こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

すばらしい新世界

 世に言う「スローライフ」ブームに、うさんくささをずっと感じている。目先の便利さや利益を優先せず、自然環境への配慮をしつつ、個人個人にあったやりかた・スピードでことを進めていく。題目としては非常に共感できる。おそらく、自分自身もやがてはそうした生活を手に入れたいと思っているのだと思う。けれども、雑誌やテレビで描かれるそれらの「スローライフ」は、信じられない。
 スローライフスローライフと喧伝される世間の取り上げ方は、賞賛されるべき「スロー」さと相反して、実に早急だ。ゆっくり過ごそうよ、ゆっくり食べようよ、といったことばが、次々に打ち出されては消費されていく。そんなことで、スローさの本当のありさまが伝わってくるはずがない。その矛盾に気づかないふりをしていることが、「スローライフ」ブームの抱える間違いなのだろう。
 池澤夏樹の小説『すばらしい新世界』は、文庫版で700ページを超える分量でもって、主人公天野林太郎が体験する新たな生活のきざしを描く。スローと言うのなら、最低限、このくらいは必要だろう。

すばらしい新世界 (中公文庫)

すばらしい新世界 (中公文庫)

 林太郎は日本の大企業に勤める技術者。風車の設計と運用が専門で、ボランティア活動に長年関わってきた妻のアユミ、小学生の息子森介とともに東京で暮らしている。アユミの提案により、彼は新たな風力発電システムの開発をはじめる。ボランティアグループの依頼にしたがい、ヒマラヤ奥地の村へと赴き、これまでにない小型のシステムを設置するのだ。林太郎とアユミ、森介の三人はやがて、ヒマラヤの人々と生活に魅せられていく。
 二年間弱にわたる林太郎たちの生活が、淡々と描かれる。風力発電の面白さが技術的に、また社会の面からも丹念に語られる。途上国支援の問題とボランティアの可能性、都市生活者の快い活躍とヒマラヤで暮らす人々の放つ魅力。仏教と旅行がはなつ性愛のへのあらがいがたい招き、エトセトラエトセトラ。彼が目にし、思考する諸問題が冷静な分析と思索のもと、豊かな言葉でつづられていく。
 現代において物書きは(世界にどんな影響を及ぼせるか、という点で)何ができるか、そういう問いはいくたびもされてきたが、今後はこの本を抱えて「こういうことができるんじゃ!」と胸を張って(まあ、ぼくの仕事ではないけど)言えると思う。よく練られ、充実し、何よりとても美しい、言葉による社会的活動である。

 一方で、これは作家池澤夏樹の新たな力を表すみごとな小説でもある。作者と登場人物、現実と幻想が同じ価値をもって語られる。いま話題となっているチベット問題も、ごくおだやかに、しかし確かな筆でもって、小説のなかに刻み込まれている。『静かな大地』につながる、ゆるやかな語りの力がたくみに操られている。
 クライマックスの大冒険には心底はらはらさせられる。アユミの恋文はとても美しい。

静かな大地 (朝日文庫 い 38-5)

静かな大地 (朝日文庫 い 38-5)

 そういうすばらしいつくりの小説を読んで、新たな価値観、よりよい生き方のヒントを得る。
 文庫版解説の青木保によれば、この小説のタイトルはイギリスの作家ハックスレーによるアンチユートピア小説『すばらしい新世界』("Brave New World")に拠るという。池澤夏樹は作品のなかで、「一介の小説家に社会改革の名案などあるはずがない」とうそぶく。

すばらしい新世界 (講談社文庫)

すばらしい新世界 (講談社文庫)

 しかしそれでも、この作品の最後では、心躍る新たな世界が描かれる。驚くべきことだが、はっきりと、「新しい世界」が示されている。結果として、ハックスレーとは逆に、「すばらしい新世界」そのままが示される。
 よい小説だ。