こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

輝いていたはずの道のりは...『レボリューショナリー・ロード』


 町山智浩がストリームで「『シャイニング』みたいな映画ですよ!」と言っていた*1ので、いつだれが鉈をふるいはじめるのかびくびくしながら観た。出演者みんなが、一歩踏み出せば平凡な一般人から狂った暴力漢へと一転しそうな陰をもっているので、余計に。
 けっきょく鉈や槌などが振るわれることはないものの、「まっとうな」生活を送る人間誰しもが陥りうる恐るべき事態が存分に描かれていて、非常に息詰まる二時間を過ごした。

 主人公のウィーラー夫妻を演じるのはケイト・ウィンスレットレオナルド・ディカプリオという、『タイタニック』カップルの二人。かれらがキャスティングされたことはおそらく必然だ。
 フランク23歳のとき、パーティで出会ったふたりは、妊娠を機に結婚、郊外の高級住宅地に居を構える。月日が経ちフランクが30歳を迎えるころ、主婦としての生活に倦怠を覚えたエイプリルは、かつて打ち込んでいた演劇を再開しようとするがあえなく挫折。いっぽうフランクも、会社勤め(彼は自分が販売促進している商品が何なのかすら理解していない!)にうんざりする日々をすごしていた...というところから映画ははじまる。
 二人の子供を育てながら迎える三十路。自分の将来には、凡人とは違う輝かしい未来があると信じていた若者が、やはり自分も凡人の一人であるということを受け入れて自分を殺し、育児に励む際限ない日常と折り合いをつけざるをえない、そんな時期だ。
 これをもっと華のある俳優・女優*2が演じていたら、「お前らが言うな!」という突っ込みどころ満載の薄ら寒い結果となったろうが、ケイトもレオも『タイタニック』以降、賞賛と同時にたくさんのバッシングを浴びてきた俳優だ。とくに、レオがまとう未だ成熟できない青年の見苦しさは、まっすぐに成功した人間ではなしえなかった表現だと思う。ゴールデン・グローブ等の結果のとおり、より印象に残る、ソリッドな演技としては確かにケイトに軍配があがるが、ぼくは(自分を重ねてしまう、ということもあって)レオをいままで以上に評価したくなった。
 レオ演じるフランクは非常に薄っぺらで調子のいい軽薄な男で、中途半端にハンサムで実力以上の成功をおさめてしまったというレオの来歴とそのまま重なってしまうような人生を送っている。レオの演技は、そのまま軽薄な男にしか見えない――これは、彼が自分のキャリアを冷静に見つめ、フランクの愚かしさが己の中にも生じうることを把握したからこその演技ではないか。

 現実のレオとは違い、主人公夫婦二人は、自分たちの限界を知りながら、それでも「輝かしい未来」にしがみつこうとしてしまう。それぞれがそれぞれに希望や愛を押し付けあってしまった結果、引き起こされる悲劇のクライマックスはこのうえもなく美しく、おぞましい。
 撮影監督ロジャー・ディーキンス*3による映像は、光量の多い、明るく透明感のあるものだが、それが余計に二人の虚ろな心を強調する。虚ろさと輝きの中間で揺らめく、郊外ゆえの輝かしさと空虚感。その光景は、日本の郊外とも決して遠いものではなく、60年代のアメリカという舞台をはなれ、普遍的な説得力をもっている。

 愛とか夢とか希望とか、みんな口々に言うけれど、本当にそんな輝かしいものは世の中に存在するのか。存在したとして、それはほんとうによいことなのか――美しい映像と音楽と演技で、とてつもなく重くアナーキーな問いを投げかけてくる重量級の傑作だ。
 よく、カップルで観に行かないほうがいいという感想を耳にするけれど、ぼくはそうは思わない。この映画を観て、それでも一緒にいたいと思える人こそ、ともにいるべき人だ。若きカップルよ、映画館へ急げ*4

*1:http://www.tbsradio.jp/st/2009/01/16_2.html

*2:たとえばブラッド・ピットケイト・ブランシェットの『ベンジャミン・バトン』コンビとか

*3:ショーシャンクの空に』『ノー・カントリー』などの人

*4:とか思っているうちに、公開が終わってしまった。