六月に生まれた二人のスクールアイドルのことを思って書きました。
『六月生まれのスクールアイドル』
■六月九日
理事長室の扉を開いたとき、鞠莉は机に座って窓の外を眺めていた。
手元には何かの資料らしき紙の束があった。右の手でその開いたページを押さえて、鞠莉は遠くを見ている。
「いやな季節ね」
こちらを見ないで鞠莉は言った。
「空と海の境がわからないの」
まだ梅雨は始まっていない。空は果なく続く灰色の雲に覆われていた。今夜は降るかもしれない。
「来週の、この」
私は手元のオフホワイトの封筒を振って、
「ご招待は残念ながら受けられませんわ」
鞠莉は黙っていた。
指が少しだけ動いて、資料の紙がかさりとこすれた。
ぐるん、と椅子を派手に回して鞠莉はこちらに向き直る。
「ちょっと見てよー、ダイヤ」
急激にオーバーになる身振り。高くなる声。
「これさー、今日会社の人が持ってきたの。まったくオオギョウな」
資料をくるりと手元で回し、私のほうから字が読めるようにする。
『浦の星女学院 再生案』という見出しが目に入った。
「まず間違いなくお母様の差し金。会社の人達が慌てて作ったのがバレバレよ。悪くないけど、肩に力が入りすぎ」
ほら見て、と鞠莉は資料を差し出す。私はざっと目を通す。
前半は、昨年度までの浦の星女学院の概要をまとめている。周辺地域の十五歳人口は下がる一方。教職員は高齢化し、施設は老朽化、後援会の所属人数も減っていく。通学のための交通機関も存続が危うい。
私たちが三年になるまで学校が続いたことが、不思議に思えてくるくらいの状況。
後半では、そんな浦の星のどこに資本を使い、入学希望者を増やすかが語られる。資料の作成者たちが選んだのは、全寮制で世界標準のハイレベルな教育を得られるハイパーエリート校に生まれ変わらせる、という方策だ。ITや語学など、特定の教育分野に集中してお金と人をつぎ込むことで、地方にあっても全国から優秀な生徒を集めることに成功したいくつもの事例が紹介されている。
「でも、わたしがしたいのはそういうことじゃないんだよね~」
鞠莉は両の手のひらをあげて、お手上げ、というポーズを作ってみせる。
「国中から生徒が集まるようなエリートの学校になったら、名家の気弱な次女だとか、隣町の中学校にいづらくなった不思議ちゃんが出会えるような学校じゃなくなっちゃうじゃない」
名前をあげずとも、つい最近、この学校で素敵な出会いを果たした後輩たちの話をしていることがわかる。
私は頭のなかで鞠莉の言葉に付け足す。あるいは、地元の零細ダイバーズショップの娘と、世界的なホテルグループのお嬢様が、一緒に通えるような学校でもなくなる。
「世界、日本、東海地方、そんな大きなスケールは考えない。沼津で、みんなが行きたいなって思える学校にする。そのためのスクールアイドル。この戦略は、間違っていないとわたしはおもう。
こっちにだって成功事例はあるんだから」
こんなの余計なのよ、言いながら資料を閉じて、ばさん、と乱暴に引き出しに放り込む。
「十三日のことだってさ」
学校の話――ビジネスの話――の延長のように鞠莉は言う。
「私ももっと慎ましくお祝いしてもらいたかったのよ? なのにお父様ったら、最近建てた品川の新しいホテルを会場に決めちゃって。
海外VIP向けのゴージャスなペントハウスなんですって。そりゃ仕事関連の人のウケはいいでしょうけど、品川じゃあ内浦のみんなも来れないよね」
私は自分の用事に話が戻ったのを幸いに、言葉を引き取る。
「ええ、ごめんなさい。私も行けそうにありません」
「わかってるわかってる。気にしないで~」
くるりと椅子を再び回す。窓を見て、
「曜ちゃんの誕生日、楽しそうだったわね~。四月のさ。ダイヤも見たでしょ? Aqoursのブログ」
渡辺曜の誕生日は四月十七日だった。
まだその時点では、浦の星女学院に新たに作られたスクールアイドルグループ・Aqoursは、二年生の三人だけだった。残りの二人、高海千歌と桜内梨子は、放課後、千歌の家でお祝いをしてあげたそうだ。手作りのケーキ、慎ましいけれど心のこもったプレゼント。笑顔の三人を写した写真が何枚か、ブログにアップされていた。
「ほほえましかったですね」
「部屋の飾りつけ、曜ちゃんが海好きだからって大漁旗を使うのは正直ないよね~」
「でも、渡辺さん、とても嬉しそうでしたわ」
「けっきょく三人でお泊りしちゃったんでしょ? まったく、まるで――」
まるで。
鞠莉はそのまま、黙ってしまう。私も何も言わない。何と言いかけたか、訊かずともよくわかったからだ。
まるで私たちみたい。
――二年前、私たちも同じことをした。
鞠莉の誕生日、六月十三日に、何日も前から私と果南は用意周到に準備を進めた。果南が自分でケーキを作ると言い出して、松月のお姉さんにレシピを教えてもらったにも関わらず、クリームは甘すぎたしスポンジケーキは焦げていた(オーブンの温度調整を間違えたのは私だ)。
それでも鞠莉は喜んでくれた。涙をこぼしそうにしながら。
あの夜、彼女は言った。私はいつまでも二人と一緒にいたい。二人と一緒にスクールアイドルをがんばって、浦の星女学院がいつまでも続くようにする。何年も何年も先の後輩たちが、私たちみたいな素敵な学校生活を送れるように。
「そういえばさ、ダイヤ」
遠い昔の記憶にとらわれて、何も言えないでいた私に、鞠莉は理事長席の向こうから訊ねた。
「μ'sってバースデイイベントのたぐいはしていたのかしら」
「――確か、矢澤にこの誕生日から行うようになったはずです。彼女は七月の生まれでしたから、μ'sが九人揃って初めて行った校内ライブと近いタイミングで、ちょうどよかったのでしょう」
それじゃあ――と鞠莉は机の上の手帳をめくった。
「一年の津島善子ちゃんが来月の生まれね。ナイスタイミング!スケジュールに組み込んでおくよう、千歌に言っておかなくちゃ」
「μ'sをお手本にしているのですね」
「まあね。成功する人達にはそれなりの理由がある。もちろんμ'sとわたしたちは別人だけど、いいところは真似して損はないはずだよ」
「それはそうかもしれませんけど。でも、スクールアイドルとして人の心をつかむには、誰かの真似ばかりでは――」
「さっきのレポートの後半、見たでしょう? たくさんの成功事例。人を説得するには、先に成功した見本が必要なの。お金や決断できる権利を持っている人に、『こんなにうまくいっているんですからあなたも安心して』、そう言って説得するのよ。そういう意味でも、μ'sは「使える」」
さきほど資料を投げ込んだ引き出しから、別のファイルを取り出してみせる。高坂穂乃果を始めとしたμ'sのプロフィール、大まかな活動の履歴。
「ダイヤほどじゃないけど、わたしなりに真面目に色々調べてもいるのよ。μ'sはどんな人たちで、どんなふうに活動していたのか。そこを考えていけば、μ'sみたいに人気を獲得できるはず。前は、ダイヤと果南に言われたとおりやっていればよかったけど、今は違うから」
μ'sをビジネスの道具みたいに扱わないで、そう言いかけた私は、鞠莉の皮肉めいた言葉に口をつむぐしかない。
「あら、今日は誰かの誕生日だったみたい。ええと……ヒガシ……」
「とうじょうのぞみ」
「ふむふむ、この人も三年ね。七月、アヤセエリにつづいて最後に加入、と」
顔をあげて、私に屈託のない笑顔を向ける。
「ほらね。二年、一年、最後に三年生。Aqoursもμ'sと同じ」
――そうだ、この人はあくまで、自分もAqoursに戻るつもりなんだ。
たぶん、果南も私も戻ると思っている。さきほど、彼女がAqoursのことを「わたしたち」と呼んでいたことを思い出す。
「お手本の希さんも、誕生日はまだ一人だったのね。なら、わたしもだいじょうぶ」
でしょ?
鞠莉は私の顔を、見上げるように覗き込む。目と目が合う。
笑顔だけれど、彼女が私に何を求めているのか、私にはわからなかった。
私は必死に、何か、言葉を口にするための勇気を自分の中に探す。
「……なんてね!」
おどけて言って、鞠莉は目をそらした。
「大丈夫よダイヤ、Aqoursはきっとμ'sみたいになれる」
つぶやいて、くるりと椅子を向こうへ回す。
「十三日のこと、わざわざどうも」
会話は終わり。そういう響きの言葉だった。
「どういたしまして」
私は頭を軽く下げた。そのまま身をかえして、部屋を出る。
扉を閉めるときまで、鞠莉はそのままの姿勢でいた。視線は窓の外のまま。
窓は淡島の方向に向いていた。
■六月十三日
<二〇一三年七月 μ's 第三回学内ライブ/撮影者:同級生有志>
(中規模の教室。黒板にチョークで、ライブタイトルやイラストがカラフルに描かれている。その手前、教壇や机を移動して開けた空間がステージのかわりだ。楽曲のアウトロが終わり、決めポーズをとったμ'sの九人がほっとした表情でもとの姿勢に戻る。盛んな拍手と歓声が客席から投げかけられる。特に、絢瀬絵里を対象とした歓声が目立つ)
(高坂穂乃果、ステージ中央に進み出てくる)
穂乃果「絵里ちゃん人気、すごいね……」
(穂乃果の後ろで、ありがとね、と小さく言って絢瀬絵里が手を振る。再び歓声)
穂乃果「ではここで、本日二つ目のスペシャルコーナーです!先ほどは、七月生まれの矢澤にこちゃんのお誕生日をみんなでお祝いしたわけですけれども!」
矢澤にこ「やーん、みんなありがとー!!にこ、まだ感動で泣いちゃいそうで~す」(矢澤にこ、笑顔を振りまきながら穂乃果の横に並ぶ)
(会場笑う)
にこ「笑うところじゃないにこー」
穂乃果「ま、まあまあ……でも、私たちがこうして九人になる前に、誕生日が終わってしまったメンバーがいるんです!」
にこ「そんな、にこ、誕生日をお祝いされないかわいそうな子がいるなんて耐えられないよ~!」
穂乃果「というわけで!再びのサプライズ!!六月九日生まれの東條希ちゃん、おめでとうございまーす!!」
(カメラ、東條希に寄る。驚いた表情の希)
希「ふぇっ、う、うち?」
にこ「一ヶ月遅れちゃったけど、みんなでお祝いしてあげる!」
希「え、ええんよ、うちはそんな、だって先月のことやし、うちはμ'sに入ったばかりなんやし」
穂乃果「いいからいいから!」
にこ「そうそう、素直に祝われなさーい」
(でも、と渋る希に、脇から西木野真姫が声をかける)
真姫「早くしなさいよ。あなたが祝われなきゃ、四月生まれの私も祝われないでしょ」
にこ「ちょっとあんた、なんでこの後の段取り知ってるのよ」
真姫「だってさっき、穂乃果さんが、私たちのプレゼントを用意してるの見ちゃったから」
にこ「な、なんですって~」
穂乃果「ご、ごめんね……」
(客席笑う)
穂乃果「このサプライズアイディアはにこちゃん発案なんだ。自分も祝われる側なのに、真姫ちゃんと希ちゃんの誕生日を私に教えて、二人も祝われなきゃいやだ、って」
希「にこっち……」
絵里「意外と優しいのね」
にこ「そ、そういう舞台裏はいいから!ほら穂乃果、進めなさいよ!」
穂乃果「は、はい!えーと、改めて、六月九日生まれの希ちゃん、そして四月十九日生まれの西木野真姫ちゃんをお祝いしたいと思います!」
にこ「ほら、ふたりとも、こっちこっち」
(西木野真姫、ありがとうございます、と言って前に進み出る)
穂乃果「希ちゃんもほらほら、前に来て」
(絵里、希の背中を押す)
希「もー、えりちまで」
(希、真姫の横に立つ。かしこまった表情、少しだけ背中が小さくなっている。
穂乃果が二人に向かって話し始める)
穂乃果「真姫ちゃんも希ちゃんも、誕生日からだいぶ経っちゃったけど……でも私、ちゃんと伝えたかったんです。こうやって、同じ学校に来て、スクールアイドルになってくれて、歌を、ダンスを一緒にやっている仲間に。大好きな仲間に、おめでとうって言いたかったんだ!!
だってわたし、真姫ちゃんも希ちゃんも、大好きだもん!」
(わあっ、と一際大きく客席がわく。
拍手と歓声のなか、舞台袖に隠してあったプレゼントボックスを、園田海未、南ことりが持ってくる。真姫と希にボックスを渡す二人。ピンクと紫に飾り付けられた箱を抱えた真姫と希に、客席から更に大きな拍手が送られる)
真姫「あ、あの、ありがとうございます」
希「穂乃果ちゃん、にこっち、みんな、ありがとう……」
海未「希さんに喜んでもらえてうれしいです。みんな、あなたのことが大好きなんですから」
ことり「真姫ちゃんのことも、にこちゃんのこともね。好きな人の誕生日をお祝いしたいって思うのは、当然だよ!」
真姫「ふぁっ、ちょっとあんた、何泣いてるのよ」
(希、目元をぬぐう)
凛「あっ、真姫ちゃんも目が赤くなってきたにゃー」
真姫「泣いてないし!」
花陽「もらい泣きしちゃうよお……」
凛「か、かよちんも!?」
穂乃果「それでは会場のみなさんもご一緒に!」
(ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー、とμ'sが歌い出す。客席が続く。希と真姫、目と顔を少し赤くしながら、歌に加わる)
「「「ハッピー・バースデイ・ディア・希ちゃんと真姫ちゃん! ハッピー・バースデイ・トゥ・ユー!!!」」」
穂乃果「にこちゃん、希ちゃん、真姫ちゃん、」
(全員が息をあわせる。全員が笑顔でいる)
「「「誕生日、おめでとう!!!」」」
♪♪♪
私は動画サイトの一時停止ボタンを押す。
あと十五分で日付が変わる。六月十四日になる。
照明を落として、机上のランプだけが灯る自分の部屋で、タブレットPCの中のμ'sの笑顔を私は見つめている。数年前の彼女たちの、誕生日おめでとうという声の残響が、頭のなかで繰り返されている。
今日、六月十三日、品川で小原鞠莉のバースデイパーティが行われているころ、私は父と勉強会に参加していた。父の知己の大学教授を囲んで、父と同じ党派の市会議員数名を筆頭に、沼津や近隣の自治体や地元企業から、百名ほどが集まった。参加者はせいぜい若くても大学生で、私は最年少だったろう。
勉強会に誘ってくれたのは父だ。先生の専門は経済学だけれど、地方の教育についても造詣が深いんだ。ダイヤの学校のことを考えるヒントもあるかもしれない。そう聞いた私は喜び勇んで同行を申し出たのだけれど、大学教授の講演と意見交換の二時間ほど、私は話についていくだけで必死だった。話の早さと言葉の密度は、私がそれまで接したことのないものだった。できうるかぎりの事柄をノートに書き取ったけれど、様々な知識や経験を前提とし、冗談と建前と本気が入り混じった意見交換の時間はほぼお手上げだった。そこに軽々とついていき、むしろ場の空気を支配している父の姿を見て、私は自分の家を現代まで持続させてきた人達の優秀さを思い知った。
会のあと、熱を帯びた頭を持て余している私を見て父は、打ち上げには参加せず家に帰りなさい、と笑った。残念ながら主賓のはずの先生も東京へとんぼ返りだそうだ。外の人がいないと、打ち上げは少々乱れるからね、そう言って父は、会場の一角に群れた大人たちのほうへ去っていった。
会場のコミュニティセンターの外でタクシーを待っていると、背後から声をかけられた。講演をした大学教授だった。会の前に自己紹介を済ませていたが、私は改めて自分の立場と、今日の講演の感想を告げた。
「まだ高校生なのにずいぶんしっかりしていますね。黒澤さんといい小原さんといい、沼津の名家の娘さんは度胸がすわっている」
突然予想もしていなかった名前に驚いている私に、
「もともと、黒澤さんとは小原さんのご紹介で知り合ったんですよ。最初に沼津に来た時は、淡島のホテルにお世話になったし」
あの夜は楽しかったなあ、三人でバーで遅くまで飲んでね、と教授は朗らかに笑った。
「つい先日も、観光関係のフォーラムで小原さんと娘さんにばったりお会いしましたよ。高級旅客鉄道の事例紹介を聞きに来た、と仰っていたな。娘さん、最近留学から戻られたんでしょう?」
「ええ、アメリカに一年半。あちらにお住まいのお母さまと暮らしていたそうです」
「日米間で、優秀な娘さんの取り合いだね。そういえば小原さん、珍しく娘さんにわがままを言われたなんてぼやいていたけど」
「わがまま、ですか」
「ええ。彼女の誕生日パーティの会場に、真新しいホテルのペントハウスを確保させられた、なんてね。そうそう、今日だったはずですよ。私も誘っていただいたんですが、こちらの約束が先にあったから、お断りしたのだった」
大学教授は、私がそのパーティの場ではなく沼津にいることに気づいて、怪訝そうな顔をした。彼を迎えに来たタクシーがちょうど現れて、気まずくなりかけた空気は消えた。彼を乗せたタクシーが去り、私は夜の暗闇のなかに一人残された。
灯りの少ない沼津の夜の風景にふさわしく、私の心は暗かった。
品川でパーティをしたのは、親の意向ではなかった。鞠莉が自ら、内浦から遠く離れたところを会場にしたのだ。
品川なら、内浦の人々が一人も来なくても――大人はともかく、同級生ならなおさら――言い訳がたつ。わがままな娘のふりをしてまで、鞠莉は彼女の誕生日を素直に祝えない私と果南から距離を置いた。離れてさえいれば、祝福されなくても自分は傷つかないし、私たちが気に病むこともないから。
そういうことだ。
先週鞠莉と話したとき、その可能性に思い至らなかった自分が不甲斐なかった。そして何より、勉強会に熱中した自分が、今日が鞠莉の誕生日であることを忘れていたことに、私は強く幻滅した。
いま、自分の部屋の暗闇のなかで、私はもう一度時計を見る。あと10分で今日が終わる。
タブレットのなかのμ'sのみんなが、「おめでとう」と声を張り上げたままの姿勢と表情で静止している。
私も口にしてみる。
「おめでとう」
その声が思っていたより大きく部屋に響く。もう一度繰り返す。
「おめでとう、鞠莉さん」
名前を口にして、胸の奥に、きゅ、とつぼまる苦しさが芽生えた。
――途端に後悔が襲ってきた。
なぜこの言葉を直接言わなかったのだろう。
いや、言えないような状況に、なぜわたしたちはいるのだろう。
やりきれなくて、私はタブレットの画面を指で弾いた。また動画が再生される。流れるμ'sの賑やかな声。
おめでとうとありがとうが行き交うステージを、カメラはズームアップする。祝われている三人が順に大写しになる。満足そうなにこちゃん。照れながらも、脇の凛ちゃんと花陽ちゃんにありがとね、と小さく伝える真姫ちゃん。
希ちゃんは黙って、胸元にかかえた大きなプレゼントボックスを、見つめていた。
目が潤んでいた。眉間に少しだけ力が入って、困っているような、自分で自分を持て余すような笑顔だった。カメラが移動する直前、彼女は両の腕で、もう一度、ぎゅっとプレゼントボックスを抱きしめた。
私はタブレットを置いて、スマートフォンを取り上げる。
メッセージアプリを開く。
画面をスクロールする。一昨年の夏からずっと、一度も言葉のやり取りがなかったメッセージグループを開く。果南と鞠莉と私の、二年間ずっと空白だった場所。
希ちゃんの顔を見て私は思い知った。私は言うべきだ。何かを。言葉を。おめでとうという言葉は、その言葉で伝わった気持ちは、誰かを幸せにできる。希ちゃんの表情が絶対の証拠だ。
あんな顔を見たあとで、言わないでいるなんてできない。
「鞠莉さん、誕生日おめでとう」
テキストを打ち込む。送信する。二十三時五十五分。
お願い、鞠莉、スマートフォンを見て。
お願い、果南。
二十三時五十八分。
私のメッセージの横に、「既読」のマークがついた。
続けて、「既読2」のマーク。
二人が見てくれた。
間に合ったんだ。
放心している私の前で、画面が更新される。果南のメッセージ。「おめでとう」。
鞠莉が入力中であることを示すアイコンが表示された。明滅するそれはしばらくのあいだ変わらない。鞠莉はきっと、どう返すか悩んでいる。二年ぶりに交わす言葉だ。私も何か言いたい。でも言えないでいる。
ようやく鞠莉がメッセージを返してきたのは、日付が変わる前のさいごの数十秒のことだった。
「ありがとう」
一言だけ。
それだけだった。
私と鞠莉と果南が、交わした言葉はそれだけだった。スマートフォンの画面のほとんどはまだ空白のまま。
あと数秒で今日が終わる。スマートフォンの画面の端で、時計が、ゆっくりと残された時間をカウントしていく。
けれども、これだけで十分だ、と私は思った。
今日、とりあえず今日、この日は。
今日はただそれだけで、私たちは十分幸せだった。
(おしまい)