こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

一ヶ月でわかる『ラブライブ!サンシャイン!!』の魅力/(3)2.5次元が教えてくれる「ほんもの」の意味

 いよいよAqoursの5THライブが6月8日・9日に行われる。
 Aqoursはフィクション上のアイドルグループであり、現実のアイドルグループでもある。明日、メットライフドームで、また全世界のライブビューイング会場で観客は、スクリーンに映し出された二次元のキャラクターの前で歌い踊る三次元の声優たちを観ることになる。


 こうした二次元と三次元にまたがる演劇やライブが、2.5次元コンテンツと呼ばれ、多くの観客を集めるようになって久しい。

 
 ぼくが初めて観たのは『ミュージカル黒執事 千の魂と堕ちた死神』だった(舞台公演の録画を映画館で上映したもの)。アニメで親しんでいたキャラクターを生身の俳優が演じることに抵抗があったけれども、岡田麿里と福山桜子という才人たちによる物語と演出の見事さ、そして何より松下優也の天才的な歌と演技によってぼくは作品のなかに引きずり込まれた。頭のどこかに「これはセバスチャンではなく松下優也という現代日本の俳優が演じているのだ」という意識がかすかにありつつも、ぼくはその作品を存分に楽しんだ。


 次に観た2.5次元コンテンツは、『ミュージカル テニスの王子様』だった。このタイトルが、この分野の現在の隆盛の基盤を築いたといっていいだろう。
 許斐剛の原作漫画はときに真面目なのかそうでないのかわからない過剰さをもつ。それが笑いに繋がる。現実にはありえないであろう必殺技や無茶な展開を、イメージと勢いを優先させて成り立たせてしまう。テニスというスポ根ものの軸がありつつ、キャラクターたちの感情や個性に則した無茶さで物語を展開させていく『テニスの王子様』は、2.5次元というフォーマットに見事に適合した。観客が、俳優が語る言葉を真実として受け取らなければ演劇は成立しない。ゆえに『テニスの王子様』の観客は不二先輩の「その打球、消えるよ」という言葉を信じるし、ピンスポットライトによって表現された跡部景吾の「ボール」が、ただ舞台中央に立っているだけの手塚部長のもとへと飛んでいくだけの情景に「手塚ゾーンだ!!」と鳥肌を立てる。そこには、荒唐無稽なことを信じることで得られる喜びが満ちている。


 ぼくが『ミュージカル テニスの王子様』を盛んに観はじめたころ、東日本大震災が起きた。
 まだ地震原発事故の発生から間もない時期に観た公演の終演後挨拶で、主人公の越前リョーマを演じていた小越勇輝が、そうした状況で公演をしていていいのか悩んだこと、それでもできたのは多くの人のおかげで、公演が観客の日常を生きていく励みになれば嬉しい、といったことを吐露していた。
 当時、こうした葛藤を経ずに娯楽や芸術といったことに関わった人はいなかったろう。だから彼の言うことはそう特別というものではない。それでも、いま自分がリアルタイムで(といっても会場から遠く離れたライブビューイング会場でだが)そうした表現者の生なましい葛藤に直に触れた衝撃は大きかった。今日演じられた物語も、明日の舞台で再度演じられるかは誰にもわからない。ぼくは演劇や娯楽そのものの不確かさを改めて知った。長い期間と公演数をかけて物語を描いていく、そしてそのなかで演者の演技の変化をも楽しむことのできる『テニスの王子様』ならではのことだったとも思う。


 こうした先行作品を経たうえでぼくは『ラブライブ!』と出会った。
 初めて観たのは友人に借りたライブのブルーレイだった。
 『黒執事』も『テニスの王子様』も、また『ラブライブ!』以前にぼくがはまっていた『IDOLM@STER』も、ステージのうえで生身の人間が演じる場合、いまそこに立つ演者こそがキャラクターそのものとされていたのだが、『ラブライブ!』はステージの上に立つ演者の後ろに、二次元のキャラクターたちの映像を映し出すことで、「キャラクターそのもの」を拡張させていた。二次元のキャラクターこそが「キャラクターそのもの」のはずではあるが、舞台上で同じ声で同じ歌を同じ踊りをしながら歌う声優たちもまた「キャラクターそのもの」に見えたのだった。
 「キャラクター」を観たいのならばぼくはスクリーンに映る二次元のキャラクターを観ていればいいはずだ。ではその手前で歌い踊る声優たちは「キャラクター」より「ほんもの」ではないのか? 決してそうだとは思えなかった。ぼくは混乱し、スクリーンと舞台の上で二次元と三次元のあいだに生じる関係に興奮した。新しいなにかを観た、という確かな手触りがあった。


 考えてみれば、スクリーンに映し出される「ほんもの」として、ぼくは初音ミクという存在をその前から知っていたのだった。
 初音ミク音声合成ソフトだから、「ほんもの」はコンピュータのなかにしかいない。ライブ会場で、スクリーンに投影された初音ミクもまたコンピュータによって作り出された「ほんもの」だ。100パーセント作りものであることが100パーセント「ほんもの」であることにつながる存在。「作りもの」の初音ミクの映し出されたスクリーンに向かってぼくは歓声をあげペンライトを振っていた。残念ながらまだ現在の初音ミクは自律した生命体ではなく、心も持たないから、ぼくの歓声に彼女自身の声で応えてくれることはない。それでも、いやそうだからこそ、ぼくは初音ミクに惹かれた。自分のなかの「ほんもの」の意味を拡張してくれるから。


 『ラブライブ!』のμ's、そしてAqoursはぼくにとって、そんな初音ミクへの憧憬を前提として、一層豊かな虚構と現実のせめぎあいを見せてくれる存在なのだった。ぼくはあっという間にμ'sが好きになっていった。


 ぼくはμ'sをライブビューイングでしか観たことがない。映画館で行われる生中継のことだ。μ'sのライブにおいて声優たちはキャラクターの映し出されるスクリーンの前でキャラクターを演じる。ライブ会場でその情景を見たのならば、声優たちはぼくにとって「ほんもの」で、スクリーン上のキャラクターは「作りもの」だ。
 しかしライブビューイング会場でのぼくは、そのいずれをも、映画館のスクリーンに映し出された「作りもの」としてしか見ることができない。ぼくは作りもののほんものに向かってペンライトを振り歓声をあげる。
 時々、ぼくはそんな自分にひどく醒めることがある。スクリーンの向こう側にぼくの声は届かない。キャラクターのカラーにしたペンライトの明かりも、振り上げる拳も、彼女たちの目には触れず、なんら影響を与えることはない。そうしたすべて意味はないのではないかと思うことがある。
 しかし、たとえ届かないものだとしても、追いかけることに意味はある。μ'sを追いかける後発グループとして生まれたAqoursが教えてくれたのはそういうことだった。


 ぼくがAqoursの姿を初めて観てからもう3年以上が経つ。活動の草創期にはとても覚束なげだった彼女たち9人には、もはやステージ上でそれぞれが主役を演じているように思わせる力が漲っている。
 それでも彼女たちは自分にとても近しい人びとなのだと感じることもできる。追いかける存在ということへのシンパシーもあれば、ずっとファンとして一挙手一投足を眺めてきた自負もあるだろう。ファンとの距離を縮めるべく設計された現代日本のアイドルのビジネスモデルにみごとはまっているだけでもある。
 なんにせよ、ぼくはステージ上に立つAqoursを、かつて小越勇輝に感じたような親しみと、いつ演じることができなくなるかもわからないはかなさを同時に感じながら、観る。そして松下優也に感じた凄みとは異なるかたちで、演じることの美しさを思い知る。


 2.5次元は、Aqoursは、ぼくの「ほんもの」についての考え方を大きく拡げてくれた。明日明後日の5thライブでもきっと、彼女たちはまた新しい「ほんもの」のありようを見せてくれるはずだ。
 ぼくはそんなAqoursを早く観たい。スクリーンを挟んででも、遠く離れた場所からでも、ぼくは「ほんもの」を目にすることができる。

 そしてもしよかったら、あなたにも、そのライブビューイングに参加してほしい。その経験があなたの「ほんもの」について考える糧になってくれたら嬉しい。
 ぼくはあなたに、Aqoursを観てほしいのだ。

 

www.lovelive-anime.jp

ラブライブ!サンシャイン!! Official Web Site | Aqours 5th LIVE 特設サイト

ライブビューイングの情報はこちらでどうぞ。

当日券が出る場合、映画館の窓口やウェブサイトで購入することができます。

 

*6/8追記。当日券についての情報が公開されました。詳しくはこちら。ライブビューイング会場でお会いしましょう!!

 

www.lovelive-anime.jp

 

本シリーズ記事の(1)(2)はこちらから。あわせて楽しんでください。

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