こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「私は「星の王子さま」を撃墜した ドイツ元操縦士証言」

証言したのはホルスト・リッパートさん(88)。第二次大戦中の44年7月31日、南仏ミルの飛行場を出発、トゥーロン付近でマルセイユ方向へ向かう米国製P38ライトニング戦闘機を発見した。

 「接近して攻撃を加え、弾が翼に命中した。機体は一直線に海へ落ちた。機内からは誰も飛び出さず、パイロットは見なかった。それがサンテグジュペリだったことを数日後に知った」と同紙に語った。
http://www.asahi.com/international/update/0316/JJT200803150004.html

サン=テグジュペリ 未帰還・行方不明の報は、無線を傍受していたと思われる、ドイツ空軍にも伝わり、彼等も独自に捜索を開始した。サン=テグジュペリの存在は、国境・民族を越えて、空に憧れを抱く当時の若者にとって、それほどまでに、かけがえの無いものだった。
wikipedia

……第二次大戦中、サン=テグジュペリの乗るF-5B(P38)を撃墜したと証言する飛行士は百名を超える。
 無線によって未帰還・行方不明の報が伝播したのち、1944年7月から8月にかけて、ドイツ軍兵士による証言は数十にのぼった。同時に連合国軍側兵士からも、「墜落していくロッキードを目撃した」「海上で助けを求める飛行士を発見したが、急激にわき上がった濃霧により見失った」といった報告が寄せられた。
 証言は主に南仏を中心としたヨーロッパ戦線で記録されているが、同時期、日米が激しい戦いを行った太平洋戦線においても、複数の兵士が同様の目撃証言を行っている。

 こうした証言のなかで異彩を放つのは、フランス出身ながらドイツに帰化し、連合国軍捕虜兵士を中心に組織された部隊の長として数多くの戦果を挙げたフランソワ・ヴィドック氏のものだ。
「私はバトル・オブ・ブリテンにおいて英軍外人部隊員としてドイツ空軍と戦い、1940年10月、ドイツ軍の捕虜となった。最初にサン=テグジュペリロッキードを撃墜したのは、1942年の春、初めてメッサーシュミットで出撃した夜のことだ。英軍のモスキートを二機撃墜し、上官の指示に従って帰途についたが、まだ自分は戦えると信じていた。私はいつだって戦っていた。どこで戦うかは問題ではなかったし、誰が相手かということもまた問題ではなかった」
ロッキードは僚機が基地に着陸するさなか、周囲の警戒を言い訳に飛行を続けていた私の前に現れた。かれはまっすぐわたしの機銃の射線上に滑り込んできて、わたしは迷うことなく攻撃をおこなった」
「大戦中、恐らくわたしは7機のサン=テグジュペリロッキードを撃墜したと思う。誰にも報告していないから、記録には残っていないが」
「わたしはヒトラーが自殺を遂げ、ドイツが醜悪な最後を迎えるまえにチェコスロヴァキアへと逃れた。最後にかれのロッキードを目撃したのは、51年の冬のことだ。レーダー基地からの警報をうけて、チェコ領空内を巡航する正体不明機を捜索していた最中のことだ。件の行方不明機だと判断しわたしはこれを追跡したが、雲の中に逃げられ、見失った。サン=テグジュペリロッキードを撃墜できなかったのは、それが最初で最後だった。わたしはその日、引退を決意した」

 大戦以降、サン=テグジュペリロッキードに関する証言は減少した。ジェット戦闘機の普及と時期を同じくして、その数はほぼゼロになっている。
 近年注目すべきは、中東・アフリカ等砂漠の多い地域に派兵された西側諸国の兵士のなかで、同一人物と思われる少年に関する目撃談あるいは噂話が増加していることである。少年は金髪碧眼で、現地の一般市民とは思えない外見をしており、また英語あるいは仏語を用いる。戦闘によって行動不能となった兵士の前に現れ傷を癒す、あるいは水や物資などを与えるという事例が多くみられるが、何人かの証言者は、この少年と数日間過ごしたのち、自らの手でかれを殺めたと語ることもあり……