2月7日、シネマフロンティアにて鑑賞。
映画は、家族たちの遍歴を時代の出来事に重ねて語る、小春(蒼井優)のナレーションではじまる。山田洋次の代表作であり、戦後日本を代表するヒーローであり、また本作と同様に家族を振り回す放浪の男の物語・『男はつらいよ』が言及され、これはもしや日本人にとっての『グラン・トリノ』なのではないか、という思いつきが頭をよぎる。
地に足の着かない生活のなかで夢を追い続け、あとのことをろくに考えずに借金をこさえる「おとうと」・鉄郎(笑福亭鶴瓶)の生き方は、意地悪くいえば、戦後の日本人たちが選択してきた道そのものではないか。
人生の最後が近づいても、鉄郎は後悔も自省もせず、わがままを貫き通す。本人は周囲の人達のあたたかな助けの手によって安息を手に入れるけれど、さんざん迷惑をかけた姉・吟子(吉永小百合)に恩を返したり、小春の将来に何かを与えたりはしない。「アメリカの男かくあるべし」と理想を示すイーストウッドに対して、最後の最後まで家族に迷惑をかける鉄郎の姿はじつに情けなく、ぜったい見習いたくない反面教師というほかない。
もうちょい彼が愛らしく振舞えば、あるいは寅さんのごとく義侠心にもとづいたちょいと粋な行動をとれば、それこそ寅さん的に日本のヒーローとして去っていくことは可能だった。でもそんな鉄郎は描かれない。カタルシスと再生は描かれない。家族は救われない。
昔のぼくならそんな作劇に怒っていたと思う。
勝手にあがりを決め込みやがって。ひとりだけ安らかに死んでいきやがって。小春たちの苦労を考えろ! などなど。
でも、今のぼくはだいたいわかっている。大なり小なり、世の人はみな鉄郎のようなもので、お互いに多大な迷惑をかけあって生きているということを。
善意にあふれた吟子の夫のような人間はごく一部で、オヤジたち(笹野高史・小林稔侍)は下心を抱えてじたばたするし、世を支える職につく小春の夫は家庭を顧みることができない。みんなその程度の人間だ。完璧な人間はいない。
だから、逆に、素直に弱さを見せる鉄郎のことを、少しだけ愛しく思ってしまうのだ。
男ならみな、イーストウッドのように後世に残る理想を語って死んでいきたいと思うだろうが、しかし、前も書いたように、それはイーストウッドレベルの男だからできることなのだ。普通の男、普通以下の男は鉄郎のように、薄汚く死んでいくしかない。そういうものなのだ。
映画の最後は、吟子と小春の母娘、そして高橋治子演じる吉永の義理の母・絹代の三人が夕食をとるシーンで終わる。映画の冒頭にくらべ絹代の痴呆が進んでおり、これから吟子たちが味わうであろう苦労も予想させる、ほろ苦さもわずかにただようシーンだ。いまを生きる者が、老いゆく者・死にゆく者を看取る仕事は、自分自身が死ぬまで永遠に終わらない、ということなのだろう。
しかし、そこに絶望はない。小春は新たな幸せを手に入れており、絶望しうる孤独な立場の吟子はほかでもない戦後日本最強のヒロイン吉永小百合が演じているからだ、という点を除いてみても、やはりそこに絶望はみえない。
絶望なんてしなくてよいのだ、と得心するにはまだ気が早いと思うけれど、でも、この映画を観たあとの気持ちは、なかなかいいものなのだった。