『劇場版ガールズ&パンツァー』を観てきました。
年末年始にテレビ版12話+OVAを観て予習を済ませ、立川シネマツーの極上爆音で鑑賞。
テレビシリーズは初回放送時に一話だけ観ていました。戦車道という大嘘を、空母上の学校という超大嘘を重ねることで通用させちゃう蛮勇にそれなりに心躍りつつも、その嘘に自分はのれないなと思って視聴を止めてしまった記憶があります。
今回ようやくテレビシリーズ・OVAを通して観て、戦車と少女という極端な大嘘のつきっぷりのよさ、そこにからまる各人の成長や友情のドラマを大いに楽しみました。映画はさらにそれを拡大した楽しさに満ちていて、たいへん楽しかったです。
…楽しかったのですけど、完全に乗っかりきる、いわゆる「ガルパンはいいぞ」状態にはなりきれませんでした。
理由の一つ目。
アクションがあまりに濃密で、追いつききれなかったこと。十代のころ、タミヤの年鑑カタログを毎年買って眺め、1/35キットをいくつか組み立てる程度には戦車を知っているつもりでしたが、いやはや、まったく目が追いつきませんでした。学校ごとのわかりやすいマークや色分けによって、認識しやすくするための工夫がされてはいるものの、乱戦で細かく視点が切り替わるとなかなか厳しい。
物語やキャラクターにも、のりづらい部分がありました。知波単学園の無策ぶりには、物語への没入を妨げるくらいに腹が立ってしまって辛かったです。プラウダのカチューシャと仲間たちのくだりもちょっときつかった。あそこ、もっと逼迫している描写を入れないと、カチューシャ以外の自己犠牲が納得しづらいと思うんですけど。
ただし、これらのことは、二度目には気にならないはずです。むしろ、飲み込みづらさを乗り越えて「わかるわかる」となったとき、楽しさは増していくでしょう。欠点のあるキャラクターたちも、繰り返し目にすれば愛着もわいていくかもしれません。
結構大きな問題なのかも、と思うのは理由の二つ目。
あまりに、登場人物たちが傷つかないことです。
劇場版は、TV版の時点でもすでにスピーディで迫力のあった戦車アクションに、一層の力をかけています。何十両という戦車・重戦車が行きかい、大量の砲弾が飛び、爆発を巻き起こす。映画版にふさわしい巨大兵器も登場する。TV版にあった呑気なスポ根もの雰囲気はかなり減退して、破壊のスケールと危険の度合いは確実に増している。
しかし当然、戦車道は安全だという設定は変わりません。どんなに大口径の砲弾を近距離でやり過ごしても風圧で人体が破壊されることはないし、ハッチから半身を乗り出している車長が、横転した車両の下敷きになったり、爆発の余波を受けたりして傷つくことはない。
ぼくには「戦車内はカーボンコーティングされているから安全」という設定がカバーできる範囲を超えて、少女たちは危険にさらされているように見えます。
ぼくが違和感をおぼえるのは、少女たちが傷つかないことを論理立てる設定の弱さそのものではありません。
「これがガルパンだから」という前提のもとに、傷つかない少女たちを受け入れられる、受け手・作り手の心です。
この構図は、戦意高揚のための戦争映画に近いのかもしれないと思います*1。
現実の兵士たちは傷ついている。しかし、自陣営の兵士は強く、傷つかないということを信じたい作り手・受け手の欲望のもとに、映画のなかの兵士たちは傷つくことを許されない。
『ガールズ&パンツァー』の場合、少女たちは作り手・受け手の燃え/萌えを充足させるために、傷つくことを許されない。
それはとても不遜なことではないでしょうか。
これまで、アニメその他であまた描かれてきた戦闘美少女たちはみなそういうことを強いられてきました。それでも、彼女たちの傷つかなさはあくまで特別な能力や存在としてのみ描かれてきたはずです*2。ガルパンは、アクション描写の苛烈さと、傷つかなさとの距離が、あまりに離れすぎている、とぼくは思います。あれほどのアクションが描写されるいっぽうで、少女たちの傷つかなさが、作品世界内でも、作品外の受け手にも、「普通のこと」ととして受け入れられすぎてはいまいか。
ここでぼくの考えは飛躍します。
このように、フィクション内の少女たちの傷つかなさを無自覚に受け入れられることは、萌え文化がしばしば、現実の女性の味わう傷を実にあっさりと無視してしまうことに繋がっているのではないか、と。
たとえば、SNS上で、性的な表現に対してなんらかの不快感を示す人たちへ「それはあなたの気のせいですよ」「価値観の違いですよ」と声をかけることのできるおたくたち。彼らの行為は、表現によって心が傷ついたことを表明している人間に対して、「あなたは傷ついていませんよ」と言っているに等しい。たとえ過敏であろうと、不幸なアクシデント的接触だろうと、萌え文化によって「傷ついた」と感じたその人の心のありよう自体は確かにあるはずなのに、それを否認してしまう。
他者の傷に対する不感ぶりは、『ガールズ&パンツァー』が示すような「少女たちの傷つかなさ」によって育てられるのではないか?
いやいや、もちろん、フィクションはフィクション、現実は現実です。それはぼくだってわかっている――というか、そう信じたい。娯楽は娯楽として楽しんで、現実は現実で他者を慮って生きている。ガルパンおじさんたちはみなそうだと思いたい。
しかし、かようにもやもや考えてしまう要素をもつ映画を「ガルパンはいいぞ」の一言*3で済まされてしまうと、いやいや、この映画ってそんな簡単に済むんですかね、と疑問を呈したくなる。
時折見かける「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と並ぶ傑作」という意見もまた、ぼくの疑問に拍車をかけます。あれは、そうした倫理的ハードルをクリアした傑作なのだから。
そういうわけで、自分は「ガルパンはいいぞ」とは言わないでおきます。
なお、はっきり言っておきたいのですが、ぼくはこの映画が好きです。二度と観ない、とは決して思わない。
これまで語ってきたような、少女たちの傷つかなさについても、その歪みこそが日本の萌え文化の根っこにあるのであって、そこで育ってきた歪んだ文化に自分は魅了されてもいる、ということもわかっているつもりです。
だから、もし今後、どうしても、最短の言葉でガルパンのことを讃えなくてはいけない場面がきたとしたら、こう言うと思います。「それでも、ガルパンはいいぞ」、と。
潔くないって? ま、それがぼくの「道」なんすよ。