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こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

内浦・長浜の津元のこと/大川家と黒澤家について考える

EPUB版を公開しています。ダウンロードのうえお好きなリーダーでお読みください。

kurosawa.epub - Google ドライブ

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』に登場するふたりのスクールアイドル・黒澤ダイヤとルビィの姉妹が生まれた黒澤家は、「十五代を数える、古い網元の家」*1だとされています。

 網元とはなんでしょうか。なんとなく、漁師たちのなかの偉い人、というイメージがあると思いますが、現代も続く職業というわけではありませんし、具体的に説明できる人は少ないのではないでしょうか。ですが、黒澤家がもつ「内浦の網元」という来歴は、実に特別な意味を持っています。
 物語の舞台となる静岡県沼津市の内浦地域には、とても有名な網元――この土地では「津元」と呼ばれます――が存在しています。16世紀からの長い歴史を持つ、長浜地区の大川家です*2
 大川家の外見は、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメにおいて、黒澤家の外見のモデルとして引用されていますので、すでに同家の存在を知るファンも多いでしょう。
 あくまで大川家は黒澤家の外見のモデルであり、黒澤家の内実や歴史はすべて架空のものではある*3のですが、黒澤家=「内浦の津元」という存在のことを考えるにあたっては、大川家のことに触れていかざるを得ません。
 それは、この大川家が、かつて周辺地域でも群を抜いて栄えた津元であったこと、そして津元制度が消失したのちも、往時の多くを伝える大量の歴史的史料を残していたこと、の二点によります。


 1932年(昭和7年)、実業家であり歴史学民俗学にも造詣の深かった渋沢敬三が、この大川家に伝えられていた大量の歴史的文書を発見しました。大川家の人々は、ときの権力者や商売相手と取り交わした文書や、家のなかで用いた備忘録などを保存し、子孫へと代々伝えていたのです。
 古くは1518年(永生15年)に北条早雲が捺印した書面など非常に貴重な文献を含む大川家の大量の文書は、近隣地区の他の津元が保存していた文献とともに渋沢らの手によって『豆州内浦漁民史料』としてまとめられ、公刊されました。歴史学民俗学の分野に多大な貢献を果たし、今も多くの研究者たちの研究対象となっています。この文書群によって、津元としての実体を失った現代にあっても、大川家は強い存在感を保ち続けています。


 繰り返しになりますが、大川家が黒澤家の直接的なモデルである、とは言えません。ですが、大川家のことを調べるうち、私は何度もその歴史に黒澤ダイヤをはじめとする『ラブライブ!』の物語の様々な要素を重ねて見てしまいました。
 今回の記事では、津元としての大川家に関する基本的な事柄をおさえつつ、その向こう側に垣間見えるかもしれない『ラブライブ!』世界とのつながりについて、書いてみようと思います。

 以下、四つの章と文献紹介に分かれています。

 

  1. 津元とはなにか
     津元が内浦の漁業においてどんな役割をもっていたのか、基本的なところをまとめました。
  2. 津元の終わり
     明治時代、津元は名実ともに消失します。その経緯と当時の大川家の反応をまとめました。
  3. 神田へ
     大川家最後の津元・大川四郎左衛門がたどった遍歴を紹介します。
  4. ラブライブ!サンシャイン!!』ファンからみた大川家
     フィクションと歴史を重ね合わせて考えることについて書きました。自分の考えが中心ですが、作品の鑑賞や二次創作のヒントがあるかもしれません。
  5. 津元を知るためのおすすめ文献
     今回あたった文献のなかから、特に入手しやすくおすすめしたいものを三点紹介します。
     内浦の通史がこれから刊行されるかもしれないらしいからみんなで応援しようぜ的な話もあります。


■1.津元とはなにか

 伊豆地方では、大川家のような存在は「津元」と呼ばれています。網元または津元のあり方は地域ごとによって大きく異なるようですが、ここでは内浦の津元にしぼってその特徴をみてみましょう。
 内浦では、建切網という規模の大きな漁法が営まれていました。これは、湾のなかに入り込んできた魚の群れを大きな網で囲い込んで捕獲する、定置網の一種です。穫れるのは、マグロやカツオ、アジ、イルカなどでした。
 大きな網を使うということは、それを操作する複数の人と舟が必要です。また、網を始めとする道具の維持費など、様々なコストもかかります。
 これらのコストを負担し、漁を取りしきるのが津元でした。実際に海に出て漁を行う人間は「網子」(あんご)と呼ばれました。

 

 19世紀初旬ごろの状況をみると、長浜村の軒数は40、うち3軒が津元で、網子が30軒でした。三つの津元はいずれも姓は大川で、屋号が大屋・大上・北方となっていました。このうちの大屋家が、今回の記事で扱っている「大川家」です。
 長浜では網子は6人ごとに一つの「網組」を形成していました。長浜の5つの網組のうち、3つを大川家が率いていたそうですから、大川家の繁栄ぶりが伺えます。
 建切網を行うにあたって、津元と網子の主従関係は絶対でした。網子は津元が取り決めた漁場で漁を行い、漁獲のうちのどれだけを税として納め、津元が取り、網子が取るか、という配分も極めて細かく津元が采配していました。

 内浦の近辺には、駿河湾内をぐるりと回り込むように流れる黒潮に乗って回遊してきた大型魚が多く入り込みます。そのため特に漁獲量が多く、それぞれの時代の為政者にとって重要な税収として認識されていたようです。
 江戸時代の代官所をはじめ、税の納め先は大きな権力を持っていましたから、そこと繋がる津元もまた、網子たちに対して権威となっていました。このことは、津元制度を長く維持させる後ろ盾となります。
 自然のことですから、不漁が続く時期もあります。普段は網子が得た収穫を取りまとめて納税しつつ、時には減税を陳情するようなことも、津元の役割の一つでした。代官所など支配者の手先でありつつ、村の代表者でもあったのが津元でした。

 津元は網子を支配するとともに、その生活の面倒を見る責任も負いました。網子が貧窮した際は金を貸し、また問題を起こした網子には網組から追放するなどの罰を与えました。基本的に津元と網子の主従関係は代々引き継がれ、両者の身分差が揺らぐことはありませんでした。
 他の地域では、特別に優秀な網子をめぐる津元同士の引き合いもあったようです。また、大川家では「くびつり粥」という毎年正月の風習があり、津元の振る舞う粥を網子が食べることで、その一年間の契約を結ぶ、ということになっていたそうです。
 なお、網子の更に下で、日雇い的に労働を行う人間もいたようで、それらの人々は水揚げした魚の内臓などを対価に雇われていました。内臓は売れば肥料になるので、給料を現物支給されていたわけですね。


 長浜村の範囲は、大雑把に言うと、いまの三津シーパラダイス先のトンネルを抜けたあたりから、長浜城跡のあたりまでです(両隣は「三津村」と「重須村」)。浜の長さは1キロもないでしょう。
 その長浜の海は、5つの漁場(網度場)に区切られています。
 各津元が率いる網組は、この5つの網度場をその日ごとに順番に受け持ちます。漁場によって生じる獲得量の不公平を、通年でバランスが取れるよう、村のなかで調整していたわけです。
 村の高台には海を見張る人間が待機しており、魚群がやってくると合図をしました。網子が舟を出し、魚の群れを捉えていきます。大きな群れがやってきたときには、群れを網で囲ったまま複数日を過ごし、何度かに分けて水揚げをしたこともあったようです。非常にスケールの大きな漁業をしていたことが想像できるのではないでしょうか。
 なお、津元はそうした漁業の現場での作業を行うことはありませんでした。水揚げ後の漁獲の配分を指示するだけで、漁業のリーダーといっても、実際に魚を取ることはしていませんでした。


 それぞれの漁場で漁を行う権利は、「網度持ち」が持っていました。
 もとは、津元がこの権利も持っていました(津元=網度持ちだった)。あくまで言い伝えではありますが、かつて津元たちが魚が穫れる土地であることを見つけ、漁の邪魔になる岩を除くなどして漁場を開拓したことがその根拠でした。
 時代が下ると、網度場の権利は現代の株式のように分割されて売り買いされるようになり、津元と網度持ちも別々になっていきました。1666年(寛文6年)の記録では、長浜の網度場の権利の半分は村外の人間が持っていたようです*4


 津元が関わっていたのは、漁業だけではありません。蓄積されていく資金をもとに、金銭や土地を貸して利益を得る、金融業・地主としての側面ももっていました。
 歴史学者の中村只吾氏の研究によれば、19世紀中頃の大川家は、長浜にとどまらず、修善寺などの伊豆半島の内陸部や、駿河湾を挟んで相当な距離がある今泉や吉原の人々にまで貸付を行っていたそうです*5。数両程度の少額な生活資金を個人に貸すこともあれば、百両ほどの大金を、商人や他村の有力者に貸していることもあったようで、大川家が相当な資金力と、借りる側からの信頼を集めていたことが伺えます。こうした金融業は、大川家に限らず多くの津元によって行われていました。津元たちは、漁業における取引先である運輸や小売などの他業者との関わりや、各地の有力者たちとの縁戚関係を活かして、こうした事業を円滑に進めていったようです。
 金融は、貸す側と貸される側に、一層の蓄財の格差を生じさせる行いではあります。ですが一方で、村社会を存続させるための責任ある仕事でもあった。嘉永7年(1854年)の安政東海地震の際には、津波によって甚大な被害が生じた長浜の隣・重須村に対し、大川家が復興のための多額の資金を貸し付けています。営利だけを求めるのではなく、非常時に村社会を支える役割も担っていたのです。
 また、これは大川家の例ではありませんが、少し離れた戸田村の勝呂家は、沖を行き来する異国の船に関する情報や、遠く離れた北海道での騒乱の記録なども収集していました*6。海で生計を立てる人々を統括するリーダーとして、漁場となる近海の情報のみならず、海の向こうの政治・社会にまつわる広範な情報を集めるのもまた津元の務めだったのかもしれません。


■2.津元の終わり

 このように、津元は漁業を中心に、その地域のリーダーとして様々なことを行っていました。
 ですが、津元が津元として振る舞えるのは、代々、網子たちの上に立ち、彼らの労働が産んだ利益を集約することが許された、封建的な社会制度あればこそでした。それは、当時の村のなかに確かに存在した貧富の差を示すものでもあります。
 江戸時代、特に後期になるにつれ、そうした津元と網子の関係のなかで生じる軋轢が徐々に表面化していきます。網子が津元の立ち会いなしに水揚げを行い、漁獲を自分たちで分配し商人に売り渡す、といった出来事が生じるのです。これは漁における津元の役割を完全に無視した行いですが、一方で、津元なしでも漁が完結しうる、という津元制度の脆弱さを表してもいました。津元は漁を取り仕切るリーダーだということになってはいますが、漁の現場で働くのは網子たちだけで、津元自身が海に出ることはありません。網子たちがいさえすれば、魚を捕ることそのものは十分に行えてしまうのです。
 そして明治維新を迎えると、網子と津元の関係はついに崩壊します。


 津元としての大川家の最後の当主となったのが、のちに渋沢敬三と知り合い、大川家の史料を託した大川四郎左衛門でした。
 1851年生まれの彼にとって、明治維新(1868年)は17歳のときのこと。まもなく津元を継ぐはずだった彼は、がらりと変化していく世の中の流れに直面することになります。
 津元と網子のあいだの対立は早くも維新の翌年・1869年(明治2年)には表面化し、網子からの訴えを受け、漁獲の配分見直しが行われました。そして1876年(明治9年)の海面借用権の国有化検討によって事態は決定的になります。国から海で漁業を行う権利を誰が借り受けるか、津元と網子が真っ向から対立してしまうのです。津元は自分たちが借り受け、そのもとで網子が漁業を行うというこれまでと同じ構造を保とうとしますが、網子は津元を排除し自分たち自身で海面を借りることを求めたのです。
 津元たちは、「津元が当地での漁業を開拓したのだ」「漁や納税、商売に関する習慣や規則を知る津元こそが当地の漁業を導くべきだ」といった言い伝え・習慣を根拠にこれまでの津元制度の正当性を主張しましたが、網子の訴えは明治政府が標榜する平等主義的な方針にもかなっており、長年にわたる争いは最終的に網子側に有利な決着をみました。十年の猶予ののち、海面借用権を国に申請する際の津元の優位性はなくなり、津元と網子は同じ立場に立たされることになったのです。


 渋沢敬三が聞き取った、四郎左衛門自身の回想をみてみましょう。彼が81歳のときに往時を振り返ったものです。

 

(津元は)何しろ昔から大層な勢力で、大瀬崎から清水港を見通した線から奥は皆、自分の海だくらいに考えていたのですから、この達しには一同驚いて大変な騒ぎになりました。
 ようやくのことですぐ取り上げられることが止まった代りに、十年間海面借用という形式でその権利は延びましたが、それから後は津元の勢力もめっきり弱りました。
 私は明治8年にカソリックに入りましたが、それでも今まで顎で使っていた網子に馬鹿にされてくるのが、口惜しくてたまりませんでした。そこで明治十何年か頃に長浜の三十軒の網子の外にいた人々を糾合して六人で一組を作り、一時県庁から許可を得て漁業をやってみましたが、多勢に無勢、とうとう敗けてしまいました。
(中略)
 その後私はここに居るのが嫌になったので東京に出てニコライに行ったり、当時、盛名を馳せた大井憲太郎を基督教に引込んだり、油屋をやってみたりしていましたが、そのうち縁あって伊豆の大島へ移り永らく同地で暮らしていまして、近年帰ってきたのです。

渋沢敬三「『豆州内浦漁民史料』序」より、大川四郎左衛門からの聞き書き*7

 

 顎で使っていたのに……などと、非常に封建的な物言いに反感を覚えてしまいますが、そうした上下関係が当たり前だったのだから仕方のないことなのかもしれません。話の相手が、規模の差はあれ同じ資本家である渋沢であったことも、ざっくばらんな物言いを促したのでしょう。いずれにせよ四郎左衛門の言葉には、自分たち津元が長浜の漁業の中心となるべきなのだという強烈な自負が見てとれます。
 津元のなかには、江戸時代からの津元制度の弱体化に適応し、金融など漁業以外の仕事を生業の中心にしていく変革を成功させていた家もありました*8。しかし、大川家はそうした変化もできず、急速にその力を失っていく。むしろ、失った権威を取り戻そうと再び漁業に挑戦して失敗しさえする。
 この再挑戦の際、大川四郎左衛門はかつての網子たちから法的に訴えられ、一時は漁を中断せざるをえない状況に追い込まれています。旧網子たちは、「漁場を整えてきた自分たち以外の新参者が漁業を行い、海を荒らすのを防ぐべきだ」として、四郎左衛門たちを訴えたのです。明治初期、保守勢力として既得権益を守ろうとした大川四郎左衛門たちが、今度は逆に既得権益を脅かすものとして責められたわけです。実に皮肉な話ですが、それだけ旧網子たちが抱える津元への反感は強かったということなのでしょうし、そのような反感を買っているというのに、それでも当地での漁業を行おうとする大川四郎左衛門の強情さも伺い知れます。
 中村只吾氏は、さきほどもふれた論文のなかでこのように分析しています。

 

大川(大上)家や土屋(西)家のような津元家は、時代の変化のなかで、漁業にこだわり過ぎることなく、経営の多様性を活かして生き延びることに一定程度成功した。それに対して、経営的にも、また、自らのアイデンティティとしても、漁業上の立場を揺るがせにすることに耐えられなかった大川(大屋)家のような津元家は、網子からの非難も正面から受け続け、経営方針の転換も上手く図ることができず、漁業経営と連動する形で、経営全体も弱体化の一途を辿ってしまった。

(中村只吾「近世後期~明治初期、津元家の存在実態とその背景に関する再考察」*9

 

 情勢の変化に対応できないリーダーほど、指揮される側にとって疎ましいものはありません。その立場が、世襲制によって維持された封建的な制度を根拠とするものならばなおさら。
 渋沢敬三とともに大川家の史料の整理にあたった祝宮静をはじめとして、後年大川家ほかの津元を分析する多くの歴史家は、制度のうえで自らの立場を守り、利益を確保してきた津元たちに対して批判的な視点を取ることが多いように思えます。実際、それはある程度正しい批判でしょう。
 しかしわたしは、偶然にも変化する時代に生まれてしまい、不器用に失敗していくリーダーたちの姿に、言いようのない共感をおぼえてしまいます。


■3.神田へ

 四郎左衛門ら大川家の若者たちは、頑なに津元としての誇りにすがる一方で、新たな価値観に救いを見出そうとします。
 先程のインタビューに出てきた「ニコライ」という言葉にぴんときた人もいるのではないでしょうか。これは、明治時代、ロシア正教を日本に広めた宣教師ニコライと、彼が東京・神田の駿河台に建築し、彼自身の名前を愛称として親しまれた「ニコライ堂」こと東京復活大聖堂のことを指すと思われます*10。文中では「明治8年にカソリックに入りました」と記載されていますが、おそらく「カソリック」というのは渋沢あるいは大川本人の間違いでしょう*11。大川四郎左衛門は、当時信仰者を増やしつつあった正教会ロシア正教)に入信したのでした。


 キリスト教の一派である正教は、1875年(明治8年)、旧沼津藩士の尾崎容(ひろし)と山崎兼三郎によって内浦に伝えられました。正教というと北海道・東北に信者が多いイメージがありますが、当時は伊豆周辺でも多くの信者を獲得しており、その信仰者のコミュニティは現代までも連綿と続いています。
 尾崎ら旧沼津藩の人々は、明治の時代にあっては旧幕体制に近い者として政府からは疎んじられる立場にありました。旧幕臣で、沼津を拠点に政治・教育・実業の各分野で名を残した江原素六も、キリスト教プロテスタントの信者でした。明治政府に受け入れられないアウトサイダーたちは、正教に限らず、当時の新たな宗教の担い手となっていたようです。
 ニコライがロシアに送り、公刊された報告書にも、大川家の人々の様子が記載されています。日本の信徒たちがいかに苦労しつつも熱心に信仰に励んでいるかを描いた部分の一節です。少し長くなりますが引用します。

 二年前、伊豆のある村で、正教信者である学校教師によってキリスト教が広められはじめた。その教師のことばに最初に耳を傾けた人たちの中に、すでに家族持ちであったが一人の若い男がいた。かれは、頼朝(最初の将軍)の時代から続いているその地方の名家で財産家の跡取りであった。狂信的な仏教徒であった父親は、息子がキリスト教に傾きつつあると知ると烈火のごとくに怒り、息子を引き戻すために直ちに父親としてのあらゆる手段を講じた。しかし息子は動じないで、自分の妻をもキリスト教に導き入れた。それを知った父親は息子夫婦の相続すべき財産を取りあげ、乳飲み子ともども家から追い出してしまった。息子は東京へやって来て、洗礼を受け、自分で働いて生活しはじめた。
 老いた父親は、次男は他家の養子になっていたので三男を跡継ぎにしようと考えた。ところが、この三男までが心の中ではキリスト教を信じていると知ったとき、父親の憤りはとめどないものになった。かれはこの三男に対しても父としてあらゆる手をつくして叱りかつ戒めたが、結局どこへなりといってしまえと三男も勘当してしまった。そこで三男も東京へ出て来て、信者となり、兄と一緒に暮らすようになった。夏休みが終わって、二人とも伝教学校に入学を許可された。かれらは熱心な伝道者になるであろう。

(ニコライ/中村健之介訳編『明治の日本ハリストス正教会 ニコライの報告書』教文館

 

 家庭内の争いを生々しく伝える文章です。四郎左衛門たちの信仰を受け入れようとしない父親の強烈な怒りぶりには、四郎左衛門の津元制度へのこだわりにみられる頑固さに通じるものがあるようにも思われます。そのような自身の価値観を疑わず守ろうとする精神性は、家父長制のなかで代々育まれ、引き継がれてしまったものでもあるのかもしれません。

 この報告にある通り、四郎左衛門と弟の胸治は、ニコライたちが布教の拠点としていた駿河台へと赴きました。そこには、一年間で伝道者としての基礎を学ぶ伝教学校がありました。ニコライの報告書によれば、当時学校には全国から28人が集まっており、ニコライ本人が教鞭を取っていました。およそ半年の座学ののち、年の後半には東京周辺で伝道の実地研修を行い、卒業後は出身地等に戻って伝道者となることが期待されていました。司祭のような要職をつとめるのではなく、地域に根ざして教えを広めるための人材を育成する学校です。


 四郎左衛門はどのような気持ちで駿河台に立ったのでしょうか。
 津元としての過去を否定するために、万人の救いを標榜するキリストの前で許しを乞おうとしていたのでしょうか。それとも、変わりゆく時代に反抗する気持ちで、神秘的・秘教的ともいわれる正教の教えや文化に魅了されたのでしょうか?
 彼が正教をどのように信仰していたのか、実際のところはわかりません。また、彼が学校を出たあと、どのように正教と向き合っていたのかについても、今回は調べがつきませんでした。
 彼が伝教学校に学んだ翌々年の1880年(明治13年)、長浜における津元と網子の争いが一応の決着を見、津元としての特権が消失することが確定します。
 四郎左衛門たちは父親に勘当されたはずですが、その後長浜に戻り、大川家の当主としての活動を行います。それが先程触れた1885年の漁業への再挑戦でした。その際に受けた反発は前述の通りです。そして彼はその漁業にも失敗し、長浜を数十年に渡って去ることになる。

 大川家にはかつて四郎左衛門が愛用していたイコンが複数残されていたそうで、現在その一部は沼津市歴史民俗資料館の所蔵品となっています。イコンとは正教の聖人を描いた絵画で、信仰上の大きな意味を持ちます。渋沢敬三と出会ったころ、伊豆大島から長浜に戻ってきたときにもまだ彼はイコンを持っていた。彼はまだ正教を信じていたのでしょうか。いったいなにを求めて?
 先程引いた渋沢敬三によるインタビューからは、津元としての過去も、正教徒としての過去も遠い昔のこととして無邪気に振り返り、今は生地でのんびりと生きる老人としての姿が、明るく伝わってくるのみです。


■4.『ラブライブ!サンシャイン!!』ファンからみた大川家

経営的にも、また、自らのアイデンティティとしても、漁業上の立場を揺るがせにすることに耐えられなかった大川(大屋)家のような津元家は、網子からの非難も正面から受け続け、経営方針の転換も上手く図ることができず、漁業経営と連動する形で、経営全体も弱体化の一途を辿ってしまった。

 繰り返しの引用になって恐縮ですが、わたしはこの中村論文の一節を読んでいたとき、目頭が熱くなってしまいました。
 そこで描写される大川家の姿が、衰退してゆく学校と地域を前にしても、旧来の生徒会活動にひきこもることしかできなかった黒澤ダイヤを思い起こさせたからです。そして、ダイヤが憧れる、絢瀬絵里のことも。
 ですから、大川家のことを調べているうちに、絢瀬絵里とその家族が信仰する正教、そして彼女が幼いころ通ったニコライ堂*12と大川家のつながりをみつけたとき、驚くとともに、妙な納得すら感じてしまったのでした。


 このつながりは、ただの偶然だと思います。東京と静岡、これだけ近い距離の場所と人に、色々なつながりがあったとしたって不思議ではない。ですから、これまで書いてきたようなことをもって、『ラブライブ!サンシャイン!!』の作り手たちの意図などを推測したりするような気にはなりません。実際、そこまでの大きな繋がりというわけでもないと思う。けれども、偶然だから、小さなことだからといって無意味だと忘れ去るにはあまりに感慨深いというのもまた事実です。だからこのような長文を書きました。
 人の歴史というのは、繁栄とその終わりの繰り返しによってつくられていきます。『ラブライブ!』と『ラブライブ!サンシャイン!!』という、学校や町の「終わり」に直面してしまった人々を描く物語を頭に置きながら実際の歴史をみたならば、そこに、フィクションのなかの人々の行動や心情に似たものが垣間見えるのもまた当然のことなのかもしれません。


 とはいえ、大川家はいまでも続いているし、長浜の町も存在します。
 今回の調べものにおいては、大川四郎左衛門が直面した津元制度の終わりの時代までしか概観することができませんでした。彼はその後どう生きたのか、興味はつきません。現代に接近すればするほど、存命の方の個人的なことがらにかかわってきますから、そう簡単に手をつけるべきではありませんが、今後も機会があれば調べ続けていきたいと思っています。


 今回思い知ったのは、大川家のことにしても、はたまたそれ以外のことにしても、過去のことがらを足がかりにすると、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語の様々な要素に、より一層の空想を働かせることができる、ということです。
 例えば3rdシングル『HAPPY PARTY TRAIN』におさめられたオーディオドラマで登場する、黒澤家の「財宝」の意味。なぜあんなものが秘匿されなければならなかったのか。明治や大正のころの宗教や政治のことを調べれば、実際にあの「財宝」のようなものが重大な事件を引き起こした例はいくつも見つかります。劇中でダイヤが言う通り、そういう「時代」だったのです。ダイヤはフィクションのなかから、わたしは現実から、同じそういう「時代」のことを考え、それぞれの「今」の尊さを考える。そんなことも可能です。
 あるいは、神田と静岡の繋がり。ニコライ堂がある近辺は「駿河台」といいます。駿河の台。当然、静岡にゆかりのある地名なわけです。沼津とはちょっとずれますけど。
 あるいは、神田明神近くの昌平坂からの眺め。江戸のころは富士山が美しく見える景勝地として有名だったそうです。先日、歌川国芳が描いた昌平坂と富士山を描いた浮世絵を見つけて、思わず絵葉書を買ってしまいました。これ*13なんですけど、μ'sとAqoursが感じられて、超エモくないですか。


 大なり小なり、世の中の色々なことがつながっている(ようにみえる)。歴史を探るということは、そのつながりを可視化して、自分やフィクションがうまれたこの世界の豊かさを知っていくことでもあります。
 ちょっと大げさになりましたが、この文章が、『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品や、沼津、そして何より大川家の蓄積してきた歴史と文化へのさらなる関心や親愛の情を呼び起こす助けになれたのなら、これ以上のよろこびはありません。


■5.津元を知るためのおすすめ文献

 今回の記事は、「沼津に直接行ったり、関係者に聞いたりしなくてもわかることしか書かない」という安楽椅子探偵的な方針で書きました。近所の公共図書館大学図書館、インターネット、そして誰でも取り寄せ入手可能な資料だけをもとに書いています。
 これは、現地に行くだけが「聖地巡礼」じゃない、本や地図といったものを読み込むことも、ある種の聖地巡礼につながるのではないか、というここ最近の自分の考えにもとづくものです。

 沼津・内浦はとてもいいところです。わたしも二度行きましたし、今すぐにでも再訪したい。大川家の中にも入ってみたい。大川四郎左衛門の子孫のかたから直接話を聞いてみたい――と、「直接触れたい」という欲望はどんどん膨らみますが、いや、そのまえにできることがあるじゃん、と思う。
 ヒートアップしつつある沼津への「聖地巡礼」ムーブメントに対する、別角度からのちょっとした提案みたいなものにもなればいいなあ、と思ってもいます。読んでくださったみなさんが、こうした資料のなかから新たな楽しみを見つけるヒントになっているとよいのですが。


 というわけで、以下、おすすめの文献です。

渋沢敬三『『豆州内浦漁民史料』序』

『豆州内浦漁民史料』序 - 祭魚洞襍考 第一部 日本水産史研究 / 渋沢敬三 | 著作詳細 | 著作・記事を読む | 渋沢敬三アーカイブ

http://shibusawakeizo.jp/writing/01_01_014.html

 大川家ほか、内浦に残っていた貴重な資料を再発見し、手を加えることなく公に広めるというすばらしい事業を行った渋沢敬三による、資料発見の経緯をまとめたエッセイです。
 渋沢はもともと子供のころから静浦などに避暑で訪れたことがあったそうです。資料発見時は、自分の療養のために内浦に長期滞在していました*14
 文章の多くが大川四郎左衛門からの聞き取りで占められており、大川家の歴史をコンパクトに知るにはうってつけの文章です。さらに、大川家のことのみならず、渋沢からみた当時の内浦の海の自然や漁業の様子も生き生きと描かれており、エッセイとしての読み応えもあり。
 驚くべきは、これをはじめとする渋沢敬三の文章の多くがインターネット上で無料公開されているということです*15。さすが金持ちたちはやることが違う。お茶の間にいながらにして内浦や大川家の歴史を知ることのできるすばらしい文章ですので、ぜひ一読いただきたいと思います。

 

・渡辺尚志編『移行期の東海地域史』(勉誠出版

移行期の東海地域史 : 勉誠出版

http://bensei.jp/index.php?main_page=product_book_info&products_id=100666
 今回の調べもので一番最初にあたった一冊。昨年刊行されたばかりのできたてほやほやな学術書です。
 全体は二部に分かれており、伊豆(静岡東部)漁村を扱った前半、遠江(静岡東部)を扱った後半、となっています。どの論文も興味深いのですが、今回は主に中村只吾先生の論文を参考にさせていただきました。
 中村先生による大川家研究は、文中で引いたこの本収録のものを含め、「津元がなぜ津元たりえたのか」というテーマを、「網子を苦しめる支配者」というイメージからいったん離れてフラットに史料を精査して証立てていく姿勢に貫かれているように思えます。もちろんそれは、黒澤家推しのわたしの偏った視点ゆえの誤読であるかもしれません。
 学術論文ではありますが、ぼくはちょっと目頭が熱くなったくらいですから、黒澤家好きの人は読んで損はないと思います。
 税込で9000円を超える高額な研究書ですけど、ぼくは地元の公共図書館で借りることができました。学生さんだったら自分の大学の図書館に購入依頼を出しましょう。
 あとがきによると、編者の渡辺尚志先生は内浦の通史の執筆を計画されているそうです。先生!それいますぐ出してください!黒澤家ファンのみんなが全員買えば、学術書にしては大ベストセラーになること間違いなしなので、渡辺先生&学術出版関係者のみなさんはぜひがんばってほしいですし、黒澤家推しのみんなも直接・間接に既刊の売上に貢献して通史刊行の後押しをしてほしいなあと思う次第です。

 

移行期の東海地域史: 中世・近世・近代を架橋する

移行期の東海地域史: 中世・近世・近代を架橋する

 

 

 

沼津市歴史民俗資料館『豆州内浦漁民史料と内浦の漁業』図録
 2005年、沼津市歴史民俗資料館の開館30周年記念特別展として開催された展示の図録です。渋沢敬三が「漁民史料」を発見し公刊した経緯、史料を提供した内浦の人々、そして内浦の漁業の様子が、60pフルカラーでまとめられています。写真や再現図など図版が多いのが特徴で、漁の様子や各津元に伝わる民具・食器の写真も豊富です。歴史もの二次創作をするかたなら資料になるのかもしれません。大川四郎左衛門のイコンがもうちょっと大きく載っていると嬉しかったんですけど…。
 十年以上まえの展示の図録ですが、同館では通信販売を行っていてくれています。これほどの内容ながら、なんとお値段は800円! 送料は別途300円かかりますし、申込には現金書留での先払いが必要ですが、ちょっと沼津市は気前が良すぎると思います。
 資料館のホームページ*16で申込方法と購入可能な図録の一覧が掲載されていますので、遠方のかたも安心して申し込みましょう。一部の図録は在庫がわずかで、電話での事前確認が推奨されています。わたしは3月末に申し込んで、一週間強で届きました。

 

芹沢光治良『人間の運命 1 次郎の生いたち』
 まあAqoursのファンならとっくに既読だと思うんですけど(とか言いつつわたしも一巻目の前半しか読んでないんですけど)、国木田花丸さんの愛読書であるこちらも黒澤家に思いを馳せるにはグッドな文献です。
 同作の主人公・森次郎の生家は、我入道の津元でした。この一巻目の前半では、次郎の父常造が、力を失っていく自らの家と、天理教への信仰の間で悩みながら生きていく姿が描かれています。
 昔のことを書いたむちゃくちゃ長い大河小説ということで敬遠しがちだと思うんですけど、常造の物語はこの巻の前半でいったん決着しますし、基本的に波乱万丈のドラマですから、退屈することはありません。
 沼津における津元と網子の社会を、読みやすい小説の形で生き生きと体感できますので、これまであげた学術的な目的のもとに書かれた文献に手をつけるのはちょっとハードル高いなあ、という方にもおすすめです。
 それにしても、この物語を読んでたら国木田さんは黒澤姉妹と付き合うにあたって絶対「森家と同じ津元ずら…!」とか考えて興奮してると思うんですけど、どうなのかなあ*17

 

完全版 人間の運命〈1〉次郎の生いたち

完全版 人間の運命〈1〉次郎の生いたち

 

 

 

 というわけで、たいへん長い記事になってしまいましたが、いかがでしたでしょうか。
 多数の文献を引用した記事ではありますが、記事中に事実の誤認などがあればその責はわたし・てぎに帰します。間違いのご指摘や意見感想はむちゃくちゃ大歓迎ですので、なにかありましたらぜひコメントやTwitterなどでお声がけくださいませ。

*1:ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ特典「School Idol Diary」ダイヤ編

*2:屋号は大屋。以下、特別に記載しない限り、「大川家」はすべてこの大川(屋号大屋)家を指す。

*3:そもそも、「大川家の外見が黒澤家のモデルである」ということはあくまでアニメを観たファンが主張していることであって、公式に認められたことはほぼありません。唯一、『フォトテクニックデジタル』17年4月号のインタビューにおいて、キャストの降幡愛さんが「やっぱりルビィの自宅のモデルとなっている大川さんち(個人宅)は特別な場所ですね」と発言してはいます。ただしこれはキャスト個人が、『電撃G's Magazine』などのアニメ専門誌以外で発言したことで、公式な発表と言うにはためらわれます。一般個人の関わることですから、今後もはっきりと認められるようなことはなさそうに思われます。当記事はこうした点も了承のうえ読んでいただければ幸いです。

*4:祝宮静『長浜村網度日繰帳考説』(『豆州内浦漁民の研究』所収

*5:中村只吾『近世後期~明治初期、津元家の存在実態とその背景に関する再考察』(渡辺尚志『移行期の東海地域史』(勉誠出版)所収)。

*6:岩田みゆき『幕末期における戸田村と異国船問題』(『沼津市史研究』19号所収)

*7:渋沢敬三アーカイブhttp://shibusawakeizo.jp/writing/01_01_014.html

*8:その意味では、特に『School Idol Diary』で描写される黒澤家の様子は、明治以降の変化にうまく適応したタイプの津元であるといえるでしょう。

*9:引用元情報は前掲の通り

*10:今回大川四郎左衛門が東京に滞在していたことが確認できたのは1978年頃のことだけですので、ニコライ堂の建築が始まった1884年以前のことではありますが、前述のインタビューで「ニコライに行った」とありますから、建築開始~完成以後の時期にも駿河台に滞在していたものと推測できます。

*11:あるいは、最初はカトリックに触れ、その後正教に入信した、ということなのかもしれません。

*12:詳しくは公野櫻子ラブライブ! School Idol Diary 絢瀬絵里』(KADOKAWA)を参照のこと。ここで絵里が語るニコライ堂と神田の町についての言葉は、神や人の繋がりといった目には見えないものに対して、街や聖堂という場を通じて想いを寄せることの美しさ、愛おしさ、はかなさを見事に表現しています。そして個人的には、μ'sのラストライブを観た翌日、ニコライ堂で経験した小さな出来事も、わたしの感慨に影響を及ぼしています。こちらはμ'sラストライブについての文中で触れました。「「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/05/08/233533

*13:歌川国芳『東都富士見三十六景・昌平坂乃遠景』https://ukiyo-e.org/image/honolulu/7412

*14:なお渋沢が資料発見時に宿にしていたのは松濤館。そういえば松濤館には、パズルラリー開催時期、ダイヤのスタンディが立っていました。そんな小さなことにも縁を感じてしまいますね。

*15:渋沢敬三アーカイブ http://shibusawakeizo.jp/

*16:http://www.city.numazu.shizuoka.jp/kurashi/shisetsu/rekishiminzoku/list_zuroku/index.htm

*17:国木田花丸が読んだ『人間の運命』は芹沢光治良が晩年に手を加えた完全版ではない可能性が高いため、常造の物語は知らない、という可能性もあります。でもあれだけの読書家だったら、完全版も読み直してると思うんですよね…。彼女行きつけのマルサン書店にも置いてあったし。