こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

ドクター・グリップの誇り『アメリカを売った男』

 2001年。FBIの若き技官オニール(ライアン・フィリップ)は、勤続25年のベテラン情報官ハンセン(クリス・クーパー)の補佐役となることを命じられる。かれのセクハラ容疑を裏付けるための目付け役という下世話な任務のはずだったが、実はハンセンはより重大な事件の当事者としてFBI上層部に追われる身だった..。アメリカ史上に残る機密漏洩事件を基にしたドラマ。2007年、ビリー・レイ監督。


 俺スパイ感探求の旅、4本目。以前から観るべきと思っていたのですが、予想通りにいい映画でした。
 クリス・クーパー主演!というところから予想される通りの地味な映画だけれども、俺スパイ感度は非常に高品質。ソ連担当官たちが嘘を見抜く練習として遊んでいた「5つの自己紹介」が非常に萌える。しかしそのネタは冒頭、クリス・クーパーの口から過去の話として語られるのであって、映画はそうしたロマンとは対局の、スパイ譚のロマンに嬉々とする俺のような人間にとっては身を切られるようなざらついた様相を呈しているのであった。以下詳論。

 20世紀のスパイに欠かせないものは何か。美しい愛人、仕立てのいいスーツ、そしてなにより、モダンでハイテクな仕事道具だ。
 高速化・効率化を至上命題とした近代の都市型労働者=サラリーマンたちは、大量生産された筆記具や通信機器、記録方式に隷属しながらも、それらのなかに美学を見出した。伝統と神秘によって生み出された王族の器具でなく、大量生産品であっても、それらの道具が唯一無二の力を持ち得るという幻想を抱いた。有象無象に埋没する自分であっても、個性を持ち得ると信じたい――その夢を仕事道具に託した*1
 ジェームズ・ボンドの仕事道具:アストン・マーティン、ワルサー、オメガは、確かに高級品ではあるが、(金さえあれば)誰でも買える工業製品だ。ボンドを夢みるものたちは、貯金をしてオメガを買えばかれに近づくことができたのだ。20世紀の工業製品が持っていた輝きが、スパイものへの憧憬を支えていたと言っても過言ではないだろう。現に、工業製品を離れ、一点もの=超科学・超兵器・謎の秘密基地に耽美しすぎた結果、007シリーズの中盤ではイメージのインフレが起こり弛緩した作品を生み出してしまっている。


 前置きが長くなった。
 『アメリカを売った男』の劇中、ソ連-ロシアへと情報を売り続けたスパイ・ハンセンがこだわる道具は、日本製ボールペン「ドクター・グリップ」である。確かに書きやすく疲れない名作ではある。しかしそこには、先端科学のキーワードも、メカニカルな挙動もない。
 なんという哀しみ。


 ハンセンを演じるクリス・クーパーは、毎度おなじみ、厳格だが極めてもろい心を抱える男を見事に演じている。
 オフィスのパソコンで『エントラップメント』のDVDを観、キャサリン・ゼタ=ジョーンズに欲情するさまが泣ける。よりによって、ショーン・コネリーがボンド的男性を演じて失敗したあの映画が引用されるとは。スパイへの憧憬は地に堕ちきっている。


 冷徹な主人公オニールは、ハンセンのエゴを絶妙に刺激し、彼を死地へ誘ってゆく。
 ハンセンは長年にわたってソ連情報の高度な分析を行ってきたが、FBI内では評価されず、冷遇されていた。誰かに評価されたい、特別な人間でいたいというハンセンのエゴが、彼の身を滅ぼしていく。
 オニール自身もまたFBI内での出世を望む男ではあるが、そのエゴに飲み込まれることはない。映画の早い段階で、オニールは父との対話によってエゴの抑制を学び、ハンセンとの戦いに集中できるようになる。
 オニールの父いわく、「船に乗り、働いて、家へ帰れ」。
 それはオニールの父が出征する際、オニールの祖父が与えた言葉だった。恐怖せず感情を抑え、ただやるべきことをやれ。働くとき、己の感情は葬り去れ。
 ――しかし、それだけで働いていけるのか?
 ぼくには、ハンセンが近代社会で働くものたちの苦しみを結晶化させた存在にみえる。
 オニールの父の教えはおそらく、西欧社会の近代化、そしてアメリカの躍進を支えたプロテスタンティズムに基づいている。対してハンセン夫婦は熱心なカトリックだ。また映画のはしばしにハンセンの露出狂的性癖が見え隠れし、プロテスタントの禁欲主義との対立の構造を際立たせているようにも思えてくる。オニール家もまた元来はカトリックであり、それゆえにハンセンに信用されるというプロットがある以上、この対立はぼくが少々強引に強調したものでしかないのだが。


 いずれにせよ、堅実なディテールをそなえたよきスパイ映画である。たとえそこに映しだされるのが、実に情けない男の姿であっても。

*1:原克『サラリーマン誕生物語』に詳しい。