こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『最後の投票』

 日曜の午後、野暮用を済ませて自宅に戻ると、娘と妻が部屋の掃除をしていた。
「お父さんの荷物、こんなにあったよ」
 一度使ったきりのスキー用眼鏡、文学全集の月報の束、オリーブドラブの大きな鞄。重ねられたいくつかの段ボール箱。
「懐かしいものばかりね」
 まだとってあったのかあ、と妻とふたり苦笑いをする。
「押入れに、私のランドセルと制服をしまうの。いらないものがあったら仕分けしてください」
 腰に手を当てて娘が言う。
 おやおや、学校の先生みたいだ。
「たとえばこの箱、埃っぽい書類がぎっしり。かびは呼吸器系に良くない影響を与えるのですよ」
 調子にのった娘が鼻声で続ける。そうだね、君のために掃除をしよう、言って床に書類を並べる。
 妻は夕飯のしたくをはじめた。日の落ちかけた部屋の灯をつけて、紙ばさみのなかに目を通してゆく。
 捨てることにした紙の山のなかから、娘が黄ばんだはがきをみつけた。
 インクの滲んだゴム印が、ずいぶん大昔の日曜の日付を示している。投票済、というゴチックの三文字。その下の西暦を、娘は学校で習った語呂合わせで読んでみせる。
 ふたえふたえのこくみんとうひょう。
 彼女が授業で使う教科書が、あの日、最後の投票を行ったぼくたちを責めることはない。実際のところ、法をあらため、その後選び決めることのすべてを放棄したぼくたちは、ずいぶん幸せな世の中を作り上げてしまった。
 年齢も立場も超えて、ランダムに課せられた「家族」を運用することになったぼくたちは――
 世界中の力を欲するひとびとに、雇われ兵として仕えたぼくたちは――
 機械化と生化学的更新によって、数世紀の間朽ちることのない身体を手に入れたぼくたちは――
 性別を超えて妊娠できる技術を全国民に実装し、労働力を確保したぼくたちは――
 昔のぼくなら死にものぐるいで拒んだだろうかずかずの行為を、ぼくはもうひとつひとつ数えることもできないほどに重ねてきてしまった。そしてそれらは、それなりに楽しいことだったのだ。
 ぼくたちは選択をやめ、その重責を有能なコンサルタントたちに外部委託した。負わされてきた選択の結果は、おおよそ正しいものばかりで、いまではもうあの投票をいまさら責め立てる人なんて滅多にいない。ぼくたちは、人類史上最も成功した実験国家になった。
 もしあの時、失敗していたら? やれやれ、そんな心配は、多世界解釈の盲信者にさせておけ。ぼくたちは現に成功している。
「ねえお父さん、その中に地球のものはある?」
 ああ、これはすべてあそこにいたころのものなんだよ。
 ぼくは、自ら孕んで産み落とした娘の黒髪を撫でて、箱の中を見せてやる。100年のあいだ少しずつ積もった埃が舞い上がらないように、できるだけそっと。
 息をつめて箱を覗く娘のむこう、窓の外の白んだ夕空に、地球の薄ぼんやりとした姿が浮かんでいるのがみえた。

*1

*1:2012/12/16、18時ごろ。悲観でも楽観でもなくただぼんやりと書きました。フィクションです。