こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

愚かさとテロリズム『残響のテロル』

 今日は中盤から録画を溜めていた『残響のテロル』を一気見してその面白さと真摯さに心打たれていたのだけれども、ネット検索やTwitter検索ではあまり好意的な批判を見つけることができない。自分のTLでは好評なんだけども。

 もっとも多く印象に残るのは、テロリストも取り締まる側も頭が悪くみえる、という言説だ。テロリストたちが愉快犯的に出題するクイズがくだらないという者、警察がテロリストたちに振り回されすぎるという者、テロリストたちが不確定要素に振り回されすぎるという者…。ざっくり要約すれば、「登場人物たちの頭が悪い」という批判。

 ぼく個人の印象としては、『残響のテロル』における謎解き要素や、テロの計画、捜査に頭の悪さを感じることはほぼない。スパイフィクションを多数楽しんでいる身として、過去の様々な作品と比較してもかなりのハイレベルにあると自信をもって断言できる。
 どうも件の批判者たちは、テロそのもの、フィクションそのものの「頭の悪さ」を嫌っているように思える。それは大きな思い違いであり、フィクションを楽しむ邪魔になり、ともすれば現実のテロを考える阻害にもなりかねない。

 みんなテロをなんだと思っているのか。
 テロには多種多様な定義があって、なにをもってテロとするかはそう簡単に言えないことだが、この作品のなかでのそれは「社会の定めたルール内では力を持たない個人が、短い時間と少ない労力で最大の影響を社会に与えるべく、暴力を用いること」と要約できるだろう。
 いかに個人が阻害されていても、社会のなかで生きている以上、社会のルールには従わなくてはならない。もしナインたちが社会のなかの害悪を改善したいというのならば、暴力以外の手段を選択しなければならない。なぜなら、社会全体の幸福を考えれば、そのルールを破ってはいけないからだ。
 しかし、ナインたちは暴力を選ぶ。短い時間と少ない労力で成し遂げたいと彼らが欲するからだ。そこには社会の側からみた論理性や正当性はない。ナインたちの感情と都合が最優先なのである。テロリストたちを規定するのは彼らの心のありようなのだ。だから、かれらの振る舞いが論理的でない、と批判するのはナンセンスでしかない。

 彼らの計画が計画どおりにいかないことを批判するのもおかしい。夏休みの予定だろうが仕事のTODO消化だろうが、計画というものはうまくいくわけがないのである。
 もちろん、ナインたちの計画が運まかせばかりであれば批判されて当然だけれども、ぼくの観る限り、彼らが準備したテロ計画にそういった瑕疵はない。彼らが失敗し運に任せざるをえなくなるのは、リサなりハイヴなり、予想外の要因があらわれた時だけである。

 徐々に明らかになっていくナインたちの過去をみて、恨みのある組織や個人に直接暴力的な手段を取ればよいのではないか、とする意見もまた的外れだ。それはナインたちの心にそぐわないことなのだから。テロリストはトヨタの工場長ではない。効率と成果を最優先しないからこそ彼らはテロリストになる。

 極端な表現をすれば、テロリストはアーティストなのだ。
 他の様々な方法を選ばずに、暴力を選ぶ。他の様々な方法を選ばずにアニメを使って表現する人、SNSでアニメを批判する人、ブログに文章をアップするぼく、のように。論理的でも効率的でもなく事をなす。

 これは横道に逸れる話題だけれども、テロリストの頭の悪さを笑い飛ばす者はしばしば、己の頭の悪さに気づけないこともある。「現実のテロを考える阻害」と言ったのはこのことだ。
 911同時多発テロを扱った小説『ザ・ゼロ』で、あるテロリストがアメリカの「信仰」についてこう指摘する。

エンターテインメントは今のあなた方が作り出す独自の産物だ。それはプロパガンダの一つの形でもある。これまで企てられてきたなかで最も狡猾で、最も強力なプロパガンダ。(中略)この信仰に関して、あなた方は真面目で保守的な原理主義者だ。君たちが戦っていると思い込んでいる真面目で保守的な原理主義者たちと大差ない。彼らが来世の美しい処女たちという物語を抱えて、門を叩く野蛮人だとすれば、あなた方も野蛮人ではないのか?君たちの場合は肉感的な金髪娘やアニメの魚たち、話す車などが出てくる”めでたしめでたし”の物語を放送しまくり、それによって世界を包み込んでいるのだ。そうではないか?

ザ・ゼロ

ザ・ゼロ

 『ザ・ゼロ』において、アメリカ人たちはイスラム原理主義のテロリストたちの裏をかこうとして逆に愚かな所業を繰り返す。テロの被害を被った経済を立て直すためと称して、ひどく効率の悪いシステムが作られたりする。
 何もかもを相対的に見ていては何もできなくなってしまうけれど*1、しかし、「彼らは愚かでありわれわれもまた愚かである」ということは忘れないでいたほうがいい。
 というのも、テロリズムというものはそもそも、人の愚かさを無視し純粋で高潔なものを追い求めた結果に現れる、ということも歴史からみてまた明らかだからだ。遅々とした政治のシステム、理想を追い求めない俗な庶民のふるまい、そういったものを否定したところにもテロはうまれる。
 テロリストたちの感情や現実の複雑さを否定していった先には、また別の暴力があらわれかねない。少数派か多数派か、個人か国家かに関わらず、テロは発生する。一方の側だけから物事を考えることは、そうした暴力を見つけ防ぐ邪魔になる。

 こう考えていくと、ナインたちの足を引っ張るリサの愚かさや、(おそらくは)天才を育成する「アテネ計画」といった作品内の諸要素は、こうしたテロと愚かさの関係を明らかにし、解きほぐしていくために配置されたものではないか、という気もしてくる。
 天才であるハイヴは感情によって暴走し、アテネ計画の闇を、愚直な警官たちが明らかにする。早急さと短絡さによってテロを選んだナインとツエルブが、愚かなリサによって無効化される。テロリストが抱える愚かさは、異なる愚かさによって解きほぐされていく……のかもしれない。
 この夏日本公開された韓国映画『テロ、ライブ』は、一時間半を使って、感情にかきたてられてテロリストになる男たちの姿を描ききって鮮烈だった。人がテロを選びとったその後を、ワンクールのシリーズアニメである『残響のテロル』は描けるのではないか。
 残り話数が少ない中では、少々高望みかもしれないけれど。

 最終的にこのアニメがどこまでいけるかわからない。しかし少なくとも、これは繰り返し言っておきたい。テロリストと人の愚かさには密接な結び付きがある。それを踏まえずして『残響のテロル』を語ることはむなしい。
 そういうことを考えながらこのアニメを観る人がいっそう増えてくれたらぼくは嬉しい。

*1:そしてその手詰まり感が『ザ・ゼロ』の限界であり、現実分析と娯楽を武器に相対主義の底なし沼とは一線を画すスタインハウアーやル・カレらの娯楽寄りなスパイフィクションのほうが尊いと思うけれど