こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「JAなんすんのポスターのこと」のそのあとのこと

「「『ラブライブ!』シリーズのコラボレーション広告での慎重な表現を求めます」

 2020年2月、静岡県沼津市・JAなんすんの特産品・寿太郎みかんをPRするイメージキャラクターとして、『ラブライブ!サンシャイン!!』の登場人物である「高海千歌」が「みかん大使」に任命されました。このキャンペーンの一環で、高海千歌を描いた画像がポスターとして市内の小売店店頭などで公開されたところ、過度に女性の身体を強調した表現であるとして多くの批判を集め、大きく寿太郎みかんを扱っていたららぽーと沼津からはポスターが撤収されることとなりました。

 
 2月21日、JAなんすんはウェブサイト上に「「西浦みかん大使」就任に関する件について」*1という記事を発表しました。ですが、この文章のなかでは問題となった絵に関する言及はなく、農産物の販売促進と今回のキャンペーンを継続していくことの表明のみにとどまっています。
 また、同作の運営者として「プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!」を構成するサンライズKADOKAWAランティスといった企業側からも、今回の件についての反応は一切行われていません。


 今回のキャンペーンは、当初から3月末までの展開が予定されており、期間限定のものです。
 しかし『ラブライブ!サンシャイン!!』は物語が舞台とする沼津の様々な産業や催事と深く結びついており、今後もたびたびそうしたものの広告として起用され、公的に大規模にイラストが用いられることは確実でしょう。そして、『ラブライブ!サンシャイン!!』のみならず、シリーズ化されている『ラブライブ!』の各タイトルはいずれもそれぞれの物語の舞台となる土地と結びついており、それぞれの土地で自治体や産業の公的な広告に起用されていくと想像できます。
 よって本署名が訴えるのは、今回のイラスト自体の撤回や修正ではありません。今後、『ラブライブ!サンシャイン!!』を始めとする『ラブライブ!』シリーズの諸作を、自治体や産業・企業の広告として公的に用いる場合、プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!は、その広告に用いられるイラスト他の制作・監修において、性的な表現として問題がないか慎重な検討を行ってほしい。それが本署名が訴えたい意見です。

 確かに、その表現に問題があるかどうかの判断は簡単なものではありません。
 ですが例えば、公共の場で用いられる広告類における表現について、国・地方自治体がガイドラインを制定し、男女の平等を妨げるような表現を避けるよう広く呼びかけています。そうした公的な取り組みを推進してきた学術的な研究や公の議論の蓄積もあります。
 それらを参照し取り入れながら、同時に発信・表現する側の意図と目的を反映させた表現を制作することは、決して難しくはないはずです。
 また、もしその表現が新たな議論を呼んだとしても、互いの意見を提示し、記録し、次の機会へと反映させていく意思を表現する側と受け取る側が共有できたとしたら、決して一方的な「炎上」で終わることはないとわたしは信じます。むしろそれこそが、豊かな芸術や娯楽、そして社会を成立させてきた人間らしい営みと言えるのではないでしょうか。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』は、かわいい女の子たちが活躍するさまを楽しむコンテンツです。
 わたしは、そんな『ラブライブ!サンシャイン!!』をはじめとする、日本の二次元文化やアイドル文化を愛してきた人間です。
 それは確かに、誰かを性的に消費することで成り立ってきた文化です。そして、これからもそうした側面を抱え続けるのでしょう。
 そう認識しているからこそ、二次元文化やアイドル文化の一角が社会に向けて広く示されるとき、コンテンツを作る側も、受け取る側も、その表現が社会に与えることや、社会からどのように見られるかについて、検討し議論し変化していくことを恐れてはいけないのだとわたしは思います。」


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 ……という署名呼びかけ文を考えてみた。


 JAなんすんのポスターが話題になっている最中、わたしはある作家のトークショーを聴きに行った。いくつかの、近年の日本で作られたマイノリティに関する物語に触れたあとでその人がこう言ったのがとても印象に残ったのだった。曰く、日本の物語は、人々の善意で物語を終わらせる。確かに世の中はひどいことで満ちているけれど、人の善意で個人は救われる、という結末だ。一方アメリカの物語は、公的なところまで物語を持っていく。裁判になったり、法律を作ったり、公にマイノリティの「言葉」を残すことが物語のゴールになる。
 なかなかに耳の痛い話だった。なにか問題が目の前にあっても、自分や、問題のすぐ近くにいる人間でなんとかして、個人のなかで問題を終わらせてしまう。社会問題に留まらず、それは自分がやってきたことだったし、見聞きしながら「そういうものだ」と思ってきたことだった。そして、JAなんすんのポスターのことも、そうなっていくのだ、と思った。


 この話題が盛り上がって間もない段階で、いわゆる「擁護派」がネット署名を始めたとき、わたしは「うまいな」「悔しいな」と感じた。あのウェブ署名は「絵には問題がない」とする意見ではなく、「撤去に問題がある」とする意見を集めるものだった。絵についての価値判断を保留した内容なので、批判派・擁護派のどちらにも距離を持つ人でも署名がしやすい。「ポスター絵にはなんの問題もないじゃないか!ツイフェミの横暴だ!」という人も、「ポスター絵には問題があると思うけれど、いきなり撤収されちゃうのは寂しいよね」という人も等しく一つの署名に集約できる。
 実際、特に『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンや、アニメ・漫画文化が好きな人間で、ポスターが撤去されたことそのものを喜んでいた人は極めて少なかったと思う。「批判派」であっても、撤去ではなく、JAなんすんの意見表明や、プロジェクトラブライブ!サンシャイン!!が絵の訂正を行うことを望んでいた人が多数ではないだろうか。
 そういう形で、言いやすい意見を集めて公の場に示し、「言葉」を残そうとする戦法に脅威を感じた。しかし同時に、そうしたことをしなければ批判派の声もなかったことになっていくのだ、と思った。
 署名への賛同人数は順調に増えていった。寿太郎みかんを通販で取り寄せたという人々が写真を次々に投稿し、沼津市長は寿太郎みかんのPRツイートを繰り返す。ポジティブな言葉が、そうでない声を覆い隠していくように見えた。


 あの署名開始と前後してわたしが公開した記事*2には、多くの反応があった。
 わたしは可能な限りそれらに対して反応しようとしたが、個々の場で回答していくときりがないので、記事への追記の形でまとめて反応するようにした。
 記事を公開したあと、何度か読み返すなかで、論旨のなかのいくつかの弱点を自分でも意識していた。事実や学術的な裏付けについて、かなり不足していると今でも思う。それでも一応、自分の言いたいことを一定程度成立させるための足場づくりは十分にできていたと思う。その足場の不出来さであるとか、素材の選択の間違いなどはあるにせよ。
 そして何人かの方から、そうした足場の質の問題であるとか、足場の組み方の問題であるとかをご指摘いただくことができた。本当にありがたかった。ポスター絵を批判する人、擁護する人、そしてそのいずれでもない人、の立場を問わずそういう真摯な人はいてくれた。そうした方々との会話は、記事を公開したあとのなかなかしんどい数日間のなかで、数少ないよかったことの一つである。本当にありがとうございました。


 とはいえ、Twitterやコメント欄での反応の大半は、その論旨の足場への指摘・反論ではなかった。意味がわからない、傲慢だ、といった、記事の意見内容にまったく触れない声だった。なぜ意味がわからないのか、なぜ傲慢なのか(傲慢というのならそれは論が貧弱なのに主張が強すぎるということで、当然論の貧弱さを指摘できるはずなのに)、そうした説明なしで一方的にこちらを否定してくる。これでは答えようがない。頭が高くてすみませんけど、じゃあおれが立ってるこのみかん箱にどういう問題があるのか教えてくださいよ、という気持ちになった。
 いっぽうで、TwitterのRT先やはてなブックマークなどでつけられた好意的な反応においては、「読みやすい」「丁寧」といった声が多かった。同じ文章でこうも違うかというお褒めの言葉をたくさん頂いた。とても嬉しかったのだが、できるだけ自分からは反応しないようにした。そうした声による加勢なしで自分はこの問題と向き合わなければならないと思っていたからである。
 なぜ一つの記事に対してこうもまったく異なる評価がなされるのだろうか。
 もちろん自分の記事に問題がないとは言えないが、これだけ明確だと本当に戸惑う。
 結局あの記事が前提とする社会の見え方が違うということなのだろう。……と断定せず、「違うのだろうか?」と疑問形で書いておきたいけれど、そういうポーズはもうとらないほうがいい、とも思っている。本当に見え方が違うのだ。それを心の底から思い知らなきゃいけない。


 心理的にきつかったのは、普段『ラブライブ!サンシャイン!!』についてたくさんの記事を公開しているブロガーたちが、一様に沈黙を守っていることだった。
 同調の声を求めてしまうのは自分の弱さのあらわれだと思った。誰かが賛成してくれなければ保っていられないような、そんな弱い記事を書いたつもりはなかった。それでも、ネガティブな反応が続くなかで、そもそもJAなんすんのポスターが問題になっていることなんてないかのように、ブロガーたちが記事の更新を行わない光景を見ているのはしんどかった。もし件のポスターに問題がないと考えているのなら、作品を愛する者として、擁護する記事を書いたっていいはずだ、と思った。
 書かないこと自体がその人の姿勢の表明なのだ、という意見があるのはわかる。何ヶ月も経った今は、そういう意見もそこそこの余裕をもって「まあそういう人もいるかもね」と思える。
 それに、書きたいと思っても、そう簡単に書ける話題でもない、というのも今は思う。真剣に考えているからこそ、時間をとってゆっくり書きたい、と考えた人もいただろう。実際何人かのブロガーは、少し間をおいてから、いずれも読み応えのある記事をものしていた。個々に取り上げることはしないが、それらもとても嬉しかった。
 また、記事へのスターや、ツイートへの「いいね」を残してくれる人もいたし、明言とはいかずとも、それぞれの考え方を、Twitterなどの短い形で言葉にしている人もいた。擁護派・批判派の別に関わらず、そうした行為は、ブログの記事を書くことと同じように尊重されるべきことだ。
 でも渦中では、そういうふうに長く広い目でことを考えるのは無理だった。しんどかった。何も言わない人たちを見ていること自体がしんどかった。これはいつ自分自身がそういうしんどさを他人に与えてしまうかわからないから、記録として書いておく。しんどいんですよ、まったくもって。


 自分があの記事を書いたのは、ある有名なブロガーが非常に軽い態度で、ポスターには問題なしとする意見を書いた記事を発表したからだった。それはポスター絵の問題のなさを論じるのではなく、ポスター絵を問題とするほうに問題があるのだ、と一方的に決めつけるだけのものだった。
 いやいやいや待ってくれよ、と思った。『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品の価値を散々言葉で表現してきたその同じ手で、なんで他人の声を、そんな簡単に無視できるんだよ。Aqoursなんて無価値だね、という人々に、自分の言葉で抗うためにブログを書いてきたんじゃないのかよ。
 たかがブログではある。個人がそのときそのときの自分の軽い気持ちに沿って、てきとうに書いていればいい媒体ではある。自分だってそういう軽い気持ちでブログを書いているし、これからも書いていくだろう。
 でもそれだけじゃないはずだ。
 それだけじゃないとわたしは信じたかったのである。


 2月22日のCYaRon!のライブは、ライブビューイングで観た。ブレードもグッズも持たないで、ポップコーンを買って座って観た。べつに誰も気にしていないとわかってはいたが、「今日初めて『ラブライブ!サンシャイン!!』のライブを見に来ましたけど、なかなか楽しいですね~」みたいな雰囲気を保つようにしていた。自意識過剰で馬鹿馬鹿しいと思うが、そうやって自分のなかで距離をおかないと辛いくらいには、そのときの自分にとって『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンというのは怖い存在だったのである。
 擁護派の署名は二万人近くの賛同を集めていた。前述の通りあの署名は必ずしもポスター絵そのものに問題がないとする意見の実数ではないのだが、そのように見えてしまった。
 さいたまスーパーアリーナや東京ドームは無理だろうけども、その日のライブ会場である西日本総合展示場や、全国のライブビューイング会場をいっぱいにするには十分かもしれない程度の人たちが、ポスター絵には問題がなく、わたしの記事はなんら正当性をもたない、と考えている。彼らはわたしを殴りはしないが、わたしの声を聞かない。わたしの記事に共感してくれた読者の声を聞かない。『ラブライブ!サンシャイン!!』は好きだけれどあの絵は好きじゃない、という人の声を聞かない。何を言っても、あなたのほうが間違っているのだ、としか答えてくれない。
 そういうイメージは、恐怖以外のなにものでもなかった。


 他者の声を聞くというのはとても難しいことだ。
 自分もいまだに、十何年も一緒に生活してきた妻の声を聞けないことがある。つい最近も、わたしのマンスプレイニング的な振る舞いが彼女を深く傷つけたことがあった。
 個々人の努力や資質だけに期待しないほうがいい局面もあるのだろう。だから公的な言葉や制度が必要になってくる。
 今回の問題でいえば、ファン対ファンの対話/会話ではなく、公の場に耐久力のある言葉を掲げることで、相互理解とはまた異なる形で他者同士が関係性を結ぶことも必要だろう。
 そういうわけで、冒頭の文章を書いた。公の場に楔を打つようにして、ポスター絵への声を残すべきではないかと考えたのだった。
 実際に署名サイトでプロジェクトを立ち上げるには至っていない。やはり怖いのである。どんな反応があるのか、あるいはないのか、それを考えると体がすくんでしまう。
 自分はいまこの記事をわたし個人の言葉として書いている。自分が愛する『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品へ向けて、わたし個人の言葉として書いているつもりだ。まだこの言葉は公のものになっていない、とわたしは感じる。わたし一人の意見は、『ラブライブ!サンシャイン!!』に届かなくていい、とも思う。そういうものだ、仕方ない、とそこで一つの諦念を抱いて終わらせられる。
 言葉が公のものになろうとしたとき、『ラブライブ!サンシャイン!!』はどんな反応をするのか。それはもう、わたし個人の気持ちでは決着をつけられないことになる。


 そうこうしているうちに、『ラブライブ!サンシャイン!!』は新たなコラボレーション商品・広告をリリースした。
 一つはJAなんすんの「ぬまづ茶」*3であり、もう一つは厚生労働省の手洗い推進啓発ポスターである*4
 いずれもいい絵だと思う。とくにぬまづ茶のパッケージデザインは、明治・大正期の女学生文化に関心のある自分にとってはとても興味深く愛おしくなるものだった。
 これらが、寿太郎みかんのポスター絵への反応をどの程度反映しているのかはわからない。反映しているのだったら嬉しい。たとえ反映していなくとも、ただ、自分の好きなキャラクターが、問題のないかたちで表現され世に広まっていること自体が嬉しい。


 新型コロナウイルス禍によって社会は大きく変わりつつある。『ラブライブ!サンシャイン!!』のキャストたちによるライブは次々中止となっていった。
 自分もコロナ禍の影響を少なからず受け、この数カ月間、ブログを書く暇がまったくない日々を送ってきた。
 徐々に自分の時間が戻ってきたなかで、ステイホームの時節にあわせて『ラブライブ!サンシャイン!!』が無料配信してくれる過去のライブ映像を眺めながらわたしは考える。
 恐怖だなんだと書いてきたけれど、わたしは『ラブライブ!サンシャイン!!』のファンが好きだ。「サンシャインぴっかぴか音頭」を聴いていて、あののどかな音頭にあわせて歌い踊るAqoursとファンたちによって形作られる祝祭の光景を久々に見て、わたしはそれを痛感した。
 自分がまたその祝祭のなかに身を投じられるかどうかはわからない。すべきだ、あるいはしてはいけない、といった感情はもたない。きつい経験をしたとは思うが、それなりに心は自由でいられている。
 ……いや、どうなんだろう。実際にまたライブ会場の入口に立ったとき自分がどう思うのか、それはまだわからない。
 やっぱりこの空間が大好きだよね!と全力の笑顔で飛び込んでいくのは、それはそれで真摯ではない。
 ライブ会場でもTwitterのTLでもどんな場でも、「JAなんすんのポスターなんて、全然問題なかったよね~」なんて声を聞いたら、やっぱりまた自分はすごく怒ると思うし。


 祝祭のなかで踊る人々の声は大きい。
 のどかなリズムにゆれて、平和な幸福の空気感があたりを満たしていたとしても、それでも、かき消される声はある。
 そうしたことが少しでもなくなればいい、とわたしは思う。

 

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