映画『Aqours Documentary』を観た。その最初の感想を書く。可能な限り内容には触れないが、完全に書かないということはできない。Aqoursファンなら先入観をまったく持たずにただ一人で向かいあうべき映画だから、この先は読まないで映画館へ行ってほしい。
映画の前半で感じたのは、Aqoursのキャリアを的確かつ率直に描くな、ということだった。映画の前半、すなわちキャリアの前半でAqoursが直面する『ラブライブ!』ファンからの逆風について、キャストからもスタッフからもまた映画の描き手(本作はナレーションはなくテロップだけで語られる)からも、率直な言葉が示される。それは当時わたしが感じていたことでもあり、その率直さには好感をもった。最初はよく言ったと思ったが、徐々に、そんなに言って大丈夫かな、という気もしてきた。当時そうであったように、世の中には狭量で過激な受け取り方をする人はたくさんいるから。それでもこの率直な表明はよかった。心が救われたといってもいい。
2015年から2020年までのAqoursの道のりは、大きな苦難はあるものの、すさまじい速度で進む。スクリーンに映し出される年数の進み方の速さに改めて驚かされる。映画の視点は2025年現在から2015年へ遡り、何度か現在に戻りながら、16年、17年…と進んでいく。その年数の刻み方の細かさよ。キャリア全体では10年を数えるのに、最初の数年間に出来事がつまりすぎているという印象を受ける。
短い期間で濃厚な活動を繰り広げた結果、Aqoursは2020年に目標としていたμ'sとの共演を果たす。そしてその直後、コロナ危機がやってくる。なんというタイミング。
そこがようやくキャリア10年の折り返し点なのだ。
今振り返ってみれば、最初の5年間のAqoursの労苦はかれらが言葉にせずともわかりやすかったし、ファンもある程度共有できていたと言えるだろう。しかし、そのあとの5年間は……。
観客は、これまで知ることのできなかったAqoursの姿を見、言葉を聞くことになる。
映画の後半で描かれるテーマのひとつは、”人は他人や自分の「弱さ」にどう向き合えばよいのか”ということだ。大きな悩みを抱きながら、Aqoursの九人、そして周囲の人々は2025年6月のフィナーレライブへと向かっていく。
Aqoursが抱えていた悩みは、時代も立場も超えて、集団でなにかをしようとする人間ならかなりの頻度で直面しうるものだろう。 アニメを基盤とした声優アイドルグループという極めて特殊なケースとはいえ、ここで描かれる辛さや悲しみは、多くの人が共感できると思う。
映画はそんな九人の姿を、抑制したトーンで示していく。フィナーレライブを迎えても、そのライブの随所で感動的な場面が生じても、なお、映画は答えを示さない。映し出される人間が、答えを示すのを拒んでいるようにも思える。
観客はしばらくのあいだ、ラストカットに映っていた人物のことを考えざるを得ないだろう。明らかに、この映画では映し出せなかったなにかが、彼女のなかにはあったはずだ。ドキュメンタリー映画のひとつとしてみたとき、そこに踏み込んでほしかったという気持ちもないではないが、Aqoursファンとしてはそれをしないでいてくれた映画の作り手に感謝したいとも思う。
この映画はいくつもの美点をもつ。9人のキャストとともにAqoursの活動を作り上げたスタッフの主要メンバーが多く登場することはそのひとつだ。数多くのアニメ作品を手掛ける音響監督の長崎行男を筆頭に、Aqoursの周りで、自らも『ラブライブ!サンシャイン!!』という作品に多くのものを捧げながら、Aqoursを支える大きな力となった大人たちが複数登場する。若く悩み多きキャストが頼ることのできた優秀で誠意ある大人が複数いたことに、ファンとしては安堵する。
また、アイドルを題材としたドキュメンタリー映画として、一部キャストの不調や、作品へのバッシングといった要素を含みながら、扇情的にもなっていない。 こうした映画のバランスは、ファンとしてはとてもうれしいものだった。
本作の監督をつとめた富樫渉はこれが商業映画作品デビューとのこと。過去には乃木坂46の配信用ドキュメンタリーや是枝裕和、原恵一らに密着したテレビ番組・メイキング映像なども手掛けているようだ。集中的な取材はほんの数ヶ月だけだったにも関わらず、過去の映像素材を活かし、10年間の事実をまとめた記録としても、感動を喚起するものとしても、力ある一本に仕立ててくれている。
フィナーレライブのステージ上の情景はとても美しく撮影されている。構図や編集テンポは、配信やブルーレイで観ることのできるライブ映像とはまた異なる印象があった。その独特の感覚でAqoursのライブの様子を観ることができるのもうれしい。
終盤、ステージ裏で起こるいくつかの場面は、映画としての美しさ(言葉の反復、人物の感情を表すような画面構成)を強く持つ。キマリすぎていて、今思い返すと、うっすらとした作為性すら感じてしまう。何しろそこにいるのは、わたしたちを10年間感動させてきた手練れのパフォーマーなのだ。やらせだというわけではない。しかしその感動的な場面は、自然に、ひとびとのあいだに瞬間的かつスムーズに生じたものではなく、相手の心を動かしたい、なんとか近づきたいという思考のもとで準備され行われたことだったのではないか…。
しかしそれはどちらでもよいのではないか、とも思う。
人は誰かの心を動かしたくて演技をする。こんなせりふが、こんな声音が求められているのではないか、と頭を必死に動かして言葉を発する。歌を歌う。
それは、二次元のアニメーションに声を吹き込み、見るものに「ここにいるのは本当の人間だ」と思わせる営みと同じだ。わたしたちは、Aqoursの"10人"は、もともとそうした営み…μ'sという先人が切り開いた営みを愛したからこそ『ラブライブ!サンシャイン!!』というひとつの輝きのもとに集まったのではなかったか。作り物だったとしても、虚空に生み出されたものだったとしても、本当の輝きを持てないことはない。
さきほど、この映画は答えを出さない、ある人物への掘り下げもやりきらない、と書いた。この態度は、Aqoursが悩みながら選択した態度と似ている。とすれば、この映画は、そのありかたをもって、Aqoursの9人を肯定している、とも言える。
人によっては、この映画を観ることで、大きな波が心のなかに生じてしまうだろう。キャストが率直に語ったこと、カメラが映し出してしまったことが、キャストたち自身の心に生み出す波もあるだろう。
それでもこの映画は、Aqoursを映し、記録することで、彼女たちの10年を肯定してくれたのだと思う。そう考えるから、わたしはこの映画を観られてとても嬉しかった。