こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

ベルンハルト・シュリンク『朗読者』

朗読者 (新潮文庫)

朗読者 (新潮文庫)

 『愛を読むひと』予習のために読む。
 15歳の少年ミヒャエルは、街で出会った年上の女性ハンナと恋に落ちる。母親のような年齢の彼女に翻弄されながらも、愛の歓びを知っていくミヒャエルだったが...。1944年生まれの法律学者による、戦争犯罪とその受容をテーマとした物語。

 第一部はむちゃくちゃエロい。主人公ミヒャエルはハンナと偶然知り合ったのち、彼女家へ赴くのだが、なんと初回訪問で下記のようなイベントが発生するのである。

 ぼくは玄関の手前で待った。彼女は台所で着替えていた。ドアがほんの少し開いている。彼女はエプロンを脱いで、うすみどり色の下着姿で立っていた。椅子の背には一組のストッキング。彼女はその片方をつかむと、両手を交互に使ってくるくると丸めた。片足でバランスをとり、一方の踵をもう一方の足の膝で支えると、前に屈み、丸めたストッキングを爪先にかぶせた。それから足を椅子の上にのせ、前に屈んで、丸めたストッキングを爪先からふくらはぎ、膝、太ももへと伸ばすと、体を脇に傾けてストッキングを靴下留めにとめた。それから体を起こして足を椅子から降ろすと、もう片方のストッキングを手にした。
(中略)
 彼女はぼくの視線を感じとった。ストッキングを手にしたところで動きをとめ、ドアの方にむき直ってぼくの目を見つめた。

 簡潔ながら省略のないストッキング描写がみごとである。しかしこれで驚いてはいけない。二度目の訪問では、暖房用の炭を運ぶ手伝いをしたミヒャエルは、促されるまま風呂を借りることになり...

「おいで!」
 立ち上がって浴槽から出たとき、ぼくは彼女に背を向けていた。ぼくの頭から足まで、彼女は後ろからタオルですっぽりくるむと、こすって拭いてくれた。それからタオルを床に落とした。ぼくは動けなかった。彼女がぴったりとそばに寄ってきたので、彼女の胸を背中に、腹を尻に感じた。彼女も裸だった。彼女はぼくの体に腕を回し、一方の手を胸に、もう一方の手を固くなった部分に置いた。
「このために来たんでしょ!」

 これなんてエロゲ*1? と一言いってやりたくなる展開である。
 しかし世界的に評価された小説だけあって、この性愛に関する部分は、男性読者の関心を引くためだけのものには終わっていない。少年は母親のような年齢の女の性に溺れ、幸福な時期を過ごし、しかしやがて彼女がかつて犯した大罪を知る。愛していた親や故郷が、実は忌まわしい過去を背負っていたと知ったのちの心のさまよいは、ドイツなり日本なりの「敗戦国」戦後世代が必ずや背負うであろう苦難だが、ミヒャエルの物語はその解決不可能な苦しみをより鮮烈に抽出していく。
 少し前の『新潮』で、宇野常寛がアメリカ発のグローバリズムを、レイプする父親でなく、巨大な子宮で包み込む母親に喩えていたが、これを伸張して表現するならば、人の抱える罪とは外部から名指しできる単体としてではなく、人を包み込み、ともすれば安息すら与えるものとして存在するのかもしれない。
 庇護し育ててくれた親なり国なりを、安易に自分と切り離して非難することはできない。ならば、人はかつてなされた罪と、罪びとと、どのように向き合えばよいのか?
 シュリンクは、そして語り手たるミヒャエルは、物語を書くことでこの問題に応えようとする。人は決して過去から自由にはなれないが、過去を観察し、再構築し、自身のなかで何度も反芻することを通じて、過去を受け入れることはできる。
 これは危険な姿勢でもある。訳者松永美穂の文庫解説によれば、この小説は「犯罪的行為を無害なものに見せかけているのではないか、という非難の声が何人かの批評家からあがった」という。確かに、過去を脚色し、舌触りのよい物語に作り変えてしまっては元も子もないだろう。しかしぼくはそれでも、なにかを断罪してそれで良しとする姿勢より、シュリンクのとった態度のほうが望ましいのではないかと思う。振れ幅があったとしても、物語として己のなかにドライヴさせていくかぎり、その問題を常にアクチュアルなものとして考え続けられるからだ。
 罪びとたちの物語は、己もまたいつ罪を犯してしまうかわからない、という警告灯として、読者の頭のなかで光り続ける。

*1:じっさい、「本を朗読すればセックスさせてもらえる」など、ゲームに出来そうな要素がいくつもある。米光一成らがすでにネタにしていそうだ。