こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『マッドマックス』と『ラブライブ!』を並べて語るならまずこのくらいは考えておけよというご提案


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<2015/08/02追記>
ラブライブ!』と『マッドマックス』について、自分の思うところをまとめた文章を書きましたので、こちらも読んでいただけると嬉しいです。すごく。

「走れ、跳べ、理想を求めて/『ラブライブ!』と『マッドマックス』」
http://d.hatena.ne.jp/tegi/20150802/1438442864
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 異なる二つの事柄を強引にセットした語りには独特の面白さがある。近年、このジャンルでもっと完成度が高い語りといえば西寺郷太の「マイケル・ジャクソン小沢一郎同一人物説」だろう*1
 この語りがTBSラジオで初披露された数カ月後だったと思う。北海道のあるラジオ局が、なぜか昼の番組で西寺郷太に電話でゲスト出演をさせていた。昼のラジオ、それも時報直後や特集の時間帯ではなく、隙間の数分間の出演だったと記憶している。「マイケル・ジャクソン小沢一郎が同一人物ってww マジうけますねww」という浅薄なノリで西寺郷太を紹介するアナウンサー。「それ、どういうことなんですかww」と彼女に訊かれた西寺は、心底ムッとした声音で「いや、そんなん言われても、説明するにはすごく時間かかりますけど」と答えていた。
 そう、この手の語りには時間が必要なのだ。なぜなら、全く異なる両者を結びつけた語り手の、愛や情熱、詳細な分析(とそれに基づく論理の飛躍)を表現しなければならないから。
 西寺郷太マイケル・ジャクソン小沢一郎も愛していた。それを電話口で、ほんの数分の出番だけで語れるわけがない。もし要約してしまったら、そこからは本来この語りを支える骨格となるものたちがこぼれ落ちてしまうからだ。

 『マッドマックス 怒りのデスロード』を観たとき、『ラブライブ!』を連想する観客は少なくないだろう。ぼくもその一人だ。しかしこの両者を結びつけて語るなら、愛をもって、精緻に語らなければならない*2

 粗雑に扱えばどんなものも同じに見える。あなたとぼくを遠く離れたところから眺めたとき、シルエットがぼやけて全く同じ人間に見えるように。しかしぼくたちは同じ人間ではない。ぼんやりとした形が似ているから同じ人間だ、というのは乱暴だろう。近くで詳細に見比べたときに発見された細部こそ、両者が共通して持つ美点として挙げられるべきだ。
 本来ぼくが望む語りをするには時間が限られているが、最低限度このくらいの語りはすべきだ、という例の提示として、以下の語りを行う。

1.どちらの映画も誠実である
 『マッドマックス 怒りのデスロード』(以下、『マッドマックス4』と略)が極めて誠実に作られていることは、高橋ヨシキによる監督ジョージ・ミラーへのインタビュー*3によってすでにつまびらかにされている。娯楽映画として質を高くするという、表面的なエンターテイナーとしての誠実さだけではなく、「虐げられた女性を描くならどうすべきか」という課題に真剣に取組むなど、いま、現代社会に対して作品を発表するならどういった語りを行うべきか、を考えぬく倫理的な誠実さもそなえている。
 『ラブライブ!』の場合、誠実さの対象は狭い。TVシリーズ一期・二期を中心に、これまでこの作品を愛してきたファンに対して、また劇中で描かれるキャラクターたちに対して、誠実に作られた映画だ。これまで語られてきた物語や設定を経たのち、映画で描かれる状況を迎えたとき、主人公たちがどう行動すべきか、また映画がどのように演出されるべきか、という点についてのみ誠実である。
 『ラブライブ!』の誠実さは、これまでこの作品に触れてこなかった人間にとってはわかりづらい。映画の冒頭から結末にいたるまでの一貫性をみれば、ある程度の誠実さを感じ取ることができるだろうが*4、それはある程度よくできた娯楽映画なら当然備えている美点であって、唯一無二のものとは言いがたい。
 『ラブライブ!』の誠実さはファンにとっては至高のものだから、例えばぼくのように熱狂的に支持する人間を生み出すのだけれど、ゼロベースからの評価であれば、『マッドマックス4』のほうが断然高くなるだろう。
 また、『マッドマックス4』が現代社会に対して誠実である(現実にある世の欺瞞や悲劇を隠蔽することなく描く)のに対して、『ラブライブ!』は大きな隠蔽を行ってもいる。登場人物のほとんどが十代の女性アイドルであるが、現代社会において彼女たちが被るような不条理は一切描かれない。現実において彼女たちへ暴力をふるう男性は、映画の背景にときおり思い出したように姿を見せ、一言も喋らずに去っていくのみである。萌えアニメ独特の「そこは描きません」というルールに則った作法ではあるが、これを欺瞞ではないと言ったら嘘になるだろう。『ラブライブ!』の誠実さは、大きな欺瞞によって支えられた誠実さでもある。
 かように、両者はともに誠実な映画だが、誠実さの種類が異なる。『マッドマックス4』の誠実さを『ラブライブ!』と同列に語ることはできない。これらの誠実さから受ける感動の総量、熱量の高さは同じだが、決してその誠実さを同一視してはいけない。

ニ.戦う場所はどこか?という問い
 『マッドマックス4』のクライマックス直前、主人公たちは前進と後退のどちらを選ぶか、判断を迫られる。前進は敵からの逃亡と自由、そして理想を追い求めることのできる未来(夢想)を保証しているが、生存の可能性はほぼない。後退は確実に敵との遭遇、高確率での陰惨な死を意味しているが、生存の可能性はゼロではない。
 いま・ここに残って戦い続けるか、理想の場所を求めて走り続けるか。
 『ラブライブ!』においても、主人公たちはこの選択をせまられている。
 それぞれの選択、そして判断をどうとらえるかは観客に委ねられている。ぼくが思うのは、フュリオサとマックスの判断は、『ラブライブ!』の主人公である穂乃果たちのそれではなく、ライバルであるA-RISEたちのそれに近い、ということだ。
 要するに、問いは同じであるにもかかわらず、物語の主人公たちが選び取る答えは正反対に思えるのだ。この違いは、生存をかけた本物の戦闘を描く物語と、擬似的な戦闘であるアイドル活動を描く物語との違いによるものでもあろうし、何をもって「戦い続ける」と言うのか、という問題に関わっていることでもあろう。
 ぼくは二つの映画の正反対の答えを、ともによいものだと感じている。誠実なアプローチを行う二つの映画が、全く違う答えに行き着き、しかし両者ともによきものに思える。この不思議さこそ映画だし、芸術だし、人間なのだ、とぼくは考えている。

三、ウォーボーイズとラブライバー
 『ラブライブ!』の熱狂的なファンは「ラブライバー」と呼ばれる。その大半は単に作品が好きなだけの普通の人間だが、ごく一部の奇行・凶行がしばしば話題になるため、ラブライバー=悪、というイメージが強い。そのため、ぼくを含むラブライバーは、しばしば極端に外部からのイメージを気にする。劇場では紳士的にふるまい、倫理的・性的に極端な読解や二次創作を行うときは世間の目に触れないように行う(そう、これでもそうしているつもりなのだマジすみません)。萌えアニメを熱狂的に愛するファンの蔑称「萌え豚」、あるいはBL愛好者の「腐女子腐男子」のように、マイナスイメージの言葉・漢字を使った単語でないぶんわかりにくいが、ラブライバーの多くは、世をはばかり、自己を戒める雰囲気をまとっている。
 一方の『マッドマックス4』の熱狂的なファンはどうか。人口に膾炙するほどの固定的なイメージはないが、強いて彼らを呼ぶならば、作中、独裁者イモータン・ジョーを崇める戦闘員を指す「ウォーボーイズ」となるだろう。
 もちろん、ウォーボーイズも大半はまっとうな人間である。しかし、ラブライバーの一部が、作品の表層を身勝手に読み取り消費し、他者にも自分の価値観を押し付けてトラブルを起こすのと同様、ウォーボーイズの一部もそうした行いをする。そしてそのとき、ウォーボーイズは自らを蔑む名付けをされていないがゆえにか、その行いを顧みない。
 『マッドマックス4』を賞賛する者のなかのかなりの割合が、監督ジョージ・ミラーも認め、内外の批評家やファンが指摘する、映画のフェミニズム性を否定する。これは身勝手な読解であり、作品への侮辱に他ならないが、彼らはその侮辱と賞賛を同時に行って許されると思っている。
 例えば、ラブライバーが「映画のなかで一番セリフが多いのは穂乃果。だからこの映画は最高だしほかの要素は必要ない」と言ったら、「穂乃果が好きだと思うのは自由だけれど、そこまで言うのは極論だし、穂乃果はμ'sの残り八人と一緒だからこそ輝くんだよ」とたしなめられるだろう。ついでにそいつが「希厨は黙ってろ」とか言ったら俺が殺す。
 しかしウォーボーイズが「フュリオサたちの描かれ方とかどうでもいい。アクションとギター男と爆発がすげえから最高。むしろ女なんて要らない」と言ってもあまりたしなめられることはない(少なくともぼくの観測範囲では)。さらに、「フェミニストは黙ってろよ」と言ってもある程度は許されてしまう。
 これはいったいなんなのだろうか?
 同じような熱狂的ファンを生み出し、報道やネットで話題にされる事件の回数は『ラブライブ!』のほうが多いはずだが、『マッドマックス4』にまつわる言論状況のほうがぼくにはより深刻に思える。

 ずいぶん長くなってしまったので今日はこのへんで語りを終える。
 特に3については、こうしたウォーボーイズ的状況を許す世の雰囲気が、両作品の雑な語りを誘発しているに違いない、という話もしたいのだけれど、そのへんはまた今度にする。
 最後に繰り返して言いたいのは、雑な語りはするな、ということだ。たとえ褒めるつもりであっても、それは作品を殺す(自戒を込めての強調)。ぼくは『マッドマックス4』も『ラブライブ!』も好きで、この映画たちの価値を損なうような語りの蔓延を防ぎたい。だからこのような文章を書いた。少しでも同意してくれる人がいれば嬉しい。

*1:詳しくは西寺郷太が初めて公の場でこの語りを披露したラジオ番組『ウィークエンド・シャッフル』の録音をどこかで探すか、文字化された語りが収録されている書籍『ウィークエンド・シャッフル神回傑作選』を参照してほしい。

*2:というわけでこの文章は7月28日現在けっこうな話題になっている「マッドマックスをまだ観てない萌え豚の皆さんに一度キチンと紹介させて頂きたい。」http://shibonen.hateblo.jp/entry/2015/07/27/221457 に対する反論として企図された。かの文章への個別具体的な反論ではなく、そんな乱暴な文章は百害あって一利なし、俺はこういう細かいことを語った文章こそ書かれるべきだと思っている、という提示である。できあがった文章の出来不出来はともかく、雑な議論を良しとしてしまう雰囲気をこそ否定したいからこのようなスタイルで書いた。

*3:ライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル』ウェブサイトにて全文が公開されている。宇多丸による「ムービーウォッチメン」コーナーでの批評もあわせて楽しんで欲しい。http://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/06/post_897.html

*4:例えばどんでん返しを重視した唐突な展開や、シリーズ化のための無意味なほのめかしは一切ない。この映画を不出来なものだとして批判する評は多数あるが、それらの多くはより論理的で説得力ある批評によって応答されている。