こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Cadenzaが抱える最大の欠落について/『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza』セカンドレビュー

 みなさん、『蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ- Cadenza』*1はご覧になりましたか。公開開始から二週も経っているのにぼくはまだ観れていません。先行上映で二回観たけどやっぱりちゃんとお金を払ったふつうの映画館で観たい――いや、先行上映会だってお金払っているんですけどね。どちらかというと上映後のスタッフ&キャスト陣の貴重なお話にお金を払ったという感覚だったので。

 さて、公開から二週経っているので、そろそろ内容に触れた文章を書きたいと思います。
 以下、個々の人物の行く末には触れませんが、ネタバレを含みます。シリーズに思い入れのない人に読んでいただいても映画の面白さが減ることはないと思いますが、思い入れがある人は鑑賞後に読んでください。ていうか思い入れがあるならさっさと観てこい。

 おおむね良い評判ばかりが聞こえてくる本作ですが、物語上、ある巨大な欠落を抱えています。
 それは、物語の最大の謎である「アドミラリティ・コード」の秘密が明かされないこと。
 人類に敵対してきた「霧の艦隊」の行動原理であるはずのアドミラリティ・コードが、誰によって、なんのために発せられているのか、その根源的なところが明かされないのです。
 厳密に言うと、物語上の現在において、いわば非常体制で運用されているアドミラリティ・コードの正体は判明するのですが、非常体制となる前のアドミラリティ・コードの秘密は明かされない*2
 これは、人類全体を窮地に陥れてきた「敵」の最大の謎であり、かつ主人公であるメンタルモデルたちがどのような出自を持つのか、という「わたし」の最大の謎でもある。たった一つの謎ではありますが、物語を動かす「わたし」と「敵」を規定する、物語の根幹にある謎です。それが明らかにされない。

 そんな欠落を持つ映画が、アニメシリーズの末尾となるにふさわしい物語たりえるのでしょうか? 観客は納得して映画館を出ていけるのか?

 驚くべきことに、これがほとんど不満に感じられないのですね。
 公開前にはもっと意見が割れるかと思っていましたが、今のところ、ネット上でこの点を責める意見を見かけたことはありません*3

 不満を感じない理由はいろいろあると思います。最大の理由は、その欠落が気にならないくらい、『Cadenza』はむちゃくちゃおもしろい、ということでしょう。
 演技、物語、演出、映像、音楽……ほとんど隙のない、日本のアニメファン向けの商業映画としては満点の出来と言っていい104分です。
 劇場版二作の製作は、テレビシリーズの終了後に決まったそうですが、その時点でスタッフたちはすでにかなりの年月を準備に費やしていたようです*4。この結果、原作の要素、3DCGアニメの長所・短所、各人物の設定や属性が詳細に検討され、スタッフ間で共通の土台が出来上がっていた。その土台の上で、「劇場版はこういうものにしよう」と、描くべきもの、方法、形式を着実に選び、力を注いでいった結果、劇場版二作は異様に高水準の作品になった――ということなのでしょう。
 たぶん、アドミラリティ・コードの謎が気にならない理由にしても、技術的にいくつもの理由が挙げられるはずです。たとえば「アドミラリティ・コードの謎に最も近接すると思われる千早翔像が冒頭に登場する(=そこから物語がアドミラリティコード以外の方向へ逸れても、物語のツイストの快感と同化して気にならない)」とか、「メンタルモデルの心にフォーカスするのはテレビシリーズからの主題だから、アドミラリティコードの話が脇に置かれても違和感がない」とか。
 『VG SIDE-A』に掲載されたインタビューのなかで、岸誠二監督は「そもそも論として」という言葉を三度も使っています。ちょっとかわいらしくて笑ってしまうのですが、それは彼が『蒼き鋼のアルペジオ』という作品をロジカルに考えぬいたという自信の現れでもあるのかもしれません。

 ただ、唯一の謎をめぐる不満が、そうしたロジックによって解消されたか――というと、それはそれで違うように思います。やはり謎は謎としてある。
 最終的に、その欠落が気にならないのはなぜか。

 急激にぼんやりとした個人的な話になって申し訳ないのですが、それは、「世界がそういうものだから」だろう、とぼくは思っています。
 もっと極論すれば、「2015年10月のぼくにとって、世界がそういうものだから」。

 南健プロデューサーが企画をスタートしたのが2011年3月。いや、それはスタッフたちの価値観の確証になるわけではないのですが、スタッフの人たちがこの作品を作ってきた5年弱のあいだ、少なくともぼくが見てきた世界はそういうものでした。
 どういうことか。

 東日本大震災福島原発事故を契機として、特に関東に済む人間の多くが、それまで日常で意識することの少なかった、世界の構造が露わになるさまを目撃してきたはずです。それは世界の「謎」を知ることに他ならなかった。原発事故にまつわる謎を多くの人が解き明かそうとして、実際解き明かされた部分もあれば、そうでない部分もあった。
 そうしたなかでぼくが一番思い知らされたのは、「謎を解き明かすことが必ずしも解決にはならない」ということです。人は真実を目の前にしても正しく振る舞えないことがある。いや、むしろ、真実から目を背けたいがために、新たな対立を引き起こしたりする。真実を求めること自体が目的化して、日常を放棄したりもする。

 『Cadenza』と同時期に岸誠二監督・上江洲誠シリーズ構成のコンビが手がけたテレビアニメ『乱歩奇譚』では、世界の謎を解き明かすことに拘泥し、それなしでは親友からの愛情を得られないという考えに取り憑かれてしまった人間が、最後の敵として現れます。江戸川乱歩オマージュという謎解きが主軸のはずの物語が、謎を解くことをなかば否定するわけです。
 おそらく、岸・上江洲コンビは意図的に、そういったものとして「謎」を描いている。
 そしてその「謎」の扱い方は、観ているぼくにとっても感覚的に正しいと思えてしまう。この数年間の現実世界で謎とはそのようなものなのだと見知っているから、フィクションのなかでそのように描かれても感覚的に納得できる。

 では謎は不可侵であるべきなのか?それももちろん間違いでしょう*5
 『Cadenza』において、謎は二段階に分解されているわけです。霧と人類との戦いを生み出している現在進行形の「アドミラリティ・コード」はその正体を暴かれ、無力化されます。人類と霧は戦いから解放され、以後どう振る舞うかを自ら考え選択することを促される。
 アドミラリティ・コードの根源的な謎は残ります。残りますが、人類と霧を束縛することはできない。
 謎の核心が明かされるかどうかは問題にしない。謎が、人々の幸福を阻害するかどうかだけを問う。こうした正確かつ現実的な問題の切り分けは、物語の組み立てとしてもスマートですし、フィクションの外、現実のことを考えるにあたっても益がありそうです。例えば――と現実の諸問題にからめて語りたくなる欲求もわいてきますが、これ以上現実に結びつけて語るのも野暮なのでやめておきます。

 でもそういえば、『DC』公開のころ、まったく作品の内容を知らなかったぼくが最初に引きつけられたのは、「出航せよ。この閉塞した世界に、風穴を開けるために。」という惹句だったのでした。その言葉には、どうにも見過ごせない切実さがあった。「この閉塞した世界」はアニメの中のそれだけでなく、現実の世界をも指しているように思えたから。

 徹底した娯楽作ということで、あまりこういう観点で語られることがないように思えますが、物語の構造と現実の関わりを少し念頭においてもおもしろいんじゃないかな、と思っています。
 映画の公開はもう三週目。そろそろ映画館へ急ぎましょう。



直接の関係はまったくないですけど、書きながら頭のなかで鳴っていた曲。ラスボスなんてどこにもいないんだ、選ぶのは君だ!

*1:以下、Cadenzaと略

*2:なお、そのヒントとなりそうな考え方が千早翔像の口から語られるのですが、彼の状態を考えると、そしてその言葉がモニター越しで聞こえてくるだけという演出を考えると、その内容が真実かどうかは非常に疑わしいといえるでしょう。更に、演出家たちがその言葉を重視していない、とも。

*3:もちろん、前後編の後編であるという作品の性質上、観客の多くがシリーズに肯定的なファンである、というのも大きいでしょう。ただ、ファンでないと気付けない欠落でもあります。

*4:南健プロデューサーが少年画報社に原作漫画の映像化を持ちかけたのが2011年3月で、テレビシリーズ放送開始が2013年10月。この2年7ヶ月のうち、シリーズ構成の上江洲誠は全体のシナリオを4バージョン作成したという。「のら犬ブラザースのアニメ!ギョーカイ時事放談 第369回 2015年9月30日」https://www.youtube.com/watch?v=WjhoeeFm3tw 、『VG SIDE-A』等に拠る。

*5:むしろぼくは謎を探求しないフィクションが嫌いなほうです。ぼくが最初に触れた岸誠二作品は『Angel Beats!』でしたが(脚本は麻枝准)、あれは世界の謎を乗り越えて青春ドラマが強引に前景化してくる作品でした。放映当時、ぼくはその謎をテキトーに放置する姿勢に怒り狂ったものです。あれは謎をどこまで明らかにするか、のバランスがおかしかったのだと思います。また、もしかしたら『Cadenza』に近いと言えるかもしれない、「人を模して作られたものたちによる戦争」を描く映画『スカイ・クロラ』も謎を放置して映画を終えていましたが、あれは明らかに悪い奴らがどこにいるかわかっているのに何もしないことを善としていたので胸糞悪かったわけです。それで平気な顔をしていられるのはお前が衣食住に困らない天才だからだよ!押井守森博嗣もそういう嫌味なところがありませんか。ないですかそうですか。