こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「可能性の人」松浦果南のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その4

果南のカは可能性のカ

 最初に妄想なんですけど、二年前、東京のイベントで果南たち旧Aqoursが歌えなかった曲ってなんだったんでしょうか。
 『未熟Dreamer』はイベント後の花火大会用に製作中だった楽曲のようですから、違う。じゃあ果南たちが作り、かついまだアニメ本編中では歌われていない他のオリジナル曲だろうと思われるわけですが、ここでは妄想を飛躍させて、μ'sの楽曲をカバーしていたと考えてみます。ラブライブ参加の条件はオリジナル曲ですが、「東京のイベント」がそうだったとは限りませんからね。
 果南が歌い出さないことで、パフォーマンス全体が止まってしまうような楽曲ということは、曲がセンターのソロで始まるということです。
 条件にあてはまる曲はいくらでもありそうですが、わたしはそれは『ススメ→トゥモロウ』だったのではないか、と妄想しています。
 言うまでもないですけど、同曲の歌い出しは「だって可能性感じたんだ/そうだ...ススメ!」です。しかしそこで果南が歌い、鞠莉がパフォーマンスすることは、鞠莉の「可能性」を閉じてしまいかねない。痛めた足で踊って怪我をするだけでなく、浦の星でスクールアイドルを続け留学や海外での生活を諦めれば、彼女の人生自体が狭まってしまうわけです。自分たちの内にある「可能性」を賛美する『ススメ→トゥモロウ』が、逆説的に、鞠莉の可能性を断ってしまう……。だからこそ、果南は歌えなかったのではないか。
 鞠莉の足のことがあったとはいえ、果南がライブで歌を故意に歌わない、ということにはかなり大きな理由が必要だったはずです。他ならぬμ'sの歌詞が、愛する鞠莉の人生を傷つけかねない自分の行動を暗示しているとなれば、彼女にそんな無茶な行動をとらせる理由になり得るのではないか。
 その後二年間にわたって果南は鞠莉に対して冷たい態度を取り続けるわけですが、その根底には鞠莉への愛情があった。素直に好きって言えばいいじゃん、と思うけれども、一度μ'sの歌、あるいはスクールアイドル活動という自分たちが大好きなものが鞠莉の人生を狭めてしまうということに気づいた彼女であればこそ、素直に自分のなかの好きという感情をそのまま差し出せなかったんじゃないか、と思うんですね。「好き」が人を傷つけることもあるんだ、と気づいたから、好きだって言えないんじゃないか、と。
 ま、完全に勝手な妄想なんですけど。

 

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

ススメ→トゥモロウ/START:DASH!!

 

 


果南のカは過去のカ

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』は、物語が描く場所と時間が前作『ラブライブ!』に比べ大きく広がっています。
 原因のひとつは、舞台を沼津市内浦にしたことです。秋葉原を舞台としていた『ラブライブ!』は、秋葉原とその周辺だけで物語が完結していました。μ'sは合宿のために海や山へ出かけますが、それらの場所はほとんど個別の意味をもたない抽象的な「海」であり「山」です。劇場版で描かれる「あの街」も同様です*1
 『ラブライブ!サンシャイン!!』も、内浦だけを舞台に描くことはできたでしょうが、μ'sとの関わりや全国大会への挑戦を描いているために、東京も物語の舞台とせざるを得なくなっています。全13話中、東京を舞台とする回は3回あり、それ以外の回においても登場人物の一部が東京に出かけていたり、過去に東京で起きたエピソードが描写されたりします。千歌の母親に至っては、おそらくは13話に至るまで東京で生活していたようです*2。この東京は、「あの街」のように抽象化されておらず、内浦や沼津と同じように具体性をもった場所として描かれています*3


 前作とμ'sの存在は、物語が描く時間の幅も広げました。
 千歌たちがAqoursを結成させたのは、A-RISEが優勝をおさめ、μ'sが参加を諦めた「ラブライブ」第一回大会から5年後と思われます*4
 μ'sの活躍していた5年前、松浦果南たちが初代Aqoursを結成した2年前、そして千歌たちがAqoursを結成した現在、とAqoursにとって重要な時間のポイントが三つ、作品のなかに存在しています。
 さらに、千歌と果南、千歌と曜、花丸と善子、花丸とルビィ、果南・鞠莉・ダイヤという古くからの友人関係、ダイヤとルビィという血縁関係、と複数の長期にわたる人間関係も存在するため、作品が描く時間帯は大きく広がりました*5
 もちろん、『ラブライブ!』においても、μ'sの九人の過去を描く部分は複数存在します。ただ、絵里のバレエ、凛のスカート、にことアイドル研究部...と、そのいずれもが彼女たち個人にとって重要な過去なのであって、複数のメンバーの関係にまつわる過去の描写はそう多くありません*6


 広がった時間と場所を存分に使って、Aqoursの物語は描かれます。特に、本来は結びつかない、時間・空間の隔たったポイントをつなげて描くことで、『ラブライブ!サンシャイン!!』は物語としての輝きを増しています。
 空間的に離れたものを結びつける表現の代表例は、前回の記事*7で取り上げた、11話のクライマックスです。梨子のいる東京と、千歌たち残りのメンバーがいる静岡とをひとつのステージのように描いて、たとえ離れていても強く結びつくAqoursを表現していました。
 そして、時間的に離れたものを結びつける表現として強くわたしの印象に残っているのが、9話『未熟Dreamer』Bパートにおける果南の「ハグ」シーンです。
 果南は、二年前にスクールアイドルを辞めて以来、鞠莉と距離を置き、自分のなかに閉じこもっています。過去にとらわれたままの彼女が、いかに現在に繋がるか。これが9話の核になります。


 9話において、離れたふたつの時間を明確な区切りなく描く表現は三回用いられます。
 一回目は、Aパート、千歌が果南との思い出を回想するシーンです。千歌は自分の実家でAqoursのメンバーと花火大会でのステージについて話し合っているうち、幼いころの経験を思い出します。
 桟橋の上から飛び込むのを躊躇する千歌を、果南が励まします。スクールアイドルを諦めた現在の果南とは大いに異なり、人を励ます、まっすぐな前向きさが伝わってきます。
 回想の直後のカットで、千歌たちは現在の桟橋近くに移動しています。画面の手前側にいる千歌は、物理的に少し離れた桟橋を眺めています。まるでそこに自分たちの過去があるかのように。桟橋は近いようで、しかし確実に離れたところにあります。桟橋に千歌の手がすぐ届かないように、果南にも手が届かなくなっていることが暗に示されます。


 9話での千歌は、不甲斐ない三年生たちを痛罵しつつも、基本的に少し離れたところから哀しみを抱いて眺めている、という印象があります。そういう寂寥感や儚さをわずかにたたえたときの千歌を演じる伊波杏樹さんの演技には素晴らしいものがあるし、眉尻を下げて少し困ったような顔をする千歌はとても魅力的で、とくにその出色は黒澤家でみなより先にことの真相を悟った瞬間、声にならない息を漏らしているかのように見える短い一瞬のカットなのですが、それは本題ではないので措いておきましょう。
 千歌たちのまえで、ついにダイヤは二年前の真相を語ります。ここで、過去と現在を繋げる二回目の表現がおこなわれます。東京でのイベント、学校での日常、といった過去の風景と、現在の黒澤家における鞠莉が交互に描かれる。ただしここでは、現在の鞠莉の目元が隠されていたり、過去と現在のカットの構図が大きく異なったりしており、過去と現在を分かちがたく結びつけるような映像表現は用いられません。
 ダイヤの語る真相を、鞠莉はすぐに受け入れることができません。むしろ不可解に感じ、苛立たしく思っている。ここでは、鞠莉(現在)と果南(過去)との距離を埋め難いものとして描いているということなのでしょう。
 やがて鞠莉は黒澤家を飛び出します。雨の中、彼女は走っていく。果南に会いに行くのだろうと想像はできるものの、具体的な場所や果南との約束は描かれません。どこともしれず走ってゆく彼女は、場所だけでなく、決して遡れない時間をも越えていこうとしているようにも思えます。


過去と未来を抱きしめる

 雨上がりの夕方、鞠莉に呼び出された果南は部室にやってきます。彼女に鞠莉は本音をぶつける。

将来なんかいまはどうでもいいの。
留学?まったく興味なかった。
当たり前じゃない!
だって、果南が歌えなかったんだよ。
放っておけるはずない!

 将来はどうでもいい。鞠莉は現在の、そして過去の果南を取り戻そうとしています。8話で彼女が語った通り。

わたしはあきらめない。
必ず取り戻すの、あのときを!
果南とダイヤと失ったあのときを。
わたしにとって宝物だったあのときを。

 ここで注意すべきは、鞠莉は決して過去の果南そのものを求めているわけではないだろう、ということです。「将来なんてどうでもいい」という台詞はあくまで、自分個人の将来はどうでもいい、ということでしょう。
 鞠莉は、自分が居心地のよかった果南・ダイヤとの仲良し関係を復活させたいと思っているわけではない。もしそれだけなら、彼女はここまで、学校を救うこと、スクールアイドルとして活動することに拘泥しないはずです。単に仲良くなりたいのなら、スクールアイドル活動はせず、友達として付き合えばよい。
 鞠莉が求めているのは、一年生のころ、学校を救うために何かをしようと可能性を探っていた果南のありようです。それが内浦の未来を拓き、果南の未来をも拓く。そう鞠莉は信じてきた。


 これに対して、果南が守りたかったのも、鞠莉の可能性です。浦の星女学院や内浦にとらわれず、彼女の能力が活かされる世界に出ていくべきだと考えて、スクールアイドルの途を否定した。

 けっきょく果南と鞠莉は、お互いの可能性を守ろうとして、それぞれ違うところを向いていただけなのでしょう。お互いの未来を見つめすぎて、現在ではすれ違ってしまう。


 9話のクライマックス、本音をぶつけ、さらには平手打ちまでした鞠莉は、果南に向けて頬を差し出して、自分を打つようにいいます。予期される痛みに身を固めて、彼女は目をつむる。手をあげる果南。
 画面が暗転し、声が聞こえてきます。遠い過去、三人が小学生だったときの声です。まずはダイヤの声、果南の声、そして鞠莉の声。
 夕暮れのホテルオハラの中庭で、鞠莉と果南は一瞬見つめ合い、そして果南が「ハグ…」と言いながら手をひらく。その姿に現在の果南が重なり、「しよ」と、言葉も重なる。
 過去と現在の果南がまっすぐに繋がり、と同時に果南は閉ざしていた自分を開いて鞠莉を受け入れる。

 人種間や文化間のヘイトに対する抗議パフォーマンスとしてのフリーハグなどにみられるとおり、ハグという行為には、自分とは異なる誰かの多様性を受け入れるという意味もみてとることができます。ここで行われるハグの意味は、単に鞠莉ひとりを受け入れるというだけではない。鞠莉のもつ、スクールアイドル活動によって浦の星を変えていこうという考え方や、Aqoursがもたらすであろう未知のものをも受け入れる、ということにほかなりません。
 過去と現在が区別なく繋がり、そして未来へとふたりの可能性がひらかれることも示す、この描写は、アニメ全13話を通しても特に美しい屈指のシーンであるといえるでしょう。
 そして、過去と現在を接続する描写は、9話ラストの『未熟Dreamer』における演出によって、さらに三年生の外へと広げられていきます。三年が歌い出し、一・ニ年が引き継ぐ。その後ろから、新しい衣装をまとった三年生が現れる。何か新しいことを始めた人間が、その力を周囲に伝播させていく。ひとつの可能性が、多くの可能性を生じさせていくことを示す一連の演出は、シリーズ全体、あるいは『ラブライブ!』とスクールアイドルというものが示すよきものの根幹に直結することに成功していると言ってよいと思います。


 9話で回想される初めてのハグは、6話の冒頭でも描かれています。そこでは、現在の鞠莉が過去の鞠莉と見つめ合っているかのようなかたちで、過去と現在が接続されていました。あのときの鞠莉はハグされていた自分を見つめるだけでしたが、4話ぶんの時間を越えて、彼女はようやく果南にハグされる。
 物語内の時間だけでなく、作品としての時間もさかのぼることで、果南たちのハグはより一層深い感動を観るものに与えてくれます。
 9話も6話も、絵コンテは酒井和男監督によるものです。なんと見事な構成!

  

 

 

果南の果は……

 果南の果という字は、穂乃果の果です。
 他のAqoursメンバーの名前のなかにも、μ'sメンバーの字を継いでいるものはいますが*8、なにしろ「南」の「果」です。明らかに、秋葉原からみた「南」方である内浦における穂乃「果」だってことじゃないですか*9。じっさい、二年前のAqoursは彼女がリーダーだったようだし。
 でも果南は穂乃果のような立ち位置にはいません*10。あのように、無からなにもかもを生み出すような圧倒的な輝きを持つ人ではない。


 かなん、という名前の音から、わたしは古代の地名としての「カナン」を想起します。百科事典によれば、カナンというのはこういう都市でした。

カナン (Canaan
 パレスティナおよび南シリアの古代の呼称。イスラエルの民は,エジプトを脱出した後シナイやネゲブの荒野を彷徨していたころ,神から約束されていながらまだ手にしていない〈乳と蜜の流れる地〉としてあこがれた。...


世界大百科事典』(改訂新版)


 神からのいまだ叶えられぬ約束。
 流浪と迫害を経験してきたユダヤ民族にとってのキーワードをオタクの妄想にもちいるのも少々申し訳ない気がしますが、このようなことばの歴史的背景から、カナンという音には、到達できない輝かしいもの、憧れると同時に寂寥感を抱かされるもの、といったイメージがあります*11
 叶えられない約束は絶望と希望との両方をもたらします。いま叶っていないのなら、永遠に叶わないかもしれない。そう考えれば絶望せざるをえない。約束はされている。いつかはきっと叶うはず。そう考えれば、希望になります。


 果南は、かつて浦の星でスクールアイドルとしてある程度の成功をおさめた希望の生き証人であると同時に、東京で大失敗をおかした絶望の証拠でもあります。
 失敗した過去については、例えばSaint Snowの二人がその事実を知ったなら、心底怒るにちがいありません。対外的には大きなウィークポイントになりうる*12
 けれども彼女はもう過去に閉じこもったままではありません。ふたたびAqoursに戻ってきた。
 10話以降、果南が物語の中心に立つことはありませんが、劇中のAqoursたちにとっては、彼女はある種の心の拠り所になっているのではないか、と思えます。彼女が元気にスクールアイドル活動にはげんでいる限り、それは、人は失敗を乗り越えられる、何度でも挑戦できる、という生きた証拠になるのですから。
 成功した人だけが、可能性を体現するわけではありません。失敗した人だって、人間の可能性を信じさせてくれるのです。


 というわけで最初の妄想に戻りますけども、やっぱ二年前の果南には『ススメ→トゥモロウ』を歌っていてほしいんだよな~、だって可能性感じちゃうんだもんな~、という話なのでした。

 

 

*1:ただし「あの街」は、徹底して名前と意味を剥ぎ取られながらももあきらかにニューヨークとして描かれており、秋葉原に匹敵する大きな意味をもつ場所として作品内に立ち上がる。これによって、秋葉原の外=μ's/音ノ木坂学院での物語の終わりが印象づけられる。

*2:ところで、旅館の主人であってもおかしくない人物が常に東京にいる理由とはなんでしょうか。旅館が全国チェーンを敷いており、東京の本社につめている…というのは、千歌による実家についての言動などからすると少々難がありそうです。内浦の観光関係者として、東京のアンテナショップやサテライトオフィスのような場所で働いている、といったところでしょうか。ラブライブ世界における教育や観光の行政がぼんやり気になっている身としては、彼女のもつ背景も非常に興味深いです。その背景が、『ラブライブ!』の穂乃果の母や、ことりの母のように、スクールアイドル本人の活動に影響を与えていてもおかしくないのですから。

*3:ラブライブ!』では主人公たちの住む場所=首都だけを描いていればよかったのに、地方を舞台にしたとたん、主人公たちの住む場所以外をも描かなければならないという非対称性は、改めて考えるべきことかもしれません。東京以外の場所は、東京の存在なしに物語を立ち上げることもできないのか、とうがった見方をしたくなる気持ちもないではない。
 ただ、『ラブライブ!サンシャイン!!』の場合、シリーズの前作を踏襲した内容にするために、前作が舞台としていた東京を描かざるをえなかったという理由があります。今後、Aqours以外のスクールアイドルを主人公にした新作が作られるならば、そのとき、この問題にする回答が得られるのかもしれません。またおそらく、『Wake Up Girls!』や『普通の女子校生が【ろこどる】やってみた。』などの諸作にヒントがあるのでしょうが、不勉強ながら未見です。

*4:4話、国木田花丸が読む雑誌の誌面から。この雑誌が、花丸が読んでいる時点から何年も前に刊行されたバックナンバーであるという可能性もなくはないですが、ほぼゼロでしょう。

*5:もちろんこれは、生まれも文化も違う人間が多く集まる東京に対し、古くからの人間関係や共通の文化が個人の生活に色濃く影響する地方、という対比でもあるのでしょう。

*6:なお個人的には、μ'sの過去を描くエピソードのうち、『School Idol Diary 南ことり』所収の「始まりは3人組。」その1・その2が大好きです。確認のために再読してまたじーんときてしまった。

*7:「違うステージに立つ人」桜内梨子のこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/12/28/004551

*8:高坂→高海、花陽→花丸、矢澤→黒澤、などなど。

*9:南の果、という漢字からは、日本における南方への信仰(よきものが南から海をわたってやってくる)も連想できますね。

*10:ですから、この文字の一致は偶然であるような気がします。ただしもう一人、穂乃果から字を受け継いだ高海千歌はまさに穂乃果と同じ立場に立っています。「坂」の街・神田から、「海」の町・内浦へ、という転換も含めて、この文字の繋がりは作品の作り手による意図的なものであるように思えます。

*11:なお、マリ(Mari)ってのもシリア東部の古代の都市名でございまして、そちらで出土した文書にカナンに関する記述もあるらしいです。かなまりのカップリングは何千年も前から決まっていたことなんですね(にっこり)。

*12:正直なところを言えば、わたしも最初は、彼女が歌わなかった理由に納得が行きませんでした。8話でダイヤが語ったように、スクールアイドルという文化は巨大化し、苛烈な競争を生み出しました。そこに挑む人々はそれぞれに相当な覚悟を持っているはずです。にも関わらず、果南が「鞠莉を守りたい」という個人的な願望ゆえに挫折をあえて選んだというのは、他のスクールアイドルたちに失礼ではないのか、と。でもその考え方は、「アイドルは個人よりも「アイドル」としてのあり方を優先すべき」という非情な論理に結びつきます。それはおかしい。果南はスクールアイドルとしての自分より、個人としての果南を優先させてよいはずです。考えてみれば、『ラブライブ!サンシャイン!!』は、常にスクールアイドルという文化や、グループ全体よりも、個人個人のことを重視すべきだ、というメッセージを暗に発し続けているような気がします。それが、11話の梨子の単独行動や、12話の曜のためのダンス再構築、13話での浦の星全員によるパフォーマンスといったことの全ての根底にあるような気がします。