ジム・トンプソンは本作の原作『おれの中の殺し屋』だけ既読。なのでぼくがトンプソンについてどうこう言う資格はあんまりないわけですが、この映画に詰まったトンプソンリスペクトの空気が非常に濃いということはわかる。
- 作者: ジム・トンプスン,三川基好
- 出版社/メーカー: 扶桑社
- 発売日: 2005/05
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こうして乳首を隠すことは、ハードなセックスと暴力の物語である原作の魂に反しているだろうか?
『キラー・インサイド・ミー』観た。トンプスンさいこう!という作り手の熱い思いはわかった。原作を恐るべき質で完コピしているが、重要なものが欠けているという点で『ウォッチメン』を思い出しました..。あっちはタコでこちらは乳首。
鑑賞後はこんなふうに、『ウォッチメン』の蛸と同様に、作品において欠くべきでない要素だと思っていた。大人の事情なのか女優の希望なのか知らないが、そうやって隠されたものを白日のもとに無思慮に晒してしまうのがトンプソン小説の美点ではなかったのか。
いっぽう、本作のセックスシーンでたいへんすばらしいと感じた演出がある。
ルー(ケイシー・アフレック)とエイミー(ケイト・ハドソン)が最後に床をともにする場面だったと思う。たかぶっていくルーが、エイミーの顔に手をやる。手で目を隠し、やがて顔全体を覆い隠す。
これはルーの、エイミーと交わりながらも違う女のことを想起したいという欲望を表しているのだろう。言ってしまえばそれだけのことだが、女にとってはたいへん暴力的で屈辱的な行為である。自分のアイデンティティを否定されているのだから。そういう意味で、映画前半のハイライトシーンであるジェシカ・アルバ殴打のくだりに比肩する、ヘヴィな暴力描写であり、すばらしくエロティックな性的描写だったといえる。そう、男は女を全否定しながら全肯定し、そして自分も全否定しながら全肯定したいのだ..などという方向へ話が進むとぼくの性癖吐露になってしまうのでやめておく。
このことをつらつら考えているうちに、ぼくは、まあ乳首を「隠す」というのもなかなか趣のあることだったかなと思いなおしたのだった。
そもそもこの物語には、いたるところに隠蔽のあとが充ち満ちている。ルーはいくつもの罪を隠していまに至っている。タイトルをみなおそう。「おれは殺し屋」ではなく、「おれの中の殺し屋」なのだ。彼は自分のなかに自分そのものとは異なる「殺し屋」を抱え、それを隠そうとしている。
また、隠しているのはルーだけでない。彼以外の多くのものが何かを隠しあい、また隠蔽の共犯関係を結び合う。
ルーがかれのなかの殺人衝動を解放するところから事件は始まるが、しかし巧妙にその事実じたいは周囲の人々の目から隠蔽せしめようとする。物語は、そのかれのなかの殺し屋のことを人々がこれ以上ないかたちで認識した直後に幕を閉じる。そう、これは隠蔽の物語なのだ。
ならばもう一つくらい隠すものが増えてもよかろう、というのがぼくのなかの乳首に対する最終結論である。
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映画は乳首を隠蔽して終えることができるが、ルーの殺人衝動隠蔽はかなわない。
しかしそこに隠せばよい何かはあるのだろうか?乳首は確かに目に見えなければそれでよいだろうが、殺人衝動は隠せばそれでよいのか。そもそも隠すもの自体は存在するのか。乳首について考えていたら、そんなことにも思いがおよんだ。そしてそれは案外に作品の核にちかい命題なのではないか、ともぼんやり思うのである。