こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「歌おう!」/『時をかける少女』と『ラブライブ!サンシャイン!!』2期13話のこと

■「どうして聴こえてくるの」

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』は、「輝き」を求める高海千歌の遍歴を描く物語である。彼女は伝説的なスクールアイドル・μ'sのライブ映像を観て、その「輝き」にとらわれる。自分もμ'sのように輝きたい――彼女のその気持ちがやがて仲間を集め、Aqoursとして活躍する日々が始まる。
 アニメの(現時点での)最終話である2期13話において、Aqoursの物語は前半部で終わる。高海千歌と8人の仲間たちはスクールアイドルの全国大会「ラブライブ」で優勝をおさめ、廃校の決まった母校の名を輝かしい記録の上に残すことに成功する。

  2期13話の後半部は、千歌の自宅に、彼女が新たに通うことになる高校の制服が届くところから始まる。前半部が、廃校となる浦の星女学院の制服に袖を通すところから始まっているのと対象的なスタートなのだが、新しい高校の制服は画面に映らないし、千歌は袖を通さない。彼女は浦の星女学院に通っていた日々に留まっていることがわかる。
 私服姿のままで砂浜に佇む彼女は、自分に言い聞かせるようような口調で母に訊ねる。

「私、見つけたんだよね。私たちだけの輝き。あそこに、あったんだよね」

 彼女はいまだに、Aqoursとして生きた日々と決着をつけられないでいる。ラブライブで優勝するというスクールアイドルとしてはこれ以上ない業績をおさめたというのに、それが「輝き」だったのかどうかの確信を得られていない。
 彼女の母や姉は、自分に自信を持てない千歌に対して、彼女の歩んできた道のりにすでに答えはある、と言う。しかし千歌は、その答えをすぐに受け入れることをしない。彼女は砂浜の前に広がる海に向かって、何度も紙飛行機を飛ばす。その先にある何かへ紙飛行機を届かせなくては、「輝き」が得られないかのように。
 何度目かの飛翔において、紙飛行機は悠然と空へ舞い上がっていく。それは彼女を、廃校になったはずの浦の星女学院へと導いていく。自らの手で閉じたはずの門を抜け、千歌は学校のなかへ入り込む。
 千歌の脳裏に、かつて彼女の聴いたAqoursの仲間たちの言葉がよみがえり、幻聴となって彼女の耳に届く。その言葉を辿って彼女は屋上へゆく。それは確かに、愛おしい過去を振り返る美しいシーンなのだが、しかし禁忌に触れるような危うさをもはらんでいる。なぜなら2期13話の前半で描かれる閉校式の日、千歌は屋上に集まったAqoursの仲間たちとともに、学校を「きちんと終わらせる」ことを再確認していたからだ。記憶にとらわれ一人学校をさまよう千歌は、仲間たちへの愛ゆえに、仲間たちとの誓いを破っていく。よりによって紙飛行機は、そのような誓いのなされた場所へと千歌を誘ってしまう。
 誰もいない屋上に紙飛行機が落ちている。それを拾った千歌は苦しみをはらんだ声で、絞り出すように言う。

わたし嘘つきだ。
泣かないって決めたよね。千歌。
どうして、思い出しちゃうの。
どうして聴こえてくるの。
どうして。
どうして

 やがて彼女の耳に、「歌おう」という声が響く。彼女を誘って、かつての仲間たちの影が学校のはしばしでうごめきはじめる。
 千歌は声と影を追いかけて、体育館へたどり着く。そこには、浦の星女学院からいなくなったはずの学友たちが、そして何より、ともに学校を閉じたはずのAqoursが待っている。

曜「夢じゃないよ」
果南「千歌と、みんなで歌いたいって」
鞠莉「最後に」
ダイヤ「この場所で」
善子「約束の地で」
花丸「待ってたずら」
ルビィ「千歌ちゃん!」
梨子「歌おう!」
みんな「一緒に!」
千歌「うん!」
みんな「一緒に!」

 2期13話の放送されたあの晩、わたしはテレビのなかで踊りだす千歌に、歌ってはだめだ、と言いたくなった。屋上で千歌は、過去の記憶を振り返って泣いてしまう自分の行為を責めていたはずだ。それはその行為が、浦の星女学院が閉校し、Aqoursが活動を終えた現在(あるいは未来)から目をそむけることだとわかっていたからではないのか。彼女のまえに白日夢のように*1現れた仲間たちと歌い踊ってしまえば、彼女はもう現在/現実に戻ってこれないのではないのか?

 2期13話の最後を飾るのは次のような言葉だ。

高海千歌
「やっとわかった。
最初からあったんだ。
初めてみたあのときから。
何もかも。
一歩一歩。
わたしたちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだったんだ。
探していたわたしたちの輝きだったんだ」

「青い鳥
さがしてた
見つけたんだ
でも
かごにはね
入れないで
自由に飛ばそう
答えはいつでもこの胸にある
気がついて
光があるよ」

  なるほど、言葉のうえでは千歌は解放されている。過去の価値に気づいたうえで未来へ進んでいる。
 しかしここで解決しているのは、千歌の「<わたしたちの輝き>を得られたかどうかの不安」だけである。「過去を振り返ってしまう不安」はまったく解消せず、むしろその行為は促されてすらいるのだ。なにせ、彼女の「輝き」は過去の月日すべてだった、というのが結論なのだから。

 過去を振り返ってしまう不安は、「わたしたちが過ごした時間のすべてが、それが輝きだった」という認識によって打ち消されるのかもしれない。「過ごした時間のすべて」、すなわち千歌たちが生きる時間のすべてに価値があるのならば、彼女たちがこれから生きていく未来にも、同様の輝きが生まれうることになる。過去にとらわれる不安を上回るほどに、未来への期待を抱けたのなら、その不安に押しつぶされることはないだろう。未来への期待によって、その不安を打ち消しうるだろう。
 しかし、わたしには難しかった。


■過去を駆け抜けるミュージカル

 2期13話に飲み込めないものがあったとしても、『Wonderful Stories』の、明朗なメロディに乗って千歌たちがこれまでの劇中のライブシーンを辿り直す演出には心が躍る。
 正直に言えば、わたしはこうした、劇中の過去をふたたび描き直すミュージカルシーンが大好きだ。
 映画やテレビアニメといった映像の芸術は、時間を操作する。時間は本来、人間の手では決して左右できないものだが、映像の創り手たちは過去をおさめた映像を編集し、順番を入替えることで、過去と現在とを自由に行き来することを可能にする。
 時間を行き来する映像に、一直線に流れる音楽が重ねられたとき、シャッフルされた時間の断片のなかに一つの力強い時間の流れが生じる。その音楽にあわせて、次々に移り変わっていく映像の情景を眺めるときわたしは、音楽の力によって、時間を跳躍することが可能になったかのような驚きと喜びをおぼえる。映像と音楽には、物理法則を超え現実を変える魔法のような力があるのだ、と信じることができる。

 こうした、劇中の過去シーンを引用しながら展開されるミュージカル演出の元祖のひとつは、フェデリコ・フェリーニ監督の『8 1/2』にあるようだ*2。この映画のラストでは、それまで登場してきた主人公の映画監督に関わる人々が勢揃いし、夕暮れの荒野で踊る。主人公は大作映画の製作に失敗し、周囲からの信用も名声もすべて失った惨憺たる状態だが*3、どこか明るく、閉塞から解放された印象のあるラストシーンだ。散々自身の能力や映画という表現に絶望していた主人公だが、恐らく彼はまた映画を撮るのだろう、と観客に思わせてくれる。


 近年のもっとも有名な例は、2017年にアカデミー賞レースを賑わせた『ラ・ラ・ランド』だろう*4。この映画のラストで展開されるミュージカルシーンも、『ラブライブ!サンシャイン!!』2期13話と同様に、主人公たちが辿ってきた過去の場面を駆け抜けていく演出となっている。映画の公開時期とアニメの製作時期のことを考えれば、あるいは『ラブライブ!サンシャイン!!』が影響を受けていると考えるべきかもしれない*5
 『ラ・ラ・ランド』のこのミュージカルシーンは、長く離れていた主人公たちが再会したことをきっかけに始まる。かつてともに過ごした輝かしい日々のなかを二人は駆け抜けていく。彼らはお互いのことを深く理解し、強く想いながらも別れた。ミュージカルシーンは実際に二人がともに過ごした日々を描いたあとで、現実にはありえなかった、別れなかった二人の過ごした時間までも描いていく。決してありえない、しかしありえないからこそ甘美な、偽りの記憶が展開される。
 やがてふたりは現在/現実に戻ってくる。甘美な(偽りの)過去を追い求めて、再び恋人同士となるのか、それとも……スリリングな一瞬のあとに画面に映し出される二人の表情は本当にすばらしい。
 『ラ・ラ・ランド』は、何十年も昔、ミュージカル映画の黄金時代に作られた諸作からの影響を強く受けているといわれる。もちろん現代のハリウッドでもミュージカル映画が作られてはいるのだが、往時の、明るく賑やかで、朗らかに夢を歌うことのできる華やかなミュージカルとは質が異なると言わざるを得ない。『ラ・ラ・ランド』のデイミアン・チャゼル監督は、そうした過去の名作への憧れをてらいなく謳い上げつつも、最後のミュージカルシーンとその後の描写で、過去を振り返るだけではいけない、という意思をはっきり示す。主人公たちの美しい過去の記憶は、チャゼル監督にとっての過去のミュージカル映画を表しているのだ。

ラ・ラ・ランド』は『ラブライブ!』を中心とした日本製二次元/2.5次元「ミュージカル」文化へのハリウッドからのアンサーソングである」説が脳内に舞い降りてまいりました。切実な空虚さ同士の対決。Aqoursファーストライブと同じ週末に日本公開されるのも意図的だったんだよ..。

https://twitter.com/tegit/status/834998152377749504

 わたしは以前から、少し冗談・ほとんど本気で「『ラ・ラ・ランド』は『ラブライブ!』」説を唱えている。どんなに質を高めたとしても、『ラ・ラ・ランド』のミュージカル表現は、往時の名作の模倣である、と言われてしまう。同様に、『ラブライブ!』はどんなに質を高めたとしても、二次元に描かれたアイドルという「空虚」な表現の枠を超えられない。μ'sやAqoursがどれほど画面のなかで輝いたとしても、それは所詮、絵に描かれた嘘っぱちなのである*6
 しかし、たとえどんなに空虚であっても、現実ではなくとも、模倣であっても、彼らは自らの欲する表現を求め、輝こうとする。空虚であるとわかっていても輝きたい――『ラ・ラ・ランド』も、『ラブライブ!』も、そんな魂を抱えた者たちのための物語だと思うのだ。

 そのような『ラ・ラ・ランド』と比較してしまうと、やはり、『ラブライブ!サンシャイン!!』2期13話もまた、過去の輝きとの決別を行うべきではなかったのか――。


■『時をかける少女

ひとが、現実よりも、
理想の愛を知ったとき、
それは、ひとにとって、
幸福なのだろうか?
不幸なのだろうか?

(『時をかける少女』)

  映画『時をかける少女』は、尾道に暮らす少女・芳山和子の出会いと別れを描く物語である。
 ――『ラブライブ!サンシャイン!!』についての文章のはずなのに、いったい何本の映画の話をすれば気が済むんだ、と思ったかたもいるかもしれない。辛抱して欲しい。これが最後の一本だ。そしてこの映画こそが、わたしの見立てでは、『ラブライブ!サンシャイン!!』2期13話の訴えるメッセージと対をなし、その価値を示してくれる作品なのである*7。この三ヶ月間色々考えてきたなかで、この映画を観てようやくわたしは2期13話を受け止められた。
 どういうことか。


 高校二年生の芳山和子は、ある土曜日の放課後、実験室で何者かのたてた不審な物音を聞いた直後、ラベンダーのような香りを嗅ぎ、気を失って倒れる。その出来事以降、和子は、時間を遡るタイムリープ現象を経験するようになってしまう。
 先程掲げたエピグラムは、映画の冒頭に掲げられているものだ。和子は自身のタイムリープの謎を明かすことで、自分の大切な記憶がにせものであったことを知る。その記憶にもとづいて恋をしていたはずの美しい「過去」は、他者が作り出した幻影だったのだ。
 彼女はその過去と自分の恋心が偽りの作られたものだと知っても、なおその美しい過去の名残りを追い求めてしまう。『時をかける少女』は青春映画の代名詞のようにして知られるけれども、作中の和子は、青春の影にとらわれ呪われたまま、大人になってしまうのだ。そこに救いはない。
 いつわりの過去にとらわれるのは和子だけではない。同じ人間によって、美しい記憶を植え付けられ、奪われた老夫婦の姿が映画の終盤で描かれる。二人は、幼いころに死んだはずだった孫が、無事に生き延び成長していたという幻想を抱かされていたのだが、現在はその「成長した孫」の記憶を消されている。老婦人は、そんな二度に渡って奪われた孫のことを想って、成長した孫のための衣服を買うというむなしい行為を続けるのだ。もういない人間のためにそんなことをしてはならない、と夫にたしなめられる彼女は、懸命に何かを言おうとするが何も口にできない。穏やかな苦さと悲しみが彼女の表情を支配している。この終盤のシーンは、映画全体のなかでも特筆すべき極めてすばらしいものだ。
 和子、そして老婦人の姿を観てわたしは思い知る。過去の幻影を奪い去られるというのはこんなにも恐ろしく苦しいことなのだ、と。
 成長した和子は、奪い去られた想い人と同じ道を目指して大学に通っている。映画のラスト、よりによってその大学の校内で彼女と想い人は再会する。しかし二人に過去の記憶はなく、他人のままで会話を交わし、すれ違う。映画の幕が降ろされる。

 和子は自身が置かれた悲劇的な状況を理解することすらできないのだが、観客であるわたしにはわかる。そして観客たるわたしもまた、映画のなかで描かれてきた芳山和子と級友たちの輝く青春の物語が、映画の幕が閉じるとともに永遠に戻らないことを知る。沈んだ目の大学生の和子と同様に、観客のわたしもまた現実に戻らなくてはならない。
 和子はそもそも、恋をしなければよかったのだろうか? それは違う、とわたしは思う。自分は暗い気持ちで『時をかける少女』という映画を観終わろうとしているけれど、この映画を観た記憶を奪われたくはないからだ。映画のなかで描かれる青春が極めて理想化されたもので、絶対に再現不可能であっても、それを観ているときに感じた心の躍動は本物だ。そしてそうした心の躍動のおかげで、わたしは映画の外の現実を生きていくことができる。

 『時をかける少女』において、あのミュージカルシーンが展開されるのは、その、物語が終わったあとのことだ。物語の幕が閉じ、エンドロールが始まる。メロディが流れ出す。主演の原田知世自身が、『時をかける少女』という歌を歌う。背景は、学校の実験室、校庭、体育館といった、物語の舞台となった場所だ。その場面にいた人々とともに原田知世は歌う。観客はそれを観ることで、この物語が原田知世によって演じられていた架空の物語であったことを再認識する。暗く閉じたはずの芳山和子の物語は、明るく微笑んで歌う原田知世の姿によって、物語の外へ開かれてゆく。


■歌おう!

 『時をかける少女』のミュージカルシーンは、過去にとらわれる人の心を中和する。
 『ラブライブ!サンシャイン!!』でのそれは、恐らく、真逆の意図を持っている。過去を忌避する人の心を中和する、という意図だ。
 「過去を振り返ってしまう不安」に苛まれていた千歌は、ミュージカルシーンを経て笑顔に戻る。そこにロジックはないが、ロジックなどありえない、ということを『時をかける少女』を観たわたしは知っている。時間遡行者の論理的なルールによって過去を奪われた人々の悲しみを知ったからだ。この文章の冒頭、わたしは千歌の「過去を振り返ってしまう不安」が解決していないし、わたしもその不安を払拭できないと書いた。そんなわたしのような人間に、『ラブライブ!サンシャイン!!』のミュージカルシーンは、不安を抱かず過去を愛していいのだ、と言っているように思える。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』における「過去」には極めて重い意味がある。
 Aqoursにとっての「過去」、それはすなわちμ'sである。μ'sという過去なしにはAqoursはなかったが、同時にμ'sの存在ゆえにAqoursは様々な重荷を背負うことにもなった。
 高海千歌たちにとっての「過去」は、浦の星女学院であり、内浦という土地である。内浦は漁村として、また観光地として古くから栄えた。浦の星女学院は長い伝統をもち、卒業生や地域の人々から愛される学校である。しかし両者ともにかつての繁栄を失い、衰退していくしかない。そしてやっかいなことに、そのような衰えゆく土地だからこそ、逆境を乗り越えようとするAqoursの物語は輝く。
 μ'sも浦の星も内浦も、Aqours(とファン)にとっては決して安易に愛せるものでも、切り捨てられるものではないはずだ。屋上でうめき声をあげる千歌のように、その存在を強く意識しながらも、同時に意識したくない、と悩んでしまう複雑な存在ではないか。
 わたしはμ'sのラストライブを、当時の振り返りライブビューイング上映で観て以来、ほとんど目にしていない。また、Aqoursのファーストライブのブルーレイは、冒頭の数十分だけを観たまま、部屋の隅に積んである。
 それは、過去を振り返り、今はもうそれらの輝きが存在しないことを感じるのが怖いからであり、また、今現在目にするAqoursの輝きがそれだけで十分だと思えるほどのものであるからでもある。わたしは前だけを見ていたかったのだ。
 しかし、過去をなかったことにはできない。μ'sを否定すればAqoursは生まれなかったことになる。過去のAqoursの輝きを目にするのが怖いようでは、やがては、現在のAqoursすらもやがて失われる恐怖ゆえに目にすることができなくなるだろう。


 高海千歌に、幻のAqoursはこう呼びかける。「歌おう」、と。
 過去に戻っておいで、とは言わない。過去のAqoursからみれば、現在の千歌とともに「歌う」ということは、固定され閉じた過去が、ふたたび開かれるということだ。CDの音源にあわせてわたしが歌えば、その過去の音源は過去のものではなくなる。今をふたたび生きる。
 これから行われるAqoursサードライブツアーでは、きっと2期13話のあのミュージカルシーンが生身のAqoursによってふたたび演じられるはずだ。そのたびにあのシーンは新しい輝きとしてステージのうえに現れる。過去が今になる。


 1期13話放送当時、その演出についてわたしは、「人はみな観客であり、演者であり、主人公にもなりうる」ことを示しているのだ、と書いた*8。劇中のステージの上でAqours自身を演じるAqoursAqoursを応援すると同時に10人目のAqoursになる浦の星女学院の人々、そしてそれらを演じる声優たち。それらの立場の行き来を明らかにすることで、『ラブライブ!サンシャイン!!』という輝きを外部から観る「君」自身に、輝くことを誘う。1期13話はそのような作品だった。
 これにならって言うのならば、2期13話が示すのはこういうことなのではないか。
 ――すべての時が過去であり、今であり、未来でもある。それらを愛おしむことを恐れなくともよいのだ。


 わたしはようやく、過去からの「歌おう」という呼びかけに、答えられそうな気がしている。

*1:極めて繊細な調整がなされておりわかりづらいものの、学友たちとAqoursの声と姿は、エコーがかった音響やソフトフォーカスのフィルターによって、現実ではないものだと示されている。

*2:8 1/2』を含め、本記事で言及する映画については 魂 (id:ishidamashii) さんから多くの示唆を受けました。ありがとうございました。

*3:他にも彼が失った「もの」があるという解釈も可能だし、別途撮影された異なるエンディングのことを考えれば一層その説を取るべきかもしれない。しかしわたしはそうでない解釈のほうが好きだ。

*4:なおこの映画の冒頭は『8 1/2』を意識した交通渋滞のシーンで幕を開ける。

*5:ラブライブ!サンシャイン!!』の音響監督・長崎行男が『ラ・ラ・ランド』を絶賛しており(https://twitter.com/Kameari_Kanata/status/836585919226355712)、他のスタッフたちも観ている可能性が高いように思える。また、高槻かなこhttps://twitter.com/Kanako_tktk/status/922832538904666112)、斉藤朱夏https://twitter.com/Saito_Shuka/status/955627177055174659)も同作を鑑賞している模様。

*6:そして声優ユニットとしてのμ's/Aqoursがどれほどアニメのダンスを模倣したとしても、彼女たちは三次元であり、二次元にはなれない。

*7:時をかける少女』をはじめとする大林宣彦監督作品に、『ラブライブ!サンシャイン!!』の監督である酒井和男が影響を受けている可能性もあるだろう。世代としては『時をかける少女』直撃世代ではないかもしれない(手元に酒井監督の生年に関する資料がなくうろ覚えの怪しい知識なのだが、確か現在40代だったはず)。ただ、人物や物語の「感情」のために様々な論理を捨てるスタイル、劇中に突如挿入されるホラー的表現など、実に近しいものを感じてしまうのだ。また作品の外のことだが、2016年に『時をかける少女』がドラマ化された際、『ラブライブ!サンシャイン!!』の舞台である静岡県沼津市がロケ地としてもちいられたことも興味深い。両作品は、沼津・内浦の風物に、大林宣彦が頻繁にロケ地としてきた尾道に近いものをみたのではないか。

*8:「わたしたち」から「君」へ/『ラブライブ!サンシャイン!!』13話のこと(http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/10/05/012803