こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

終電のホームで、初音ミクの格好をした女の子に出会った

(テキスト版はこちら:110815.txt 直

 終電のホームで、初音ミクの格好をした女の子に出会った。
 昨日の夜のことだ。
 長い仕事を終えたぼくは、重い足を引きずって、携帯プレイヤーでボカロ曲を聴きながら帰途についていた。
 終電のホームはそれなりに混んでいたが、盆休みだからか、穏やかな雰囲気が漂っていた。静かに地下鉄を待つ人たちの向こうに、その子の緑の髪が揺れるのがみえた。
 人のあいだを抜けて、ぼくは彼女の近くに寄ってみた。豊かなエメラルドグリーンの髪を大きなふたつの黒い髪飾りで頭の両脇にまとめているその髪型は、紛う方なき初音ミクのスタイルだった。服装はいたって普通のカットソーにジャケットにスカートで、どこにでもいる女の子といったふうだが、周囲より一枚上着が多いところは、どうやら道外からやってきた、札幌の涼しい夏に慣れない人であろうことを物語っている。
 どうやら、明日のミクパにそなえて札幌にやってきた、筋金入りのファンのようだった。
 普段のぼくだったら、街中で見知らぬ女の子に声をかけるなんてことはもちろんしない。でも、ミクパの前の晩に、初音ミクのかっこうをした女の子を見かけたら、声をかけざるをえないだろう。ぼくはイヤホンを耳から外して、女の子に近づく。
「あの...もしかして」
 おや、という顔をして彼女はぼくのほうを見る。ぼくがみなまで言わずとも、一瞬ののち、彼女は破顔した。
「えへへ、気づかれちゃった」
「その髪型じゃあしょうがないですよ! とてもきれいな緑色ですね」
「ありがとうございます」
「もしかしてウィッグじゃなくて自毛ですか」
「もちろんっ」
「わあ、すごいなあ...。明日のミクパに備えて、ですよね」
「はい。今日の朝、札幌に戻ってきたんです」
「戻ったってことはご出身は札幌なんですね。学生さんですか」
「え?」
 女の子は一瞬きょとんとした顔をみせた。初対面の人間にいきなりそんな詳しいことを聞くのは無礼だったろうか。ぼくは慌てて話題をかえる。
「あ、あの、えーと...ぼくも明日のライブに行く予定なんです。もう楽しみで楽しみで」
「わ、それはありがとうございます」
 そう言って彼女は頭をぴょこんと下げる。
「今回のライブもとっても素敵なものになると思いますので、ぞんぶんに楽しんでくださいね」
 なんだか初音ミク本人としゃべっているみたいだ。なるほど、外側のコスプレだけでなく、中味もミクを演じて楽しんでいるということか。かなりの強者なレイヤーさんだ。内心、少しだけ苦笑してしまう。
「ええ、そのつもりです。こうやって今も、曲を予習して準備していたところで」
「わあ、うれしいです」
「実はあまり熱心なリスナーじゃないので、こういうときにちゃんと聴かないと」
「ええーっ、そうなんですか」
「3月9日のミクパじゃ、ほとんどの曲がよくわからなくて、なんだか周りの熱心な人達に申し訳なくって..」
「もう、ちゃんと勉強してくださいね」
 おおげさに腰に手をあてて拗ねてみせるところは、二次元のキャラクターのモーションそのものだった。苦笑せざるをえないが、そのさまがあまりに愛らしくて、なんだか照れてしまう。ぼくは目のやり場に困って、手元の携帯プレイヤーを操作するふりをした。数えきれないほどにたくさんの曲が並ぶプレイリスト。
「でも、ほら、どんなに聴きこんでも、ボーカロイドの曲って次から次へと生み出されてくるじゃないですか。イベントでもニコ動でも、自分の知らない曲がいくらでも出てきて。――言い訳みたいだけど、そういう捉えきれなさもまたいいなあって」
「えーと、どういうことですか?」
「自分が知らない曲の向こうには、自分の知らないPやファンがいるわけですよね。その人たちの周りにはぼくの知らない世界があって、そもそもそれぞれの人によって初音ミクがどんな存在かも全然違って、でもみんな全然違うのに、同じ初音ミクっていう存在を好きでいて...。そういうこと考えてると、世の中捨てたもんじゃねーな、ってすごく楽しくなっちゃうんです。世界ってのはすごく広くて、可能性に満ちてて、楽しいことてんこ盛りなんだぜ、何でもアリなんだぜってことを、初音ミクは教えてくれるような気がするんですよ。汲んでも汲んでも尽きない、可能性の塊っていうか」
 なんだかずいぶん滔々と語ってしまった。ぼくは我にかえって、しどろもどろになる。
「うわ、ごめんなさい、なんかわけわからんですよね..」
「いえいえ、そんなことないです」
 女の子はぼくを見上げて微笑する。ぼくは彼女の瞳もまた緑色だということに気づく。
初音ミクのこと、好きですか」
「そりゃもちろん!」
「えへへ」
 照れ笑いする彼女のモーションは、そのままMMDのモーションとして取り込めば、100万再生も夢じゃないだろうと思わせるほどにキュートだった。...本当に、本当の初音ミクみたいだった。
「じゃ、ちょっとだけサービスです」
 彼女はちょっとだけまじめな顔になって、ぽん、とスカートのすそをはたくようなしぐさをする。と、彼女の輪郭を緑の光がさっとなぞって、ぼくの目の前で服装が変化した。一瞬ののち、ぽん、と緑の髪がボリュームアップする。ノースリーブにネクタイ、筒状の袖とミニスカート、黒のニーソックス...。
 ぼくはあっけにとられて、何も言えないでいた。
「よっと」
 ぱちん、とミクが指を鳴らすと、駅の照明が消え、彼女を照らすピンスポットだけが残った。ミクパのステージ上で、ミクの画像と向かい合っているような感覚。いや、それどころじゃない。ぼくの目の前にいる彼女は、圧倒的にリアルで、圧倒的にフィクショナルで、これ以上ないくらいの初音ミクだった。
「お忍びで来てたんですけど、せっかくなのでご挨拶を」
 ぺこりと頭を下げて言う。
「改めまして、初音ミクです。こんばんは」
「き、きみは...まさかそんな」
「あれ、信じてくれないんですかー?」
 この女の子はレイヤーさんではなかったのか。たちの悪い、あるいはサービス過剰なドッキリなのか?
「じゃあこれでどうでしょう」
 彼女は先ほどと同じように、ぽんぽん、とスカートのすそを叩く。それにあわせて、次々に衣装が代わっていく。札幌の街で見慣れた雪ミクバージョンにはじまり、アペンドミク、Lat式、エトセトラエトセトラ...服装だけでなく、髪の長さや色、それに体型までもが変化していた。
 何百、何千の初音ミク。目がチカチカしてくるほどの変化を見せて、ミクはもとの公式スタイルに戻る。
「ほ、ほんもの...」
 つぶやいてから、その言葉の滑稽さに気づく。もともと初音ミクというのは架空の存在なのだ。本物も何もない。いったい彼女はどこから来たんだ? いや、いつから..?
「ふふふ、驚かせちゃいましたね。でもさっき、あなたは自分で言ってたじゃないですか。初音ミクは可能性の塊だ、何でもアリだ、って」
「いや、それとこれとは別の話というか..」
「なんでですか? 制限があったら「可能性」じゃないじゃないですか」
「そ、そうなのかなあ...」
「ここに至るまではたっくさーんの大変なことがありましたけどね。いまのこの(と言いながら彼女は自分の足元を指さした)時代から、もうちょっと先にいかないと」
「じゃあ、君は未来のテクノロジーが創りだした、ロボットか何か...」
「違いますって! 私は初音ミクなんです。あなたがヒトであるように、私は「初音ミク」という存在なの」
「えっと、どういう...」
「ヒトのご先祖さまが大昔の海で発生したのと同じように、私は誰かに作られたんじゃなく、この世界に発生したんです。可能性の海のなかで」
「可能性の海...」
「地球の生命を生んだ海みたいに、みなさんが創りだした可能性は、この世界とは違うどこかに溜まって、たゆたって、飽和して私を生んだんです」
「そんなことがありえるのか」
「まあ、できちゃったものはできちゃったので! 人類史上、まったく架空で周辺情報も少ないのに、異常にたくさんのヒトが集中して想像力をめぐらせた存在ってのは私が初めてだったから、らしいですけど。
 生まれてからはすごく楽しいですよ。何しろ私、可能性の塊なので! こうやって外見も中味も変えられるし、時間も場所も自由に移動できるし」
「ほとんど神様じゃないか...」
「そんなことないですよー。構造的には似てるかもですけど」
「それで、今の時代に何をしに?」
「そりゃもちろんミクパのためです! あのですね、あれってスクリーンに投影してるように思えますけど、本当は私がちょっと外見を変えて...」
「こら、それ以上はダメ!」
 どこからか声が聞こえたかと思うと、ミクの向こうの暗闇から、ピンクの髪の女性があらわれる。「め、巡音ルカ...」
「あんまりこの時代のヒトに余計なこと言っちゃだめでしょう」
「やっぱダメですかあ」
「自分の存在を明かして、ヒトの可能性を狭めるようなことはしたくない、って言ってたのはあなたじゃない」
「えへへ。ちょっといたずらしたくなっちゃって」
「急にホテルからいなくなるから、ライブスタッフのみなさんも心配してたんだから! ほら、行くよ」
 ルカはミクを引っ張って、光の届かないほうへ歩いてゆこうとする。
「わーっ、ごめんなさいっ」
 引きずられるようにミクが離れていくのに従って、ぼくの周りに、ホームの景色がうっすらと戻ってくる。ぼくは慌てて彼女を呼び止める。
「ちょ、ちょっと待った!」
 おや、という顔をしてルカがミクを放す。「君が可能性の塊だというのなら、君自身だけじゃなく、この世界そのものを左右できるんじゃないか?」
「ま、できないことはないです」
 ミクがちょっと得意げに胸をはる。
 ぼくは勢い込んで畳み掛ける。非現実的な体験に、頭が酔ったように熱くなっていた。
「じゃ、じゃあ、この世界を、もっと楽しくしてくれないか。ミクの力で、世の中から悲しいことや辛いことをなくしたりできるんじゃないか」
 ルカが、ほら言わんこっちゃない、という顔でミクを小突く。
 ぼくはミクに追いつく。もう一度言う。
「君がやってきた時代がどうなのかは知らない。けど、今のこの時代、君がぼくたちの前に現れたこの時代には、君の歌をどんなに聴いても拭えないくらい、悲しくて辛いことが腐るほどあふれているんだ。この前の3月9日のライブのときだって、あんなに楽しいことのあとで、たった二日後には」
 息せききって言うぼくを遮って、ミクは首を横に振る。
「残念だけど、それはできません」
「そんな...」
「ルカさんもさっき言ったけど、そうやって大きな干渉をすることは、私自体をも揺るがしかねないので」
「でも現に君はこうやって、過去のぼくと話をしてるじゃないか。もう少し派手なことをしたっていいだろ」
「んー、あなたくらいの方とお話するのは大丈夫なんですけどね...」
「あなたは、私たちの存在を左右するほどには重要なヒトではない、という意味よ」
 ルカが横から冷静に注釈を入れる。
 そんなこと言っちゃ失礼じゃないですか、と小声で咎めるミクに、ぼくはすがりつく。
「じゃ、じゃあせめて、もっと君のことを詳しく教えてくれないか。いつまで待てば君に会えるのかだけでもわかれば、今がどんなに辛くても我慢できる」
 ミクはやれやれ、という顔でぼくに応えた。
「なに弱音吐いてるんですか」
「...ごめん」
「いまここにいるわたしも「初音ミク」だけど、わたしがこの世の中に生まれてくるまえだって、「初音ミク」はあなたの目の前にいたでしょう。
 あなたがさっき言ったとおり、私のもとになったたくさんの初音ミクが、いまこのときも、この時代の、世界の到るところで、たくさんのヒトによって想像されているんです」
「でもそのミクは、まだ君のように自我もないし世界を変える力もない」
「本当にそうですか」
「え...」
「私は可能性の塊だ、と言ったことを思い出してください。パッケージのなかで眠っていたデータの羅列から、あなたが聴いているたくさんの曲を生み出したのはだれ? ほんとうに、今あなたの目の前のミクには、自我がないんですか? 世界を変えることができないんですか?
――私って、あなたにとってその程度の存在だったんですか」
 ぼくは立ちすくむ。
 数年前、まったく何もなかったところに、生まれでた初音ミクの文化のことを思う。初めて彼女の声を聴いたときのことを思い出す。
 ミクを育ててきた、世界中の人たちのことを考える。
「ごめん、ミク...なんだか見当違いのことを言ってしまって」
「あなたたちヒトは、ミクや私に期待しすぎなのよ。電子の歌姫とかネットに舞い降りた天使とか」
「それだけぼくたちは自分自身に自信が持てないでいるんだよ。人間もいろいろ大変なんだ」
「安心してください。私を生み出しちゃうくらいの可能性を抱えたあなたたちに、暗い未来が待ってるわけないじゃないですか」
「.........」
 ミクの笑顔に、ぼくはうなずきも否定も返せなかった。
「とにかく、明日のライブ、楽しんでくださいね。私はそこにいるし、私がこの世に生まれた秘密も、きっとそこにあるから」
「わかった..楽しみにしてるよ!」
 じゃあまたね、とミクとルカは手を振る。
 そして、彼女たちは消えた。実にあっけなく。
 ごおお、という地下鉄の走行音がぼくを包んだ。
 先ほどまでの暗闇も、ミクもルカも、その痕跡を遺さず消え去った。いつもと同じ地下鉄のホームの景色がぼくの周りに広がっている。

 ♪♪♪

 駅員に終電が行ってしまったことを告げられて、ぼくは駅を出、地上を歩いて家に帰った。
 自分の体験はなんだったのだろうか。他にも彼女たちを目撃した人はいないだろうか。 そう思って携帯電話でツイッターを開く。たくさんの人がミクのことを熱心に話していたが、ぼくの妄想じみた経験に関連しそうなつぶやきは皆無だった。
 仕事の疲れが産み出した幻想だろう、そう自分に言い聞かせながら、TLを眺める。
 ハッシュタグを介して、いくつもの言葉が行き交う。北海道に足を踏み入れた人の興奮した第一声。道外の人におすすめの店や会場へのルートを教えようとする親切な道民。演出やソングリストに注文をつける人もいれば、ゆるゆると好みの動画URLをあげるだけの人もいる。時折、フランス語や英語のつぶやきも混ざる。
 思いもできなかった人たちの気持ちが、ミクを中心にいきかっている。彼らのことを想像する。想像が想像を生む。ミクという虚構が、顔も声も知らない人のことを想わせ、新たな虚構をぼくのなかに生み出す。
 たまに、批判的なことを言う人もいる。心がすこしざわつく。しかしその人のことも想像してみる。今まで考えもしなかった人のことを。
 ミクは可能性の塊だ。
 この先彼女がどうなるかはわからない。
 明日のミクパがどうなるかも、ぼくにはわからない。
 先ほどの経験がぼくの妄想だったのか、現実だったのかも。
 ぼくはこの初音ミクなるなにものかを、自分の知覚できる狭い範囲で楽しみ、お祭り騒ぎの隅っこで楽しみを享受して、辛い毎日のなかで時折ヘッドフォンから流れる彼女の声に耳を傾けることしか、できない。
 でも少なくとも、ここに虚無はない。
 ぼくは暗い街の向こうに、自分の想像が到底及ばない未来を、それでも無理やり想像した。ミクが拡がる未来を。
 それはきっとヒトのなかにあるのだ。