こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『ファースター 怒りの銃弾』

 『ファースター』を観た。
 普通映画の記事を書くときは予告編のリンクを貼るのですが、アメリカ版・日本版ともに説明が多く、コンパクトな映画ゆえそういった情報を頭に入れないで見た方がだんぜん楽しいと思うので貼りません。
 あと、予告編最後に出てくるカーチェイスって本編にはないよな。ぼくはそれで正解だったと思う。

 さて本題。
 ぼくはロック様が好きだと自覚してはいるのですが、プロレスの知識もなく、映画も『スコーピオン・キング』関連作と『ランダウン』『ウォーキング・トール』くらいしか観ていないという体たらくなのですが、そのうちの一本『ランダウン』でもってこの人の素晴らしさは充分理解しているつもり。

 「お前ら俺を怒らせるな!撃たせるな!撃たせるなよ!」→(一時間半くらい、えんえん我慢するロック様)→「うがー!!(発砲)」という、ロック様のショットガンが火を噴くまでだけで二時間弱もたせたこの大傑作コメディアクションは、監督ピーター・バーグがその後作り出す『キングダム』同様に、一つのコンセプトをキモにアクション映画を一本作っちゃおうという試みの映画であったように思います。
 で、ロック様は、そういう試みに耐えうる、記号的でカリスマティックな魅力をもつ俳優なのです。

 本作もまた、キリスト教世界での復讐劇というもともと非常に観念的(中二的と言ってもまあよろしい)な路線の物語であるうえに、主要登場人物の役名を"Driver""Killer""Cop"と設定するなど、観念的な側面をより高めようとする意志がある映画です。
 娯楽映画とするには、終盤の主人公と復讐される側のやりとりなどは少々やり過ぎの感もあり、力のない俳優や作り手であればしょぼく貧しい印象を強めてしまったでしょうが、そうした頭でっかちぶりに押しつぶされないだけの記号性がロック様にはある。『ノー・カントリー』の荒涼とした世界観がハビエル・バルデムのポップな存在感に支えられていたように、ロック様の魅力がこの映画の骨格の後ろ盾になっていると思いました。
 終盤の対話で強調される使徒ヨハネのイメージ*1、さらにはDriverが映画の最初と最後で◯◯するのは...と考えていくと、映画を作る側もそのロック様の記号性みたいなものを相当意識していたんだろうなと想像できます。
 とはいえやはり基本は肉体派なうえ、筆ペンで描いたようなわかりやすく親しみ深い顔立ちなので、そういうイメージを背負っても偉そうにならないところがロック様のさらなるいいところです。こういうポジションに立てる俳優ってほかに思いつかないし、(自分じゃ観てないけど)リチャード・ケリーが『サウスランド・テイルズ』で起用してたりと、あんがい、ゼロ年代後半からの重要な俳優なんじゃないかなー。

 ところで、中二的という言葉を使ってはしまったけれども、この映画の復讐に対する考え方はそれほど単純なものではないような気もする。
 主人公Driverは復讐を目的として行動する。彼と対立する二人の男もまた、金や仕事といった外面的なことではない理由を持っている。Killerの目的は自己の優位性の証明、Copの目的はすでに破滅してしまった家族との関係を修復すること。三者ともに、決して到達できない目的のために戦っている。Driverは復讐相手を殺したところで失ったものを取り戻すことはできない。KillerもCopも、Driverを倒したところで彼らが欲しているものは手に入れられない。
 Driverの最後の戦いの顛末は、一見するとそれまでの彼の逡巡と矛盾しているんだけど、あの最後の一発を撃つまえに、彼は復讐心から解放されているのではないか。あの一発は復讐(=過去)のためではなく、目の前にある悪(=現在)を討つためのものだ。と同時に、もう一人のあの男は、到達不可能な目的を達したと勘違いしてしまっている。
 復讐劇ではあれ、この映画が最後に至るのは「復讐は善か悪か」という二元論ではなく、「復讐はなにゆえ虚しいか」という問いであるように感じた。その問いの答えを得たものが生き残っているからだ*2

*1:ゴスペル"John the Revelator"に加え、空を舞う鷲が画面に何度か映り込む。鷲はヨハネのシンボルらしい。ヨハネは同じく聖人のヤコブの弟でもある。

*2:とはいえその生き残りもまたその後苦しむであろうことは、エンドロールで流れるHeavyの"Short Change Hero"の歌詞が示してもいるのだが。