こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

世界を救うのはだれか『ハンコック』

『ハンコック』を”ウィル・スミスの俺様映画”だと思っている人は、『ブル〜ス一家は大暴走』を観たほうがいい。夢見がちな性格、息子を男手ひとつで育てていたという過去、そして目の前でトンデモないことが起こっても、曖昧な笑みを浮かべて黙って受け入れてしまう心の弱さ・・・。本作におけるジェイソン・ベイトマンのキャラが『ブル〜ス一家』を完全に踏まえて作られていることが分かるから。夏休み大作映画のはずなのに、妙にオフビートで静かな仕上がりなのは、本作の真の主人公がスミスではなくベイトマンである証なのだ。
長谷川町蔵の文章」http://machizo3000.blogspot.com/2008/09/blog-post_03.html

 『ハンコック』を観るにあたって、長谷川町蔵のこの指摘は非常に重要だと思う。
 監督のピーター・バーグは、前作『キングダム/見えざる敵』DVDコメンタリーのなかで、「コメディで知られるベイトマンを極限状況に置いてみたかった」と、彼の起用に強い意図があったことを伺わせる発言をしている。今作でも、彼の起用には目的があったと考えるべきだろう。

 中盤のVFX全開な(非常につくりものっぽく、それまでのリアル志向とは全く異なる雰囲気の)ヒーロー同士の乱戦の描写や、観客を置いてけぼりにするように開陳される超絶設定なども、このことを念頭に置けばさほど違和感がない。ここではヒーローたちは、その本来の属性たる神のごときものとして描かれている。かれらが非人間的なふるまいをするのは当然だし、観客が簡単に飲み込めない論理を持ち出すのも仕方のないことなのだ。
 観客が抱く置いてけぼり感はそのまま、劇中のベイトマン演じるレイが感じる置いてけぼり感でもある。

 クライマックスでは、結局のところハンコックは活躍しない。『キングダム』ふうに手持ちカメラで、抑えた描写をされるからわかりにくいが、ヒーローはレイにほかならない。不条理な神の論理に自ら翻弄されるハンコックを尻目に悪を断ち、世界に平和をもたらすのはレイなのだ。

 ラストでハンコックがニューヨークへ行くのは、アメコミヒーローの総本山的都市へ赴くことで彼がヒーローとしての姿を取り戻したことを表すと同時に、もはや救うことのできない悲劇たる911をそれでも救いたいと願って、現実にコミットしない空想世界のヒーローにハンコックが「戻ってしまった」ことも象徴しているのではないか、とぼくは感じた。そこには、911を模して墜落する飛行機を救う、輝かしさと虚ろさが同居した『スーパーマン・リターンズ』と通じるものがある。
 彼はレイに「世界を変えろ」と電話で語りかける。現実から遠く離れた神の世界からの啓示*1のように。
 ヒーローは現実世界に留まってはくれない。世界を救うべきは、レイであり、観客なのである。

*1:月面のくだりはまんま『交響詩篇エウレカセブン』であるが、ぼくはこの文脈で再度エウレカのことを考えて、ようやくあの最終話に納得がいった。あの遍歴をたどったら、子どもたちは神になるしかないよね