こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

映画的であるとはどういうことか『ラブライブ!サンシャイン!! Ths School Idol Movie Over the Rainbow』

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映画館の入り口で。

 『ラブライブ!サンシャイン!! Ths School Idol Movie Over the Rainbow』を観ました。


 一回目を観終わってつぶやいたのがこちら。

 

Aqoursファンとしては100点、映画好きとしては20点」

 

 で、二回目を観終わってつぶやいたのがこちら。

 「『ラブライブ!サンシャイン!!』の映画として100点」

 

 はっきり言っているようでエクスキューズに満ちたこの感想について、詳しく書きたいと思います。映画の内容に多数触れていますのでご注意ください*1

 

♪♪♪

 

 私は「ラブライブ!」シリーズの劇場版としての前作である『ラブライブ! The School Idol Movie』が大好きです。
 あれは確かにテレビシリーズ『ラブライブ!』の続編であり、μ'sという二次元アイドルの物語の終盤の一部ではあるんですけど、色々なことが重なったおかげで、一本の映画としてとても強いものになっていた、と私は思う。
 最も大きかったのは、μ'sのファイナルライブとAqoursのデビューを控えて、『ラブライブ!』という作品に一つの区切りがつけられるタイミングで製作できたことでしょう。
 あの映画は、μ'sの終わりと、Aqoursに代表されるμ'sを引き継いでいくものたち、というテーマを扱うことができた。μ'sは終わるが、始まるもの、引き継がれるものがある。
 これは、二時間弱の映画で描くのにちょうどよいテーマです。映画館にやってきた人間にとって、映画は二時間後に必ず終わるものです。その明確な終わりと、μ'sの終わりが重なる。そして、たとえ映画/μ'sが終わっても楽しいことは続く、という希望が観客に託される。その希望を託すために、映画の終盤、物語も文脈も超えて主人公の高坂穂乃果は一人で走り、踊る。
 高坂穂乃果秋葉原の街をかけてゆくあのシーンは、あの部分だけ取り出しても意味はありません。映画がそれまでに語ってきたことが漏斗のようにかき集められてあの数十秒間のなかに集約されているけれど、言葉はそこになく、ただ少女が街を踊って駆けてゆくという「動き」しか存在しない。
 あのシーンは、私が映画に求めるもののひとつの頂点です。高坂穂乃果というキャラクター、あの動き、そしてあの映画のなかのあの位置に置かれることでしか機能しない。他のどんな表現とも交換できないスペシャルなものであり、ゆえにただそのようにしか存在できない表現。あの映像を言葉に変換することはとても難しい。受け取った人によって全く異なる印象を持つことも可能です。でもあの映像自体はどうにも変えられない。


 私にとってあの『ラブライブ!』という映画が「映画的であること」というのはそういう意味です。
 いや、意味です、とか言い切っているけど、まあ、本当にこれで誰かに伝わっているかどうかはちょっと心配です。だってやっぱりそれは映画のことであって、言葉だけでは伝えづらいことなので。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』の話に戻ります。
 私は『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品(アニメだけでなく、様々なメディアで展開される総体を指します)が大好きです。その中心となる、劇中に存在し、かつ、現実に存在するAqoursというアイドルも大好きです。そのことはこのブログなりTwitterなりを読んでいただいているかたにはわかっていると思います。
 自分が『ラブライブ!サンシャイン!!』について語るとき、その語りは『ラブライブ!』とμ'sに足場のすべてを頼ってはいけない、と思ってきました。
 『サンシャイン!!』は『ラブライブ!』がなければいなかった、Aqoursはμ'sがなければいなかった。それは確かにそうなのですけど、でもAqoursAqoursだし、『サンシャイン!!』は『サンシャイン!!』です。彼女たちと作品はすでに単独で走っています。それだけの魅力を充分に備えている。
 そう評価するがゆえに、今回の映画『ラブライブ!サンシャイン!! Ths School Idol Movie Over the Rainbow』を観る際にも、「一本の映画としてどうか」という視点が大きくなってしまった。
 だって、『ラブライブ!』は、そういう評価軸で私の人生のトップレベルのものを叩き出してくれたのだから。


 結果として初見時に受けた印象が、冒頭にも書いた「映画として20点、ファンとしては100点」というものでした。
 映画を『ラブライブ!』シリーズや『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品のもつ文脈や、作品と登場人物たちが置かれてきた背景、これまでの物語のかたちづくってきた集積から切り離して観ると、20点。そこに接続して観ると、100点。そういう評価です。


 ここには二つの間違いがあります。
 一つ目は、こうした観方じたいが映画のテーマ自体に反しているものだったということです。
 今回の映画では、メンバー9人のうち高校三年生だった3人が卒業したあとのAqoursの物語が描かれます。3人がいなくなったAqoursは、3人分のうつろさを抱えてしまうのか。そのようなAqoursは9から3を引いた6の魅力しかないのか?
 そうはならない、というのが映画の導き出す答えです。このことは作中で何度も繰り返されます。Aqoursのメンバーがこの答えを確実に掴み取るのは映画の最後なのですが、映画の冒頭のミュージカルシーンですでにおおよその答えは出されています*2
 リスタートしてもそれまでの蓄積がゼロになるわけではない。これは、映画に至るまでの様々なことをいったん忘れて映画を観ようとしていた自分の考え方と正反対のものです。自分と映画のあいだにおきたその衝突を充分に考えないままで、「映画としては20点」とするのは、あまりにも邪な観方だったと言わざるを得ない。反省です。


 二つ目の間違いは、「文脈から切り離して観るべき」という姿勢自体が、『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品の文脈なしには生じなかったものである、ということに気づけなかったことです。
 先に書いた通り、『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品、Aqoursというグループを独立したものとして受け止めたいという気持ちは、かれらが生まれてきた経緯なしには生じなかった。
 にも関わらずそのことに気づかないまま、私は「映画そのもの」を観ているつもりで、「映画だけを観るべき」という「文脈」が生み出すマイナスの場に自分を置いてしまっていたのです。真にフェアに映画を観るならば、映画の置かれた文脈もまた無視することはできないのに。


 二回目の鑑賞時、私は途中から、『ラブライブ!The School Idol Movie』を思い出しながら映画を観ていました。いやむしろ、思い出さざるを得なかった。
 初見時に気づかなかったのが恥ずかしいくらいなのですが、今回の映画は、細部に渡って『ラブライブ!』をなぞっています。海外旅行と現地でのライブ、実在を疑わざるを得ない新キャラクターといった物語上の要素はもちろんですし、物語や楽曲配置といった枠組みの部分、さらには各楽曲や台詞回し、効果音などによる音の表現に至るまで、注意して受け取れば受け取るほどに、『ラブライブ!』を想起してしまうつくりになっていた。
 それは今回の映画単体では味わえないけれども、確かに『ラブライブ!』シリーズの映画でしか味わうことのできない妙味でした。『ラブライブ!』における「映画的」であることとは全く違うやり方だけれども、これを「映画的」でない、と言うことは絶対にできない。そこから感じ取れる喜びは、確かに『ラブライブ!サンシャイン!!』という映画ででしかできない表現によるものなのですから。


 『ラブライブ!』の高坂穂乃果のあの数十秒の「映画的」表現は、映画でしかできないこと、すなわち言葉ではなくて人やものの動きによってのみ何かを伝える表現でした。そうした表現も、『ラブライブ!サンシャイン!!』でも成功しています。
 例えば、映画冒頭のミュージカルシーンのクライマックス。青空を背景にジャンプするAqoursの9人、彼女たちと同じく画面斜め上のほうへ飛んでいく紙飛行機、そしてジェット機の飛行機雲が次々に映し出されていきます。そして、飛行機雲ののびる青空をカメラが下方向へとなぞっていくと、沼津駅前に立つ高海千歌が映し出される。そこでは言葉では語られないものが語られている。
 あるいは例えば、映画の最後のステージシーンで、高海千歌が誰もいない場所に向かって手を差し出し、そして胸に当てるくだり。
 ものすごく雑な仕分けになってしまいますが、『ラブライブ!』の京極尚彦監督は動きによって、『ラブライブ!サンシャイン!!』の酒井和男監督は映像の構成(レイアウトや編集)によって、こうした「映画的」なものを表現することに長けている(あるいは本人たちがそう目指している)、と言えるのかもしれません。
 一度目の鑑賞では(これまでずっと酒井和男監督の映像を観てきたくせに!)その違いを認識できず、実は画面に写っているそうした「映画的」なものを見過ごしていたし、過小評価していたきらいがあります。二度目の鑑賞ののち、酒井和男の監督デビュー作である『ムシウタ』の一部を観たことで、そうした表現を受け取る楽しさをようやく再確認できた感覚がありました。なんという遅延ぶり。
 そしてそういった酒井和男監督の、「どういう順番で映すか」「画面上にどう配置するか」といった手腕は、やはり『ラブライブ!サンシャイン!!』の文脈を描くことに適していたのでしょう。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』は、ものごとのつながり、関係性こそが重視される物語であり、スタッフであった。もしそうだったとして、それはなぜでしょうか。
 それは、この物語が沼津を舞台にしているからであり、物語は沼津の始まりも終わりも描くことができないからです。終わらないものごとの連続のなかで、何を見出すか。その挑戦を永遠に続けていかなければいけない物語だからです*3
 『ラブライブ!』とμ'sは、終わりを迎えることができました。秋葉原での「終わり」と沼津での「終わり」は、その意味が大きく異なります。秋葉原は歴史的には水運のハブとして栄えた街であり、現在も大都市東京の一角として、新たなものを常に受け入れ、送り出している場です。沼津もまた大きな地方都市ではありますが、Aqoursが母校の廃校を止められなかったことに象徴される通り、秋葉原のような新陳代謝の期待できる場ではない。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』は、Aqoursは、そのような場所と人々のための物語として語られています。
 映画が終わっても、物語は終わらないし、Aqoursも終わらないし、沼津は終わらない。観るものは映画と地続きの現実に帰っていくし、逆に言えば、観るものは現実と地続きの映画を観ることができる。
 今回の映画が、酒井和男監督によって、いまある形で作られたことには、そのような明確な理由があります。
 映画を二回観たことで、私はそのことをようやく思い出すことができました。


 というわけで、二度の鑑賞を経て、私はそれなりに『ラブライブ!サンシャイン!!』という映画を受け止めつつあります。
 が、それでも――、と私はつい思ってしまいます。
 映画館の暗闇のなかで、自分のことも、作品のことも、それが映画であることすらも全部忘れて、陶酔したかった。
 そうさせる映画ではない、ということがわかっていても、ついそう望んでしまうのです。


 しばらくのあいだ、私は私自身の気持ちに振り回されそうです。
 あまり悲観はしていません。なにせ自分の大好きな『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品はこれからも様々なメディアで続きます。Aqoursのライブにも、何度も行けそうです。酒井和男監督のつくる新しい映像作品も、きっとそのうちどこかで発表されるでしょう。
 でも、それでも。
 それでも、の先になんと書けばよいのか、今の私にはまだ、見当がつきません。つきませんけど、あるいはこの困惑もまた、映画をみたことでしか受け取れない「映画的」なこととして、喜ぶべきことなのかもしれません。

 

 つづく!

*1:なお、公開前日にアップしたこの記事での「期待」はきっちり叶っていました。そのうえでなおこういう感想を抱いてしまった自分にびっくりしている、というところもあります。 http://tegi.hatenablog.com/entry/2019/01/04/010803

*2:そういえば私は、映画の冒頭にあるくせに映画のすべてを語ってしまうオープニングが大好きなのでした。『キャッチ・ミー・イフ・ユー・キャン』とかね。

*3:このことは映画の結末で特に徹底されています。スタッフロールでのいわゆる『アメリカン・グラフィティ』エンディング、そしてスタッフロール後のワンシーン。特に後者は劇中で表現されてもよかったはずですが、最後の最後に配置されていることが、強い意図を感じさせます。