こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR 神戸公演二日目で感じたこと

 2017年8月20日、神戸ワールド記念ホールで開催されたAqoursのライブ「Aqours 2nd LoveLive! HAPPY PARTY TRAIN TOUR」について書きます。
 なお、今回のライブはkosakiskiさんに同行させていただきました。kosakiskiさんが恐るべき強運を発揮した結果、わたしたちはステージから数えて十列目という席につくことができた。kosakiskiさん、ありがとうございました。
 kosakiskiさんは9月3日に行われる同人誌即売会「僕らのラブライブ!」に参加されるそうなので、これを読んだ人は全員kosakisukiさんの同人誌を買いに行ってください。ラブライブ!をうたったすばらしい短歌をおさめた短歌集が買えるはずです。その一部が読めるブログはこちら。

  「幾百億秒の呼吸」 http://svapna.hatenablog.com/

 


 ♪♪♪


 わたしは記憶力が低い。
 あの3時間ほどのライブのあいだ、忘れたくない場面はいくつもあったが、恐らくわたしはそれらを忘れていく。
 でも忘れられない場面が一つだけある。AZALEAの『GALAXY HidE and SeeK』が歌われていたあのときの情景だ。より厳密に言うと、『GALAXY HidE and SeeK』を小宮有紗さん/黒澤ダイヤさんがたったひとりで歌っていたあのとき。
 たぶんあの感じだけは忘れないで済むと思う。


 それまでのライブは、わたしのすぐ近くの前方ステージでもっぱら行われていた。Aqours全員による3曲、学年別の3曲、そしてCYaRon!の2曲のあと、AZALEAは会場中央に設けられたステージから登場して、その場で『GALAXY HidE and SeeK』を歌う。ライブの演出はほとんどツアーの最初の会場である名古屋でのそれと同じだったから、この展開は予想できた。
 CYaRon!の『海岸通りで待ってるよ』の演奏が終わり、照明が暗転すると、わたしはセンターステージのほうを振り向いた。周りの観客たちの多くも同じように後ろを振り向く。
 『GALAXY HidE and SeeK』のイントロが響き始める。照明がセンターステージを照らす。観客たちの歓声が響き始める。みなの手元のライトは、AZALEAの三人を示す、赤・黄・緑の三色に切り替わっている。
 「もしかして ほんとうのわたしは」と歌い出す小宮さんの歌唱は、CDの音源においても、柔らかい。Aqoursの9人で歌っているときよりもAZALEAでの歌唱は柔らかく聴こえるから、これは本人も意識されているのではないかと思う。その柔らかい声が、この『GALAXY HidE and SeeK』という曲においては、世界のどこかにいるかもしれない、心を通わせられる誰かを探し求めるさまを描く歌詞を引き立てている。
 わたしが聴いたライブでの小宮さんの声は、柔らかいだけでなく、少し震えていた。歌唱後のMCで小宮さんは、「ひとりで歌っているとき、少し寂しかったよ」と言っていた。確かにそれは、大きな会場のなかでひとり歌うことの不安と、それでも必死に歌おうとする意志が伝わってくる声だった。
 わたしの席からセンターステージまでは距離がそれなりにあって、小宮さんが歌い始めても、その姿をすぐにとらえることはできなかった。やがてセンターステージの中央部がゆっくりとせりあがっていき、宙の高いところで小宮さんが歌う姿がはっきりと見えるようになった。
 スポットライトがアリーナの頂点部分から小宮さんのところへとまっすぐ光を届ける。空気中のスモークや塵が光に浮かび上がって帯のように見える。その向こう側の暗闇で、観客たちが振るたくさんの光が揺れる。
 そこにいる小宮さんは本当に、誰かを探してさまよう孤独な人に見えた。銀河で一人ぼっちの人に。
 と同時に、そこで、そうして『GALAXY HidE and SeeK』という歌を歌う小宮有紗という人が、確かに存在するんだという強烈な感覚も抱いた。
 演劇において、俳優が虚構の役柄をうまく演じれば演じるほどに、その俳優本人の存在感が際立ってきてしまうのと同じような、と言えばわかってもらえるだろうか。虚構と現実の二つの方向に向かって、存在感のエネルギーみたいなものが同時に発せられている感触があった。


 そのとき感じたのは、小宮有紗さん一人のパフォーマンスのことだけではなかった。
 それまで前方ステージを観ていたわたしは、ステージの上のAqoursだけを観ていた。いわば、「ステージの上」という枠のなかのライブを観ていた。
 それが、後ろを振り向いて、遠くのほう、ライブ会場の中心で宙に浮くようにしている小宮さんを、その周囲の情景全てとともに視界に入れたことで、それまでの枠が取り払われたのだった。わたしはそのとき、このライブそのもの――演者と、観客と、スタッフと、会場、それら全部――をまるごと体感したように思った。これがライブなんだ、なんてすごいことをしているんだ、なんて楽しいんだ、と。
 銀河の中で誰かを探す壮大な歌詞のイメージが、わたしの感じた「ライブそのもの」の感覚に重なった。
 わたしはその感覚に驚いて、ちょっとだけ、はは、みたいな乾いた笑い声を出していたような気がする。頭のなかで、なんてこった、と呟いた。一瞬だけ、小宮さんの背中を追うのをやめて、ホールの天井に視点をあわせて、より俯瞰的な感覚を持てないか試したりもした。


 熱狂的なライブにおいてはこうしたことはありがちなのだろうと思う。しかしありふれていようがなんだろうがかまわない。わたしは一昨日の夜、その感覚を感じてとにかくすばらしく楽しかったのだし、それを感じさせてくれたのはわたしの大好きな小宮有紗さんであり、黒澤ダイヤさんであり、AZALEAでありAqoursだった。そのこと以外に大事なことなんてありえない。


 『GALAXY HidE and SeeK』、小宮さん/黒澤さんのソロパートが終わるまで、彼女はずっとホールの後方を向いたままだった。わたしはずっとその後ろ姿を観ていた。ホール前方に設えられたディスプレイには、彼女を正面からとらえた映像が映し出されていたはずだ。それを観ればよかったとも少し思う。
 でもわたしは観なかった。その人が、ただ一人でホールの真ん中の虚空に立って歌っている姿を観ているべきなのだ、という気持ちがあった。
 演出された虚構のものとはいえ、そこに孤独の声を聴いたのだから、わたしは同じく孤独に(背中しか見えないという断絶された状態で)その表現を受け取るべきだと思ったのだった。
 もっと雑に言うと、ただ単に、小宮さんがこんな一所懸命に歌っているんだ、正面から聴くしかねえじゃねえかよ、みたいな気持ちだったのかもしれない。
 美しいものを見、聴いている喜びと、そこに永遠に手がとどかない辛さの両方を感じて、でもそれらぜんぶがとにかく楽しい、という感じがしていた。


 いまこうして、あの瞬間を思い返していると、小宮さんが孤独に歌を歌っているときにわたしが感じたあの感覚が、ライブ全体の記憶のはしばしに響いていくような気がする。Aqoursの9人があんなに仲良く、そしてたくさんの観客が一緒に、心底楽しい時間を過ごしたときのことなのだから、そんな感覚は間違っているようにも思うのだけど。


 伊波杏樹さんは、アンコール後の最後のあいさつで、2016年1月に行われたファーストシングル発売記念イベントの際に、Aqoursが受け入れられるかどうか不安を感じていたことを述べたうえで、「でもこの会場に来ている人たちはAqoursが大好きなんでしょ?!」*1と言った。端的に言えば、孤独のなかにあった彼女が、いまやライブ会場につめかける(そして会場に入れなかったより多くの)ファンたちからの歓声によって孤独から脱している、ということだ。
 そうなのだ、Aqoursもまた孤独だったのだ。文字にしてしまえば陳腐だ。複数のメディアで大きく扱われる、メジャーなアイドルグループが孤独?そんなばかな、と思う人もいるだろう。でも、ライブのステージ上で歌い踊るAqoursの9人は、『GALAXY HidE and SeeK』を一人で歌う小宮さんと同様に、巨大なライブ会場全体を相手に、自分の身体ひとつで戦っていた。周りにどんなにたくさんの仲間がいようと、背景にどんなに大きな企業の支えがあろうと、それでもやはりそれは孤独な戦いのはずだ。わたしはライブを観たとき、そのことを強く感じた。
 順番にソロパートを歌い継いでいくときの緊張や、照明の落ちたステージ上で行われる移動の身のこなし、あらかじめ練られたトークの言葉づかいを間違えたときにのぞく、ざっくばらんとした表情*2。やはりそこにいるのはただのひとりの人なのだ。ステージ直近の席ゆえに余計に微細に見えてしまうさまざまな風景を前にして、わたしは強くそう思った。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメ一期は、Aqoursがそれまで獲得できなかったたった一人の人間の心を動かすところで終わる。その作劇を、一人が動いたところでどうしようもないじゃないか、と批判する視聴者もいる。気持ちはわからないではないが、今ははっきりとその意見を否定したいと思う。どんなことでもすべては一人からはじまる。Aqoursも一人が集まって9人になるのだし、一昨日の晩、神戸のワールド記念ホールに集まったのも、それぞれ全く異なる人間ひとりが八千集まった結果である。その一人をこそ大事に描いた『ラブライブ!サンシャイン!!』のAqoursだからこそ、あのようなライブになったのではないかとわたしは思う。


 ライブの終盤、アンコールパートが始まる際に流れるアニメーションでは、次のような物語が描かれる。
 Aqoursは『Happy Party Train』のプロモーションビデオで描かれたファンタジックな鉄道に乗って、次のツアー開催地へと出発しようとする。しかし列車の燃料がない。自分たちの力だけではどうしようもない、とAqoursは会場の観客に助けを求める。力を貸して、一緒に「Aqours」と声をあげて、と。これを受けて実際に会場の観客が叫ぶ。何度も何度も、嬉しそうに「Aqours」と叫ぶ。
 よく考えればこれは奇妙なことだ。なぜなら、観客が力を貸せば、Aqoursは次の会場へ向かってしまうのだ。ファンならずっと自分たちの目の前にAqoursがいてくれたほうがいいだろう。Aqoursが去れば、ふたたびわたしたちは孤独な日常に戻らざるを得ない。
 しかしファンは叫ぶ。次の会場へ、大喜びでAqoursを送り出す。
 Aqoursが、次の会場で待っている孤独な誰かを見出すために。あるいは、次の会場に満ちたたくさんのファンたちが、Aqoursを孤独から引き上げるために。


 出発の準備を整えたAqoursは、アンコールパートのパフォーマンスを開始する。わたしはその姿を、喜びと悲しみの両方を抱えて観る。こんなにも悲しいのだからAqoursはすばらしいのだし、こんなにも楽しいのからAqoursはすばらしいのだ。そのようにして、Aqoursの輝きはまったく違う方向から証明される。
 そういえば、アンコールアニメの最後、次の会場へ出発する前にここでの最後のパフォーマンスをしよう、と言ってくれるのは、他でもない黒澤ダイヤだった。わたしはそのことも、ひどく嬉しかったのだった。

 

 

 


【試聴動画】ラブライブ!サンシャイン!!TVアニメBlu-ray特装限定版ソフマップ全巻購入特典「LONELY TUNING」(歌:AZALEA)

*わたしが見た公演では歌われなかったのですが、この記事はほとんどずっと『LONELY TUNING』を聴きながら書きました。

*1:この部分に限らず、本記事で書いたことはすべてわたしの記憶にもとづくため、実際の発言や演出と異なる可能性が大いにある。ただし大意が変わらないように、可能な限りの注意を払ってはいる。

*2:小宮有紗さんが『青空Jumping Heart』について話しているとき、「みんな(Aqoursの9人)でいろいろな場所で歌い踊ってきた蓄積を、みなさん(ファン)の前で披露できたことを嬉しく思う」と言おうとしたとき、「みんな」と「みなさん」を言い間違えたときのあの感じ。たまらなく魅力的だった。