こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

許されたのはお前じゃない『ずっとあなたを愛してる』

 シアターキノで鑑賞。

 かつて幼い息子を殺めた姉と、15年ぶりに再会した妹、姉妹ふたりの物語。
 姉ジュリエットを演じるクリスティン・スコット・トーマスと、妹レア役のエルザ・ジルベルスタインの演技がすばらしい。演出も的確。
 大きな罪を犯した人間は、どのように生きていくのか。そのような人間に安らぎがもたらされることはありうるのか。そういった問題を真正面から描いた力作である。
 雑踏のなか、言いようのないふとした瞬間に突如ジュリエットの絶望が蘇ってしまったときのの不安定さ、姉妹の会話のなかで触れてはいけない話題に至ってしまったときのぎこちなさなど、人の心の揺れ動きが手にとってわかりそうな、心に迫った描写がいたるところにある。フィリップ・クローデルはこれが初監督作品だそうだが、実にうまいと思った。
 葛藤をへて、映画後半で姉妹の表情が徐々に明るくなっていくさまは、すがすがしい感動をもたらす。登場人物たちを応援したくなる、魅力的で、鮮やかな映画だとは思う。
 けれど、どこかのみこみ難い感触が全編にわたって感じられるのはなぜだろう?

 問題はたぶんジュリエットが息子を殺した理由と状況にある。
 詳しいネタバレは避けるが、ジュリエットが語る息子を殺した理由と状況は、多くの観客の支持を集めるだろう。そこには葛藤が生まれる余地がない。しかし彼女が真実を語っているとすると、15年間も服役していたのはおかしくないか、とも思えてくる。ジュリエットは警察の取調べに対して黙秘を貫いた、だから誰も息子を殺した理由を知らない、ということになっているのだけれど、どんなに彼女が黙っていても**すればわかるんじゃないか。フランスの警察って**しないの?とか思っちゃう。でもそのあたりは棚上げ。そのあたりの詳細を詰めておこうという意識は作り手にないらしい。
 この映画はそもそも、人を殺して15年たった人間に安らぎがもたらされるかどうか、が問題であって、人を殺すことの是非それ自体は棚上げされているのだ。
 クライマックスでレアはジュリエットを責めるけれど、苦しみを吐露するジュリエットの前で沈黙せざるをえない。ジュリエットに安らぎがもたらされた(あるいはもたらされるであろう)ことを示す印象的なカットを挟んで、映画は終わる。レアはジュリエットを許してしまうし、監督=観客の視点も彼女を許してしまう。その時、観客も一緒に「人を殺してよいのか」という問題から逃げてしまえる。
 安らぎを得るのと思考を止めるのは違う。映画内のジュリエットはたぶんこの終幕のあとも一生自らの行いについて悩み続けるのだろうけれど、でも映画を観終わったこちら側の人間に彼女と同じ問いの切っ先がつきつけられているかというと、そうはなっていない。観客はジュリエットの獲得した安らぎのイメージに癒されるだけで、彼女の苦しみを負ってはいない。
 映画は、簡単に殺人者に共感するな、勝手な共感は噴飯ものだ、ということをたびたび訴える。でも、この映画自体が勝手な共感を許してしまっているのではないか。
 ぼくはシアターキノで観たのだけれど、客席の多くを占めていた中年女性の観客たちは、クライマックス前後でぐすぐす鼻をすすっていた。でもたぶんそこで観客はカタルシスを得ちゃいけないんだよ。
 重いテーマを扱いつつも、姉妹の姿がとても魅力的だっただけに、こういう甘さは余計に許せないな、と思ったのだった。とりあえず、この映画がすばらしいっていう人のことはすぐに信用しないようにしたい。