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こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

物語たち

おたく文化 妄想

 すでに人類の多くが死に絶えて、電力供給も電話回線も途絶えたなか、朝目を覚まし、限りなくバッテリーがゼロに近づいたスマートフォンを震える手で操作して、わたしはスクフェスを起動する。ブシモ、と大きく響くμ'sのだれかの声。『HEART to HEART』のイントロ。スキのちからで、と歌声が響き始める。しかし画面は、「通信エラーが発生しました リトライします」というメッセージを表示させたまま動かない。何度もリロードさせる。スマートフォンは永遠に次の画面を表示させない。

 

***

 

 『ザ・ウォーカー』という映画は、デンゼル・ワシントン演じる主人公が人間の死に絶えた街のなかで目を覚まし、大切に持ち歩いている携帯プレーヤーで音楽を聴く、というシーンではじまる。全体に粗いところも多い映画なのだけれども、そうした身につまされる終末描写が印象に残る。
 ソーシャルゲームをするようになって、その場面をたびたび思い出すようになった。しかしソーシャルゲームの場合、文明が滅びてしまえば、起動することすら難しくなる。おそらくは冒頭のように、オープニング画面以降に進むことすらできない。どんなにやりこんでシナリオを解放したとしても、物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままになる。


 わたしがソーシャルゲームの『アイドルコネクト -アスタリスクライブ-』を始めたのは、そのゲームがサービスを終えることが明らかにされてからだった。サービス開始から約三ヶ月しか経過していなかった。
 わたしは、あまりにも短すぎるサービス終了に悲鳴をあげているファンの声をTwitter上で眺めているうちに、どのような作品なのか自分の目で確かめてみたくなったのだった。要は野次馬根性である。
 サービス終了の当日、終了予定時刻の二十分前くらいに、最後にもう少しだけと思ってわたしは『アイドルコネクト』を起動した。基本はリズムゲームだけれども、アイドルの日常を描くシナリオのボリュームがやけに大きいゲームだった。とてもわたしは消化しきれず、まだかなりの未読シナリオを残していたのだった。
 ひとつのシナリオを読み終えて、もう残り数分しかなかったけれども、もうひとつのシナリオを読み始めた。少しずつ、アイドルたちの日常をわたしは信じ始めていた。彼女たちは虚構だったけれども、その虚構のなかで確かに生きているように思えていた。彼女たちの日常がずっと続いていくように思われた。
 そのシナリオを読み終えると、アプリはサーバとの通信ができなくなり、動きを止めた。わたしにとっての『アイドルコネクト』の物語はスマートフォンのなかに閉じ込められたままとなった。


 物語はいつか終わる。
 今年の4月、わたしにとってとても大切なふたつのグループが活動を終えた。Tridentとμ'sである。
 μ'sは映画の物語と同じくドーム公演を行い、Tridentはラストライブで全楽曲を歌いきった。いずれのグループも、その活動の最後にふさわしいかたちで幕を降ろした。やりきれない気持ちはあるけれど、好きなグループががかように美しく活動を終えてくれたことは、本当に幸せな経験だったと思う。
 アイドルあるいは芸能という理不尽と困難の多い分野にあっても、そのような幸せな物語の終わりを目撃できる。そのことをわたしはずっと覚えていようと思う。


 終わる物語があれば続く物語もある。
 μ'sによる『ラブライブ!』が終わったいっぽう、Aqoursによる『ラブライブ!サンシャイン!!』が本格的に始まった。とくに7月から9月にかけてテレビ放映された同作のアニメーションにわたしは毎週一喜一憂した。
 同作の最終話放映直後、ネット上では様々な反応が飛び交った。わたしにとって我慢がならなかったのは、その物語をなかったことにしようとする人々の声だった。『ラブライブ!』という物語もAqoursも好きだがアニメは気に入らないから否定*1して忘れよう、というものである。
 すでにアニメの物語はそこにある。酒井和男監督と、Aqoursによって語られた物語が。
 それは『電撃G's Magazine』誌上で公野櫻子らによって語られてきた物語とは異なるかもしれない。しかし、『ラブライブ!』という作品の面白さの本質とは、そのようにさまざまな人間から少しずつ異なる視点、異なる語り方、異なる内容で同時並行的に、かつ優劣の差なく語られていることではなかったのか。だからこそ「みんなで叶える物語」ではなかったのか。
 『ラブライブ!』という舞台においてすでに語られた物語を、ほかの誰かがなかったことにすることなど許したくない、とわたしは信じた。
 今年の後半、わたしにしては驚異的な頻度と分量でブログを更新しているのはそのような考えによる。ひたすらにあの物語を反芻し、語り直すことで、そうした行為に抵抗したかったのだった。
 物語はその物語があろうとするかぎり、なにものにもおかされずに語られるべきだとわたしは思う。


 とはいえ物語が続けられてしまうことはときに災いをもたらすのだろう、とも思う。
 山田正紀の新作小説『カムパネルラ』は、宮澤賢治の作品群が国家によって歪に駆動されていくさまを描くSFである。MMORPGのように永遠に語られる宮澤賢治の作品世界は、恐ろしくも蠱惑的である。なにせあの宮澤賢治であるから。
 同作の最後に、希望ともいえないような小さく力ないかたちで示されるのは、誰にも知られず望まれず、それでも自分の信じたい物語を語って世に示す人間の姿である。
 カウンターが正しいのではなく、それぞれが信じる物語をそれぞれに語ることが守られることが正しいのだと思う。


 2016年もいつもの年と同様にたくさんの映画とアニメとその他色々の物語をわたしは楽しんだ。来年もそのような印象をもてる年だとうれしい。
 物語がそれぞれの望むかたちで語られていく年であってほしいと思う。


 『アイドルコネクト』はゲームアプリのサービスを終えたが、そのシナリオはいまも、ストリエというサイトで公開され続けている。いったん理不尽に幕を閉められた物語であっても、そのようにふたたび語られはじめることが可能なのだ。

 誰かが語り続けるかぎり。

 

storie.jp

*1:一応付言しておくと、わたしが許せないのは否定であり、批判ではない。

「違うステージに立つ人」桜内梨子のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その3

千歌の特別な人

 Aqoursの1stシングル『君のこころは輝いてるかい』は、聴くもののなかに様々な感動を呼び起こしてくれます。そのなかでもわたしにとってもっとも印象深いのは、楽曲のクライマックスで高海千歌(伊波杏樹)と桜内梨子(逢田梨香子)のふたりがサビを歌う部分です。

 PVでは、内浦でスクールアイドル活動を始める千歌に、遠く音ノ木坂学院からやってきた梨子が出会い、ともに歌うにいたる物語が描かれています。その物語の頂点、ついにふたりがひとつになれる瞬間が楽曲の大サビで示されているわけです。
 わたしの記憶では、それまでの『ラブライブ!』の楽曲、すなわちμ'sの楽曲において、ふたりのメンバーが大サビを歌うものはなかったように思います*1。大サビを歌い上げるのはもっぱら、高坂穂乃果の役割でした。もちろん楽曲によって他のメンバーがセンターポジションを担うことはありましたが、それは臨時のものという位置づけだったように思います。とくに、わたしがリアルタイムで深く親しんだアニメ二期以降の、μ'sにとっての節目になるような楽曲ではそうした雰囲気が濃厚にあった。

 μ'sのセンターポジションに堂々と立ち続ける穂乃果といえど、『ラブライブ! School Idol Movie』でも改めて描かれたように、その中身は頼りない、世間知らずの十代の人間です。それでも(あるいはそれゆえに)、μ'sの輝きの核となる楽曲の大サビは、彼女一人によって担われてきた。穂乃果一点に様々なものが集中する傾向は楽曲だけではありません。アニメ一期・二期の物語も、彼女が中心にいた。あるいは、彼女が物語を前進させた。

 それがリーダーたるものの務めであると言ってしまえばそれまでですし、それはその重責を背負える穂乃果(と彼女を演じる新田恵海)の強さを示しているということもわかる。でも、そんな辛いことってあるか、とわたしは思ってしまいます。一人でぜんぶ背負わなくたっていいじゃないか。
 だから、1stシングルというAqoursにとってこの上なく重要な楽曲である『君のこころは輝いてるかい』の大サビが千歌と梨子のふたりによって歌われているのを聴いたとき、わたしはようやく穂乃果の背負ってきた荷物が軽くなったように思ったのです。穂乃果の背負ってきたものを引き継いで音ノ木坂からやってきた梨子が千歌に出会う。そしてその引き継いだものを、二人でともに背負っていく、というイメージ。
 Aqoursの物語は、リーダーの千歌だけがすべてを背負うようなものにはならない。梨子が千歌と二人で背負っていく、そのような物語になるのだ、と期待したのです。


 実際、『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメの物語は、千歌と梨子をひとつの核として展開されていきます。
 普通である自分からの脱却を目指し、Aqours結成の口火を切る千歌に対し、梨子は自身の才能の行き詰まりを契機に内浦を訪れ、Aqoursに参加します。
 千歌は、地方の内浦で、μ'sが象徴する「輝き」を求めてスクールアイドルを始める。いっぽう梨子は、秋葉原には決して存在しない「海」の音を聴くために内浦へやってくる*2
 秋葉原と内浦。外の街で輝く光と、海の中で響く音。千歌と梨子に関連付けられるキーワード、行動や背景は、いつもセットになっている。それぞれのもつイメージは対照的で、美しい。『ラブライブ!サンシャイン!!』という大きな物語のなかで並走する二つの要素として、よくできています。

 二人は、互いの物語を動かす役割も担います。千歌は梨子をスクールアイドル活動にいざない、それまで彼女が聴けなかった「音」を聴かせる。一方梨子は、東京でのイベント後の千歌から、渡辺曜すら引き出せなかった「くやしい」という本心を引き出すことに成功します。
 家が隣り合い、ベランダ越しで言葉をやり取りする彼女たちの姿は、『赤毛のアン』のアン・シャーリーとダイアナ・バリーにさかのぼる、少女たちの友情の古典的なスタイルを思わせます。二人のみせる友情の物語の輝きは、アンとダイアナに影響された幾多の青春物語の系譜に並べても遜色ないでしょう。2話のベランダのシーンや、8話の浅瀬でのシーンなど、二人だけの名シーンにも事欠きません。そもそも、Aqoursの9人のなかで、二人だけ家が隣り合っているというだけで、梨子と千歌は特別な組み合わせといえるはずです。


梨子が同人誌を買う理由

 しかし最終的に、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、梨子と千歌の物語として決着することはありません。

 1stシングル以降、千歌と梨子がダブルでセンターを担う楽曲はないし、物語の後半、千歌と梨子の組み合わせは少しずつ解体されていく。

 7話、東京・秋葉原に出かけたAqoursは各々の趣味に沿った買い物を満喫します。そのなかで、梨子はたまたま見つけた「女性向同人誌専門店 オトメアン」なる店で、同人誌を購入しています。梨子が手に取っているのは、女性同士の恋愛物語を扱ったもののようです。本作における「女性向同人誌」にまつわる表現については慎重な検討が必要でしょうが、ここではひとまず措いておきます*3。ここで注目したいのは、梨子が女性同士の関係をフィクション(物語)として楽しむ人間になった、ということです。
 物語内人物が、物語のなかで物語に親しむ、ということは様々な性質をその人物に付与することになります。さすがに梨子が極端なメタ的視点を持つことはないのですが*4、オタク的に描かれる梨子のさまは、千歌と自分の関係を含め、俯瞰的な視点を彼女が獲得しているように受け取れます。彼女によるコメディ描写が、シリーズ前半では犬のしいたけとのやり取りだったのに対し、後半では同人誌関連に切り替わっていき、最終的には千歌の母親をまじえた、自分のかわいさをわかっている(自分と千歌の関係の可能性を理解している)くだりになる、というのもおもしろい変化です。
 もともと、千歌や内浦・沼津出身の人々に対するよそものとしてツッコミ役的な挙動を頻繁に行っていた梨子ではありますが、「女性向同人誌」に親しむことで彼女は明確に「自分たちの関係を外部から見ることができる」という性質を獲得することになる*5
 東京遠征後、梨子は千歌との関係を深めていくものの、それと比例するように、「女性向同人誌」へもいっそう傾倒していきます。彼女と千歌の関係がひとつの頂点を迎えるのが、千歌によってピアノコンクールへの参加を促される10話のラストですが、その後12話で東京を再訪した千歌が再会する梨子は、きわめて大量の同人誌を購入しています。

 梨子と千歌の親密さは、渡辺曜を中心に描く第11話『友情ヨーソロー』において決定的に解体されます。千歌との関係に思い悩む渡辺曜に、梨子は自ら曜に電話をかけ、自分と千歌との間にはなく、千歌と曜の間にしか存在しないものについて語る。
 ここで彼女がしているのは、人間関係の調整役です。自分もその渦中にいながら、冷静に曜の抱える屈託を把握し、千歌と自分、千歌と曜の関係を比較して分析してみせている。結果、曜と梨子、千歌の三人の関係が結び直され、梨子と千歌の特別さは後退します。
 11話のラストで、彼女たちはこのような言葉を口にします。

梨子「わたしや曜ちゃんや、普通のみんなが集まって。一人じゃとてもつくれない、大きな輝きをつくる。その輝きが、学校や、聞いてる人に広がっていく。つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルのなかにみつけた、輝きなんだ」

 彼女たちの個人的な人間関係の悩みは、スクールアイドルAqoursのあるべき姿を考えることで解消されていく。
 この問題の変換は、あきらかに物語の運びに歪みをもたらしています。わたしが「渡辺さんはそれでいいんですか」*6と思ったように、終盤の展開をじゅうぶんに受け止められない視聴者が多かった原因のひとつは、この歪みにあるように思える。そのような危ういことをなぜ行ったのか?
 それは、おそらくそこに『ラブライブ!』という物語の重要なルールが存在するからです。

 『ラブライブ!』のメインテーマは「みんなで叶える物語」です。ここでいう「みんな」は、「ファンと作り手」「二次元と三次元」などの垣根を取り払い、作品に関わる人すべてが物語に参加していくイメージを指していると思われます。『ラブライブ!』に関わるのなら、どの立場の人も物語にとって重要な存在である、というコンセプトが込められているとみていいでしょう。
 このコンセプトは、物語の内部に対しても適用されます。京極尚彦は『ラブライブ!』アニメ化に際し、μ'sの「9人が絶対必要なお話じゃなきゃいけないと、脚本の花田(十輝)さんにはずっとお願いしてい」たといいます*7。もちろん『サンシャイン!!』においては京極尚彦から酒井和男へと監督がバトンタッチされていますが、「みんなで叶える物語」というキャッチフレーズは作品の様々なところで提示されていますし、この考え方は継承されていると考えてよいでしょう。
 集団内の個人を対等に扱うには、個人どうしの関係性についても対等に扱わなければなりません。ある特定の人物たちの関係性が、物語のなかで大きくなりすぎてはいけないのです。μ'sにおいては、希と絵里、凛と花陽といった明らかに他のメンバーとは異なる深い関係性を結んでいる二人組がいるものの、その関係はμ'sの大きな物語とは深く関わりません*8
 すでに見てきたとおり、『ラブライブ!サンシャイン!!』において、梨子と千歌の二人によって大きな物語が動く瞬間は複数存在します。これ以上に梨子と千歌が特別な関係になってしまっては、全体のバランスが崩れてしまう。それでは、Aqoursの物語ではなく、梨子と千歌の物語になってしまうのです。それは「みんなで叶える物語」ではない。


聴こえないけれど聴こえる

 では梨子は特別な存在ではないのか。
 梨子と(あるいは曜と)千歌との間に縮めてはならない距離が定められているのなら、それは孤独と同じではないのか。高海千歌は高坂穂乃果と同様に、一人で孤独に歌う存在なのか。
 思うに、問題はそういうことではない、というのが『ラブライブ!サンシャイン!!』からの回答ではないでしょうか。
 どういうことか。

 

 11話、梨子と曜と千歌の三者のあいだは均等に調整されます。

 千歌との間に距離を感じていた曜は、予備予選のステージで、彼女とペアになってパフォーマンスを行う。いっぽうそれまでもっとも千歌と距離が近いように思われていた梨子は、予備予選のステージには立たず、遠く東京で一人、ピアノコンクールに出場する。
 しかし、予備予選とピアノコンクールの二つのパフォーマンスは、ひとつのステージ上で行われているかのように演出されています。物理的には曜のほうが梨子よりも千歌の近くにいるけれども、アニメーションの演出によってその距離は無効化される。
 予備予選の楽曲『想いよひとつになれ』で、梨子の声を聴くことはできません。しかしそもそも、このとき演奏されるピアノ曲『海に還るもの』、そしてAqoursの『想いよひとつになれ』の原型となった内浦の「海の音」は、実際に聴こえるのではなく、心でイメージされるものとして示されていたのでした*9。ここでの梨子の声は、「聴こえないけれど聴こえる音」としてそこにある。
 だから、不在の梨子は、それでも確かに千歌と同時に歌を歌っている。
 物理的には曜が一番近く、観念的には梨子が一番近い。そのふたりに、『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、優劣の順位をつけません。「想い」は「ひとつ」であるから。きわめてアクロバティックなやりかたで、梨子と曜のふたりが同時に千歌にとっての特別な存在になりえている。

 それでも、とこのアクロバティックなロジックに疑いを差し挟む余地は、12話で完全に消し去られます。音ノ木坂学院を訪れたAqoursは、μ'sが自分たちの痕跡をすべて消していったことを知る。劇中の完全なμ'sの不在は、現実の2016年4月1日以降のわたしたちが日々感じる喪失感と同じです。それでも、きれいにその活動の幕を閉じたμ'sを、誰より大きく感じていることを、ラブライバーなら誰でもその心をもって知っているはずです。

 同じステージに立たない梨子、そして完全にその痕跡を消したμ's。
 かれらは、千歌のもとを離れることで、このようなことを示してくれています。不在であることは無ではない。千歌は一人で歌っていても孤独ではない。


梨子が教えてくれること

 梨子と千歌がお互いだけの特別な存在になれるときはくるのでしょうか。あるいは、なぜここまでAqoursの物語は9人全員が等しく特別であることが求められるのでしょうか?
 わたしはずいぶん長いことこの点について考え込んでいたのですが、今日、12月27日になってようやく自分のなかでの答えが見いだせたように思います。

 ひとつめのヒントは、今日27日発売の『電撃G's Magazine』2017年2月号です。東條希絢瀬絵里が神前結婚式を挙げている(ようにしかみえない)グラビアが掲載されたのです*10
 もともと深い関係を結んでいた希と絵里ではありましたが、このように決定的なヴィジュアルが発表になったのは初めてではないでしょうか。
 これは、すでに現実世界でのμ'sが活動を一区切りし、μ'sの大きな物語に幕が引かれた現在だからこそ可能な出来事であるように思えます。
 千歌と梨子の関係が、希と絵里のそれに比肩しうるかどうかはわかりません。でももしかしたら、Aqoursがいつの日か彼女たちの大きな物語を終えたとき、二人は二人だけの関係を結ぶことができるかもしれない。ならば、いまはまだAqours九人の対等な特別さのままでいてもいいんじゃないだろうか。

 

 もう一つのヒントは、ほかでもない今日、12月27日に豊洲PITで行われたAqoursのライブイベント「ラブライブ!サンシャイン!!Aqours冬休み課外活動」です。
 というか、イベントそのものというよりは、このイベントをどう受け取るか、というファンの側のことです。
 わたしは豊洲PITに行くことができませんでした。仕事が終わったあと、映像配信サービスで画面越しに観ることしかできない。
 ではわたしは、会場に行けないわたしは、Aqoursの「みんなで叶える物語」の「みんな」には含まれないのでしょうか。
 Twitterを開けば、わたしと同じく、今日のイベントに参加できない人たちの嘆きの声をたくさん見つけることができます。わたし同様に抽選に外れた人。東京から遠くはなれた場所で暮らす、遠征のための時間もお金もない人。あるいは、みごとに入場チケット抽選に当たったにもかかわらず、急な仕事のために自分を犠牲にせざるをえない人。
 かれらと、会場の豊洲PITに入場できた人たちに、ファンとしての優劣はあるでしょうか。
 パフォーマンスを肉眼で見れたかどうか、肌で会場の空気を感じ取れたかどうか。それはたしかに物理的な違いとして明確に存在する。それはとても特別な経験です。今日、豊洲PITでAqoursの姿を目撃した人たちは、その場でしか結べない関係をAqoursとのあいだに結んだ。それは確かです。
 けれども、千歌と同じステージに立たない梨子が、千歌のすぐとなりにいる曜と同じ関係を千歌と結べるのならば、豊洲PITにいなかったわたしたちもまた、会場にいる人たちと同様に、Aqoursとの関係を結べると信じてもいいのではないか。
 梨子が自分の音楽を奏でるためにピアノコンクールのステージに立ったように、わたしたちはそれぞれのステージに立って自分の音を響かせることで、自分なりの関係をAqoursとのあいだに結ぶことができるのではないか?

 

 不遜を承知で言います(ちょっぴり狂人じみていることも承知で)。
 物語やコンテンツの定石を外して、歪みすら生み出して守られる「みんなで叶える物語」のルールは、もしかしたら、そのような希望をわたしたちが抱くためにあるのではないか。

 

 もしそのような考えを抱くことが許されるなら、Aqoursとは遠く離れた場所に立っているとしても、11話の梨子のように、輝きをつかむことができるかもしれない。
 すばらしいライブの映像を観てざわつく心を鎮めるために、今日くらいはこの偏った考えを胸に抱いていてもいいのではないか、といまのわたしは考えています。

*1:この記事を書くにあたって過去曲を聞き直しています。まだまだμ'sの膨大な曲の一部だけですが、いまのところは見つかりません。

*2:ところで、「なぜ梨子は移住先に内浦を選んだのか」という点はどの媒体の物語でも明かされません。ピアニストとしての前途を考えてとはいえ、東京都心から静岡まで母娘が引っ越しするにはかなりのコストが必要です。そのバックストーリーとして、たとえば、梨子の住む家のことを考えてみるというのはなかなか広げがいのある妄想であるように思えます。梨子の親族の持ち家だった、とか。あの家にかつて住んでいた誰かと、千歌の姉たちとのあいだに交流があったが…、なんてのもよいですね。

*3:どうみてもここで描かれる「女性向同人誌」と、現実世界におけるその主流とは距離があります。あのように路面店の看板で、「女性向」として百合的な同人誌が大々的に売り出されていることには違和感を抱かざるをえない。そこには「腐女子にならなかった人・桜内梨子」とでも題した文章を書かなければならない問題がありそうですが、ここでは控えておきます。というか巨大過ぎて手に余る。個人の印象を記しておくと、これは『ラブライブ!』世界から男性を排除したためにほんらい「女性向同人誌」文化の主流たるBLが存在できなくなっている、という作品の作りのうえでの理由を超えて、「BLが求められる文化や世界とはどんなものか、という思考実験としても面白いのではないか、と思います。女性スクールアイドルが男性の暴力に晒されずに安心して活動できる世界が成立するとき、われわれの世界では男性同士の恋愛を空想しないと得られない満足を、他で代替できるのではないか、だからあの世界ではBLは流行らないのではないか…? フィクション世界のなかである架空の存在を許すと、その世界のフィクションの有り様が変わっていく――という意味で、アメコミの傑作『ウォッチメン』の世界におけるヒーローの実在と海賊物語の流行の関係を思い出しました。

*4:たとえばルビィとμ'sの誰を推すかという話をしていてうっかり「やっぱりうみえりかな~」と言ってダイヤ様に「カップリングじゃなくて推しの話よ」と怒られるとか。

*5:もちろん、いったん外に出ることで、その関係の尊さを知りさらに没頭するようになる、という変化も起こり得ますが、現時点での梨子にそうした変化は生じていないと考えてよいように思います。

*6:渡辺さんはそれでいいんですか/『ラブライブ!サンシャイン!!』11話のこと http://tegi.hatenablog.com/entry/2016/09/17/105525 を参照ください。

*7:ラブライブ!TVアニメオフィシャルBOOK』より。

*8:絵里をμ'sに最終的に導くのは希ではなく穂乃果です。花陽は凛と真姫に背中を押されてμ'sに参加します。一期のクライマックスは一見すると穂乃果とことりが中心のようにみえますが、実際は海未を加えた三角関係になっています。

*9:2話、果南と梨子の会話参照。

*10:と言いつつ、これはまだ自分の目では確認できていません。わたしはまだ同誌を購入できていないからです。要はTL上で大騒ぎしているのぞえりクラスタのみなさんの言動からこの事実を知ったわけですが、伝聞で記事を書きたくないという気持ちはありつつも、この記事はどうしても今晩公開したかったのでそのままにしておきます。雑誌は明日買います。

「走れなかった人」国木田花丸のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その2

ラブライブ!

 2015年夏に行われたというAqoursの合宿を記録した映像のなかに、声優たちが野外でランニングをこなすシーンがあります。
 車道の脇の歩道を、めいめいのペースで走る声優たちのなかで、一人だけ大きく遅れて走る人の姿がある。
 明らかに彼女は疲労困憊していて、足が上がっていません。カメラの前を彼女はゆっくり横切っていく。


 この映像は、2016年1月11日の1stシングル発売記念イベントの際に初公開されました。イベント会場であるメルパルクホールの上映環境では、映像が暗く、わたしにはそれが誰だったのか判別できませんでした。9月に発売された『ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ第1巻におさめられたその映像を観ることでようやく、わたしはそれが誰だったのかを確認することができたのでした。高槻かなこさんでした。


 彼女はこのときのことを次のように語っています。

「私はこれまで運動をしてこなかったので誰よりも体力がなくて。1人だけみんなから置いて行かれ、さらに不注意から足を捻挫しちゃって、せっかく参加したのに1日見学……。あぁ、9人のなかで私が一番努力が足りない……。あの時は本当に自分が情けなかったです。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 このエピソードを知ったAqoursのファンなら、みなこう思うのではないでしょうか。「4話の花丸じゃん!」と。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』アニメ第4話『ふたりのキモチ』は、Aqoursに新たに加入する浦の星女学院の一年生・黒澤ルビィと国木田花丸を中心に描いたエピソードです。

 千歌に勧誘されたルビィと花丸は、体験入部というかたちでAqoursの活動に参加します。放課後、体力づくりのための過酷なランニングの最中に、花丸はみなについていけなくなってしまう。その姿はそのまま合宿時の高槻さんの姿に重なります。

 

 実際のところ、4話の脚本は、もしかしたら合宿時の高槻さんのエピソードをヒントに書かれたのかもしれません。もしそうだとしても、この現実の引用には、秀逸なひねりが加えられています。
 走れなかった自分=高槻さん/花丸の挫折を、彼女自身が乗り越えていく、というような花丸中心の場面にせず、そのことをきっかけにルビィが変わる、という花丸をサポート役とした場面に変更させているのです。
 4話が感動的なのは、この場面を中心に、各々の成長や変化が花丸とルビィが互いに思いあうことを起点に描かれるからです。
 ルビィは花丸の、花丸はルビィの、優しさと励ましによって変化し成長していく。『ラブライブ!』はスポ根的と表されることがたびたびありますが、そうした雰囲気が嫌味にならないのは、個々人の努力や才能だけでは物語は動かず、人間同士の関係における変化や行動によってこそ物語が動くことが多いからでしょう。スポ根的な「なせばなる」という価値観は受け入れづらいですが、「誰かと一緒なら自分は自分以上の力を発揮できるかもしれない」、という価値観なら受け入れやすい。


 現実からインスパイアされたのかどうかはともかく、アニメ4話を経て、「走れなかったこと」は高槻かなこさんと国木田花丸がぴったり等しく抱える共通点になりました。ところがこのことは、作り手側からもファンからも、あまり大きくクローズアップされてこなかったように思われます*1
 これもまた道理で、前述のようにアニメの物語としては「花丸がルビィの背中を押したこと」こそが重要なのであって、花丸が遅れたこと自体はさほど重要ではないからです。高槻さん/花丸の「走れなかった」という経験はあくまで彼女自身の経験に留まっていて、Aqours全体のものにはなっていない*2
 このあたり、ラブライバーがどんなことに「エモさ」を感じるかの境界を如実に示しているのかもしれません。『ラブライブ!』二期9話、高坂穂乃果たちのライブ参加を阻まむ大雪と、同年春のμ's 4thライブでの荒天とを重ね合わせて「エモさ」を感じる見立てはラブライバーのなかではいまや共通理解になったと言ってよいと思いますが、そのような現実と虚構の重ね合わせを『サンシャイン!!』4話に対して行う人は、少なくともわたしの観測範囲には見つかりません*3


 4話でAqoursに加入したあと、アニメ版における花丸の花丸らしさは薄れたようにみえます。スクールアイドルなんて自分は向いていない、と言っていたはずが、5話以降、彼女がスクールアイドル活動に躊躇するさまは見られません。コンプレックスであったはずの「ずら」も、冗談または萌える語尾として使いこなしており*4、あの内気なはずの花丸はどこへ、と思わざるをえない。
 自分の挫折やコンプレックスにとらわれないで、かように友達とはしゃぐことのできる花丸の笑顔はまぶしい。同じような挫折をしたらぜったい内にひきこもる自信のあるわたしのようなネガティブオタクには少々まぶしすぎるくらいです。

 しかし、この変化もまた、花丸らしさの現れなのではないでしょうか。
 4話に描かれた「走れなかった花丸」は、走れない自分より、そんな自分に気を取られて走るのをやめてしまうルビィのことを優先して考えた。そもそも彼女は、スクールアイドルなどという自分には似合わない活動に、ルビィがAqoursに参加しやすくするためだけに挑戦することにしたのです。彼女は誰か自分の愛する人のためならばためらいなく勇気ある行動をなしうるし、自分の慣れないスクールアイドル活動をすっかり楽しむこともできる。自分の失敗や弱点にとらわれすぎない。いざやると決めたなら、飄々とスクールアイドル活動をこなしていくことができる。
 5話以降、Aqoursの山あり谷ありな活動に花丸が付き合うことができたのは、そこにルビィがいたからなのでしょう。そして、ルビィと同じくらいに大切な仲間もできたから、ということでもあるかもしれない。

「大好きな小説を読んでるといっつも思うんだ。どこにいっても誰といても、しょせん人間は1人なんだなあって。」
(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.44)

 花丸はもともと、このような考えをいだいている人間のはずです。
 そのような人間が、みんながわいわいやっている部室でのっぽパンをむしゃむしゃ食べたり、ステージのうえで踊って歌ってと輝いていたりしていることの変化の大きさは、驚きであるとともに、「誰かのためならば、誰かと一緒ならば強くなれる」という花丸らしさの実感をもわたしに与えてくれます。
 そのように考えると、13話の彼女の(ステージ外での)最後のせりふが、「黄昏の理解者ずら」だった、ということがとても筋が通ったことであるように思えます。ヨハネの文体を引用する、という活字中毒者らしいスタイルで、ヨハネ・ルビィとの絆を確認し、相手に愛おしむ感情を伝える。本好きであることと、友達思いであること、その花丸の二つの側面を込めた名台詞だとわたしは思います。


 さて、「走れなかった」ときから時は経ち、花丸とおなじく、高槻かなこさんもまた、変化し、仲間を見つけ、前に進まれているようです。

「今は二人三脚というか……。ホント、くっついたまま歩いている気持ちです。」
「「誰になにをいわれても、マルちゃんの気持ちを伝えるために、私が持つ力のすべてを出して演じよう。それが運命的に私のもとに訪れてくれた彼女への最大の恩返しだ」と。今ではそう思っています。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 あの合宿のあと、高槻さんは自分の至らなさを痛感し、一層の努力をするようになったといいます。トレーニングを継続し、減量とスタミナアップに成功しているとのこと。

 ブルーレイ3巻付録の公野櫻子による『ラブライブ!サンシャイン!! School Idol Diary』善子・花丸・ルビィ編は、一年生のつながりを公野先生ならではの細やかな筆致でみごとに描いて出色なのですが、とくに、保育園のお泊り会で夜の闇に怯えた花丸が、ルビィと手をつなぐことで自身の勇気を発見するくだりは、アニメにおける花丸とルビィ、そして現実における高槻さんと花丸とのつながりを思わせるようで、わたしは読んでいて涙ぐんでしまいました*5
 花丸も高槻さんも、かつては皆と同じようには走れなかった。けれどいまのふたりならきっと、心のなかで大切な人の手を握って、力強く走ることができるに違いありません。

 

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

 

 

*1:そんなことないよ、ここで話題になってたよ、という人はぜひ教えてください。

*2:少なくとも、公になっている限りでは。とうぜん、ファンには見えないところで、この出来事をきっかけにAqours九人に波及するような何かが生じていた可能性は十分にありえます。

*3:ラブライブ!』二期9話のそれが現実のエピソードとは関係なく製作されていたらしいのに対し、今回はそのあたりが不明瞭である、ということも大きいかもしれませんが。/二期9話の製作については、このようなコメントが公式の誰かから行われていたように記憶しているのですが、わたしの勘違いかもしれません。こちらも詳細ご存知の方がいたらぜひぜひ教えてください。

*4:もともとそういう気配はありましたが、彼女の「ずら」はほとんどもう音ノ木坂の先輩たちの「にこ」あるいは「にゃー」と同じような、萌え記号としての変わった語尾、という感じのものになっています。さらに、地区予選に訪れた名古屋では「だぎゃー!」と声をあげてはしゃいでいる。これらは明らかに、自分の方言的口癖を客観視したうえで彼女自身が意図的に行っているとみていいでしょう。
出生地の言葉や習慣を笑いに転化する行為はかなりリスキーであり、方言をかように笑いや萌えのために使っていいのか、観る側としては少々困惑しないではなかったのですが、名古屋弁を扱ったことにわたしは少し安心しました。東北弁も名古屋弁も花丸のなかでは等しく「楽しい言葉」であり、正しい標準語とおかしな方言、といったような対立構造や上下の順序付けがなされるものではないことが明らかにされたからです。

*5:ところでアニメ版の描写に従うなら、ルビィと花丸が同じ保育園であるとは考えにくいので、このエピソードはアニメ版のふたりは体験していない、と考えざるを得ないようです。しかし、このエピソードは読むものにアニメ4話のことを強く思い出させます。確かにアニメ版のふたりは保育園で手をつなぐことはなかった。けれども、彼女たちは高校生になって、スクールアイドルという未知の世界に足を踏み出すときに、たしかに手をつないでお互いの勇気の糧となっていた。そこが同じならば全然問題ないじゃないか。わたしはそう思います。

「嘘をつく人」黒澤ダイヤのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その1

ラブライブ!

――ダイヤも浜辺に"Aqours"の文字を書いていたことを考えると、もう一度スクールアイドルをやりたいという思いがずっとあったのでは?
小宮「どうなんでしょう。彼女があの文字を書いた本当の思いは、皆さんのご想像にお任せします(笑)」

(『声優アニメディア』2016年11月号Cover Special Aqours 三年生Interview)

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメ版において、それまでのキャラクター設定ともっともかけはなれた設定を課されたのは誰か。わたしは黒澤ダイヤだと思います。
 旧家のお嬢様で、真面目で硬い人。スクールアイドルには興味なんてなくて、千歌からの誘いも突っぱねていた。G's Magazine版のダイヤはそういう人でした*1
 アニメでは、第1話冒頭でこそG's版そのままに千歌のスクールアイドル部設立の申請を断ってみせるものの、2話以降、実は熱心なスクールアイドルファンであり、自身もかつてはスクールアイドルであったこと、また千歌たちの活動をときに厳しく、ときに陰からフォローしていることが描かれていきます。
 アニメ本放送を見終わり、アニメ版ダイヤに慣れた今もう一度G's版に戻ると、改めてその違いに驚かされます。現時点での最新号である2016年11月号・Q&Aコーナーでも、「ルビィとどんな話をするか」という読者からの質問に対し、「あの子の好きなアイドル話はよく知らないの」と答えている。G's版では、スクールアイドルについては興味がない、という設定は固く守っているように見えます。

 

 この違いをどう受け止めればよいのか。ともすれば、アニメ版とG's版のあいだには越えようのない壁が存在して、断絶しているようにも思えてきてしまいます。でもそこで諦めてしまっては、寂しい。

 

 たとえば、「G's版はアニメ版より過去のダイヤを描いている」という考え方はどうでしょうか?
 G's版でも、徐々にスクールアイドル活動に魅了されつつあるダイヤの姿が描かれています。その延長線上に、スクールアイドルにドハマリしたアニメ版の状態を想像することは、そう難しくない。
 G's版ダイヤはすでにAqoursに加入しているのであって、その先の延長線上に、Aqours加入前のアニメ版ダイヤ像を直接繋げることには物語上大いに無理があります。二人のダイヤをきれいに統合することは難しい。なので、それぞれのダイヤを、別の人格として認識しつつも、「アニメ版のダイヤも、スクールアイドルにはまる前はG's版みたいな雰囲気だったのかな」「G's版のダイヤは、スクールアイドルやAqoursの仲間たちと出会ったことで、アニメ版のくだけた雰囲気を獲得していくのかも」と、それぞれのダイヤの過去あるいは未来に、もういっぽうのダイヤを仮に置いて想像をふくらませてみる。

 

 G's版のダイヤのなかでわたしが一番好きなのは、砂浜で歌う彼女の独白を描く点描です*2。スクールアイドルに興味なんてない。生徒会の仕事も、それなりにこなしているだけ。名家の娘としての日常を忙しく過ごす、かたいお嬢様であったダイヤでしたが、Aqoursの一員として歌を歌ううちに、自分のなかの新たな感情を見つけます。夕陽のなか、感情をこめて歌うダイヤの姿を瑞々しく描くイラスト、そして読者に向けて声を潜めて、でも畳み掛けるように熱く気持ちを訴える文章。それらがあいまって、そのページを眺めると、いつも強い感動が呼び起されます。
 夕陽のやわらかな光のなかで、心を開いて歌うG's版のダイヤのこの先に、スクールアイドルに心をときめかせるアニメ版のダイヤの姿を思い浮かべれば、二者はそうかけ離れたものではないと思えます。


 各メディアにおけるキャラクターの違いに動揺するラブライバーの姿は、いつでもどこでも目にすることができます。
 しかしいちばん戸惑っているのは、Aqoursのキャストたちでしょう。なにせ、それらの物語や設定を足がかりに、演技を組み立てなければならないのですから。
 そしておそらく、ダイヤのことに関してもっとも悩んできたに違いない人といえば、ダイヤを演じる小宮有紗さんです。
 そんな彼女が、つい先日、こんなことを言っていました。Webラジオ『ラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院RADIO!!!』*3でのひとこまです。

(三年生の各キャラクターが嫌いな食べ物を克服するにはどうすればいいか?というお便り*4に対して)

小宮有紗(以下、こ):(嫌いな食べ物が)「ハンバーグ、グラタン」のダイヤは、これはね、意地っ張りで嫌いって言ってるだけで本当は好きなんじゃないかと思うんだけど
鈴木愛奈(以下、あ):かわいいんだけど!
諏訪ななか(以下、す):ハンバーグ・グラタンを嫌いだって言ってる人あんまりいないよ
こ:いや、これ、嫌いじゃないでしょ。ほんとは好きでしょ。ほんとは好きだけど……
す:ルビィに、おねえちゃん感を出すために
こ:「わたしはみなさんとは違いますのよ」みたいな
す:「ハンバーグとグラタンなんか食べませんのよ」
こ:「そんなおこちゃまな食べ物は食べませんわ」とか
あ:かわいいー!
こ:……とか言ってるだけでほんとは好きで、よだれ垂らして見てる
あ:かわいいかわいいかわいいかわいい!何なん!
(中略)
す:だから、レストランとか行ったら、ルビィがハンバーグやグラタン食べてるのを、指をくわえて見ている
こ:横目で「本当はわたくしも食べたいのに…」とかなってる
あ:和食、隣で、ダイヤ様は食べる、みたいな
こ:鮭定食
あ:あははは

(『ラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院RADIO!!!』2016年10月19日配信回)

 

 毎度毎度この手の話題になると、リスナーのおたくを代弁するように「かわいい!」しか言わなくなる鈴木愛奈さん、いいやつだよなあ……ということはさておき。
 ここで小宮さんが指摘しているのは、たとえプロフィール情報という作品の基礎にあたるものであっても、そこにはダイヤによる嘘が含まれているかもしれない、ということです。

 

 なかなか過激な考え方です。
 表に出た公式の情報を「それは嘘ではないか」と言い始めたらきりがありません。そのキャラクターであることを確かに維持するものがなくなってしまう。けれども、そのキャラクターがもともと「嘘をつくかもしれない」キャラとしてあるのならば、そしてその嘘がキャラがついてもおかしくない嘘ならば、そのような読解はアリでしょう。

 小宮さんは、自身がとらえたダイヤ像と、「ハンバーグとグラタンが嫌い」という公式設定上のダイヤ像が一致しないとき、ただ「嫌いなもの」設定を無視するのではなく、「ダイヤは本当はこれらが好きなんじゃないのか? じゃあなぜそんな設定になっているのか?」と、そのふたつの像を結び合わせる方向へと考えをめぐらせた。その結果、もっとも自分のダイヤ像と公式設定上のダイヤをうまく結びつけるのは、「ダイヤが嘘をついている」という仮定だったわけです。公式設定も、自分の解釈も、どちらもないがしろにしないすばらしい解釈だと思う。


 余談ですが、このような発想ができるのは、小宮さんがもとからの声優ではなく、実写畑の出身だからということもあるのでは、とちょっぴり思います。
 アニメや漫画、ゲームといった二次元のコンテンツは、ゼロから絵を作らなければ成立しません。それゆえに、絵がすべてである/作品の表面に現れている情報がすべてである、というふうにとらえてしまいがちです。
 実写作品は、そこに存在するものをそのまま写し取る、ということをします。たとえば背景の木々の葉の揺れ方、俳優の服の上の塵、そうしたものをすべて統御することは難しい*5。俳優は自分の演技プランに従って演技しますが、人間の身体がすべて脳で思い描く通りに動くとは限りません。大なり小なり、実写作品には作り手の想定外のことが映像に映ってしまいます。
 だから、作り手がAという意味をもたせようとした映像であっても、A'やBという意味になってしまうことがある。そこを逆手に取って、Bという意味に取れる映像に、Aという意味を隠すということも可能です。
 そのように、映像そのもの、表面にある情報そのものがすべてではない、という考え方があってこそ、G's版とアニメ版の設定面での違いについて、あっさりと前提を覆せてしまうのではないか。


 またそもそも、『ラブライブ!』シリーズはもともとこうした読解を可能にする作品だとわたしは思っています。
 G'sマガジン誌上の『ラブライブ!サンシャイン!!』の文章はつねに、Aqoursたち自身が綴った言葉という体裁をとっています。それは彼女たちが、世間の目に触れることを知った上で発した言葉です。部活内の交換日誌という体裁でありつつ、他の部員にも明かさない秘密*6が書かれることも多い『School Idol Diary』シリーズに慣れてくると忘れがちですが、基本的にはG's Magazineの誌面では彼女たちはスクールアイドルとして、ファンに向けて言葉を選んでいる。
 すなわち、その言葉が伝えるものは、「ファンに見せたい自分」に留まります。彼女たちは物語理論における「信頼できない語り手」なのだといってもよいかもしれません。
 とくにダイヤの場合、名家の長女として、また生徒会長として、守りたいパブリックイメージが強固にあるはずです。そうした心情から、食べ物の好き嫌いにおいてすら、真実を明かさないでいるということは大いにありえる。


 話を最初に戻します。小宮さんのアイディアをもとに、G's版ダイヤの他の発言にもまた嘘が含まれる、と考えると、スクールアイドルについてのG's版とアニメ版の違いも、見え方がからりと変わります。
 もしG's版ダイヤもまたスクールアイドルオタクだとすれば、自身がオタクであることを誌面で素直に明かすでしょうか。しかも、アニメ版に沿えば、彼女はかつて一度アイドル活動を行いながらも、友情のために、スクールアイドルを禁忌のようにして足を洗った過去があります。簡単に「じつはスクールアイドルが大好きでしたー」と言えるほど、彼女と彼女を取り巻く状況は気楽ではない。ルビィや、同級生たちへの見栄もあるでしょう。
 スクールアイドルに興味のないG's版ダイヤと、スクールアイドルを愛してやまない、けれど素直にそれを明らかにはしないアニメ版ダイヤは、それが彼女の嘘によってわかたれたコインの裏表である、と考えれば、二つの像はひとつに繋がります。そしてそのようにひとつの像として複数のダイヤを見たとき、それぞれの物語や言葉から受け取れる感動は何倍にも豊かになり、たくさんの意味をもつようになる。


 アニメ4話では、中学生時代のダイヤがμ'sの絢瀬絵里にあこがれていることが描かれています。

(ルビィとダイヤ、μ'sを取り上げた雑誌を眺めながら)
「ルビィは花陽ちゃんかなー」
「わたくしは断然エリーチカ! 生徒会長でスクールアイドル。クールですわあ」

 恐らく彼女は、絢瀬絵里のような、有能で冷静な生徒会長になりたいと願っているはずです。それが成功しているときのようすが、G's版のダイヤなのではないか。
 いや、彼女はなにしろ名家の長女として育った生まれつきのお嬢様です。そのように、クールに、有能な才女として振る舞うことのほうがむしろ生来の生き方に近いのかもしれません。スクールアイドルおたくとして感情がダダ漏れしているときや、スクールアイドルとしてかわいく華やかにふるまっているときのほうが、彼女にとっては虚実の虚のほうなのかもしれません。
 なんにせよ、アニメの4話において彼女はまだ、自分の本心を明らかにしません。
 4話は、ダイヤの妹・ルビィが、ダイヤに対してついに、スクールアイドルになりたいという自分の本心を打ち明けるエピソードです。そのぶん余計に、本心を偽り続けるダイヤの姿はより痛ましく、愛すべきものに思えてしまいます。


 ダイヤは嘘をついているかもしれない。
 この仮定について考えていると、G's版とアニメ版との違い、彼女の「嘘」のことにも増して、どんな違いや嘘があったとしても変わらない、彼女の中心にあるものの尊さが強く感じられるようになってきます。
 アニメ版のダイヤが、果南・鞠莉とのスクールアイドル活動ののち、二年間の長きにわたって自分に課してきたのは、自分のスクールアイドルへの思いを封印し、クールなお嬢様として振る舞うことでした。
 海外で一人生きた鞠莉、友達との繋がりを切って地元/実家で日常を繰り返す果南。彼女たち二人も辛かったと思うけれども、自分の本心を隠し続けたダイヤの二年間もまた、辛く切ない日々だったろうと思う。
 だからアニメ版の後半、Aqoursの面々によってその本当の気持ちを自由に表せる場に迎えられた彼女の姿が、わたしは心底愛おしい。
 そして、G's版でも、そのようにAqoursのなかで自分の心を解き放つ彼女の姿に、わたしはメディアの違いを超えて同じ感動をおぼえるのです。

「これまで、私は一度だって、歌を歌ってみたいなんて思ったことはないし、もちろん、スクールアイドルになんて――千歌ちゃんからどれほど誘われても、絶対にそんなことありえないって思ってかたくなに拒絶し続けていたのに。
今、なぜか――。感じるの。誰かに何かを伝えたい。
今の私の気持ち――。
(中略)
私、そんな気持ちが私の中にもあったこと――知らなかったの。」

(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.31)

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

 

 

声優アニメディア 2016年 11 月号 [雑誌]

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*1:CDドラマ版も真面目すぎて馬鹿に見える、という意味でG's版の延長にあると思います。

*2:ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.31

*3:http://www.onsen.ag/program/llss/

*4:なお投稿者は常連の「DIA様のロードローラー」さんによるもの。ラジオもG'sも、常連の人たちの取り上げられる率には毎度驚かされるんですけど、その裏には、読まれやすいタイミングに毎回毎回きちんと投稿していく勤勉さがあるのだと思います。尊敬します。

*5:まあ、デイヴィッド・フィンチャーのように、完全な統御をしようとしている作り手もいます。逆にアニメにおいても、複数の意味、相反する意味をひとつの映像に込める演出はいくらでもなされています。そういう傾向があるよね、という話です。/そういえば『ラブライブ!サンシャイン!!』3話では、沼津駅前にフィンチャー作品を模した映画ポスターが並んでいました。アニメの作り手はフィンチャーの作風に共感を寄せやすいのかもしれません。

*6:矢澤にこ』第4話「GO HOME!」など。にこ編は涙なしには読めない。