こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

走れ、跳べ、理想を求めて/『ラブライブ!』と『マッドマックス』

 『ラブライブ! Schol Idol Movie』をTOHOシネマズ日本橋で観てきました。六回目。*1
 この一週間ほど、『マッドマックス4』と『ラブライブ!』の雑な比較に対して激怒し、並べて語るならまずはこのくらい考えておけよ、そして考えたらあんな雑なこと言えないだろ!という文章を書きなぐり*2、その後は真剣に両作品を比較して語るとしたらこうだ、という文章を書いていました。でも当然のことながら無理があって、文章量ばかりが増えるだけで、両作品の一番好きなところは書けないでいました。

 でも今日また『ラブライブ』を観てきたら、自分がなぜこの二つの作品を並べて語りたいのか、また雑な語りをされたときに激怒したのか、その原因がようやくわかりました。
 『マッドマックス4』と『ラブライブ!』がいずれも、理想を追いかけて生きることを全肯定する映画だからです。
 だから、この映画たちについて、雑な語りをしてほしくなかった。どちらの映画も、人はただ漫然と生きるのではなく、より良き状態を目指して生きていいのだ、と言っている。雑な語り――乱暴な生き方――は、それに反してしまう*3

 『マッドマックス4』は、ただひたすらに生き延びることだけを考える男マックスが主役です。彼は独り荒野を駆け、敵に襲われたときは獣のように戦い逃げる。彼は利己的だし、知性を感じさせるような言葉も発しない。
 それが、カリスマ的指導者イモータン・ジョーと、彼を裏切った女兵士フュリオサとジョーの妻たちの戦闘と逃走に巻き込まれ、フュリオサたちと共に逃げていくなかで、徐々に人間性を取り戻していく。
 彼らの旅は道半ばで目的地を失い、重大な選択を迫られます。ひたすらに逃げ、少しでも長く生き延び、やがて死ぬ道。あるいは、恐るべき困難と対峙し、ほとんど死ぬことが確かだけれど、万に一つ、自分の生きたいように生きる可能性が生じるかもしれない道。
 監督ジョージ・ミラーはこう語ります。

私は、映画全体を一つの長いチェイスとして描こうと思ったわけだが、主人公たちがなぜ戦っているかといえば、それは「人間らしくあること」のためだ。モノとか財宝のために戦っているわけではない。

*4

 マックスがフュリオサたち女を取り合ってジョーと戦っているのではない。マックスもフュリオサも、ともに「人間らしくあること」のために戦う。
 「考えなくても楽しめる単純なバカアクション映画」という噴飯ものの評価をしている人たちは、この、彼らがなんのために戦っているのか、が見えていないんじゃないか、と思います。単に、女の取り合い、マックスとジョーの力比べだと思っているんじゃないか*5。でもそうじゃない。

 『ラブライブ!*6は、「μ's」という「スクールアイドル*7」グループを結成した九人の女子高校生が、廃校寸前の自分たちの高校を救うため、全国からスクールアイドルが集まる祭典「ラブライブ!」への出場を目指す物語です。
 ところが、「ラブライブ!」に出場できるかどうか、という点はテレビアニメ第一期の途中で彼女たちの目標ではなくなってしまいます。アイドル活動をしていくなかで、ときに衝突し、ときにお互いのなかの新たな一面を発見し、人間的に成長しより豊かな関係を育む、そのことが彼女たちの物語の中心になっていく*8
 テレビアニメ第二期において、彼女たちは「ラブライブ!」優勝を果たします。しかしその瞬間は描かれない。やはり問題は彼女たちの人間的成長と、彼女たちによるアイドルでしか生み出せないパフォーマンスの輝きであって、優勝はそれにともなうおまけでしかないのです。
 映画において問題となるのも、具体的なモノではない。三年生のメンバーが卒業するにも関わらず、μ'sはその人気ゆえに世間から活動継続を要請されてしまいます。確かに活動を継続すれば、より大きな舞台で注目を集められる。期待に応えたい、とも思う。けれど、それは自分たちがやりたいことなのか?
 彼女たちが苦悩の末に拠って立つ基準、それは「スクールアイドルらしくあること」でした。

 荒廃しきった地獄で、人間らしくあること。
 永遠に続きうる平穏な世界*9で、スクールアイドルらしくあること。ただ漫然と生きるのではなくて、理想を求める。そのために走る、そのために跳ぶ*10
 世界設定は真逆なれど、現実から一歩ずつ遊離したところで、マックスたちは、穂乃果たちは、人間らしさ/スクールアイドルらしさという理想のために戦う。そのことを、現代の映画/アニメが可能な最大限のクオリティで描ききる。これこそが映画/アニメの意味なのだ、と全肯定する。この点において、二つの作品は共通していたのです。

 もちろん、理想は簡単に達成されないでしょう。映画のなかで、彼らの理想が真に叶ったのかどうかは描かれない。そして、映画が終われば、彼らの姿は消え、現実が観客たるぼくの周りに戻ってくる。
 けれど、二つの映画は負けません。
 理想は理想を引き継ぐ者がいる限り生き続ける。
 思い出しましょう、『マッドマックス4』が描く、「種」を引き継いでいく人間たちの姿を。『ラブライブ!』で、穂乃果たちの呼びかけに応えて日本中から集まるスクールアイドルたちの姿を。
 そしてまた、『マッドマックス4』でのニュークス、『ラブライブ!』の、μ'sの後輩である雪穂・亜里沙を思い出しましょう。
 ジョーが作った暴力の価値観しか知らなかったニュークスは、徐々に人のぬくもりを知り、他者のために生きることを選択します。不安に怖気づきながらもスクールアイドルになろうとする雪穂たちへ、先輩たちは「大丈夫!」と大きな声を投げかけてくれます。
 映画の外の、しょぼくれた自分だって何かができるかもしれない。そうやって、フュリオサが、穂乃果が目指した理想は映画の外でも生き続ける。

 『マッドマックス4』と『ラブライブ!』には、物語の要素、構造の相似点もいくつかあります。しかし、ぼくがそれぞれの映画を観ながらもう一方の映画を思い出したとき、そしてそれぞれの映画を愛するひとたちが語るのを楽しく読み聞きしているとき、思い出していたのは、これらの映画がかように理想を追いかけて生きることを全肯定してくれているということだったのだと思います。

 更に言えば、これはある種のすぐれた物語すべての共通点であって、この二作品固有のものでは決してありません。いや、それを言っちゃあおしまいよ、なんですけど。
 というわけで、それぞれとっても尖ったジャンル映画で、受け手によっては拒絶も激しいとは思うんですけど*11、ぼくにとって、良き映画を観たい、という気持ちをフルスイングで打ち返してくれる映画であることは確かです。気が向いたら、観てないほう、ぜひ観てください。

*1:以下、各映画のタイトルは『ラブライブ!』『マッドマックス4』と略します。

*2:http://d.hatena.ne.jp/tegi/20150729/1438099874

*3:とはいえ、理想のためにそうした語りを否定するのもまたぼくの本意ではありません。だから、あのブログ記事があそこまで多くの人に支持されていなかったら、別によかったんです。そういう考え方の人もいていいよ、とスルーできた。

*4:TBSラジオライムスター宇多丸のウィークエンド・シャッフル」ウェブサイト 『マッドマックス/怒りのデスロード』ジョージ・ミラー監督インタビュー http://www.tbsradio.jp/utamaru/2015/06/post_897.html

*5:断っておくけどぼくはそういう映画も好きではあります。でももうそれだけじゃ足りないんだ。

*6:今回は『ラブライブ!』の小説とゲームについては考えず、テレビアニメと映画について語ります。

*7:オフィシャルサイトによれば、「近年、全国各地の学校内で結成されているアイドルグループのこと。学生ながらトップクラスのスクールアイドルグループは10代を中心に絶大な人気を誇っている。」http://www.lovelive-anime.jp/prologue_1st.html

*8:このあたりのことがすべてテレビアニメでやり尽くされているので、映画は初見の人にはややとっつきにくい印象になっていると思います。だってみんなもう成長しちゃってるんだもの。みんな揃って楽しいよねー、というある意味日常系な映画の前半はやむを得ないことなのです。

*9:なお、『ラブライブ!』の作品世界はいっけん現実と同じように見えますが、その中心に「スクールアイドル」なる極めて現実的には存在しづらいものを置いており、『マッドマックス』同様に、現実を起点にした異世界であると言えるでしょう。ジョーの妻たちなど、『マッドマックス』の世界の女たちは割り振られた役割に殉じることを定められた徹底的に虐げられた存在ですが、『ラブライブ!』の女たちは、自分たちが望みさえすれば、男の性的消費の暴力を恐れることなく、アイドル活動に励むことができます。両者はちょうど正反対の場所にいるだけなのです。

*10:二つの映画とも、このシンプルなアクションにこだわっています。マックスたちは走る、穂乃果たちは跳ぶ。やがて映画そのものが走り続ける、跳び続ける、永遠に観客の手の届かないもの――理想そのもの、に思えてくるような感覚が、ぼくはたまらなく愛おしく、苦しい。

*11:特に『ラブライブ!』は『マッドマックス4』に比べフェミニズム的にどうなの、サイテーじゃないの、と言われるんじゃないかなという心配をしています。『ラブライブ!』は男性のための、かわいい二次元の女子を消費するための娯楽として始まりました。それは否定できません。けれどもことここに至って、穂乃果たちが自分たちの生きたいように生きようとしている、そして観客もそれを後押ししたいと思えている限り、これはPC的に問題があると断言することはできないのではないか、とぼくは感じています。『ラブライブ!』は萌えに特化するために、作品世界内から男性を取り除きました。それは現実の写し絵ではないという意味で後退なのかもしれないけれど、でも、結果的に、男性がそれほどまでに気にされない世界、すなわち女性が自分自身のためだけに生きることのできる世界が生じてしまっている、そして観客はそれを求めている、というのは、けっして絶望的なことじゃないんじゃないかと思うのです。ひこ・田中は『ふしぎなふしぎな子どもの物語』で、魔法少女ものの変遷を追ったのち、「性愛と恋愛成就だけの成長ベクトルが回避されると、女の子の成長物語はどう展開するのか?」という問いを立てています。女性ファンからの絶大な支持を見るにつけ、男性排除というズルをしつつも『ラブライブ!』はこの問いに対する有効な回答を打ち出してみせているんじゃないか、と思うのです。思ってはいるのですが、実際どうなんでしょう。このへん、ほんと、女性の人の意見を聞きたいです。全然ぼくの考えが至っていないところもあると思うので。