こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

彼女たちのその後/「ファイナルライブ」のあとのμ'sのこと

 三月である。春である。卒業と異動の季節だ。
 こういう季節にμ'sを想うとき、ファイナルライブから二年経ったμ's、というイメージがうまく自分のなかに像を結ばない印象があった。
 当然だけど、声優さんたちについては、大なり小なりずっと情報を追っているから、二年経った姿が頭のなかに浮かびやすい。二年を経て変わったところも、おおまかになら指摘できる気がする。けれども、あのキャラクターたちの二年後の姿がうまく想像できないのである。

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  ゲームや漫画、ショートストーリーといったアニメ以外の媒体で、いまだに彼女たちが高校生としての生活を送っているから、というのも一つの原因ではあると思う。けれども、高校生活を終えたことになっている、アニメ版のμ's、と対象を絞っても難しいのだ。いや、むしろ、アニメ版だからこそ難しい。
 公野櫻子による『School Idol Diary』で、東條希が大学の見学に出かけるエピソードがある。絢瀬絵里も登場して、かれらが自身の将来について悩み、語り合う姿が描かれる。アニメ版においては、そうした、将来を考える姿もほぼ全く描かれなかったように思う。
 アニメ版のμ'sには、未来があるとは思えないのだ。あの映画のラストシーンですべてが終わっている。ひとつの光になって、それで、終わり。声優ユニットとしてのμ'sもそこに同期していって、ファイナルライブで『僕たちはひとつの光』を劇中同様に演じているから、彼女たちも同じように終わっている。前述のように、今現在も日々を生きる声優さんたちの姿を目にすることができるから、まだキャラクターと切り分けて考えることができるけれども。


 これは悲壮なことでもなんでもなく、ただただ美しく見事に終わった、ということなのだろうと思う。あの映画のいくつもある美点のうちのひとつだ。これ以上ない幕引き。
 ぼくは、あの映画の公開直後からしばらくは、その見事な終わりにつらさを抱いてもいた。作品としては(物語としては)見事に終わっているのだけれど、μ'sのその後の人生はまったく示唆されないから、宙ぶらりんであるような感覚をもってしまったのだろう。ひどい、と思ったこともある気がする。でも、あの終わり方は、やっぱりとても優しいものだった、と今は思う。あそこまで美しく終わってくれたからこそ、ぼくはμ'sのことをずっと想い続けることができる。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』はその点、なかなかシビアだ。Aqoursの三人はアニメのなかできちんと「その後」を予感させる形で退場していく。三年生たちは明確に進路が描かれる。そのへんに、高校を出たらすぐに身の振り方を考えなければならない地方と、大学までが義務教育っぽくなってしまっている東京、という現代日本の若者たちの就学事情を連想してしまいもする。いや、たぶん、矢澤さんちあたりも大変だとは思うんだけど。
 映画ではそのへんどうなるんでしょうね……って、今日はμ'sの話でした。すみません。


 二次創作で描かれる「その後」にはあまりこだわれない。正直なところ、どうでもよい、という気がする。いや、各作家の考えることはリスペクトしているんですよ。しているからこそ、勝手にやってください、ぼくのものではない、という気持ち。
 もし公野櫻子なり京極尚彦なり、信用のおける公式の作家陣が「その後」を描いたらどうだろう。......うーん、いまはちょっとわからない。心酔しつつ、頭のなかで少しだけ「まあこれはあのμ'sではないし」という気持ちを抱いて鑑賞することになりそう。


 『ラブライブ! The School Idol Movie』のなかで、たぶん唯一、μ'sが未来について話すシーンがある。ぼくはそのシーンがとても好きだ。
 「あの街」から帰ってくるときの飛行機のなかで、眠りからさめた穂乃果がことりと会話を交わす。ふたりは、またみんなで行こう、と未来の約束をする。後ろの席で、眠りからさめた真姫が、その会話を少しだけ耳にして、微笑んで、また眠る。
 雲の上のまぶしい太陽の光が小さい窓から差し込んでいる。夢と夢のあいだ、この世でいちばんまぶしい光のなかでだけ、本当にあるかどうかわからない、雲をつかむようなかっこうで、未来が語られる。
 冗談みたいな、まったく根拠のない約束も、そうやって輝きに包まれて、空のはるか高いところに漂ってしまう。あのころのμ'sというのは、きっと、そうならざるをえなかったのだろう。すべてがいまの輝きに満たされてしまうような。


 こういう語りを行うぼくは、μ'sを神話化しているのだろうか。手の届かない輝かしい存在として語ることで、神に祭り上げようとしているのだろうか。
 でもぼくは、μ'sがこういうふうに語り得るからといって――ここまでの話をざっくり言うならそれは「μ'sは永遠の存在だ」ってなことで、それはまあ確かに崇拝と言われたら否定できない――、祭壇のうえでうつろに輝きながら滅んでいくような存在でもない、とも思うのだ。μ'sは輝いている。輝いているけれど、輝いているという言葉でもまた彼女たちには届かないから。ぼくのなかにあるμ'sのイメージとはそういうもので、だから彼女たちには「その後」なんてないのだ。


 ファイナルライブから二年たったいまも、ぼくの「μ's」は輝いている。

 

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 本記事は生春さんの下記の呼びかけに応じて書きました。

 生春さん、ありがとうございました!