こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

黒澤家の「宝」とは何だったのか/『HAPPY PARTY TRAIN』オーディオドラマから考える「時代」のこと

 AqoursのシングルCD『HAPPY PARTY TRAIN』に収録されているオーディオドラマで、黒澤ダイヤは「黒澤家の宝」を発見する。
 それはなぜ「家の宝」になったのか。
 今回は、その「宝」が宝たりえた背景を考えてみます。

 


Aqours 3rdSingle「HAPPY PARTY TRAIN」Full

 

 当然ながら、オーディオドラマの結末に触れますので、『HAPPY PARTY TRAIN』を聴いたことがないよ、という人はまずはCD屋に走ってください。
 本作を含め、子安秀明の脚本による『ラブライブ!』シリーズのオーディオドラマは、スラップスティックコメディとしてのはちゃめちゃさの度合いがしばしば狂気じみているとして軽んじられがちですが、わたしは今回取り上げるエピソードのように『ラブライブ!』シリーズの数多ある物語のなかでも傑出したものがあると思っているし、オーディオドラマ群はそのむちゃくちゃさゆえに、アニメやG's誌上ではできない独自の存在として『ラブライブ!』シリーズの重要な一角を担っていると感じています。
 まあずっとこれだけ聴いていろよと言われたら全力で逃げますけど、子安秀明脚本のオーディオドラマがなくっちゃ『ラブライブ!』というコンテンツの妙味は薄れると言っていいんじゃないでしょうか。
 今回の記事は、そういうオーディオドラマを真面目に読み解いてみることもできるよ、という試みでもあります。


 さて、それでは問題の物語の概要を見てみましょう。
 内浦からやや離れたキャンプ場を訪れたAqoursの九人が巻き起こすドタバタ劇で、エピソードは3つのパートから構成されます。キャンプ場に到着するも、必要な物資がないことから極端なサバイバルへと突き進んでいく「団結! 私たちのサバイバル」。深夜、何者かが引き起こした怪現象をめぐる謎解き「怪奇! 真夜中のミステリー」。そして、キャンプ騒動と真夜中の怪現象の鍵となったあるものを探索するAqoursを描く「奇跡! 未来へのトレジャー」。
 Aqoursがキャンプへ出かけることになったのは、先祖の遺した地図から「黒澤家の宝」を探していた黒澤ダイヤの隠された意図を発端にしたことでした。宝を探す彼女によって、メンバーの持ち物の混乱や深夜の怪現象が引き起こされていましたが、桜内梨子の推理に促され、ダイヤは自身の真の意図を明かします。
 なぜ素直に宝を探したいと言わなかったかといえばそれは子供っぽいのが恥ずかしかったから、っていやあダイヤさんはほんとそういうところがありますよね。かわいい。
 あとこのオーディオドラマ、真相がわかるまでえんえん色々な場面で、うわ言みたいに地図からヒントを読み解こうとしているダイヤさんのぶつぶつ言う声がよく聴こえてくるんですね。かわいい。
 さてそういうわけでことの真相を知ったAqoursの面々は、キャンプ場の近くにあった海沿いの洞窟へ赴きます。

曜「けど、そのお宝ってなんなんだろ。小判とか、そういう?」
梨子「小判はないんじゃ……明治・大正くらいなんでしょ?」
曜「いやいや、ご先祖さまのまたそのご先祖さまからって可能性も」

 ついに彼女たちは、箱に入れられた「宝」を見つけます。土地の有力者である黒澤家の先祖が遺したものですから、そのなかには金銭的価値の高い金銀財宝のたぐいが入っていることを望むのは曜ならずとも当然というもの。ところが、そこに入っていたのはたった一葉の写真だったのです。

ヨハネ「わざわざ洞窟に入って見つけたのがあれだけなんて」
梨子「ご先祖さまにとっては宝物だったんだよ」
曜「それにしても、沼津に女学校があったんだね」
果南「そこに通ってたご先祖さまの遺したものが…」
鞠莉「ハイ、チーズ!!!」(シャッター音)
ダイヤ「ちょ、鞠莉さん……」
鞠莉「わたしも欲しくなっちゃって。わたしたちの宝物……」(中略)
ルビィ「ご先祖さまたちも、そうやって撮ったのかな」
ダイヤ「ルビィ……」
ルビィ「だって、この写真のご先祖さまたち、みんないい笑顔をしてるから!」
梨子「そうだね」
曜「たしかにいい笑顔してるかも」
果南「それにしても、宝物が写真だったなんてね。ご先祖さまが、女学校の友達8人と一緒に撮った」
ダイヤ「わたくしも知りませんでした。けど、そのような時代だったのでしょう」
千歌「時代?」
ダイヤ「いつ宝が、大切なものが失われるかわからない時代。だからこそご先祖さまはこんなところに写真を隠したのでしょう」
千歌「そうかあ」


 「黒澤家の宝」に写るご先祖さまたちと、自分たちのことを重ねて感慨にふけりながら、Aqoursはそのささやかな冒険を終えます。

 先人たちと同様に写真を撮るAqoursの人々の様子を「かわいいなあ」「青春だなあ」と愛でるファンにとって、かつてそのような人々の輝ける瞬間をおさめたご先祖さまの写真を「宝」とみなす価値観も、受け入れやすいものでしょう。
 しかしそれでもやはり、写真を家から離れた洞窟に隠匿する、というのはただごとではありません。ダイヤは「そのような時代だったのでしょう」と言います。ではどのような時代だったのか。なぜたった一枚の、少女たちを写した写真が「宝」として隠され守られなければならなかったのか。


■「宝」の時代を探る

 ドラマ内のセリフから、「宝」が撮影された背景を推測してみます。推測の鍵が含まれているのは次の五つのセリフです。

1.梨子「明治・大正くらいなんでしょ」
2.曜「それにしても、沼津に女学校があったんだね」
3.果南「ご先祖さまが、女学校の友達八人と一緒に撮った」
4.花丸「丸たちが大正ロマンな服を着たら、この写真の人たちとそっくりって気がするずら」


1.梨子「明治・大正くらいなんでしょ」
 これは一行が宝を発見する前の発言です。ですから、発言の根拠は地図にある。
 黒澤ダイヤは蔵の掃除中に地図を見つけたということですから、明治・大正期に生きていた先祖の物品のなかに地図があり、地図はその時代のものであると推測していたのでしょう。
 明治・大正期は、1867年(明治元年)~1911年(明治44年)~1912年(大正元年)~1925年(大正14年)の58年間です。

 ご先祖さまはスマートフォンなど持っていませんから、「宝」の撮影には写真技師が関わっていたはずです。明治十年頃には沼津で営利目的の写真師が活動していたそうですから*1、「宝」が明治・大正のもの、という推測は問題なさそうです。


2.曜「それにしても、沼津に女学校があったんだね」

 「女学校」という言葉は広い意味をもちます。
 1872年(明治五年)、近代的教育制度「学制」が開始されたのと同時期に、国立の高等教育機関・東京女学校(1872)が設立されます。これはのちに設立された教員養成のためのよりハイレベルな東京女子師範学校(1874/現在のお茶の水女子大学)の付属高となりますから、Aqoursと同程度の年代の女性が通うイメージの「女子校」が日本に生まれた最初期のものと考えていいでしょう。
 また開国以降、海外からやってきたキリスト教徒たちは、独自の女性教育機関を開始していました。1870年のキダーの学校(のちのフェリス女学院)と、A六番女学校(のちの女子学院)を嚆矢として、各地に私立学校が設立されています。
 さらに、前述の東京女学校が付属高校として編入された東京女子師範学校と同様に、女性を教育する女性を育てる「女子師範学校」が、全国各県ごとに設立されていきました。
 こうした明治前半の「女学校」は、ごく限られた人間だけが通えるものでした。一方で、海外からもたらされた知識や習慣を率先して身につけようという生徒たちの意識の高さから、才気煥発で意欲的な雰囲気も目立ったようです。
 数の少なさゆえにバラエティに富んでいたそれらの学校は、やがて整備されていく教育制度のなかで淘汰されていきます。
 1899年(明治32年)、高等女学校令が発令され、「女学校」は中学校(男性のための中等教育を行う学校。現在の高等学校と考えればいいでしょう)と同等の教育機関として規定されていきます。これまでばらばらに存在していた各学校は、廃校するところもあれば、この制度に組み込まれる形で生き残るところもありました。
 そして、新たに全国にこの「高等女学校」が続々と作られていきます。沼津にも、「私立駿東高等女学校」が1901年(明治34年)に設立されました。
 私立とついてはいるものの、実際は公立学校のようなものでした。駿東郡の各村長たちのなかで、小学校を卒業した15歳以上の女性が進学する先として高等女学校の設置を行うべきという議論が高まり、沼津の名士である江原素六を顧問として文部省へ認可申請しているからです。
 この学校はやがて、駿東高等女学校、沼津高等女学校、沼津第二高等学校と時代の制度などに応じて名前・体制を変えていき、1949年(昭和24年)、現在も続く沼津西高等学校となりました。

 現在も存在する学校ですから、曜がその歴史を知らず「沼津に女学校があったんだね」と発言することには少々疑問がないではないのですが(制服好きなら各校の歴史はおさえていそうじゃないですか)、沼津の「女学校」といえば、この駿東高等女学校だと考えるのが最も自然そうです*2


3.果南「ご先祖さまが、女学校の友達八人と一緒に撮った」

 それでは、駿東高等女学校はどのような学校だったのでしょうか。
 1902年(明治35年)入学の卒業生による手記を見てみましょう。

 通称『停車場通り』と呼ばれていた今の大手町の西側で、駿東郡役所と隣接、沼津町他八ヵ村組合立高等小学校の各一部を渡り廊下でつないだ仮校舎ではあったが、兎に角下東部に最初の高等女学校というので、世間から注目され、生徒自身も日常海老茶袴をはいて通学ということが、大きな魅力でもあった。
(中略)
 授業料は七十銭。これがまた滅法高いと世間を驚かせたもの。
(中略)
 (引用者注:明治三六年度の)初夏、新校舎に移る。ここは沼津の町はずれ、日枝神社の東隣で、前にある狩野川の清流を渡れば手軽に登れる香貫山、黒瀬の松原、山玉の森と、青葉若葉は目にしみ入るほどに親しめたもの。
(中略)
 校舎は平屋建二棟のしょうしゃなものであったが、木の香の匂う教室での勉強に生徒の表情は明るくなった。
 裏門側に寄宿舎があり、郡部奥地や伊豆西海岸のお大尽級家庭のお嬢さんたちが入舎して、愉快そうな寮生活であった。
 この年から女学生に靴が流行し出す。……*3

 1896年(明治29年)の全国の尋常小学校就学率は、男児79%、女児47.5%でした。沼津の就学率もこれとほぼ同様だったようです*4。義務教育化された小学校ですら、通うことのできた女性は二人に一人だけでした。
 そんな小学校だけでなく、「滅法高いと世間を驚かせた」授業料を払わなければならない高等女学校に通えたのは、社会のなかでも豊かな家庭で生まれた女性だけでした。さきほどの手記で描かれた駿東高等女学校の様子からもその雰囲気がおわかりいただけると思います。

 時代が大正に移り変わって、就学率が高くなり、市民が豊かになっていくと、女性の高等教育も少しずつ人々にとって身近なものになっていきます。
 駿東高等女学校は1914年(大正三年)ごろまでは志願者なら誰でも入学できるという状況だった(=それだけ学校へ通える人が少なかった)ようですが、やがて入学希望者が定員数を上回り、学校も規模を大きくしていきました。もちろんそれでも社会の大半とは言い難い一部の人数でしたが。

 少し話題はそれますが、当時の女学校が豊かな人のみの場所だったことについて考えるとき、Aqoursもまたそれに近い、豊かな家庭に生まれた人々なのではないか、ということに気づきます。グローバル企業の経営者一族の一人娘は言うに及ばず、名家、著名な温泉宿、国際航路の船長、寺、教員、と経済的にはまったく不安のなさそうな家柄(親の職業)ばかりです。桜内家も娘のピアノのために引っ越しができるような家ですし、心配なのは松浦家のダイビングショップくらいです。
 この件は、どう考えても現実の日本社会とは少し異なっているようにしか思えない『ラブライブ!』社会*5全体のこととあわせてそのうちゆっくり考えてみたいなと思っています。


4.花丸「丸たちが大正ロマンな服を着たら、この写真の人たちとそっくりって気がするずら」

 「大正ロマンな服」とはどんなものでしょう。こころみにGoogleで「大正ロマン」をキーワードに画像検索してみると……。

 

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Googleで「大正ロマン」と検索したときの上位の結果。

 μ'sの画像がいくつも出てきてびびります。大正ロマンは『ラブライブ!』の専売特許だというわけではないのですが、恐らく、ゲーム『スクールアイドルフェスティバル』の「大正ロマン」というテーマの一連のキャラ絵(衣装)が人気のため、こうした検索結果になるのだろうと思われます。
 『ラブライブ!』に関係のないものも含め、「大正ロマンな服」として現在イメージされるのは、和装に革靴や帽子・洋傘などをあわせた、和洋折衷の華やかな衣服である、と言えそうです。

 先程引いた駿東高等女学校卒業生の手記のなかでも、1902年(明治35年)当時の服装として「海老茶袴をはいて通学」「女学生に靴が流行し出す」という言及がありました。
 女学校の制服が洋装となるのは、1919年(大正8年)山脇女学校の制服が洋装になったのが初めてであったらしい。以後、セーラー服とおさげ髪のスタイルが女学生の定番になっていきます*6

 

 さてさてそういうわけで、ようやく「宝」の撮影時期を絞りこむことができました。
 1900年代初めから1910年代末までのどこか。
 ダイヤの言う、「そのような時代」。


■「そのような時代」の人々

 この「時代」のど真ん中、1911年(明治四四年)、平塚らいてうを中心に雑誌『青鞜』が発刊されています。
 平塚は、東京女子高等師範学校付属高等女学校を経て日本女子大学校で学びました。これらの学校で出会った「女学校」の仲間たちが集まり作られたのが『青鞜』です。女性だけによって作られたこの雑誌は、新しい時代の女性たちによるものとして大きな注目を集めます。
 平塚の書いた創刊の辞「原始女性は太陽であった」は非常に有名です*7。そのなかで、平塚は当時の女性をこのように描きます。

 今、女性は月である。他に依って生き、他の光によって輝く、病人のような蒼白い顔の月である。
(中略)
 女性のなすことは今はただ嘲りの笑を招くばかりである。
 私はよく知っている、嘲りの笑の下に隠れたる或ものを。
(中略)
 私どもは隠されてしまった我が太陽を今や取戻さねばならぬ。
*8

 明治の後半、国が女学校をめぐる制度を整え、多くの女性が高等教育を受けられるようにしたのは、国益に資する「良妻賢母」として彼女たちを育てるためでした。良い妻、賢い母として必要な教養や家事の技術を持つことだけが望まれ、そこを逸脱して個人として生きることは許されません*9

 『青鞜』に載っていたのは、こうした国や男性が決めた規範を逸脱しようとする女性たちの言葉でした。文学的にも思想的にも、『青鞜』に掲載された文章じたいがすべて高く評価されているわけではないのですが、少なくともそれらの言葉は、当時の女性たちがうちに秘めていたものを発散し、社会にインパクトを与えるには十分な力を持っていました。そうした動きに対して、当然、社会は反発します。
 『青鞜』を作った人々は、雑誌で発表する文芸や評論への評価ではなく、むしろその私生活をめぐる醜聞によってメディアに報じられました。自由恋愛からの心中未遂のような、いちおうは人命に関わる重大な事件に関わることもありはするのですが、「仲間たちで飲みに行って、流行りの洋酒を煽った」程度のことでも大騒ぎにされているので呆れます。
 当然、当時の男性たちは洋酒を飲んでも問題視されませんでした。男性や、国家の欲望という光を浴びてそれを忠実に実行するときだけ、「月」としてその輝きは評価された。平塚らいてうが創刊の辞で言ったのは、そういうことです。

 現代に生きるAqoursは、高校や地域を背負って立つ「スクールアイドル」として活躍します。しかしこの時代、芸能に関わる女性は卑しいものとして社会のなかに位置づけられていました。女性の華やかな「芸」は、遊女/花魁といった人々が行う性的なサービスと結びつけて考えられていたわけです。
 1908年(明治41年)、時事新報社の行った美人コンクールで一等を取った学習院の女学生は退学処分となり、川上貞奴の開いた帝国女優養成所の一期生となった跡見高等女学校の卒業生は、校友会から除名されました*10

 実際に、「宝」のような写真に写ったことで、世間の不当な迫害を受けた女性もいます。『青鞜』に参加した評論家の神近市は、同誌に掲載された写真に青鞜の仲間たちと写っていることを理由に、務めていた青森の女学校を退職させられました。実際にはその写真に写っていたのは別人で、それを転載した反『青鞜』本の雑なキャプションが誤って神近の名前を掲載していただけだったというのに*11、職場の上司は世間に騒ぎを起こす雑誌に関わる女が教師とはけしからん、と彼女を馘首したのです。

 オーディオドラマのなかで、Aqoursの目を通じて語られる「宝」は、ただ、九人の女学生が集まって楽しく過ごしていたことだけを示す写真でしかありません。
 しかしその写真は「宝」であると同時に、大切な誰かを傷つけてしまいかねない凶器にもなりえたのです。九人の楽しい時間が、社会の決める規範を壊すものだというレッテルを貼られたとしたら。踊って、歌って、自分たちの希望を心のままに語り記す、現在ならばどうということもない行為が、そのような危険性を写真に付与しかねない時代だったのでした。
 ダイヤのご先祖さまは、「宝」を大切に守るために洞窟に隠したのでしょう。それは同時に、そこに写った仲間たちを守る行動であったのだろう、とわたしは思います。

 そう、ダイヤの言う通り、それは確かに、「そのような時代」だったのでした。「いつ宝が、大切なものが失われるかわからない時代」。

 

■ちょっとした推理

 最後に、わたしの思いつきを書いておきます。
 この冒険は、発端こそダイヤさんでしたが、Aqoursが初めて体験した宝探しでした。ここでAqoursの面々は、「宝」探しがもたらすものを知ってしまいました。金銀財宝ではない、仲間同士にだけ価値のある「宝」を隠すことの意味。逆に、助け合い「宝」を探すなかで、仲間同士の関係が深まっていくことの価値を。
 この経験が、Aqoursのなかのある人間に、こう思わせてしまったのではないか。「また宝探しをすれば、わたしたちの絆はより深まるはずだ」と。
 そうして起こされたのが、『孤島の水族館からの脱出』で描かれたあの事件ではないのか――。


■お知らせ

 さてさて、以上で今回の記事はおしまいです。楽しんで読んでいただけたら、そしてちょっぴり「時代」のことについて考えていただけたら嬉しいのですが*12


 この記事は、わたしの発行している同人誌『黒澤家研究』第3号に掲載するものとして準備してきました。現在、2020年1月の同人誌即売会「僕らのラブライブ!」での頒布を目指しているところですが、仕事が忙しく実際に刊行にこぎつけられるかは怪しいところです。間に合わなかったら3月の「僕らのラブライブ!」での刊行にするかもしれません。できれば、ダイヤさんの誕生日にあわせて1月刊行にしたいのですけれど。
 『黒澤家研究』に掲載する際には、沼津の女学校についてや、「時代」を生きた女性と彼女たちの作り出した文化について、あるいは「宝」がなぜ黒澤家にとって秘匿しなければならないものだったのか、といったあたりの記述をもっと増強したいと思っています。今回は女性をめぐる問題にフォーカスしましたが、「そのような時代」に秘匿しなければならないことはいくらでもあったはずです。「宝」には、黒澤家が秘匿する必要のあったことが写っていた、という切り口から様々なことが考えられると思います。
 構想と下調べこそ、この一年くらいかけてきたテーマなのですが、実際に書きはじめたのは今日の朝でした。かなり粗っぽいものになってしまったので、よりよいものにしていきたいです。
 刊行の際には、手に取っていただければうれしいです。ではまた。

*1:沼津市史 通史編近代』p.126

*2:沼津の隣の三島には三島高等女学校が駿東高等女学校と同年に設立されていますし、ほかにも沼津・静岡に「女学校」とみて差し支えなさそうな学校はいくつか存在したようです。黒澤家のご先祖さまが遠方の学校へ通っていたという可能性もありえます。そのあたりの検討はまた改めて行いたいですね。

*3:八代美代「懐旧雑感」静岡県立沼津西高等学校潮音編集委員会『潮音』第九号より。『静岡県における明治期の女学校に関する史的考察』から孫引き。

*4:沼津市史 通史編近代』

*5:女性の社会進出が進みミソジニーの気配がまったくないこと、移動コストが非常に安いらしいこと、などなど。わたしは常々『ラブライブ!』社会ではベーシックインカム制度が導入されているのではないかと妄想しているのですが…。

*6:斎藤美奈子『モダンガール論』

*7:なにせアニソンのタイトルに引用されているくらいです。上坂すみれ『げんし、女子は、たいようだった。』、作詞は桃井はるこ

*8:平塚らいてう『原始女性は太陽であった』/『青鞜』創刊号

*9:それでも、妻/母という種類ならば「人間」として学問をおさめることが認められた、という点で、良妻賢母思想は近代より前の女性には許されなかった大きな前進をもたらしたという考え方も可能です。実に気分の悪い話ではありますが。こうした、建前と欲望のあいだでふるまう日本近現代の女性たちをスリリングに描く斎藤美奈子『モダンガール論』はむちゃくちゃ面白いのでみんな読んでほしいです。

*10:堀場清子『青鞜の時代』

*11:堀場清子、前掲書

*12:これまでの注で言及しなかった主な参考文献として、稲垣恭子『女学校と女学生』、寺沢龍『明治の女子留学生』、今井久代・中野貴文・和田博文『女学生とジェンダー 女性教養誌『むらさき』を鏡として』を最後にあげておきます。