こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

ダイヤさんと呼ばせてよ/黒澤ダイヤの呼び方について考える・その2

 季節は早くも12月。あと少しで今年も終わりです。1月1日には黒澤ダイヤさんは18歳になる。
 ダイヤさんを演じる小宮有紗さんって、誕生日や何かの記念日に、これからの一年間の抱負についてよく語っているイメージがあるのですけど*1、きっとダイヤさんも、18歳という一区切りの誕生日においては、一層気合を入れた抱負を語っちゃうんだろうなあ、と想像してしまいます。

*1:浦ラジでそういう話題が多いからかもしれません。先日の大阪ファンミーティングでは、誕生日を迎えた小林愛香さんと諏訪ななかさんに「一年の抱負を...」と無茶振りし、「そんなすぐに真面目なこと言えないから!」とツッコミをいれられていました。タイムテーブルが押し気味なのにそういう生真面目な負荷をかけていったあの感じ、良くも悪くもむちゃくちゃダイヤさんっぽくて、ちょっとはらはらしました。

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ダイヤさんと呼ばせてよ/黒澤ダイヤの呼び方について考える・その1

 今週末放送される『ラブライブ!サンシャイン!!』二期4話のサブタイトルは「ダイヤさんと呼ばないで」です。
 おそらく、『ラブライブ!』一期10話「先輩禁止!」と同様に、上級生・下級生という年功序列を基本とした関係性からの脱却をテーマにしたエピソードになるのでしょう。μ'sにおいては絢瀬絵里東條希の二人が特に「先輩」として一・二年生から距離をもたれていたのに比べて、Aqoursにおいては黒澤ダイヤだけが「さん」付けで呼ばれている、という点が印象的です。松浦果南高海千歌渡辺曜から「ちゃん」付けで呼ばれ慣れた幼馴染の関係ですし、小原鞠莉は持ち前のフランクさで別け隔てなく付き合える。黒澤ダイヤだけが、絵里・希的な「先輩」のままなのでした。
 黒澤ダイヤを中心としたエピソードはアニメ二期で必ず描かれるだろうと期待していましたが、なるほど、彼女を中心に置いてしか描けないエピソードになりそうです。実に楽しみですね。

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旅としてのHAPPY PARTY TRAIN TOUR

 

 

 2017年8月5日から9月30日まで、二ヶ月に渡って行われたAqoursのライブツアー「Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR」(以下、HPTツアー、あるいはツアー)について書きます。
 すでに、個々のパフォーマンスについては多数のレポートがネット上にありますので、わたしはHPTツアー全体を考えてみたいと思います。


 今回のツアーはAqoursにとっての最初の大規模なライブ「」で発表されたわけですが、考えてみればこの横浜でのライブ自体が、(フィクションとしての)Aqoursにとっては大きな「ツアー」、すなわち「旅」だったのでした。
 1stライブの際に書いたレポートでわたしは、ライブ中に流される幕間アニメについてこんなことを書いています。

強引ながらも沼津と新横浜の接点を見つけ、地方の女の子たちがまた違う地方にやってくることで発見される面白さ、いわば寅さんが全国各地を舞台に毎年作られていたことの意味みたいなものが最後の最後に急速に立ち上がっていて、あっ、やっぱいいですこれ、すごくいいです、という気持ちになった。

Aqours First LoveLive! 一日目おぼえがき - こづかい三万円の日々

 すでに詳しい内容はほとんど忘却の彼方なのですけど、横浜における幕間アニメでは、「新選組のルーツである八王子と繋がる、横浜線沿線としての新横浜」、「新横浜にある沼津(という寿司屋)」という話題が語られていたように記憶しています。
 観客の相当数が居住しているであろう東京とその近県の視点でみれば、新横浜という土地は、それこそライブ会場となっていた横浜アリーナ程度しか印象のない場所といっていいでしょう。しかし、沼津・内浦からやってきたAqoursからすれば――まあ国木田花丸さんの博覧強記かつ牽強付会な視点によるところ大ではあるものの――、様々な未知のものごとや、歴史の名残を発見できる。
 こうしたAqoursの視点を幕間アニメによって共有したファンたちは、ライブの後、アニメで言及された店や路線を、ライブ前とは異なる視点で見ることができたはずです。


 言わずもがな、『ラブライブ!サンシャイン!!』は沼津・内浦という場所を物語の中心に据えています。作品が新たな「聖地」を作り、Aqoursの地元がファンにとっては旅の目的地となりました。
 横浜での幕間アニメが示したのは、沼津の外で行われるライブ(ツアー)において、今度はAqoursが旅に出るのだ、ということです。ファンが沼津を訪れ、当地の名物や歴史を発見したように、今度はAqoursが見知らぬ土地を訪れ、未知のものと出会っていく。そしてファンもまた、その旅に同行する。

 旅に出るAqours、というイメージは、HPTツアーにおいて一層明確に打ち出されます。


♪♪♪


 横浜での発表から約半年後の8月5日、HPTツアー初日となる名古屋でのライブは、サードシングル『HAPPY PARTY TRAIN』のプロモーションビデオに直結するアニメーションで幕を開きました。PVのラスト、伊豆長岡駅の前で、果南は夜空に消えていく汽車とAqoursを見送ります。ライブ冒頭のアニメでは、その夜空に消えていった汽車とAqoursが、再び登場します。彼女たちを乗せ夜空を疾走する汽車はやがて、名古屋駅を猛スピードで通過します。観客の興奮が最高潮に達するころ、その映像から飛び出したかのように、現実のステージ中央に巨大な汽車に乗ったAqoursが現れます。
 PVで沼津を飛び出したAqoursが、遠く離れた名古屋という街の、観客の目の前に現れる。PVで始まったAqoursの旅の、最初の目的地が名古屋というわけです。


 幕間アニメも、横浜同様、会場周辺の名所や歴史、名物が多数取りあげられます。一時廃業となった大須演芸場浦の星女学院に重ねるという、Aqoursの背負う深刻な物語に寄せた部分もありますが、大須演芸場はすでに営業を再開していた、というオチで深刻さは回避されます。千歌が、桶狭間の戦いで敗れた今川義元の意趣返しを志すも今川氏は沼津ではなく駿河の領主だった、という脱力展開も楽しかった。その土地の物事が取りあげられつつも、眉間に皺を寄せた社会見学といったふうではなく、あくまでわいわい楽しく旅をする、という印象が保たれています。


 続く神戸の幕間アニメでは、高槻かなこさんの出身地であるということを盾に、神戸ディスすれすれの内容が繰り広げられました*1
 アニメ後半では、上島珈琲というファンが手に取りやすい名物が強くプッシュされつつも、「観客を缶コーヒーと思え!」というスラップスティックな笑いのネタとして消費されるため、いかにも名物紹介、という押し付けがましさがありません。それは名古屋でのういろう、埼玉でのスイートポテトも同様です。
 このあたりのバランス感覚は、自らもまた旅(観光)の目的地とされる土地の出身であるAqoursならではといえるかもしれません。
 アニメ一期1話で内浦の名産品である魚の干物が、地元の人間からすれば食べ飽きたどうでもいい食べ物として描かれていたことを思い出しましょう。旅する者は、その土地の名物を無条件にありがたがってしまいがちですが、そこに住む人にとってはありきたりであったり、むしろ日常の倦怠の象徴として嫌がられるものであったりもする。
 単にその印象は、幕間アニメの脚本を書いている子安秀明の、全てを笑い飛ばすクレイジーな作風によるものなのかもしれませんが、まあ少なくともこうしたAqoursの態度は、ありがたがるだけではなく、より親しみをもって旅先の名物に触れることを促してくれました。


 そのようにして幕間アニメを中心に各地をAqoursからプレゼンされたわたしは、ライブを楽しむとともに、その土地をも楽しみました。名古屋には行けませんでしたし、埼玉ではほとんど現地での自由な時間が持てませんでしたから、きちんと旅できたのは神戸だけでしたが、当地ではライブのあと二日間の休暇を使い、妻と一緒に旅を満喫しました。
 楽しかったのは、神戸の街を歩いていると、わたしと同様に旅を楽しんでいるAqoursファンを何度も何度も見かけたことです。その何とも言えない楽しさは、大昔、中学校や高校の修学旅行の自由時間中、見知らぬ街角で同じクラスの友人たちに出会ったときの感覚に近かったかもしれません。その楽しさのあまり、神戸市内の明石焼きのお店で隣り合ったAqoursファンの男性に、思わず声をかけてしまったりしました。「次は埼玉で会いましょう!」とさわやかに対応してくれたあの人、元気かなあ。


 そうした他のファンや、声優さんたち自身がSNS上で発信する情報をリアルタイムに受け取って、旅の目的地に加えていくのも、大変ながらも楽しい作業でした。
 複数の声優さんがSNSで言及していた中華街の肉まんや、高槻かなこさん行きつけの広東料理屋さんはとてもおいしかったですし、UCCの缶コーヒーを次々買い求めるTL上の人々に負けてなるものかと上島珈琲の店舗でドリップコーヒーを買い、深夜にホテルの部屋で神戸スイーツとともに味わったのもいい思い出です。そのせいで寝れなくなったりもしましたけど。


 渡辺曜なら立ち寄るかも、と思って、通りすがりの「戦没した船と海員の資料館」なる場所に急遽立ち寄った、ということもありました。第二次大戦中、軍に徴用された民間船とその乗組員についての展示と資料収集を行っているところで、狭いスペースに膨大な資料が展示されているさまに、徴用船の被害の大きさを思い知りました。決して気持ちが明るくなるような場所ではありませんが、そうした不意打ちを受けるのも、また旅の醍醐味と言えるでしょう。


 かようにわたしはあの三日間、Aqoursと、そしてAqoursファンの影響を受けながら旅をしました。ちょっとだけ、「みんな」で旅をしているような気持ちになりながら。

 それは純然たる観光ではあったものの、一方、神戸という土地に対する強い親しみの感情を持ちながら過ごした時間でもありました。
 神戸二日目の最後の挨拶で、高槻かなこさんは、また神戸でライブをやりたい、と強く宣言していました。その言葉を聞いたわたしは、神戸を旅の目的地であると同時に、再び訪れたいところ、あるいは、高槻さんが再び訪れたいと思うほどに愛しているところ、だと認識していました。さすがに数日間しか訪れていない場所を「地元」だと言うことはできませんが、ただの旅先でもなくなっていた。旅先から地元へと、半歩くらいは近づけたのかもしれません。
 そのように思えるような旅を、Aqoursとともにできたことが、わたしはとてもうれしかった。


♪♪♪


 さて、このようにしてそれぞれの場所をツアーしてきたAqoursとわたしも、埼玉という終着点にたどり着くことになります。
 名古屋・神戸でのライブは、常に、次のライブ会場へと旅立つAqoursの乗った汽車を、会場のファンたちの声援が送り出す、という演出をもってエンディングを迎えていました。では終着点たる埼玉では、どのような幕引きがなされるのか。それは埼玉のライブを観るにあたって、わたしが楽しみでもあり、怖くもあったポイントなのですが(だって寂しいじゃないですか)、当然、Aqoursが送り出されるのは、彼女たちの出身地である沼津なのでした。
 埼玉二日目のラストでは、今まではライブ冒頭にしか登場しなかった汽車が再びステージ上に登場し、Aqoursの九人を載せてステージ奥へ消えていく、という演出がなされました。Aqoursたちは、無事に彼女たちの旅を終えます。と同時に、会場の天井には「ご乗車ありがとうございました」というメッセージが表示されました。沼津へ帰っていくAqoursを見送ったファンの旅もここで終了したことが示された。実に見事な構成です。


 こうしてツアーが終わり、Aqoursは沼津へ帰っていった……ということになるわけですが、もちろん、現実にAqoursのキャスト九人が沼津へ帰ったわけではありません。ではここで「帰った」のは誰だったのでしょう。
 Aqoursは空想の存在です。アニメやイラストのなかにいる、現実には存在しない人物たちです。伊波杏樹さんを始めとする9人は、その空想の人物を演じる声優です。今回のライブツアーでは、その声優たちがステージに立ち、Aqoursを演じていました。
 しかし、ライブのあいだ、ステージの上にいたのは声優たちではありません。いや、確かに声優たちはそこに立っていたでしょう。しかし同時に、空想のAqoursもまたそこにいたとわたしには思えます。この感覚はAqoursのファンのみならず、広く2.5次元文化を愛好するかたならわかっていただけると思います。
 ライブのあいだ、ステージの上には、声優としてのAqoursがいると同時に、フィクションのAqoursが重ね合わせの状態で存在していました。
 それは、演ずる側と観る側の想像力が生み出す何ものかです。こうしたものを、ヒトはその文化のなかで様々に生み出してきました。神だとか、霊魂だとか、そういったたぐいのことです。そのように考えていくと、今回のツアーが夏に行われていたことが、非常に重要な意味を持つように思われます。日本人の多くにとって、夏は、祭りと盆と慰霊の季節です。盆においてわたしたちは、本来は此岸に存在しない祖先の霊を彼岸から呼び出します。また多くの農作物が実りの時期を迎える夏・初秋の祭りでは、感謝と祈りを届けるために、神殿の奥深くから世間へと神を招きます。
 盆も祭りも、呼び出される霊や神にとっては「旅」にほかなりません。ヒトは彼らを招き、歌と踊りをともに楽しみました。Aqoursのユニークな楽曲であり、今回のツアーでも毎回アンコール後の一曲目として、キャスト・観客一体となって楽しまれた『サンシャインぴっかぴか音頭』がモチーフとするのも、そうした場で楽しまれてきた盆踊りです。
 『HAPPY PARTY TRAIN』のPVは、恐らく宮澤賢治の『銀河鉄道の夜』の影響を受けていると思われます*2。『銀河鉄道の夜』の主人公ジョバンニが、宇宙をひた走る銀河鉄道のなかで出会うのは死者たちです。この世ならざる者たちと旅するその物語は、今回のツアーにも遠く影響しているように思えます。
 ツアーが終わり、沼津へ帰っていたのは、フィクションであり、霊魂としてのAqoursです。彼女たちは、沼津に――そして空想の世界の中に――帰っていきました。逆に言えば、現実に存在しない人々を、われわれはライフステージの上に召喚できていた。おたく的な言い方をすれば、二次元が三次元にやってきた、というわけです。その感覚は、前作『ラブライブ!』のμ'sをはじめとして、他の2.5次元作品でも常に感じられるところです。
 しかし、今回のツアー、そしてAqoursというグループは、沼津という土地と結びつき、土俗的なまつりごととしてのライブの側面を浮かび上がらせており、一層のマジカルな魅力を得ていたように思います。今回のツアーの感想として、踊り、歌といったライブの根幹のシンプルな力を強く感じたことを訴える声が目立つのも、それゆえではないか。
 そしてこのわたしの連想は、埼玉でのライブ最終盤、μ'sの9人が「召喚」されたことにも繋がっていきます。μ'sの帰還の背景には、次世代ゲームを盛り上げたいという「運営」*3の要望があることは確かでしょう。が、わたしにはそうしたことはあまり気になりません。Aqoursの行ったライブという祭事が、稀人としてのμ'sを呼び出してしまったのだ、ならばまずはそれを静かに迎えよう、という気持ちのほうが強い*4
 フィクションのなかの高海千歌に倣うなら、それらをすべて「奇跡だよ」、と祝いでしまってもいいのではないか、と少しは思うくらいに。


♪♪♪


 さて、どんな旅も、楽しいだけではありません。
 なぜなら旅には必ず終わりがあり、旅の後、わたしたちは再び辛くつまらない日常に戻らなければならないからです。Aqoursとともに、空想の沼津へと赴くことはできないのです。
 しかしここまで触れてきたとおり、Aqoursとの旅は、様々な価値の転換を促してくれました。
 埼玉でのみ演じられた『地元愛 満タン☆サマーライフ』における「地元」は、渡辺曜津島善子の住む「沼津」です。しかしこの曲がメットライフドームで演じられていたとき、「地元」は、その歌がまさに歌われている場所であり、渡辺曜を演じる斉藤朱夏さんの出身地である埼玉をも意味していました。
 ツアー全体を通して考えれば、「地元」という言葉には、高槻かなこさんの「地元」である神戸も紐付けられています。この他にもわたしは、名古屋・神戸・埼玉それぞれの土地はすべて、近くに住む(自分と同じような)観客たちの「地元」であることを知っています。
 楽しい旅の目的地は同時に、誰かにとっての「地元」でもあること。そして、神戸で高槻さんが叫んだ通り、つまらない「地元」はときに、すばらしいライブを楽しんだという経験を経ることで、再び多くの仲間たちを招きたいという場所になるのだということ。
 そうしたことを知った以上、旅を終えて「地元へ戻る」ということの意味は、大きく変わらざるを得ません。


 もちろん、「地元」が持つ倦怠は、そう簡単に拭えるものではないでしょう。しかし旅の終わりに恐怖するわたしの心を見透かすように、今回のライブにおいては、日常を克服することを励ます言葉や演出が多数みられました。逢田梨香子さんが埼玉一日目の最後のあいさつで言った、仕事や学校といった辛い日常のなかで、励みになるようなライブができたらいい、という話。また埼玉二日目で高槻かなこさんが言った、Aqoursの夢が、観る人それぞれの夢になれば、という話。そして幸運にも、埼玉一日目のライブにおいて、わたしが生で目にすることのできたAZALEA『LONELY TUNING』が歌ってくれること*5
 そうした励ましを受けて、日常に怯んでいられるわけがありません。


 いっぽう、フィクションとしてのAqoursを沼津で待っているのもまた、彼女たちの日常です。廃校の危機に瀕した母校と、学校と同じく衰退していく故郷を救う任をその身に背負って、スクールアイドルとして生きる日常です。
 今回のライブツアーは、そうした彼女たちの日常を描くアニメの物語から離れたところを旅してきました。旅行中のAqoursは、自分たちの日常から離れて、自由になった状態で歌い踊っていた。
 埼玉一日目、劇中曲のなかでも、一期最終話挿入曲というアニメの物語と最も濃厚なつながりを持つ『MIRAI TICKET』が、ライブ終盤で歌われました。昨年9月の13話放送以降(あるいは今年2月のファーストライブ以降)、一旦保留にされていた物語が再び動き出したかのような感覚がありました。13話でAqoursと千歌が行ったことは、劇中のラブライブのルールに反する行いです。アニメ二期では、その代償を支払うことになるかもしれません。そんな重い物語の中へと、Aqoursは再び戻ろうとしている。
 そして続いて、埼玉でのアンコール前最終曲として歌われたのが『君のこころは輝いてるかい?』です。アニメ13話は、まさにこのタイトルの言葉そのままの千歌の台詞で幕を閉じていました。ここで、アニメの物語のAqoursと、ステージ上のAqoursがみごとな一致をみます。楽しく歌い踊ってきた旅は終わり、日常が――物語が、再び動き出すことが示唆される。


 埼玉公演から一週間後の明日から、そんな彼女たちの日常を描くアニメ二期の放送が開始されます。
 輝かしくも困難であろう彼女たちの物語は、どのように展開していくのでしょうか。沼津という「地元」は変えられるのか。浦の星女学院への入学希望者は増えるのか。Aqoursは、どのように生きるのか。
 わたしは、現実と空想をごっちゃにして祈りたい。わたしがこのHAPPY PARTY TRAIN TOURという一つの旅を通して、「みんな」*6からもらった力が、フィクションの中のAqoursにも届いていてほしい。わたしと同じく旅をしてきた彼女たちの心にも、旅でしか得られないなにかが残っていればいい、と。


♪♪♪


 ツアーの最後、Aqoursはまた来年、サードライブツアーという新たな旅へと出かけることを約束してくれました。
 それにAqoursは、ファンミーティングという、ライブツアーとはまた違った種類の旅にも誘ってくれています。旅の目的地は、まずは大阪、そして札幌です。その先にもいくつもの目的地がわたしたちを待っている。
 次の旅が始まるまで、きっとAqoursは、日常を強く生きていくでしょう。わたしもそうありたいと思う。
 わたし自身の次の旅の目的地は、わたしの大好きな街である札幌となる予定です。またその街でも、Aqoursと、「みんな」と、素敵な旅ができるであろうことを、今からわたしはとても楽しみにしています。

*1:横浜だって名古屋だって埼玉だって充分にディスられていた気もしますが。

*2:詳しくは二次創作小説『黒澤ダイヤが『シング・ストリート』を観た、という話』のなかで書きました。 http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/05/28/012251

*3:なおわたしはこの言葉があまり好きではありません。なんか人任せって感じで。

*4:死者を蘇らせてしまうことの是非をめぐる倫理的な議論は、できるだけ死者のいないところでしたい、という気持ちもあるし。

*5:詳述はしませんが、わたしは『LONELY TUNING』が、『ラブライブ!サンシャイン!!』関連楽曲のなかでももっとも愛しい曲のなかのひとつとなっています。

*6:「みんな」が何を指すかは、HPTツアーの最中に書いた『夏の終わりに「みんな」で踊る/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて・2』をご一読いただけると嬉しいです。 http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/09/24/235058

夏の終わりに「みんな」で踊る/『ラブライブ!』をめぐる人たちのことについて・2

 夏が終わる。
 すでに9月も末が近く、季節は秋だと言っても差し支えはない。けれども、8月5日に始まったAqoursHAPPY PARTY TRAIN TOURを観てきた人たち、そして9月29日・30日に埼玉で行われるツアーの最終公演を観る予定の人たちにとっては、その二日間こそが夏の終わりだ。
 今週の金曜と土曜の夜、Aqoursの9人と、3万人の人々がメットライフドームに集まる*1。映像と音声が全国の映画館に配信される。そうして、おそらくは5万を超える人々が*2、歌い、踊り、声をあげる。
 わたしはその5万人を、どのように感じればいいのだろうか。
 夏の始まりのころ、わたしは「「みんな」とは誰か」という文章を書いた*3。その後二ヶ月のあいだ、すっかりそんなことは忘れてAqoursの魅力に熱中したときもあれば、足をとられて延々と悩んだ時期もあった。
 5万人は、『ラブライブ!』シリーズにおける重要概念「みんな」なのか。彼らはどんな人々なのか。
 夏の終わりを迎えるにあたって、わたしはもう一度、「みんな」のことを考える。


 ライブ会場に来る人たち全員と友達にならなきゃいけないわけじゃなし、誰であってもよいじゃない、というような意見は受け付けない。わたしは彼らと一緒にただ座っているわけではない。彼らと一緒に過ごすのは、もっと能動的な時間なのだ。わたしたちはライブの数時間を共有し、光景を共有する。共有することは、共感することとイコールではないから、すべての価値観と感情を同一にできるとは思わない。けれども、そのたくさんの人々と、自分との間にある、最低限の共通点くらいは確認しておきたい。
 かれらとわたしの共通点は何なのか。『ラブライブ!サンシャイン!!』について、Aqoursについて共有できるものは存在するのか。もしそうした足がかりがないのなら、わたしはなんのコミュニケーションの可能性もありえない、匿名の群衆と一晩を過ごすことになる。それはあまりに寂しい。あなたはどう思うか知らないけれど、わたしは寂しい。

 

♪♪♪

 

 まず単純に、この人々を「Aqoursが好きな人」とするのはどうだろう。
 Aqoursのライブに来ているのだから、当然この点は全員がクリアしていそうに思えるのだけど、残念ながら事態は複雑だ。『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品の場合、好きになるポイントが非常にたくさん用意されている。同じ「Aqoursが好き」といっても、「アニメが描くAqoursが好きな人」「声優としてのAqoursが好きな人」などなど、その「好き」の対象は様々に存在する。アニメだって、「全部好き」という人もいれば、「13話だけは嫌い」という人もいる。
 作品全体への情熱のかけかたも千差万別だろう。Aqoursのライブに来るためにブルーレイを何十枚も買った人もいれば、デレマスもガルパもラブライブも並行して楽しんでいて、一応好きなキャラクターはいるけど自分からライブに行くほどではない、今日は友達に誘われたから来たよ、というような人もいないではないだろう。
 こうした人たちをすべて等しく「Aqoursが好き」または「ラブライブ!サンシャイン!!が好き」の一言でくくってしまっていいのか。


 正直に言えば、わたし自身、自分の「好き」は他の多くの人の「好き」とは違う、と思っている。昨年の初頭から、えんえんAqoursについて考え、情報を集め、よりよいファンとして振る舞おうと務めてきた。その成果がこのブログであり、Twitterの呟きである。
 そういう自分を、TLがアニメやライブ映像のスクリーンショットと、常套句のコピー&ペーストだけで構成されるような人や、沼津の街頭で喧しく振る舞うような人たちと一括りに「好き」の言葉で形容されたとしたら、ちょっとつらいものがある。彼らの「好き」を全否定する気はないけれど、わたしのとはかなり違う種類の「好き」ではないですか、同じフォルダに入れるとお互い難儀じゃないでしょうかね、と言いたい。


 このように、5万人の人々を「Aqoursが好きな人」でくくろうとすると、どうしてもわたしは他人の「好き」をはかりにかけて、自分にとっての「Aqoursが好きな人」の範疇に入るかどうか、という不毛な審判を始めてしまう。わたしは他人の「好き」を裁くようなことはしたくない。
 わたしの「好き」だって、大したものではない。わたしより精緻に作品を読み解き、キャストに深く共感し、グッズに惜しみなくお金を出す人間はいくらでもいる。そういう人たちから、お前の「好き」なんて本当の「好き」ではない、と言われる可能性もある。
 そういう不毛な競争はしたくない。

 

♪♪♪

 

 「好き」というような漠然としたものではなく、より具体的な基準をもって、5万人の人々を認識するのはどうだろうか。

 Aqoursのライブ参加者にまつわる話題として、「10人目」問題がある。Aqoursの9人に加えて、ライブ参加者たちが自分が「10人目」だと考え、振る舞うことは許されるのか否か。
 この問題は、ファーストライブの際から多くの人によって論じられてきた。今回のツアーでは特に、Aqours九人が「1!」「2!」と順に点呼を行っていく楽曲『太陽を追いかけろ!』が歌われるため、観客は彼女たちに続いて「10!」という声をあげるかどうか、明確な判断を求められている。更に、既に行われた名古屋・神戸のライブにおいては、キャストや演出が明らかに観客の「10!」を期待していることが見てとれた。
 ならば、ここで「10!」と言えるかどうかを、5万人の人々と自分との共通点として見出すのはどうか。
 神戸公演二日目を現地で経験した当時のわたしは、「10!」と声に出すことを選んだ。恐らく、埼玉でも同じことをするはずだ。アニメ一期13話で描かれた、Aqoursの9人以外へと「輝き」を広げていこうとする考え方に共感したこと、また神戸公演のさなかに、Aqoursが観客を10人目として迎え入れる行動*4を目にしたことが大きな理由だ。
 しかしここでも、ことはそう単純ではない。「10!」と口にするか否かを決めるのは、Aqoursのこうした考え方に共感する・しないの判断とイコールではないからだ。
 Aqoursの考え方に共感し、応援したいと思っていても、音楽鑑賞についての自身の価値観から、ライブでは黙って彼女たちの歌と言葉を受け取っていたい、という人もいる。
 それではライブを楽しんでいるとはいえない、声を出して参加してこそライブだというのならば、どこまでが許される参加のあり方なのか、という問題が生じる。いわゆる「家虎」*5的なコールと「10!」の境界はどこにあるのか。「「家虎」はうるさいが「10!」はうるさくないからOK」という価値観と、「「10!」のかけ声はうるさい。黙って観たい」という価値観の間に、うるさい・うるさくないを判断するもののエゴ以外の違いはあるだろうか。
 前述の通り、観客からの「10!」をAqours自身が求めている可能性は高い。この点をもって、「10!」のかけ声は許されていると言える。しかしそれは、「「10!」の声を発することが許されている」というだけで、声を発しないこと、また声を発することなしにAqoursを応援する気持ちを抱くことが禁じられたということにはならない。


 こう考えてみよう。会場で「10!」と叫ぶことがAqoursに力を与えるとして、ではライブビューイング会場で「10!」と叫ぶことに価値はあるのか。ライブビューイング会場で発せられる観客の声が、埼玉のAqoursに届くことは絶対にありえない。
 そんな声に価値はあるのか。
 当然、ある。
 アニメ一期11話で描かれたように、遠く離れたところにいる同士の人間のあいだにも、「想い」があれば、お互いの力になりうる。
 とすれば、埼玉の現場で黙って『太陽を追いかけろ!』を聴く観客が、心のなかで発した「10!」にも、同じように意味があるはずだ。


 このように、「10!」にまつわることも、あまり頼りになる基準だとは言えない。大きく「10!」と叫ぶ人も、黙ってそのあとの「OK! Let's go Sunshine!」というAqoursたちの声を聞き漏らすまいと耳をそばだてる人も、わたしには同じようにAqoursを愛しているように思える。
 逆に言えば、「10!」と言ったからといってAqoursを愛していることの証明にはならない。残念だけれど。

 

♪♪♪


 いっそのこと、5万人の大半への想像をやめてみるのはどうだろう。もっと限られた人たちのことだけを考える。
 Aqoursと『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンとしてネット上でふるまうなかで、わたしは多くのファンの人たちのことを知った。ネット経由という覚束ないものではあるけれども、わたしが強く共感し、応援している人たち。5万人全員は無理でも、彼らのことなら、一つの「みんな」として想像できるのではないか。
 わたしは自分でAqoursについてのブログを書くから、同じようにAqoursについて長文のブログを書いている人たちには親近感を覚える。特にこの夏は、これまでブログを書き続けていた人以外にも多数の人が、新たにブログを書き始めることが多かったように思う。
 みな、Aqoursに触発されたのだと思う。自分の受け取った大事な感覚を、言葉にして保管し、共有したいと思ったのではないか。そういう、自分の書くべきことを発見した人たちの文章は、一様にある種のきらめきをもっている。整っていない部分もあるけれども、切実で、熱のこもった文章。そういう文章を読むのは楽しい。
 もちろん、今夏以前から読んでいるすばらしいブログも多数ある。ブログだけではない。音楽や、創作や、仕事にまで、Aqoursから受け取ったインスピレーションを絡めて活動している人たちが、わたしのTwitterのタイムライン上にはたくさんいる。代表的なのは沼津・内浦の人たちだ。経済の面でも精神の面でも、Aqoursが土地にもたらしたポジティブな影響を広げていこうと活動し、その様をネット上へ発信している。
 彼らはいわば、Aqoursからの「君のこころは輝いてるかい」という問いかけに対して、輝こうとしている人たちだ。自分の生活や仕事、趣味を輝かせようとしている人たち、あるいは、Aqoursの輝きを記録しようとしている人たち。
 そういう人たちを想像する。想像しやすいし、共感しやすい。これならば問題はないのではないか。


 しかしわたしはここでも躊躇する。
 それらの(一方的な)知り合いを想像するときにこそ、価値観やふるまいの小さな違いが強く意識されてしまう。ブロガーたちの長い記事のなかに、自分に似た考えを見つけて嬉しくなるときもあれば、わずかだけれど許容できない違いを知って反発してしまうこともある。
 不遜なことだと言われそうだけれど、これと同じことは、Aqours本人や作り手たちの言葉に接したときにも生じうる。先日発売された『ラブライブ!サンシャイン!!テレビアニメオフィシャルBOOK』など、その危険性のかたまりのようなものだと思う。あの本に掲載された、アニメ各話へのAqours全員と酒井和男監督のコメントは、非常に読み応えがあってすばらしい。しかしその満足感ゆえに、「あの件については触れないのか」とか、「そのコメント、ちょっと粗くないか?」といったような、より自分の読みたい言葉を求めてしまうような気持ちも芽生えてしまう。
 わたしは、自分に近しいものを好きなひとたちのなかに見つけて、自分と相手とはこんなにも接近しているのだと考えて喜ぶ。そして、好きな人のなかに自分とは遠いものを見つけたときには、自分と相手の距離を実寸以上に大きくとらえてしまう。
 好きであればあるほど、相手のなかに、自分にとても近いものと、とても遠いものとの両方を見出さざるをえない。
 共感しやすい人たち、好きな人たちだからこそ、遠く感じる部分もある。それもまたひっくるめて相手のことを知りたいと思うのだけど、そのような感情はどんどん個人的なものになって、「みんな」という全体への想像とはかけ離れていく。


 また、わたしが好きな人がみな、輝いているわけではない。輝いている人と、輝こうとしている人は同義ではない。
 受け取った輝きを前にして、うまく消化できない人もいる。そういった感情をもとに、ダークな二次創作をものする人もいれば、違和感の答えを見つけるために、長文のブログを書く人もいる。彼らは輝いていないのだろうか。わたしは、メットライフドームのなかに、ライブビューイング会場のなかに必ずいるだろう彼らのことを、考えないでいるべきなのか。


 わたしはそのようなこともしたくない。
 なぜなら、受け取り損ねたとはいえ、彼らもまたわたしと同様にAqoursの「輝き」を見た者なのだから。
 その先のことは違っても、出発点は同じだ。


♪♪♪


 ……出発点は同じなのだ。
 そういうことなのだ。
 ようやく結論が見つかる。
 問題はその5万人がどんなことをしているかではない。どんな経験をしたか、だ。


 メットライフドームにやってくる人たちが、なにを考え、なにをしてきたか、なにをするかは考えない(いや、考えてしまうけど、考えないようにする)。
 ただ、こういうことだけを考える。
 Aqoursはかつて、『君のこころは輝いてるかい』という問いを放った。一度目はファーストシングルで、二度目はアニメ一期の結末で。その問いは、ライブのなかでも何度も繰り返される。彼女たち自身が輝くことで。だからあの曲を聴かずに会場に来た人がいたとしても問題はない。

 その問いは、まさにその楽曲のかたちでストレートに投げかけられることもあれば、まったく異なる方法で投げかけられることもある。彼女たち自身が放つ輝きをもって「あなたはどうだい?」と訊いてくるのだ。
 Aqousの輝き方はμ'sとは違う。それを受け取る人もいれば、受け取れない人もいる。はなからそのような問いには応える気がない人、問い自体を認識できない人もいるだろう。しかし受け取る側のことは考慮されず、輝きと問いは問答無用で観客を射る。
 5万人はひとしく、『君のこころは輝いてるかい』という問いを投げかけられた人間なのだ。それこそが今週末に集まる「みんな」なのだ、とわたしは思う。


 Aqours自身すら、作り手すら、その問い/輝きからは逃れられない。声優としてのAqoursは、キャラクターとしてのAqoursから常に問いかけられている。そして両者ともに、そもそも最初の輝きを作り出したμ'sからの問い/輝きをずっと背負っている。


 ライブは試験会場ではない。
 Aqoursがわたしに唯一の正解を見せてくれる場ではないし、わたしが唯一の正解を見つけ、回答を提出するための場でもない。「気づき」だとか「学び」だとかをいくつ拾ったか、競う場でもない。
 幸運であればそうしたことを得られるかもしれない。しかし最初から期待することはたぶん間違っている。どんな回答を持ち帰るかで、周りの観客を判断するのも、また。
 自分がどんな回答を得られるか、得られないのではないか、と不安に思う必要もない。


 ただわたしは問いかけに身をさらすのだ。
 わたしより勇気のある彼女たちは、ステージの上で、輝いているか否かを審判するスポットライトにその身をさらす。彼女たちの身が乱反射した輝きを、わたしは少しだけ受け取る。そして同じ輝きは、ドームのなかの全員、ライブビューイング会場の全員にひとしく投げかけられる。
 それがわたしにとっての「みんな」だ。
 問いかけに自信満々で回答する人もいれば、口をつぐむ人もいるだろう。問いかけだとは思わず無邪気にはしゃぐ人も。問いのライトに照らされて「みんな」は踊る。


 それで夏が終わる。

 

 

*1:なお自分は金曜は現地、土曜はライブビューイングの予定です。

*2:メットライフドームに3万人強、全国のライブビューイングで1万人強、合計5万人強、というざっくりとした計算である。

*3:http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/08/05/165429

*4:伊波杏樹さんは『太陽を~』で客席からの「10」の声を聴こうと両手を耳の脇にかざした。小林愛香さんは公演最後、Aqours9人が壇上で手を繋いで頭を下げるとき、空いている手を客席のほうへ差し出して掴む仕草をした。

*5:アイドルの歌唱にあわせて、「イェッタイガー」という独特のかけ声を発する風習。最近では、この言葉に限らず、「アイドル自身の歌唱が聞こえづらくなるほどに大きなかけ声をかけること」くらいの意味で使われているように思う。