こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『エンドゲーム』

 『バンテージ・ポイント』のピート・トラヴィス監督最新作!というと、アフター『ボーン』な手持ちカメラ多用のハイテンションなアクション映画をイメージしてしまいますが、さにあらず。相変わらず手持ちカメラでブレブレな撮影ではありますが、なかなか渋い映画でした。

 1985年。イギリス人商社マンのマイケル・ヤングは、自社の利益を守るため、情勢不安定な南アフリカで和平の道を探っていた。政府の圧政のもとで対立し続ける国内の二大勢力、プロテスタント系白人「アフリカーナー」と、黒人たちの「アフリカ民族会議(ANC)」の対話を実現すべくヤングは両者に接触するが、それは5年に及ぶ長き交渉劇の始まりに過ぎなかった――。

 と、あらすじを語れば一目瞭然、南アフリカアパルトヘイト撤廃に至るまでの舞台裏を描いた、実録もの謀略ドラマ。
 南アフリカに材をとった最近の映画といえば、御大イーストウッドの『インビクタス』がまず思い浮かびます。あちらが、とにもかくにもアパルトヘイトが撤廃されて制度上の壁が取り払われたあと、人びとの融和をいかに実現していくか――というお話だったのに対し、こちらはそのスタート地点に至るまでを描きます。すなわち、憎みあっていた者同士がどのように同じテーブルにつき、言葉を交わしていくか、というドラマです。
 何も知らない日本のぼくからすると、マンデラを監禁し続ける白人を悪役として見てしまいがちですが、黒人の側にも問題があることが早々に描かれます。交渉のテーブルにつくANCの代表ターボ(キウェテル・イジョフォー)は、白人たちに向かって自嘲気味に「私はテロリストだ」と自己紹介します。彼自信は積極的ではないけれど、ANCは体制側への暴力によって状況を変えようとしてきた経緯がある。銀行や政府施設を狙い、一般市民には手を出さないというのが建前ではありますが、ANCも一枚岩ではなく、一般の白人たちに被害が及んでも頓着しない超過激派が存在する。交渉のテーブルについたターボもまた、彼らに脅迫を受けるはめになります。
 白人を代表するエスタライゼ(ジョン・ハート)は、大学で哲学の教鞭をとる穏健派ではあるものの、ANCのテロリズムを嫌悪し、黒人に権利を与えることで更なる暴力が白人に振りかかるのではないかという恐怖に怯えています。
 黒人あるいは白人が、悪行をやめればそれで済むという構図ではない。お互いを信用して歩み寄るしか、状況を打開する策はありません。しかし、その一歩を踏み出すには、彼らの手はあまりに血にまみれすぎている。

 そんな彼らを交渉の場につなぎとめたホスト役は、商社マン:ヤング(ジョニー・リー・ミラー)。
 彼の立場上の目的はあくまで自社の利益なのですが、ジョニー・リー・ミラーの無垢な外見もあいまって、たとえばジョン・ル・カレの近作で描かれるような、いまだアフリカから搾取し続ける悪い白人の要素はまったくない。
 また、エスタライゼやターボの苦悩が要所要所で描かれるのにくらべ、彼らとひとしく苦労していたはずのヤングの内面は描かれません。
 彼に重きを置いたほうが、ドラマとしては盛り上がるはずなのですが、そこに時間を割かないのがおもしろいし、巧妙だなとも思います*1

 おそらくこの映画が描くのも事実のほんの一部でしょうし、いまも南アフリカは多くの問題を抱えているはず。でも、そういう現実を二時間弱の映画に配分良く取り込んで、偏ることのすくないフラットなやりかたで語りきったというのは、なかなかの仕事でしょう。
 思い出してみれば、『バンテージ・ポイント』も国際情勢への批判的視点を盛り込んでいるようで、最終的にはフォレスト・ウィテカーの愛嬌が世界を救う人情噺に落とし込まれていたわけで、こういう下品にならないヒューマニズムで娯楽作品をまとめるバランス感覚は他にはなかなかない才能のようにも思えてきました。

 映画の最後では、登場人物たちのその後とともに、この和平交渉の手法じたいがIRAに転用され、さらにIRAからハマスが学んでいる旨の事実が紹介されます。いわゆる「アメグラ・エンディング」ですが、これまで見たアメグラ・エンディングのなかで一番泣けたかもしれない。モノでもヒトでもなく、手法こそが伝えられていく、というのが、いかにも老獪な詭弁の国・イギリスといったふうで、「おれたちの自慢されたいイギリス」感もかすかに味わえるのでした。

*1:だってきっと彼をじっくり描いたら、彼が属するイギリスの商社がアフリカでなしている悪行とも向きあわねばならなくなるから。