こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

物語なんてもういらないと思っていた/Aqoursとμ'sと自分のこと

 Aqoursの4thライブがはじまる。
 かつてμ'sが最後のライブを行った東京ドームで、Aqoursがライブを行う。私はそこに色々な物語をみてとることができる。なんといっても『ラブライブ!』は、「みんなで叶える物語」というテーマを冠した作品だ。
 でも、もう、物語はいらない、と私は思っていた。

 


 Aqoursの3rdライブの福岡初日をライブビューイングで観た夜、私はこんな文章を書いていた。

 たぶんライブ/ライブビューイングで観た人はわかってくれると思いますが、最後のあいさつのなかで、わすれがたい一場面がありました。

 ネタバレどうこうじゃなくて、単に彼女のあの数分間のことを、ぼくは自分の言葉で表現したくない(なぜならあれは彼女だけのものだから。他人が気安く言葉や絵で書き替えていいものじゃないから)、という気持ちから詳しくは言いませんけども、あれは本当に感動的で心が動かされたと同時に、すごく不可解でもあった。どうしてしまったんだろ、と思いながら見ていた。

 そこには断絶があった。どんなに彼女が、ぼくたち観客のことを思ってくれているとしても、ぼくは彼女らのすべてを知ることができないから。ステージ上であらわされた歌、ことば、身振り、それらを受け取ることしかできないから。

 でもそういう断絶がたくさんあることにぼくはなんだかすごく満ち足りた気分になったのです。矛盾していることを言っているように思われるけれども。

 Aqours 3rd LoveLive! tour 福岡初日LVのこと - こづかい三万円の日々

 

 今回もその出来事について詳しく語ることはしないでおく。当時、ネットにあふれるライブレポートのたぐいがあの出来事を、あの晩を頂点とした彼女の成長の物語としてまとめ、省略し、描いていたことに私は強い違和感を持っていた。もちろんそのような切り取り方もできるだろう。しかし、本当にそれは、一つのスムーズな流れとして誰もが納得できる物語に落とし込めるものだったのか? 落とし込んでいいものだったのだろうか?
 そこにはきれいでわかりやすい物語としては語りきれないものがあった、と私には思える。観客には、そしてAqoursの他のメンバーや、彼女自身にすら把握しきれないものがあったのではないか。にもかかわらず、そうしたものをなかったことにして、受け取りやすい物語として語ってしまうことは許されるのだろうか?*1


 先日、AqoursNHK紅白歌合戦に出演することが発表された。報道や巷間では「日本文化の代表」、「先輩・μ'sの後を追いかけて」、そういったフレーズを端緒に多くの物語が縷々語られている。それらは誰のための物語なのだろうか。そうした期待や欲望に沿った物語を語っているのは、誰のためになっているのだろうか。
 私だって、物語を読み解き語ることの欲望に身を任せてきた。このブログそのものが証拠だ。ライブの、アニメの、沼津の風景の、そこかしこに意味のある繋がりを身勝手に見出して、物語として語ってきたのは私だ。自分のことだからわかる。そうして語られてきたことのほとんどすべては、Aqoursの、『ラブライブ!』の、核には決して届くことがない。私の言葉から遠く離れたところにAqoursはいる。その距離を埋めることはできない。


 Aqoursは、たくさんの物語を生み出し続けはする。ステージの上にも、客席にも、その外にも。それをなかったことにはできない。しかしもう、それを自分から読み取っていくことはしなくていい、という気持ちになったのだ。どんなに私が物語を読み取っても、ステージの上のAqoursの真実はわかりえない、ということを感じたからだ。そして、それでよいのだ、とも。
 物語を語るということは、出来事や誰かの感情を簡略化し、一定の枠のなかに押し込めるということだ。そしてその自分のための物語を、てらいなく世界に向かって提示することは、とても傲慢に思えた。Aqoursが好きで、Aqoursが好きな人々が好きだからこそ、もうそんなことはしたくない、と思えた。
 だから、4thライブでは自分は、物語を感じなくていい、と思っていた。その一瞬一瞬のAqoursの歌とダンスを楽しめればそれでいい。
 いや、そうすることしかできないはずだった。


 ――それでも、私は、やはりこれは私のための物語なのだ、と思い知らされてしまった。誰あろう、μ'sによってだ。


 すでに一昨日のことになるが、『ラブライブ!』シリーズのスマートフォンゲーム『スクールアイドルフェスティバル』で、一つのイベントが終わった。イベントの期間内、リズムゲームの成績でユーザー同士が競い合い、上位者にはゲーム内のプレゼントが送られる。ゲームを進めていくと、μ'sの日常を描く物語を楽しむことができる。今回のイベントの中心は、μ'sの絢瀬絵里東條希だった。


 普段からアルバイトをしている東條希の仲介で、μ'sたちは神田明神の手伝いをすることになる。近々やってくる七五三の準備のために、境内を掃除するというのだ。
 休日、掃除をしながら自身の七五三のころの記憶を語る高坂穂乃果たちに、絵里は自分の思い出はない、という。しかし彼女は、妹である亜里沙のことは鮮明に覚えている。絵里から譲られた髪飾りを亜里沙がなくしてしまい、二人はそれを必死に探したがついに見つけられなかった、という出来事があったからだ。
 そんな絵里は、境内の片隅で、落とし物のポシェットを見つける。ポシェットの中には、亜里沙がなくしたものそっくりの髪飾りが入っている。彼女は思い出す。つい先ほど、幼いころの亜里沙そっくりの服を来て、七五三の下見に来ていた少女を見かけたことを――。


 絵里は赤の他人である通りがかりの少女に、自分の妹の姿を重ねている。そして、髪飾りを少女のもとに届けようと奔走する。あの日ついに髪飾りを見つけられなかった亜里沙と自分自身を救うために。きっと少女も、亜里沙のように深く悲しんでいるのだと信じて。
 それは、ささやかだけれど、不遜な行いだ。他人に自分の苦い思い出を仮託して、少女のためでなく、自分のために行動している。そう責められても仕方がないかもしれない。
 だから彼女は、自分一人でその物語の再演を完遂させようとして、μ'sの他のメンバーには助けを求めない。
 しかし東條希は絵里のそんな気持ちを、言葉として聞くでもなく感じ取って、一緒に街を走る。そして、二人の姿を見たμ'sもまた。
 結果として、絵里が抱いた勝手な物語は、少女を救う。μ'sは持ち前の団結力と行動力で神田明神の手伝いを見事にこなしたうえで、個々の力を発揮して、少女探しに一役買う。


 自分の物語にとらわれることは、時に人を救う。
 考えてみれば、μ'sは(そしてAqoursは)時としてそのようなことを成し遂げてきた。寂れた学校をアイドルの力で救う、という物語。ともに歌い踊ることで、スクールアイドルという文化を高められるのだという物語。消えていく学校の名前を記録に残すことが、学校と生徒たちを救えるのだという物語。
 そしてそれらのフィクションとしての物語をなぞることで、現実のμ'sとAqoursはまた別の物語を生み出してきた。


 約二年半前、μ'sの最後のライブのころ、私はこういうことを書いていた。

 ぼくはμ'sになりたい。
 仲間を牽引していく強さが欲しい。お互いに委ねあえる信頼が欲しい。逆境を乗り越える能力が欲しい。
 ふつうの働く人が、スティーブ・ジョブズの立志伝やGoogleの企業風土に憧れる感情と、さほど差はないのだと思います。
 μ'sのように生きたい。ともに働く人たちにも、μ'sのように楽しく生きてほしい。そういう場を作り出せる人間になりたい、けれど、できない。

「最高」だったあのときのことを考え続けている/「ラブライブ!μ's Final LoveLive! μ'sic Forever!」ライブビューイングレポート - こづかい三万円の日々

 

 まさしく、μ'sの物語を現実に重ねて、自分や周囲の人たちが、μ'sのような物語を獲得できるのではないか、いやそうすべきなんだ、と思っていた。
 あれからそれなりに長い時間が経って、うまくいったこともあったし、だめなこともあった。μ'sの物語を思いながら、自分は自分の物語を作ろうとして、しかしそれは不出来で、決して美しく語れるものにはなっていない。そしてこれからも私は生き続けなければいけない。終わりはない。起承転結もない物語を何度も何度も繰り返していく。μ'sを模そうとしても、まったく彼女たちの輝きには追いつけないままの物語を演じることで、私は生きていく。


 絵里の物語は、自分の物語を現実に投影して人を救う、というものだった。そしてそれは、かつて失敗された物語のリプレイでもあった。
 そこに私は救われてしまったのだと思う。
 それこそまさに、自分が毎日していることだから。これから毎日しなければならないことだから。
 それはAqoursがしていることでもあるから。


 Aqoursは今日、東京ドームに立つ。
 それはμ'sの物語の再演だ。
 μ'sが成し遂げた偉業をふたたび成して欲しい、成したい、という自他からの眼差しのもと開幕する、繰り返しの物語だ。
 それでも、今日、その物語を演じるのはAqoursだ。それ以外の誰でもない。そして、そのようなμ'sの再演としてこそAqoursは生まれた。
 またμ'sみたいな物語が見たい。そういう不遜な物語への期待がなければ、Aqoursは生まれることすらなかった。そのほうがよかったのだろうか。あのμ'sの最後のライブから二年半、Aqoursが行ってきたことすべてを、なかったことにしたいのか。


 私は私の物語を再び背負い直そうと思う。
 物語というものの厄介さと暴力性を引き受けて、自分の物語くらいは自分で背負おうと思う。
 そしてそんな厄介で輝かしい物語なるものを、いくつもいくつも背負ってステージの上に立つAqoursに、精一杯の声を送るのだ。
 それが私の物語だ。


(そしていつかこんなふうにおどけて言えたらいいなと思う)

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「うふふっ、名演技やろ?」

(『ラブライブ!スクールアイドルフェスティバル』第9回なかよしマッチ ストーリーより)

*1:事実、後日ネットラジオラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院RADIO!!! 」で、Aqours自身がその出来事についての驚きや違和感を語っている。