こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

ぼくの父さんはどこ? 『オン・ザ・ロード』

 映画はつぶやきのような歌ではじまる。放浪する我が身、そして旅先で出会った同じく放浪する死にかけの父親の歌。
 物語の冒頭、主人公サルは父親の死に打ちのめされている。父が最後まで自分を認めていなかったことにも。
 サルがとらわれる放浪の男ディーンは、幼いころ父に捨てられた経験をもつ。人生に迷い、父が消息を絶った街に戻って彼を探し求める姿が悲痛でかつ魅力的だ。父を知らないかと人々に訪ね歩くディーンを、少し離れたところからついていくサルの視点で描く。筋肉質の身体に、ブルージーンズに白のTシャツというスタイルが、逞しくも幼くもみえる。
 ディーンは娘をもつ身だが、まっとうな父になることができず、世界のどこかに父を探して放浪する。サルがディーンについていくのは、彼のなかに失いたての父性をみているからかもしれない。

 原作を読んだのが数年前なのできちんと記憶していないのだが、かように父親のことにとらわれた物語だとは思わなかった。

 もうひとつ「原作もこんなんだったっけ」と思ったのが、サルの旅が徒歩とヒッチハイクで始まることだ。最初から車でがんがん飛ばしていくイメージだった。
 旅に出たサルの心の高揚とあいまって、このサルひとりの旅のくだりが、映画のなかで最もみずみずしく楽しい。歩くサル、徒歩のスピードでゆっくり動くカメラ、背景でそれらより少しだけ早くながれていく川の流れ...など、美しい映像も連続する。

 サルもディーンも、いや、概ね全ての登場人物が身勝手で愚かだ。彼らの複数回の旅はいずれも虚しい終わりを迎える。
 かように、文体の力や時代性を脇において単純な粗筋だけを並べれば「こいつら本当にヒドい連中だなあ」という感情しか呼び起こさないだろう物語を、よくここまでの映画にしたものだと思う。作り手と俳優たちの思い入れもたっぷり伝わってくる。主役から脇役までみないい演技をしているが、もっとも印象的だったのはサム・ライリーのかすれたナレーションだった。

 さて結局のところ、荒野をいくらさまよっても、そこに父はいない。人は自らのなかに経験をへて新たな父を作り上げていく。まさに父は路上に在るというわけだ。やがてはそれが自分の核になり、自分自身の人生を生きていく源になる。
 サルは放浪を経ていっぱしの文化人になる。ラスト、彼の前に現れたディーンとのすれ違いぶりは、観客としては悲しく見える。
 いつまでも放浪を続けたディーンは、自分自身の生を生きたといえるのだろうか。彼はただただ虚しいだけの人間ではなかったのか?
 答えはイエスでありノーだ。彼は空虚だったからこそ周囲を魅了した。ケルアックの小説、そしてこの映画の中心となって、世界を魅了する。虚しさと無意味さは必ずしもイコールではない。

 ビート文学の金字塔たるこのいびつな物語について語るとき、父性にまつわる教訓めいたことを述べるのはどうにも気がひける。その無粋さを知ったうえで言うと、この物語がその当時にもたらした、また現代にまだものを知らぬ若者が観るときにもたらす知恵というのは、結局のところ世界も人も父も虚ろであり、虚ろであってもそれらは回転し動いていく、全ては途上にある、といったことなのだろう。
 『マン・オブ・スティール』を中心に、この夏の大作映画が軒並み、男であることの挫折と復活をテーマにしているようにぼくには観えていて、それらの映画から受け取ったものの充実と、ちょっとした胸焼けを相対化するのにちょうどいい体験だった。夏の終わりと秋の始まりのいまにぴったりの風通しがある映画だとおもう*1


↑最近ちょうどジャクソン・ブラウンにはまっていたのもよかった。

*1:とはいえやっぱこの映画の男連中は大層ヒドいので、そう爽やかな映画でもないことをお断りしておく。