『華麗なるギャツビー』は1920年代のアメリカを舞台に、ハイスピードな資本主義社会のなかで失われゆく純粋な理想をいとおしむ物語である。今回のバズ・ラーマンの映画は、原作のなかでもとくにその思想を伝える部分がクローズアップされており、よりわかりやすい形で示される。これはアメリカの失われた理想を取り戻そうとする物語だ。
ギャツビーは荒野で育った貧民である。後ろ盾も血筋もない。しかし自分には神に愛されたあふれる才能があると信じ、広い世界に飛び出す。すばらしい恋に落ちる。
アメリカの理想は本来、ギャツビーに味方するはずだ。何も持たないものでも、才能と意志さえあれば幸福をつかむことができる。階級社会を否定し、貧富の格差を否定し、アメリカはそうやって作られた国家のはずだった。
しかし彼は、血筋と金をもつ男に奪われて、一度は愛する女を失う。
こんなはずではなかった。神に祝福された男ギャツビーの人生はこのようなものではなかった。神に祝福された国家アメリカはこのようなものではなかった。
ギャツビーは女との人生をやり直そうとする。
「過去をやり直すことなんてできないぞ」
「やり直すことができないって?」ギャツビーは信じられないという顔つきで叫んだ。「もちろんできるに決まってるじゃないか!」
彼はあたりを見回した。屋敷の隅の暗闇に過去が潜んでいたら、その手でつかみ出してやろうとばかりに。
「全てを元通りにするんだ」彼は決然と頷きながら言った。「彼女はわかってくれる」
そもそもアメリカは「やり直し」の国家だった。ヨーロッパ諸国の現実に別れを告げ、高い理想を実現するために創りだされた場所だ。その場所から理想が失われつつあるのなら、また再びやり直すのだ、そう考えるのは自然なことだろう。
ギャツビーのやり直しは悲劇で終わる。
しかし語り手ニック・キャラウェイ/スコット・フィッツジェラルドは、押し流されながらも懸命に漕ぎ続けるボートの乗組員に自分たちを喩えて、物語を終える。時に逆らい運命に逆らい、遠くにかすむ理想を目指してゆくことを謳う。その無謀さも辛さも飲み込んだうえで。
主人公ギャツビーを演じるレオナルド・ディカプリオは、その華やかなイメージのわりに、決して到達できない理想や人間を追い求める悲しさをはらんだ役ばかり演じている。『太陽と月に背いて』、『ブラッド・ダイアモンド』、『レボリューショナリー・ロード』、『J・エドガー』……。
階層構造になったさまざまな夢のなかで戦いが同時進行する『インセプション』ではないけれど、ディカプリオのフィルモグラフィーは、個々の作品を超えて一つの思想を演じているようにも思えてくる。
いわばギャツビー的な人間を何度も何度も「やり直し」してきた男なのであって、彼がこれまでの素晴らしい演技のなかでも特にみずみずしく、哀しく、いとおしく観えるのは、ギャツビーのような魂が彼の核にあるからではないか。
そしてその魂はアメリカ文化の核でもあるのだろう。
こういう「やり直し」の俳優人生というものを強く考えさせられる人といえば、トム・クルーズである。アメリカン・ヒーローを何度も何度もやり直すフィルモグラフィー。その螺旋のうえにすでに『ナイト&デイ』という傑作をものしながらも、近年の彼の「やり直し」志向はさらに過激を極めている。新作『オブリビオン』も「やり直し」の物語だ。
詳細ははぶくけれども、物語の最後、「やり直し」の主体は退場し、また別の主体が「やり直し」のスタート地点に着く。ほのかに幸福をつかむ予感が示されて幕が降りる。
それでいいの? だって最初のあいつとは別ものじゃないか!……人によってはそんな反発を抱きかねないだろう。実に強引な「やり直し」の先のハッピーエンディングだ。これは、同じく近年の「やり直し」映画である『ルーパー』や『ミッション:8ミニッツ』*1とは大きく異なった、トム・クルーズならではの異常な楽観主義がなしえた特殊な幕引きではある。映画内の主人公は朽ちようとも、トム・クルーズは永遠だから問題ないのさ。そうやって白い歯を見せ笑う彼がスクリーンの向こう側に見えるようだ(そしてぼくはそんな彼がいとおしい)。
『ルーパー』を観たときに書いた通り*2、ハリウッド映画においてはこの「やり直し」の物語がひとつの潮流をつくっているようにみえる。トム・クルーズの次回作『All You Need Is Kill』はこのテーマが最前面に打ち出される、「やり直し」ものの極北のような物語になるはずだ。
日本のゲーム的リアリズムと似て非なるこの潮流の源には、『華麗なるギャツビー』にフィッツジェラルドが込めたような、アメリカの理想への希求心があるのかもしれない*3
ジャンルも作風もかけ離れた別個の映画だけれど、クルーズの映画もディカプリオの映画も、壮大な「やり直し」の繰り返しのなかの一ピースに思えてくる。
そしてぼくはこの、ディカプリオとクルーズという二人のすばらしい男優が演じるそれぞれの「やり直し」の物語に、ニック・キャラウェイ同様、深い哀しみと憧れとを同時に感じる。
いくつもの物語をとっかえひっかえ観つづけて、日常からの救いをもとめるぼくとそっくりで、と同時に全く異なる輝く彼ら。
彼らはやり直しやり直しやり直しやり直し、何度も何度も物語をやり直す。アメリカの、理想の、映画の、男たちの目指すきらめきがそこにはある*4。
青春は
針飛びをしたレコードみたいに
何回も同じキスを繰り返して
その中で世界で一番すてきなやつを
見つけられると信じてる僕ら槇原敬之『青春』
*1:だいぶ細部を忘れているので自信がないが、同じダンカン・ジョーンズでも『月に囚われた男』に近いかもしれない。トム・クルーズと反対に、サム・ロックウェルの非スター性が活かされたがゆえの同方向、ということか。
*2:http://d.hatena.ne.jp/tegi/20130213/1360685847
*3:またこれは最近『オリバー・ストーンが語るもう一つのアメリカ史』を観ていて思ったのだが、アメリカ史には数多くのわかりやすい「ルート分岐イベント」がある。リンカーンが暗殺されていなかったら? ルーズベルトの次にウォレスが大統領になっていたら? JFKが暗殺されなかったら? 911が防げていたら? ……暴力によって誤った方向へルート選択されてきた正史を、再度まっとうにやり直したいという欲望がいかにも働きやすそうじゃないか。
*4:そういえば、「やり直し」の物語で女性が主人公をつとめるものはあったろうか?