の調べもので一番最初にあたった一冊。昨年刊行されたばかりのできたてほやほやな学術書です。
 全体は二部に分かれており、伊豆(静岡東部)漁村を扱った前半、遠江(静岡東部)を扱った後半、となっています。どの論文も興味深いのですが、今回は主に中村只吾先生の論文を参考にさせていただきました。
 中村先生による大川家研究は、文中で引いたこの本収録のものを含め、「津元がなぜ津元たりえたのか」というテーマを、「網子を苦しめる支配者」というイメージからいったん離れてフラットに史料を精査して証立てていく姿勢に貫かれているように思えます。もちろんそれは、黒澤家推しのわたしの偏った視点ゆえの誤読であるかもしれません。
 学術論文ではありますが、ぼくはちょっと目頭が熱くなったくらいですから、黒澤家好きの人は読んで損はないと思います。
 税込で9000円を超える高額な研究書ですけど、ぼくは地元の公共図書館で借りることができました。学生さんだったら自分の大学の図書館に購入依頼を出しましょう。
 あとがきによると、編者の渡辺尚志先生は内浦の通史の執筆を計画されているそうです。先生!それいますぐ出してください!黒澤家ファンのみんなが全員買えば、学術書にしては大ベストセラーになること間違いなしなので、渡辺先生&学術出版関係者のみなさんはぜひがんばってほしいですし、黒澤家推しのみんなも直接・間接に既刊の売上に貢献して通史刊行の後押しをしてほしいなあと思う次第です。

 

移行期の東海地域史: 中世・近世・近代を架橋する

移行期の東海地域史: 中世・近世・近代を架橋する

 

 

 

沼津市歴史民俗資料館『豆州内浦漁民史料と内浦の漁業』図録
 2005年、沼津市歴史民俗資料館の開館30周年記念特別展として開催された展示の図録です。渋沢敬三が「漁民史料」を発見し公刊した経緯、史料を提供した内浦の人々、そして内浦の漁業の様子が、60pフルカラーでまとめられています。写真や再現図など図版が多いのが特徴で、漁の様子や各津元に伝わる民具・食器の写真も豊富です。歴史もの二次創作をするかたなら資料になるのかもしれません。大川四郎左衛門のイコンがもうちょっと大きく載っていると嬉しかったんですけど…。
 十年以上まえの展示の図録ですが、同館では通信販売を行っていてくれています。これほどの内容ながら、なんとお値段は800円! 送料は別途300円かかりますし、申込には現金書留での先払いが必要ですが、ちょっと沼津市は気前が良すぎると思います。
 資料館のホームページ*16で申込方法と購入可能な図録の一覧が掲載されていますので、遠方のかたも安心して申し込みましょう。一部の図録は在庫がわずかで、電話での事前確認が推奨されています。わたしは3月末に申し込んで、一週間強で届きました。

 

芹沢光治良『人間の運命 1 次郎の生いたち』
 まあAqoursのファンならとっくに既読だと思うんですけど(とか言いつつわたしも一巻目の前半しか読んでないんですけど)、国木田花丸さんの愛読書であるこちらも黒澤家に思いを馳せるにはグッドな文献です。
 同作の主人公・森次郎の生家は、我入道の津元でした。この一巻目の前半では、次郎の父常造が、力を失っていく自らの家と、天理教への信仰の間で悩みながら生きていく姿が描かれています。
 昔のことを書いたむちゃくちゃ長い大河小説ということで敬遠しがちだと思うんですけど、常造の物語はこの巻の前半でいったん決着しますし、基本的に波乱万丈のドラマですから、退屈することはありません。
 沼津における津元と網子の社会を、読みやすい小説の形で生き生きと体感できますので、これまであげた学術的な目的のもとに書かれた文献に手をつけるのはちょっとハードル高いなあ、という方にもおすすめです。
 それにしても、この物語を読んでたら国木田さんは黒澤姉妹と付き合うにあたって絶対「森家と同じ津元ずら…!」とか考えて興奮してると思うんですけど、どうなのかなあ*17

 

完全版 人間の運命〈1〉次郎の生いたち

完全版 人間の運命〈1〉次郎の生いたち

 

 

 

 というわけで、たいへん長い記事になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
 多数の文献を引用した記事ではありますが、記事中に事実の誤認などがあればその責はわたし・てぎに帰します。間違いのご指摘や意見感想はむちゃくちゃ大歓迎ですので、なにかありましたらぜひコメントやTwitterなどでお声がけくださいませ。

*1:ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ特典「School Idol Diary」ダイヤ編

*2:屋号は大屋。以下、特別に記載しない限り、「大川家」はすべてこの大川(屋号大屋)家を指す。

*3:そもそも、「大川家の外見が黒澤家のモデルである」ということはあくまでアニメを観たファンが主張していることであって、公式に認められたことはほぼありません。唯一、『フォトテクニックデジタル』17年4月号のインタビューにおいて、キャストの降幡愛さんが「やっぱりルビィの自宅のモデルとなっている大川さんち(個人宅)は特別な場所ですね」と発言してはいます。ただしこれはキャスト個人が、『電撃G's Magazine』などのアニメ専門誌以外で発言したことで、公式な発表と言うにはためらわれます。一般個人の関わることですから、今後もはっきりと認められるようなことはなさそうに思われます。当記事はこうした点も了承のうえ読んでいただければ幸いです。

*4:祝宮静『長浜村網度日繰帳考説』(『豆州内浦漁民の研究』所収

*5:中村只吾『近世後期~明治初期、津元家の存在実態とその背景に関する再考察』(渡辺尚志『移行期の東海地域史』(勉誠出版)所収)。

*6:岩田みゆき『幕末期における戸田村と異国船問題』(『沼津市史研究』19号所収)

*7:渋沢敬三アーカイブhttp://shibusawakeizo.jp/writing/01_01_014.html

*8:その意味では、特に『School Idol Diary』で描写される黒澤家の様子は、明治以降の変化にうまく適応したタイプの津元であるといえるでしょう。

*9:引用元情報は前掲の通り

*10:今回大川四郎左衛門が東京に滞在していたことが確認できたのは1978年頃のことだけですので、ニコライ堂の建築が始まった1884年以前のことではありますが、前述のインタビューで「ニコライに行った」とありますから、建築開始~完成以後の時期にも駿河台に滞在していたものと推測できます。

*11:あるいは、最初はカトリックに触れ、その後正教に入信した、ということなのかもしれません。

*12:詳しくは公野櫻子ラブライブ! School Idol Diary 絢瀬絵里』(KADOKAWA)を参照のこと。ここで絵里が語るニコライ堂と神田の町についての言葉は、神や人の繋がりといった目には見えないものに対して、街や聖堂という場を通じて想いを寄せることの美しさ、愛おしさ、はかなさを見事に表現しています。そして個人的には、μ'sのラストライブを観た翌日、ニコライ堂で経験した小さな出来事も、わたしの感慨に影響を及ぼしています。こちらはμ'sラストライブについての文中で触れました。「「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/05/08/233533

*13:歌川国芳『東都富士見三十六景・昌平坂乃遠景』https://ukiyo-e.org/image/honolulu/7412

*14:なお渋沢が資料発見時に宿にしていたのは松濤館。そういえば松濤館には、パズルラリー開催時期、ダイヤのスタンディが立っていました。そんな小さなことにも縁を感じてしまいますね。

*15:渋沢敬三アーカイブ http://shibusawakeizo.jp/

*16:http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/rekishiminzoku/list_zuroku/index.htm

*17:国木田花丸が読んだ『人間の運命』は芹沢光治良が晩年に手を加えた完全版ではない可能性が高いため、常造の物語は知らない、という可能性もあります。でもあれだけの読書家だったら、完全版も読み直してると思うんですよね…。彼女行きつけのマルサン書店にも置いてあったし。