こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『黒澤家研究』創刊のお知らせ

<1月21日追記>

 本日開催された「僕らのラブライブ!2018新年会」にて、『黒澤家研究』初刷25部を無事に販売することができました。幸いなことに非常にご好評いただき、完売しております。

 まだはっきりとした予定は立っていませんが、18年中盤までには重版し、どこかの同人誌即売会にて再販売させていただこうと考えています。

 通販に関しては、今のところ予定していません。地方在住の方については個別に対応いたしますので、お気軽にTwitterかメール imjustateenagedirtbag[at]gmail.com([at]の部分を@に変えてください)でご連絡ください。メールは少々調子が悪く、反応まで数日いただく可能性があります。

__________________________

 

 同人誌『黒澤家研究』の創刊をお知らせします。
 本誌は、『ラブライブ!サンシャイン!!』に登場する二人のスクールアイドル、ダイヤとルビィが生まれ育った「黒澤家」を中心に、作品とその舞台である沼津・内浦を探求し、思索し、得られた知見を広めていくことを目指す同人誌です。

 第一号の記事執筆と編集は当ブログを書いているてぎが行いました。今後は色々な人に参加していただけたら嬉しいなあどと野望を抱いています。

 

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  第一号は、来たる1月21日(日)に開催される同人誌即売会「僕らのラブライブ!新年会2018」にて頒布いたします。


「僕らのラブライブ!新年会2018」
http://www.puniket.com/lovelive/
会場:大田区産業プラザPiO
日時:1月21日日曜日 11時~15時

サークル名:もやしブックス
配置:ダイヤ34

頒布誌名『黒澤家研究』創刊第一号
頒布価:100円

部数:20部

 

 以下、簡単に内容をご紹介します。


・『黒澤家とはなにか 内浦・長浜の津元について考える』

 今回の主要記事となる論考です。
 17年4月に当ブログで公開した「内浦・長浜の津元のこと/大川家と黒澤家について考える」*1を大幅改稿したものです。元記事は実在の津元を中心に書いたものですが、加えて、アニメ二期を含む物語のなかの黒澤家についての記述を大きく増やしました。
 結局のところ、物語と事実それぞれの「長浜の津元」をざっくりまとめた記事でしかないのですが、『ラブライブ!サンシャイン!!』と黒澤家が好きな人たちが色々と考えたり創作したり妄想したりする土台の一つになれば嬉しいなあと思って書きました。
 1ページめはこんな感じです。

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『豆州内浦津元関係資料目録β版』

 上記の記事を書くにあたって読んだ、内浦の津元に関する文献を、関連の濃いものから薄いものまで、とりあえず自分の知ったものはすべてリストアップしてみました。可能なものはごく簡単な内容紹介も付しています。

 このリストを作成するにあたっては、一部資料の情報をTwitter上で親交のある「素人ランナー」さんから提供いただきました。大変失礼ながら誌上に御礼を記載できませんでしたので、この場で改めて御礼申し上げます。
 そのようなご助力をいただきながらもわたしの力不足と怠慢により、本リストは恐らく網羅すべき文献の数%しかチェックできていません。本来はその大半を網羅できてからこうしたリストを作成すべきなのでしょうが、そう考えていると何年後になるかわからないので、とりあえず掲載しちゃえ、という感じで載せた次第です。
 『豆州内浦漁民史料』の公刊以降、内浦に関する研究は多数なされているわけですが、それらの成果を簡単に把握することは難しい状況です*2。もちろん研究者の人たちは残すべきもの・淘汰されるべきものを峻別し、それを最新の学術論文のなかに参考文献リストという形で表現しているのだと思います。でも個人的には、渋沢敬三以降、どれだけの学術的探求が内浦の史料によって達成されてきたか、その蓄積を一覧できるものがあって然るべきではないかとも思うのですね。それをどう読んで評価するかはまた別として。そのリストはきっと、内浦がどんだけすごいとこか、ということを端的に示すものになるんじゃないかと思うのです。
 とはいえ本リストはとにかく笑っちゃうほど未完成の状態なので(そんなものを掲載してすみません)、今後は更新版をウェブ上で公開するなどしていきたいと思っています。
 1ページ目はこんな感じです。

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・あとがき

 この同人誌を作ろうと決めたある出来事について書きました。ここに書いた気持ちがちょっとでも読者の方に伝われば、この同人誌を作った意味はあるかなーと思っています。

 

 というわけで、以上が『黒澤家研究』第一号の紹介となります。
 今号が注目されてもされなくても、しばらくは何号か作っていこうと思っていますけど、でもやっぱり注目されたらうれしいです。
 21日、みなさんの来ブースを心からお待ちしております。

*1:http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/04/29/214654

*2:たぶん。もしかしたらわたしが知らないだけで、どこかにこういう目録があったりするのかもしれない…。

英雄に意味なんてない/『最後のジェダイ』と『ラブライブ!サンシャイン!!』

 いよいよ『ラブライブ!サンシャイン!!』アニメ2期最終話の放送まであと2時間です。みなさんいかがお過ごしですか。ここ数日間生きた心地がしねーよ、という人がほとんどじゃないでしょうか。
 ぼくはそういう気分を紛らわすべく昨日映画館で『スター・ウォーズ 最後のジェダイ』を観てきました。まずはその話をします。するんですけど、ほとんど『ラブライブ!サンシャイン!!』の話をしているということがわかるかたにはわかっていただけるかと思います。


 映画シリーズ『スター・ウォーズ』の第一作目は1977年に公開されました。監督・脚本はジョージ・ルーカス。以後、ルーカスが中心になってシリーズ六作が作られ、更にルーカス以外のクリエイターたちによって映画三作が作られました。もう40年も続く長寿シリーズです。
 前作の『フォースの覚醒』では、ルーカスによって作られた六作の末尾から数十年後の世界で、強大な軍事力を背景に銀河の覇権を握ろうとするファースト・オーダーと、それに反旗を翻すレジスタンスたちの戦いが描かれました。辺境の惑星で孤独に暮らしていたものの、フォースと呼ばれる不思議な力に覚醒し、戦いの渦中に巻き込まれていくレイを筆頭に、ファースト・オーダーから脱走した兵士フィン、かつて強大な力を誇った祖父ベイダー卿に憧れ悪の道を進むカイロ・レンら、旧作を踏まえながらも新鮮で魅力的な主人公たちが活躍する、現在作られるにふさわしい『スター・ウォーズ』でした。
 今回の『最後のジェダイ』で描かれるのは、基地を襲撃されたレジスタンスたちが、降伏もできない決死の状況で行う撤収作戦です。彼らは小さな宇宙船で必死に逃げますが、迫りくるファースト・オーダーの圧倒的な攻撃で次々に仲間は死んでいくし、燃料も逃げ切るには全く足りません。
 そんな状況で何ができるのか。
 レジスタンスたちが必死の逃亡をしているころ、主人公レイは、かつて一度は銀河を救ったとされる英雄ルーク・スカイウォーカーのもとを訪れています。彼が戦線に戻れば、今はファースト・オーダーの支配のもとで息を潜めている人々も反抗の狼煙をあげてくれるのではないか、そう期待するレジスタンスたちの願いを届けるために。
 ルークという人物は、ルーカスが最初に作った三作の主人公です。彼は劇中でも英雄ですが、現実においても、世界中でポップ・アイコンとなったヒーローです。前作『フォースの覚醒』が、ルークの再登場を最後のクライマックスとしていたことからも、彼の重要性がわかります。
 レジスタンスたちは、彼に希望を託しています。しかし実際に彼が戻ってきたとして、絶望的な撤退戦が好転するかどうかは怪しいところです。なにせ彼らが戦っているのは巨大な宇宙船同士の大規模な戦闘であり、人間一人が大勢に影響を及ぼせるとは言い難いものです。
 『フォースの覚醒』で活躍したフィンたちも、劇中で新たな英雄としてレジスタンスたちから尊敬の眼差しを浴びています。でも、若い彼はまだ無力だし、たくさんの失敗や判断ミスをする。
 そんな「英雄」たちに意味はあるのでしょうか。そんな英雄たちの物語に意味はあるのでしょうか。


 『最後のジェダイ』は、英雄と、それに憧れる人たちを描きます。その構図は、映画の外で映画を作っている人たちや、映画を観ているぼく自身にもそのまま当てはまります。『スター・ウォーズ』を観て育ってきた人たちが作り手に回り、過去の傑作との比較に怯えながら新作を生み出そうとしている。また、70年代から80年代にかけての最初の三部作をリアルタイムで経験していない世代が、それが自分たちの時代の神話になるかどうか、という不安と期待を抱きながら映画館にやってきている。
 最初の三部作の輝きというのは本当に別格です。なにせ『スター・ウォーズ』以前には、あそこまで面白くて、斬新で、格好良くて、誰もが楽しめて熱中できるSF娯楽映画というものはなかった。物語、演出、デザイン、それら個々の要素は様々な先行作の影響を強く受けているとはいえ、一つの映画にまとまったのはあれが初めてだったし、そのようなフレッシュな衝撃を与えるということは今後二度とできない。だって『スター・ウォーズ』はもう世界にあるのだから。また『スター・ウォーズ』を作ったとしても、観たとしても、もう最初の輝きを得ることはできないのです。
 では、そんな映画をまた作ることに意味はあるのか。そんな映画をまた観ることに意味はあるのか?


 『最後のジェダイ』は、物語のうえでも、また演出のうえでも、そうした「英雄」たちとその物語の意味の問いかけを繰り返していきます。
 けっきょく、レジスタンスたちの苦境は変わりません。人々も虐げられたままです。ルークやレイが活躍したとしても彼らの生活はほとんど変わらない。
 けれども、映画のラストで描かれるある人物は、英雄たちの姿を見たことで確実な変化を遂げています。彼がどんな人間になるかはわかりません。ルークのような英雄になるのか、かつてのダース・ベイダーのような圧制者になるのかはまだ誰もわからない。しかし可能性は引き継がれていく。


 転じて、こう考えてみましょう。ルークは本当に銀河帝国を救ったのか。『フォースの覚醒』で示されたとおり、銀河帝国の思想を引き継ぐファースト・オーダーによって、人々の自由は再び失われています。彼の英雄的行為の直接的な成果は、ごくわずかなあいだしか意味をなさなかった。
 では彼の行動に意味はなかったのか? あったとしたらどこに?
 と、ここでようやく『ラブライブ!』の話です。
 かつて高坂穂乃果とμ'sは音ノ木坂学院を救ったとされます。彼女たちの活躍によって入学希望者が増加し、廃校から救われた。
 しかし学校を救ったのは彼女たちだけでしょうか。
 彼女たちが行ったのは、あくまで学校の魅力を内外に知らしめることです。実際に学校を「救った」のは入学希望者だし、入学した彼らを受け入れた生徒と教師たちです。そしてμ'sの痕跡が失われた現在も学校が存続しているのなら、それはμ'sが成した業績そのものではなく、μ'sが音ノ木坂の人々に与えたものこそが重要であったことの証拠にほかならないでしょう。
 ルークは銀河帝国を倒したものの、自分の後に続く人々を育てることに失敗します。自分と、自分を慕うものを信じることができなかったから。
 おそらくはそこに両者の違いがある。


 高海千歌は、1期13話で挑戦したラブライブの地区予選において、「一瞬だけど、あの会場でみんなと歌って、輝くってどういうことかわかった気がした」と言います*1。いったいその「輝き」とはなんだったのでしょうか。
 先週放送された『ラブライブ!サンシャイン!!』2期12話において、ついに彼女はラブライブの全国大会の決勝ステージを経験しました。そのライブパートでぼくがもっとも感動したのは、彼女たちがステージ上で宙に舞わせた青色の羽根の描写です。画面のこちら側に舞うその羽根は、アニメの中の画面の境界を越えて、UTX学院前で決勝の様子を観ている無名の高校生たちのもとへ届く。
 これはラブライブ世界において、Aqoursがかつてのμ'sのように「輝き」を誰かへ届けたということでもあるし、同時に、画面の境界を越えて現実世界のこちら側へも届きうることを示唆した描写でもあります。
 「輝き」は千歌自身のなかに生じるものではなく、誰かへ届けられることで生じるものだったのだ、とぼくは理解しています。


 1期13話の最後で、高海千歌は「君のこころは輝いてるかい」と画面のこちらへ向かって問いかけました。
 英雄とその物語が意味をなすのは、彼らが投げかけるものが誰かの心に届いたときなのだとぼくは思います。なにせ、太陽自身は自分の輝きを観ることはできません。
 これから放送される『ラブライブ!サンシャイン!!』2期13話で、こちらにむかって投げかけられるものはどんな輝きなのでしょうか。ぼくはそれを観るのが楽しみだし、同時に怖くもあります。おそらくきっと彼女たちは、この輝きに意味を生じさせるのは君だ、と言うに違いないのですから。

*1:2期1話

ダイヤさんと呼ばせてよ/黒澤ダイヤの呼び方について考える・その2

 季節は早くも12月。あと少しで今年も終わりです。1月1日には黒澤ダイヤさんは18歳になる。
 ダイヤさんを演じる小宮有紗さんって、誕生日や何かの記念日に、これからの一年間の抱負についてよく語っているイメージがあるのですけど*1、きっとダイヤさんも、18歳という一区切りの誕生日においては、一層気合を入れた抱負を語っちゃうんだろうなあ、と想像してしまいます。


 2期4話『ダイヤさんと呼ばないで』は、ダイヤさんがAqoursの面々に受け入れられる物語であったのと同時に、ダイヤさんが自分の役割を受け入れる物語でもありました。
 千歌は、ダイヤさんは自分たちと違って「ちゃんとしてる」と言います。気軽に冗談を言ったりすることはできないけれど、ちゃんとしている、頼れる人としてのダイヤさんが好きなんだ、と。
 フリーマーケットや水族館でのアルバイト中、ダイヤさんは千歌の褒める「ちゃんとした」振る舞いをしてAqoursの面々を助けながらも、自分自身の真面目な性格を抑えて、周囲と親しくなるべきではないかという迷いを抱いていました。
 千歌はそうしたダイヤさんの生真面目さを認め、これからもその個性をAqoursのなかで発揮するよう希望します。ダイヤさんの個性はそのまま、Aqoursのなかで肯定されることになります。それはダイヤさんにとって一つの救いではあるでしょう。
 しかし同時にダイヤさんは、その個性を発揮する「ちゃんとした」人としてのポジションに留まることを頼まれてもいます。それは、鞠莉や果南のような、下級生たちと学年差を意識することなく親しむような関係性を作れない立場です。
 千歌とダイヤさんの会話がなされるラストシーンの人物の配置は、それぞれの立場の違いを明らかにしています。あわしまマリンパークを背に、屋内の光を背に立っている千歌たち8人。光源からは遠いほうに立って千歌たちを見るダイヤさん。
 いかにそれが自身の個性に合致しているとはいえ、そんな役割を負って、一人「ちゃんとした」人間であり続けることを定められたダイヤさんを手放しで祝福することは、ぼくにはためらわれます。
 確かに4話はダイヤさんの笑顔でしめくくられます。その直前に目を潤ませたのも、唇をかみしめたのも、喜びの表れととってもよい。しかしそこには、自分の役目を知り、他の場所には行けないことを悟った寂しさもあるようにわたしには思える。


 ちょっと思い出したのは、1期11話「友情ヨーソロー」で描かれた渡辺曜のことです。彼女は千歌と梨子と自分のあいだの距離感を測りかねて悩みますが、最終的に二人との適正な距離、そして自分のなすべきことを悟る。わたしがその姿を見て、本当にそれでいいんだろうか、と強く思ったのはかつて書いた通りです*2
 曜にしてもダイヤさんにしても、彼女たちはある場所に立つことと引き換えに、他の場所には立たないことを受け入れている。いかに彼女たち自身がそれを選んでいるとはいえ、何かを失っていることには変わりないはずです。『想いよひとつになれ』で歌われる、「何かをつかむために何かを諦めない」という言葉はやはり理想であって、それを叶えることはとても難しいのだ、と改めて思わされる。


 ダイヤさんが「ちゃんとしている人」としての自分の立場を受け入れるということは、Aqoursのなかでの人間関係に留まる話ではなく、彼女自身の人生に大きく関わっていくことでもあります。
 彼女は、地域の有力者である黒澤家の長女です。公野櫻子による小説『School Idol Diary』*3では、家を継ぎ、婿を取り、地域と家の繁栄のために生きていく人生を当然のものとして受け入れつつも、そうではない人生の可能性について少しずつ気づきはじめていくダイヤさんの姿が描かれていました。ところが、2期4話で描かれたのは、千歌たちが、地域における黒澤の家がなしているのと同じ役割――「ちゃんとしている」こと――をダイヤさんに求め、それをダイヤさんが受け入れてしまう物語だったわけです。


 黒澤家はそういう家なのだし、黒澤ダイヤはそういう人間なのだから、地域のリーダーとして生きていくことは当然ではないか、と思う人もいるかもしれません。
 そういう人は、実在の沼津の津元たちの歴史を紐解いてみるとよいと思います。父祖代々積み重なってきた罪をあがなうべく、家族を極貧のなかに叩き落としてまで自らの「家」を解体しようとした人*4、時代が変わり制度が変わったにも関わらず、受け継がれてきた上下関係に固執し津元の立場を維持しようと無茶な戦いに挑み敗北した人*5……。
 津元は、地域の利益を守るために代官や他村との交渉役をつとめたり、困窮する漁師たちに金を貸して急場をしのがせたり、といった「ちゃんとしている」(信頼と資本を蓄積している)人しかできない役割を担っていました。しかしその役割が「家」に固定され肥大化していったことで、様々な齟齬を産み、自他を不幸にしてしまった。


 さきほど触れた『School Idol Diary』において、ダイヤさんに「ちゃんとしている人」の立場以外へと最初に目を向けさせるのは、彼女と同じ家の人間である妹のルビィです。
 アニメの2期8話でルビィは、やがては高校を卒業しアイドルを辞める将来を示唆するダイヤさんに「置いていかないで」と呼びかけていました。ここでの「置いていかないで」は、未熟なままを置いて成長し、高校の外へと巣立っていくダイヤさんと離れてしまうことの寂しさがあらわれた言葉です。
 『School Idol Diary』でのルビィも、ダイヤさんが見合いをするという噂を聞いて早とちりし、ダイヤさんが結婚してしまうのではないかと危惧して、置いていかないでほしい、という意味のことを口にします*6。しかし同時に彼女は、もしダイヤさんが意に反した結婚を強制されるようなことになれば自分が大暴れしてやると意気込みます。その言葉が、ダイヤさんにそれまで自分の考えていた未来とは異なる生き方の可能性を見出させるのです。
 2期8話のルビィの言葉には、もちろん姉を気遣う気持ちが含まれているものの、ダイヤさんを変える力はありません。わたしは8話を観終わった時点で、ルビィもダイヤさんを「ちゃんとしている人」の場所から救い出すことはしないのだ、と思いました。
 しかし2期9話でルビィはさらに変化していきます。函館で行われるイベントへの出演をかけた面接で、彼女はこれまで姉が自分に勇気を与え力づけてくれていたことに思い至ります。その瞬間に彼女は変わる。降幡愛さんが演じている黒澤ルビィのふわふわしたおぼつかない*7声に、恐らくは降幡さんの地声に近い低いトーンが加えられる*8。その力のこもった声で彼女は面接官たちに「ちゃんとした」言葉を投げかける。
 2期9話で描かれるのはルビィと鹿角理亞という妹たちの成長であって、ダイヤさんと聖良、姉たちの物語ではないけれども、妹たちの変化は必ず家の中で姉たちへと影響をもたらすはずです。強くなったルビィは今までダイヤさんが一手に担ってきた「ちゃんとしてる」人としての役割を肩代わりしてくれるようになるかもしれないし、家のかたちそのものを解きほぐし変えていくようなことさえしてくれるかもしれない。


 先ほど渡辺曜について触れましたが、彼女の何かをあきらめたようにさえ見える生き方について、2期になって少々異なる印象を持つようになりました。大きな変化や事件は発生しておらず、千歌・梨子との関係も同じままのはずなのですが。
 流浪した主人公が痛みとともに自分の役割を受け入れる物語がわたしは好きです*9。あの、μ's全員の幸福、いやスクールアイドル全員の幸福を約束する愛と祝福が画面の全てに満ちていた映画『ラブライブ! School Idol Movie』を経験したあとでは、そのような苦味のある物語を『ラブライブ!』シリーズの一作として受け取るのには時として戸惑いを感じもするのですけど*10、『サンシャイン!!』2期がそのような苦味のある物語だととらえれば、ダイヤさんが2期4話で選び取った立場も、また違った見え方がしてくるかもしれません。
 何しろ、今『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語が語ろうとしているのは、浦の星女学院の廃校が決まったあと――「何かをあきらめた」あと、それでも「何かをつかむ」ことができるか、というテーマなのです。
 2期4話はダイヤさんにとって一つの挫折であったとしても、8話・9話のルビィの物語、そして今週末放送される、ダイヤさんの親友であり、「地域の名家の娘」として彼女と相似形をなす小原鞠莉の物語:10話「シャイニーを探して」は、彼女の「挫折」を違うものへと変えていくかもしれない。期待を胸に待ちたいと思います。


 最後に、記事の題名にあげている大問題について。わたしはダイヤさんのことをどう呼ぶべきか。
 ファンミーティングやラジオで、ちゃん付けで呼ぶよう煽る小宮有紗さんの楽しそうな姿を見ていると、2期4話を観たあとのわたしは「ダイヤちゃん」と呼ぶべきなのだろうと思うときもあります。実際、小宮さんに直接煽られたらそう呼ばざるを得ないでしょう。というか、この記事を書いている翌日、わたしは札幌でのファンミーティングに参加して小宮さんに直接煽られる機会を持つはずです。わーい。
 でも、2期4話、そしてそれ以降の物語におけるダイヤさんの決して単純には割り切れないであろう心のありように思いを馳せるとき、むしろその葛藤の証のようなものとして、ちゃん付けじゃなくさん付けで呼びたくなってしまうという気もするのです。ダイヤさんに寄り添って生きているAqoursのみんながそうした諸々を飛び越えて「ダイヤちゃん」と呼びかけるのと、遠くはなれたところで彼女のことを考えているわたしが「ダイヤちゃん」と口にするのでは意味が違うだろう、とも思う。
 そういうわけであいかわらず、わたしは「ダイヤさん」と呼ぼうと思います。アニメ2期が終わったらどうなるかわかりませんけども。
 というわけで、つづく!


♪♪♪


 突然ですが告知です。
 2018年1月21日に開催される同人誌即売会「僕らのラブライブ!」にサークル参加することにしました。
 生まれて初めて同人誌を作り、生まれて始めてサークル参加をします。
正気か自分。でもまあやりたくなってしまったものはしかたない。
 刊行を予定しているのは以下の通り。


『黒澤家研究』創刊号
――ダイヤとルビィが生まれ育った「黒澤家」とは、どのような存在なのか。沼津・内浦の歴史や風俗を紐解きながら、主にダイヤさんへの愛を語ります。

◎掲載予定◎
・「内浦の津元・黒澤家と大川家について」(本ブログ掲載記事を大幅加筆修正)
・「豆州内浦津元関係資料目録β版」(現実・フィクションを問わず、内浦の津元に関する資料を収集しリストアップ。学術研究から二次創作まで幅広く役立つ目録になる予定です)
・その他鋭意編集中。
・初版20部/頒布価100円


 以上、全部予定ですけどがんばります。
 こいついったい何を考えてるんだと戸惑うかたも多いと思うんですけど、今日の記事でえんえん書いているダイヤさんについてのことと直結する刊行物になるはずです。詳しい意図やらなんやらはまたそのうち。ご注目いただけたら嬉しいです。

*1:浦ラジでそういう話題が多いからかもしれません。先日の大阪ファンミーティングでは、誕生日を迎えた小林愛香さんと諏訪ななかさんに「一年の抱負を...」と無茶振りし、「そんなすぐに真面目なこと言えないから!」とツッコミをいれられていました。タイムテーブルが押し気味なのにそういう生真面目な負荷をかけていったあの感じ、良くも悪くもむちゃくちゃダイヤさんっぽくて、ちょっとはらはらしました。

*2:「渡辺さんはそれでいいんですか/『ラブライブ!サンシャイン!!』11話のこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/17/105525

*3:アニメ1期ブルーレイ特典。

*4:芹沢光治良『人間の運命』(完全版1巻「次郎の生いたち」)

*5:「内浦・長浜の津元のこと/大川家と黒澤家について考える」http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/04/29/214654

*6:「じゃあ本当に、お姉ちゃんお見合いしない? ルビィをおいて――お嫁にも行かない?」

*7:「覚束ない人」黒澤ルビィのこと」http://tegi.hatenablog.com/entry/2017/02/19/153154

*8:こうした彼女の声の魅力は、ゲーム『誰ガ為のアルケミスト』第三部主人公・リズベット役の演技でも触れることができます。基本的には朗らかで頼りない少女の声なのだけど、物語が進むにつれどんどん、主人公らしい堂々たるトーンをたたえていく。物語の佳境で次々現れる強大な敵にも怯まず自分の信念を語るその声に、プレイ中のわたしは何度も目頭を熱くさせられたものです。

*9:そうした物語の傑作はいくつもあると思うのですが、2期4話を観ていらい、最近よく思い出しているのは2009年のアメリカ映画『マイレージ・マイライフ』です。監督はジェイソン・ライトマンジョージ・クルーニー演じる主人公の仕事は、リストラされるサラリーマンたちにクビを言い渡すという非常にきついもの。冷酷と罵られ、恋人や家族とはろくな関係を築けないのですが、それでも彼はある種の誇りと諦めを抱いて、再び飛行機で全米を飛び回る日々へと戻っていきます
。ろくでもない自分を抱きしめながら日々を生きる男の人生を、飛行機に乗って空中を漂うこと(原題は"Up in the Air")をモチーフに描いて、軽妙ながらも深い余韻を残す傑作です。共演は、伊波杏樹さんが他の作品で吹替を担当したことでAqoursファンにもおなじみのアナ・ケンドリック

*10:物語のタイプとしてはむちゃくちゃ自分好みです。

ダイヤさんと呼ばせてよ/黒澤ダイヤの呼び方について考える・その1

 今週末放送される『ラブライブ!サンシャイン!!』二期4話のサブタイトルは「ダイヤさんと呼ばないで」です。
 おそらく、『ラブライブ!』一期10話「先輩禁止!」と同様に、上級生・下級生という年功序列を基本とした関係性からの脱却をテーマにしたエピソードになるのでしょう。μ'sにおいては絢瀬絵里東條希の二人が特に「先輩」として一・二年生から距離をもたれていたのに比べて、Aqoursにおいては黒澤ダイヤだけが「さん」付けで呼ばれている、という点が印象的です。松浦果南高海千歌渡辺曜から「ちゃん」付けで呼ばれ慣れた幼馴染の関係ですし、小原鞠莉は持ち前のフランクさで別け隔てなく付き合える。黒澤ダイヤだけが、絵里・希的な「先輩」のままなのでした。
 黒澤ダイヤを中心としたエピソードはアニメ二期で必ず描かれるだろうと期待していましたが、なるほど、彼女を中心に置いてしか描けないエピソードになりそうです。実に楽しみですね。


 さて、二期4話で焦点となるのはあくまでAqours内での呼び方のはずです。だからぼくが思い悩むことなどまったく必要ないわけですが、それでも、このサブタイトルを見たとき「困っちゃったなあ」と思いました。ダイヤさんと呼べないなら、いったいぼくは黒澤ダイヤのことをなんと呼べばよいのか。
 ぼくは黒澤ダイヤのことを「ダイヤさん」と呼ぶことを常としています。昔は「ダイヤ様」と呼ぶことのほうが多かったと思いますが、いまは必ず「さん」付けにしています。ブログの記事など、作品から距離を保つべき文章・文脈においては敬称を略していますが、頭のなかで思考するときは基本的にさん付けですし、記憶している限り、ライブ参加時にステージ上の黒澤ダイヤ/小宮有紗へ呼びかけるときはさん付け以外の呼び方を口にしたことはないはずです。

 ダイヤさんは、内浦長浜において数百年にわたって続いてきた津元・黒澤家の長女です。昔の記事を読めばなんとなく察していただけるかと思いますが、わたしは黒澤家に身も心も捧げたいと思っている人間です。そのような人間は、当然、ダイヤさんのことも「様」付けで呼ぶべきでしょう。

 

tegi.hatenablog.com


 この意識が変わったのはブルーレイ特典の『School Idol Diary』黒澤ダイヤ編を読んだときでした。ダイヤさんは家の存続と地域の繁栄を第一とし、家を背負って立つ、責任と地位をもつ人間として生きるべきと考えて育ってきました。ところが彼女はスクールアイドル活動を通して、それまでの自分の考えとは異なる生き方の可能性を知っていきます。黒澤家のお嬢様であり未来の当主である「ダイヤ様」として生きるか、あるいはそう呼ばれない人生を選ぶのか。彼女のなかには、これまで存在しなかった選択肢が芽生え始めています。
 そんな変化の渦中にある彼女を、それまで通り「様」付けで呼ぶのは、彼女は「様」付けで呼ばれる行き方をすべきだ、という意思表示になりえます。
 最終的に彼女が黒澤家を継ぐ決意をしたとしても、それはまだ未来のことです。まだ決まっていない彼女の未来を先取りして決めるような乱暴なことは、黒澤家を真に愛する人間として決してできることではありません。そういうわけで、わたしは彼女のことを「さん」付けで呼ぼうと決めたのでした。

 

 

 ですが二期4話の副題によれば、どうもダイヤさんはさん付けで呼ばないでほしいと思っているらしい。
 「さん」を付けないことで親しみを表してほしいという気持ちはわかりますが、さすがに呼び捨てや「ちゃん」付けにするのは黒澤家とダイヤさんを尊敬する身として畏れ多いものがあります。
 「そんなんアニメの中の話じゃん」「お前、黒澤ダイヤの同級生でもなんでもないだろ」などと言うなかれ。Aqoursのライブに行けばわたしもあなたも10人目のAqoursにならなくてはならないときがいつか来るかもしれないわけです(その是非についてはここでは問いません)。
 自分は今後どのようにダイヤさんを呼ぶべきなのか、二期4話を観てから決めたいとは思っていますが、とにかくまったくもってこれはダイヤさんファンの覚悟と愛とが試される一大事であると言えましょう。


 まあそういうわけで、今まで自分がダイヤさんをどう呼んできたか、これからどう呼ぶべきか、ということを延々考えているのですけども、そういえばあの人、自分だって人のこと「さん」付けで呼んでるじゃん、ということに気づきました。
 実の妹であるルビィは別として、ダイヤさんはAqoursのメンバーを年齢学年関係なく全員「さん」付けで呼んでいます。さらにぼくの記憶する限り、ライブなどでファンに呼びかけるときもたいてい「みんな」ではなく「みなさん」と呼んでいるはず。ボーカリストとして参加するAZALEA楽曲・デュオトリオ楽曲においても誰かを呼ぶ時は「きみ」ではなく「あなた」と言っています。
 これでは、自分が「さん」付けされたくないなら、まず自分の態度から直しなさいよ、と批難されても仕方ないでしょう。言葉や態度を相手のそれに近づけることは、コミュニケーションの親密さを高めるためには非常に有効です。『ラブライブ!』の「先輩禁止!」のエピソードで描かれたのも、後輩からの一方的な接近ではなく、上級生と下級生が相互に歩み寄ることの意義だったのではないでしょうか。

 

 ではダイヤさんもまた、みんなを「さん」付けで呼ぶのをやめるべきなのか。
 ぼくはどうにも、そうだと断言するのもまた難しいように思えます。
 例えば、ダイヤさんと同い年であり、最も親密であろう小原鞠莉松浦果南との関係のことを考えてみましょう。ダイヤさんが「鞠莉」「果南」と呼び捨てにしている情景、想像できるでしょうか。できなくはないが、しかし、そこで失われるものもあるように感じます。
 鞠莉と果南とはお互いを名前だけで呼び合いますが、それは彼女たちが常々衝突しあうことで互いへの想いを示す関係にあるからこそです。ダイヤさんと二人のあいだの関係は、鞠莉・果南のあいだの関係とは異なる性質のものに見えます。ダイヤさんと鞠莉/ダイヤさんと果南は、ダイヤさんが二人を「さん」付けで呼び合うにふさわしい種類の親しさでこそ結びついているのではないでしょうか?
 そもそも人間同士の関係の価値というのは、近さ・遠さ、浅さ・深さという直線的な物差しではかりきれるのでしょうか…?


 いやはや、まだ放送前だというのにずいぶん書いてしまいました。おたくは推しをどう呼ぶべきか*1、とか、Aqoursのライブにおいて呼ばれるべきは声優の名前かキャラの名前か、など、まだまだ語りたいことはたくさんありますが今日はこのへんにしておきましょう。
 名前や呼び方をどう扱うかは、その対象への気持ちだったり、個人の思想だったりを如実に表すので、興味深いと同時になかなか恐ろしいテーマであるようにも感じます。『ラブライブ!サンシャイン!!』は、このテーマにどんな答えを出してくれるのか? 明日の放送を楽しみに待つことにしましょう。

*1:声優さんを呼び捨てより「ちゃん」付けで呼ぶおたくのほうがより暴力的にみえるのですけど、あれ、なんなのでしょうね~。