こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『残響のテロル』覚書


 『残響のテロル』が最終回をむかえた。
 2014年の日本でしか作れない、類まれなるサスペンスだった。
 スパイやテロといったテーマの頻出するフィクションを多く楽しんでいる身として、少なくとも今年の日本においてはベストだし、海外の諸作品と比べてもそうとうに高い位置を占めることのできる作品だったと思う。

 強く心を奪われる作品であると同時に、瑕疵の多い作品でもあって、全面的な喝采をもって迎えられているわけではない現状も、やむを得ないことではある。が、このアニメには、様々な読み、感じ方を通して味わい、考え伝えていくだけの価値があると信じる。明確な論旨を立てられるかはわからないが、ぼくが注目したいくつかのポイントについて語ってみたいと思う。
 なお、ネタバレ満載なのでご注意ください。

■「ハイヴいらない」論と最近のスパイフィクション
 躍起になって反応するのも少々大人げないが、このアニメはそのクオリティに反して、浅薄な批判にさらされ過ぎていると感じるので、いくつか目立った意見に対する反論を示しておきたいと思う。

 まず、最終回の視聴まで至ってまで、「テロリストたちがなにをやりたいのかわからなかった」という意見が多かったことに驚いた。核爆弾という兵器の巨大さと、個人的な動機との釣り合いが取れていない、という印象も強いようだ。
 テロリストは決して効率性を重要視しているわけではない、という話は前回すでにしたので省く*1
 ナインとツエルブが核爆弾を脅迫に用いたのは、二人をかつてアテネ計画に引きずり込み虐待した日本政府の一派が、同じく手を染めていた秘密計画の産物だったからである。いわば核爆弾は彼らふたりの隠された兄弟だったのだ。
 高高度核爆発はリスクがないわけではなく、電子機器の故障によって生み出される被害を考えなかった二人は身勝手だ、という批判も目にしたが、その爆発はあくまで記者会見でことを公にできなかったときの保険だったはずだ。社会が正義をなしたのならば、彼らは最大の牙をむくつもりはなかったのである。

 キャラクター面でもっとも多くみられた批判は、ハイヴは不要だった、というものだ。
 彼女が登場当初から体調不良に悩み、生き急いでいたさまは、ナインたちの運命を明示する役割をもつ。また、かつて施設に残った彼女とナインたちの因縁は、リサとの関係を憐れみや依存だけに終わらせない深みをもたせている。苦しみを取り除き、自由を与えるだけでは人の魂は解放されない。それを表して死んでいった彼女の執念のありようは、論理だけではなく感情によっても組み立てられているナインたちの計画にも通底する。
 ハイヴという日本出身の人間、身内がアメリカからの敵として登場することで、アメリカとテロリストというテーマを考える際にどうしても生じてしまう断絶(アメリカにとってテロリストは決して身内にはならない、という前提から生じる無理解や共感の不可能さ)を防いでもいる。大人のように振る舞うアメリカに対してこのような形で「あなたたちもまた子供ではないのか」と率直に指摘できるのは、日本くらいだろう。
 また、身勝手な子供のように振る舞うハイヴはいっけん超大国アメリカの優秀な諜報機関のイメージとはかけ離れて見えるだろうが、かの国が実際に過去になしてきた所業を知るものならば、その幼児性には時折強いリアリティを感じてしまうはずだ。
 そうした要素と引き換えに、ハイヴとの戦いは柴崎との戦いがもつ清新さ、クールさを失ってはいる。だがそこで問われるべきは演出上のウェットさの度合いであって、作り手やキャラクターの「頭の良さ」ではない。

 なお余談になるが、スパイフィクション/ポリティカルフィクション愛好者として指摘しておくと、主義(論理)ではなく感情によって駆動する「敵」というのは、ここ最近の一つのトレンドである。
 911を発火点とするアメリカの「テロとの戦い」は、西欧の作り上げたグローバリゼーションというシステムが、システムの負債を押し付け続けたことで作り上げてしまったイスラム世界/途上国の敵、すなわちシステムの裏返しとしての敵だった。『ボーン・アイデンティティー』三部作は、テロリストたちと戦うためのCIAというシステムを敵に設定することで、この状況を裏側から描いていた。
 次に敵に設定されたのは911を防げなかったアメリカの諜報機関で、これはシステムそのものではなく、システム内に巣食う狂人や離反者を敵とするものである。『コール・オブ・デューティ4 モダン・ウォーフェア2』、『デンジャラス・ラン』、等。
 自分たちの立脚する西欧世界のシステム、あるいはそのシステム内の離反者を敵とすることは、現実問題への批判として有益ではあれど、そこだけにこだわれば安易な犯人探しに堕する。
 そうした敵探しから脱却する試みとして分類できるのが、感情によって駆動する敵たちである。スタインハウアーの『ツーリストの帰還』、邦訳が近々完結するヘイズ『ピルグリム』、敵味方が逆だけれども、韓国映画の『ベルリンファイル』『テロ、ライブ』。
 911後10年以上を経て、欧米世界のスパイフィクションは身内の批判を終え、「では、外にいる敵はどのような顔をしているのか?(彼らはどんな心をもった人間なのか)」、というテーマにようやく至っている――と言えるかもしれない。

 ハイヴの立場を改めて確認すると、彼女はアメリカの法執行機関の一員としてテロリストと戦う人間でありながら、物語上は明確な「敵」であり、かつ主人公たちと出自を共有する「家族」でもある。
 おそらくこの複雑さはアメリカのスパイフィクションでは不可能な設定だ*2。スパイフィクション愛好者としてはこの一点だけでも『残響のテロル』をスパイフィクション史の重要作と位置づけたいし、海外の視聴者がどのような印象をもつのか聞いてみたいところである。


■愚かさと教育
 ナインとツエルブをテロリストたらしめたのは、かつて政府の一派が行った「アテネ計画」だった。これはグローバリゼーションの嵐のなかで、日本に貢献できる天才を人為的に生み出し、国力を増強しようというものである。
 天才を生み出す薬品には副作用があり、全国から集められた天才候補の孤児たちは幼くして死んでいく。いや、殺されていく。
 これは虐待以外の何物でもないのだが、しかし、計画を先導していた人間たちは、あくまでそれを善行として考えている。じっさい、薬に副作用がなかったらどうだろうか。それはある種のスパルタ教育のようなものではないのか?
 少子化が進み、「子の未来のためならば多少の無理は仕方がない」と考える親、教育者は多い。そんな心は、大人としての自信と責任感を失った欺瞞でしかなく、アテネ計画の首謀者・間宮の子供のようなキャラクターデザインは、そうした大人でない大人たちの醜さをストレートに批難する。

 最終回でツエルブは、自分たちはこれまで誰にも必要とされたことがなかった、と言う。しかし間宮たちはこの子供たちを必要としていたのだ。あまりに必要であったがゆえに、必要な能力を有するまで暴力的な身体改造を行い、失敗すれば慈しみなく葬り去る。なにもこうした大人と子供の関係はナインたちのような天才のみに振りかかることではない。現代日本の経済の一部は、安い対価と劣悪な環境で酷使される学生アルバイトによって支えられているのだから。

 若者が社会に牙を剥くさまを描く日本のフィクションにおいて、このように現実の具体的な問題をフィクショナルな設定に置き換えて描くことに成功している例は少ないように思う。『残響のテロル』を観始めた当初、比較作として念頭に置いていた『東のエデン』においては、就職活動の問題が触れられていたけれども、その取り上げ方があまりに直接的過ぎて逆に問題の本質を突けていない面があったように記憶している。木を見て森を見ず、とでもいえばいいだろうか。
 『残響のテロル』の、大人の都合で「育成」される子供たち、という部分から連想できるカズオ・イシグロの『私を離さないで』*3は、現実からかけ離れた状況設定と物語ではあるのだけれど、距離を置いたがゆえに、時代と状況の変化・多様性に足元を掬われることのない普遍性を獲得していた。『残響のテロル』も、そういった評価が可能だと思う。

わたしを離さないで (ハヤカワepi文庫)

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■アホの子かわいい
 色々述べてきたけれど、アホでおっぱい大きめなリサちゃんがいなかったらおれはここまでこのアニメが好きになったろうか、いやならなかった、というようなことにも触れておく。

 人は自分を客観視できるようになってはじめて成長する。
 子供が自分と同じ姿の人形遊びをするように、人は他人をみてその中に自分を発見し、自己をかたちづくっていく。
 多数の視聴者を苛々させたアホの子リサちゃんは、ツエルブやハイヴにその弱さを指摘され、しかし一方で相手のなかにも弱さが潜むことを発見する。
 未成熟な登場人物が成長するというのはフィクションの定番だが、しかしリサちゃんはその定番を視聴者に気持よく受け止めさせるためには少々アホの子過ぎた。ハイヴ批判は言葉を尽くして反論するけれども、リサちゃんのアホさはあまり擁護する気にはならない。
 けれどもそのフィクションとしては度を越したアホさが、2014年に作られる原爆やテロリズムをテーマとしたフィクションにあっては、妙に心地よかったのだ。それだけ現代の日本人はアホなのだ、と思う気持ちもあるし、単に幼い女の子が好きだというダメな性欲が発露してるだけじゃないの自分、という気持ちもある。

 しかし、『残響のテロル』と同じくらいぼくが心を砕いて愛している『ラブライブ!』のヒロイン9人がもつアホさ(と彼女らが到達する高みのかけ離れっぷり)などをあわせて考えてみるにつけ、アホの子という存在もまた物語にとって尊い存在であるし、ならばアホなわたしもあなたもまた現実という物語にとってそれなりに大切なのではなかろうか、とも思うのだった。

■残響の残響
 女の子のおっぱいで話を終えるのもどうかという気がするので、『残響のテロル』を観ながら連想したり、読みたいなあと思ったりした作品をリストアップしておく。

 と言うとたぶん『太陽を盗んだ男』がトップに挙がるよねと思う向きもあると思うが、ぼくはもう『太陽を盗んだ男』は<楽しい70年代の日本映画>という棚に安置しておいてよいだろ、と考えている。あの映画を現在に引きつけて観ることは、あまり意味がないのではないか。無目的な若いテロリストというのは賞味期限が切れていると思う。大傑作であることは前提としつつ、(当然だけど)あれは今の映画じゃない、と言いたい。『太陽を盗んだ男』が偉大で『残響のテロル』はダメという感想が散見されるけど、全然理解できないです。

『アトミック・ボックス』
 池澤夏樹が今年出した小説。日本で進められていた核爆弾開発計画の秘密を父から受け継いだ娘が繰り広げる逃走劇、といった内容のよう。近々読む予定。

アトミック・ボックス

アトミック・ボックス

『テロ、ライブ』
 残テロと同様、若者による悪の告発としてのテロを描く。
 柴崎さんももっとやさぐれていたら、本作のハ・ジョンウみたいなことになっていたかもしれない。

ファイト・クラブ
 男二人+女一人のテロル譚といえばこれですけど、君と僕の世界(&僕と僕の世界)、というところに足を着けずにやりきったのが残テロの偉いところ。でもちょっとハイヴは髪型がヘレナ・ボナム・カーターっぽいかも。

 …間違えました。こっちです。

『パワー・インフェルノ
 フランスの思想家ボードリヤールによる911論。
 前半、911がアメリカと欧米社会にとってどんなものだったのか、という部分は切れ味鋭く非常に面白かった。けど後半、イスラム原理主義者たちへの分析は、イスラムに対して失礼っつーか、それあくまでお前の世界観のなかのイスラムであって、イスラム世界の実情とかを考えたらちょっと黙ったほうがいいんじゃねえの?言葉に淫してない?と思うことが多かったです。

パワー・インフェルノ―グローバル・パワーとテロリズム

パワー・インフェルノ―グローバル・パワーとテロリズム

『ザ・イースト』
 ハイヴのところでも触れたけれども、作品全体としても残テロに今いちばん近い映像作品はこれかもしれない。クールなサスペンスと情感の混合の果て、主人公の選びとるハードボイルドな道に震えよう。正直残テロはリサちゃんに苛々してどうしようもなかったわーという人は、本作のブリット・マーリング演じるエリートスパイに癒やされてください。そのぶんスカルスガルドくん演じる青年テロリストに苛々するかもしれないけど。

クラウド・アトラス
 世界について諦めているようで全然諦めていない、青臭い理想が意外と楽観的に描かれる映画として。その時代時代では悪は正されないけれど、きっといつかは、という考え方。と同時に、悪が正されないとしても、その瞬間瞬間にも救いはある(かもしれない)、ということも言っている。
 残テロはシリーズとしての短さゆえにそういう時の流れを感じさせるほうへは展開されなかったけれども、生き残った柴崎さんとリサちゃんのあの先を考えれば、希望はふくらむ。その、物語の外に広がる世界のなかには、ぼくたちの現実も含まれている。

 『クラウド・アトラス』は一本の映画のなかでそういう希望を語る映画。『残響のテロル』は、作品内でも希望を語っているのだけれど、Twitter等で見かける、主人公二人の男子に萌えている視聴者のひとたちの妄想とか推測とかを眺めていると、そういう希望のふくらませ方もアリだよな、と感じる。
 意外に楽観的なラストをとった『残響のテロル』が、例えば70年代の『コンドル』みたいな虚無感に行き着かなかったのは、もしかしたら、そういう作品を二次的に読み込んでいく視聴者の存在にもよるのかもしれないな、と思った。ナインに「覚えていてくれ」って言われたら、みんな、ちゃんと覚えているもの。

*1:http://d.hatena.ne.jp/tegi/20140907/1410091452

*2:身内、感情、テロリスト――という個々の要素を取り上げていくと、一番近いのは『ザ・イースト』でエレン・ペイジが演じていたキャラクターかもしれない。

*3:というか、自分で気付くまえにたくさんの人が指摘していてなるほどを膝を打った。