こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

神と子のお話『マン・オブ・スティール』

 スーパーマンのお話というのは、まあたいへんオーソドックスな貴種流離譚です。強大な力をもった英雄への畏れと、そんな英雄でも人の心を解し、愚かな人間を導きともに楽しく過ごしてほしい、という希望によって形作られるドラマ。半分神、半分人間という出自のもと、クラーク・ケントは悩み、人間たちは右往左往します。
 ぼくのTL上では、『マン・オブ・スティール』を観た人たちの結構な割合が、映画後半で繰り広げられる大破壊描写についてネガティブした印象を語っています。ぼくも正直なところ、楽天的なイメージのスーパーマンの物語で、ここまでやらなくてもいいのじゃないか、と思いました。911的大事故を食い止めるくだりを中盤のクライマックスとしたブライアン・シンガーの『スーパーマン・リターンズ』のやり方のほうが、スーパーマンというヒーローにはあっていたんじゃないかなと思います。
 しかし、スーパーマンについてある程度リアルな描き方をする以上、この「災厄」があれだけの表現になったのは仕方のないことだと思います。なにせスーパーマンは半分神様なので。神とそれに類する英雄たちは、人間たちのことなんか気にしないのです。台風みたいなものなのです。その、ヒーローたちの途方もないスケールの活躍と破壊の扱い方には、ギリシア神話をイメージさせたアン・リー版『ハルク』や、一作品でメタっぽい笑いから神話系までやりきって珍味になっていた『ハンコック』などを思い出しました。アクション描写的には、明らかに過剰すぎてマンガ/アニメーション的な快感を生じさせた『ブレイド2』のウルトラアップデート版といったふう。

 ぼくを含めて多くの観客があの大災厄にモヤモヤしている理由の一つに、スーパーマンを演じるヘンリー・カヴィルがすばらしくチャーミングだから、ということがあると思います。コミックスの、バットマンと敵対するお話なんかに登場するスーパーマンってもっと冷徹さ、超越者ぶりが強調されていると思うのですが、ヘンリー・カヴィルは明らかにそういったスーパーマンの神性にはそぐわない魅力をもっている。世界を放浪する孤独な姿も、父に厳しく力を制限されて反抗してみせるふつうの青年ぶりも、そしてなによりあのスーツを着てアルカイック・スマイルを炸裂させてみせる「ホット」な英雄ぶりも、みなすばらしい。映画の最後も彼のすてきな笑顔で終わります。
 それゆえに、あんな青年があれだけの災厄の片棒を担いで、そのまま済むはずがない…と思ってしまうわけですね。
 『バットマン・ビギンズ』のあとに『ダークナイト』があったように、そのあたりは次回作"Batman vs. Superman"で掘り下げられていくのかもしれません。でも、『エンジェル・ウォーズ』が好きでデイヴィッド・S・ゴイヤーの最近の諸作がいまいちしっくりこないぼく個人としては、いっそザック・スナイダーメインで、もっと気楽に(でもナイーブに)組み立ててくれたほうがいいのでは、なんて気もしています。

 さてそういうわけで災厄の描き方に容赦がなく、かつフォローも少ないので、観ているあいだ「ザック・スナイダーって本当は魂のないやつなのでは..」とハラハラしてしまうのですが、人としてクラーク・ケントが悩み成長していく、彼と周りの人々を描く部分はどれもとてもよかった。なので、「ザック・スナイダーはちゃんと心があるんだな…」と勝手に安心できました。
 クライマックスの大破壊が終わったあと、感情の盛り上がりとクラークの拠り所の再確認のシーンとして、彼を見つめる両親たちの回想が挟み込まれます。予告編でも中心になっていた映像ですが、これが実にすばらしい。スーパーヒーローに憧れる人の心の美しさと尊さを凝縮させた名シーンです。どんなに大破壊のあとでモヤモヤしていても、あそこには心を鷲掴みにされてしまいます。

 過去と現在を細かく行ききする展開のスムーズさは、最近『ウォッチメン』に『エンジェル・ウォーズ』と展開の複雑な映画をサクっと作っているザック・スナイダーならではという心地よさでした。
 主要人物のみならず、脇にいたるまでいきいきとしていた俳優陣の使いぶりもなかなかのもの。とくにマイケル・シャノンは最近のアメコミ映画の悪役で一番よかったなあ。衣装もかっこよかった。

 そういえば、予告編ではラッセル・クロウケビン・コスナーという、クラーク・ケントの生みの父親・育ての父親のふたりの声が印象的でした。映画本編でも彼らはそれぞれにクラークを導く善き父親なのですが、なんだか善き父親に過ぎるなあ、という物足りなさも感じています。で、そんな父親とのドラマの物足りなさを感じる自分って、自分じゃ認めたくないけども、父親との和解を求めて生きる全ての息子のなかの一人なんだなあ、といまさらしみじみ思ったりもしたのでした。最終的には、神と子の物語を求める心ってのも、心のなかのそういう欲望が端緒なのかもしれませんし。