こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『マイマイ新子と千年の魔法』


 アニメ映画を観るとき、その圧倒的な絵空事のまえで、ぼくは空想の中に全身を放り投げたい欲求にかられる。けれども空想だけに生きてはいけない、空想を全力で信じる人にとって空想は現実と等価で、ならば空想だけで生きることは現実の前に屈するのと同じだから、と思って、頭のどこかから映画館の外へと延びる繋留索に、常に手をやっているような気持ちで、観る。
 だから、今年みたアニメ映画のすべてが――『エウレカセブン』『ヱヴァ破』『サマーウォーズ』、あと『NARUTO』でさえも――、空想のなにかを追い求めたり、存在しない何かを中心に物語が回転していて、その現実への繋留索を補強しながら、より高度の空想へと導いてくれる作品であったことが、すごく嬉しかった。その2009年の最後に、『マイマイ新子と千年の魔法』を観ることができたのも、本当に嬉しい。

 空想する、すなわち、この世にないものごとを想い物語ること。
 新子たちは全力で空想する。千年前の女の子のことを心配し、死んでしまった金魚のために念仏を唱え、大人たちのせいで果たせなくなった「明日遊ぶ約束」の無念を晴らすため、殴りこみ*1に繰り出したりする。
 この映画の稀有なところは、その彼女らの信じる空想を、ことさらに空想だと強調しない点だ。現実と空想はほぼ同質なものとして描かれる。子供の信じる何かがそのままに、アニメーションのなかに顕れている。空想と現実の境に段差があって、それを乗り越える構造にしたほうが、たぶん、映画的快感は高い。でも、新子が清少納言の現実に介入したり、あるいは清少納言が新子たちの現実を変えてしまう、という空想・現実の越境は起こらない。
 いくら空想をしたって、現実を変えることはできない、と大人はわかっている。新子たちもそのことを身をもって学ぶ。一見ほのぼのした作品に思えるが、台詞で言及されるものも含めば、けっこう死人も発生している*2。死んでいったものは蘇らないという絶望、2009年のいまと比べれば圧倒的に巨大な地方-都市間の物理的距離、人々のおろかさ、そういうものも包み隠さず描かれる。
 この映画は派手なクライマックスを迎えはしないし、新子たちを囲む世界も厳しいままで、離れ離れになる友達もそのまま。新子たちの手元に残されるのは、友達同士の不確かな約束くらいだ。
 でも、空想は、現実を変えようと思う人の心を支えることはできる。空想と現実は両極にあるものではなく、常に隣り合い、お互いを補完しあうものなのかもしれない。そういう希望をこの映画は提示してくれる。

 「明日の約束」が破られてしまうこと、でも、それでもも一度お互いを信じて約束を結びあうこと。そこで描かれる暖かい何かに、2009年にこの映画が公開される意味もあるように思う。
 片渕須直監督のTwitterなどによれば、興行的に厳しく、近々東京での公開が打ち切られるという話もあるらしい。『サマーウォーズ』も『ヱヴァ』もあれだけヒットしたのだ、この映画も同じくらい多くの人に観られていい。すばらしい音楽や、実に美しい夜のシーンを体験するためにも、劇場で観るほうがよいし、前述のように、ぼくの目からすれば今年のアニメ映画を締めくくるにふさわしいテーマを扱った作品だ。さらにちょっと勇気を持って言うと、『東のエデン』を観ていない現時点では、今年のアニメ映画のなかで一番好きな映画かもしれない。
 そういうわけで、みんな、劇場へ急ごう。これはすばらしいアニメ映画だ。

*1:このくだりは殴りこみ映画史に残る盛り上がりだと思います

*2:『スペル』より多い(笑)。