こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

ヒーローが女を愛するとき『キック・アス』


 今回の文章では、ことさらに男と女をはっきり区別して書いています。アメコミヒーローものは男の願望から始まったものだと思うので、ことさらにこの問題は女性側ではどうなのか、ということは今回は考えないでおきます。ぼくの手には余るはなしだし。もし「なんだよ、女だって同じようなこと考えてるよ/全然違うなー」という人がいたら、ぜひ教えてください。
 また、映画『キック・アス』のことは決して嫌いではありません。映画館では大いに笑って大いに熱くなった。2010年のベスト9位にも入れたし。その高評価の上での、ということで以下をお読みいただければ幸いです。


 『スパイダーマン』三部作のことを考えながら観た。
 原作でも『スパイダーマン』がなんども言及されるが、映画では、主人公のモノローグ、建物から建物へ飛び移ろうとするシーン、そしてクライマックス後のあるシーンと、かの名作を連想させる要素がより増強されている。舞台も同じニューヨークであり、少なくともこの映画が『スパイダーマン』の影響を強く受けていることは間違いがない。
 『スパイダーマン』と原作版『キック・アス』を比べたとき、その最も大きな差異は、主人公にスーパーパワーがあるかどうか、そしてかれの恋愛が成就するか否か、の二つだ。原作でのキック・アスは、力も愛も持たない「100%の絶望と孤独」に苛まれるただの男に過ぎないが、映画でのキック・アスは恋愛を成就させることで、スパイダーマンとの違いはスーパーパワーの有無だけとなっている。
 その結果、映画版は、ひ弱な男が成長してヒーローの心を手に入れるビルドゥングスロマンとしての構成が強化されており、「スーパーパワーがなければヒーローにはなれないのか」という強力で輝かしい呼びかけを観客の胸元へとつきつけることができた。『スパイダーマン』のテーマ「大いなる力には責任が伴う」に対し、「力がなければ責任はないのか?」と反論を投げつけるキック・アスの姿は、スパイディらスーパーヒーローに憧れる人々の心を大いに震わせることだろう。
 しかしその一方でこの改変は、『スパイダーマン2』『スパイダーマン3』で描かれたような、愛する人とのつながりを維持したままで戦いつづけることの困難さと喜びというテーマにも、半歩足を踏み入れることに繋がっている。
 正直なところ、ぼくは『キック・アス』の、特に後半にどこかのみこみ難いものを感じていたのだが、恐らくこの問題が中途半端に描かれていることが原因なのだろうと思う。
 より俗っぽく言うと、このテーマは要するに「結婚したあとの男の身の振り方」に他ならない。そのことを描くヒーロー映画は少ないし、果敢に挑んだ『スパイダーマン3』も大成功しているとは言いがたい*1。男の英雄願望を充足させるフィクションを立ち上げるとき、むしろ女との付き合いは邪魔なのだ。『X-MEN』のウルヴァリン、『スーパーマン』のクラーク・ケント、『バットマン』のブルース・ウェイン..。少なくともここ十数年の映画版において、その結婚生活あるいは特定のパートナーとの長い付き合いが描かれたヒーローがいただろうか。むしろヒロインは、奪われるものとして描かれる。ヒロインが敵だった!というもの(『デアデビル』)さえある。『ファンタスティック・フォー』が唯一の例だろうが、あの映画で結婚しているヒーローがいずれもブサイクなミスター・ファンタスティックとザ・シングであることを忘れてはならない。誰がゴム男や岩石男になりたいと思うのか。あの映画内で設定される憧れの存在は、独身であるヒューマン・トーチであろう。
 ヒーローが人を愛してしまったとき、それは弱点になるし、足かせにもなる。悪人に狙われてしまったらどうする? 家族サービスのために、活躍できる時間が減らされたら? そもそも異常な存在である俺を彼女は本当に愛してくれているのか?などなど。これらの問題を乗り越えてなおヒーローたるにはそれなりの闘争と思考が必要で、片手間に扱っては危ないテーマだろう。観るものの目も厳しい。日々家族とともに生き、悩む観客よりも、この問題を考え抜かなくてはいけない。
 映画版『キック・アス』では、充分な時間もないままこのテーマに触れてしまったがために、キック・アスの魅力が大きく削がれている。一度、「愛する者を失うことが怖い」とヒーロー稼業を止めるにも関わらず、大きな葛藤もなしに彼は再びマスクを被ってしまう。その後苦境に立たされるたびに戦うことの意味や理由をつぶやいてみせはするのだが、その苦悩のなかに恋人ケイティの存在は浮かび上がってこない。ぼろぼろになった自分の姿を鏡で見て思わず笑みをこぼすという、狂的な英雄願望をほのめかすシーンがあり、彼が恋人や普通の生活をかなぐり捨ててヒーローとしての人生「だけ」を選びとってしまうのではないかとも思わせるのだが、しかし物語の結末に彼の破滅はない。
 その一方で、キック・アスは大活躍をみせる。レッド・ミストとの一騎打ちはともかく、最終決戦で用いられる彼の「飛び道具」は、キック・アスのそれまでの苦闘とはなんの関係もなくもたらされる、まさに都合の良いスーパーパワーである*2。その力をもって決戦後に行われる『スパイダーマン』を意識した某シーンなどは、爽快ではあれど、なんだかなあと思ってしまう。
 『スパイダーマン』における「大いなる力には責任が伴う」というテーマは、キック・アスが用いる文脈では「力を持つものは責任を果たさなくてはならない」という意味である。しかし、そこには「力を得るには代償が必要だ」という意味もあるはずだ。『スパイダーマン』を真にフォローするのであれば、ここを描かないのは不誠実と言わざるをえない。


 原作の救いようのない結末では、ここまで多くの人に受け入れられることはなかっただろう。映画化にふさわしい改変であることは理解できる。
 また、原作・映画に共通して、物語の末尾に行われるある人物の宣言から、続編では今回省かれた部分が描かれるであろうことも推測できる。
 しかし、ぼく個人としては、こうした瑕疵を見過ごすことができなかった。ざんねん。


キック・アス (ShoPro Books)

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 んでんで、その流れで言うと、ぼくがぐっときたのは断然原作版だった、というわけです。
 『ウォンテッド』といい、マーク・ミラーはいいなあ。続編が早く読みたい!

*1:Mr.インクレディブル』はどうなのか? あれは家族全員戦う人だった、というところがポイントで、ぼやいていたらカミさんも子供たちも特別でした!ひゃほーい!みんなで戦おうぜ!という『トゥルーライズ』みたいな乱暴さが特別に通用しちゃってる例だと思う。

*2:あれはヒット・ガールが使うべきだろ!