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こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

「走れなかった人」国木田花丸のこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その2

ラブライブ!

 2015年夏に行われたというAqoursの合宿を記録した映像のなかに、声優たちが野外でランニングをこなすシーンがあります。
 車道の脇の歩道を、めいめいのペースで走る声優たちのなかで、一人だけ大きく遅れて走る人の姿がある。
 明らかに彼女は疲労困憊していて、足が上がっていません。カメラの前を彼女はゆっくり横切っていく。


 この映像は、2016年1月11日の1stシングル発売記念イベントの際に初公開されました。イベント会場であるメルパルクホールの上映環境では、映像が暗く、わたしにはそれが誰だったのか判別できませんでした。9月に発売された『ラブライブ!サンシャイン!!』ブルーレイ第1巻におさめられたその映像を観ることでようやく、わたしはそれが誰だったのかを確認することができたのでした。高槻かなこさんでした。


 彼女はこのときのことを次のように語っています。

「私はこれまで運動をしてこなかったので誰よりも体力がなくて。1人だけみんなから置いて行かれ、さらに不注意から足を捻挫しちゃって、せっかく参加したのに1日見学……。あぁ、9人のなかで私が一番努力が足りない……。あの時は本当に自分が情けなかったです。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 このエピソードを知ったAqoursのファンなら、みなこう思うのではないでしょうか。「4話の花丸じゃん!」と。


 『ラブライブ!サンシャイン!!』アニメ第4話『ふたりのキモチ』は、Aqoursに新たに加入する浦の星女学院の一年生・黒澤ルビィと国木田花丸を中心に描いたエピソードです。

 千歌に勧誘されたルビィと花丸は、体験入部というかたちでAqoursの活動に参加します。放課後、体力づくりのための過酷なランニングの最中に、花丸はみなについていけなくなってしまう。その姿はそのまま合宿時の高槻さんの姿に重なります。

 

 実際のところ、4話の脚本は、もしかしたら合宿時の高槻さんのエピソードをヒントに書かれたのかもしれません。もしそうだとしても、この現実の引用には、秀逸なひねりが加えられています。
 走れなかった自分=高槻さん/花丸の挫折を、彼女自身が乗り越えていく、というような花丸中心の場面にせず、そのことをきっかけにルビィが変わる、という花丸をサポート役とした場面に変更させているのです。
 4話が感動的なのは、この場面を中心に、各々の成長や変化が花丸とルビィが互いに思いあうことを起点に描かれるからです。
 ルビィは花丸の、花丸はルビィの、優しさと励ましによって変化し成長していく。『ラブライブ!』はスポ根的と表されることがたびたびありますが、そうした雰囲気が嫌味にならないのは、個々人の努力や才能だけでは物語は動かず、人間同士の関係における変化や行動によってこそ物語が動くことが多いからでしょう。スポ根的な「なせばなる」という価値観は受け入れづらいですが、「誰かと一緒なら自分は自分以上の力を発揮できるかもしれない」、という価値観なら受け入れやすい。


 現実からインスパイアされたのかどうかはともかく、アニメ4話を経て、「走れなかったこと」は高槻かなこさんと国木田花丸がぴったり等しく抱える共通点になりました。ところがこのことは、作り手側からもファンからも、あまり大きくクローズアップされてこなかったように思われます*1
 これもまた道理で、前述のようにアニメの物語としては「花丸がルビィの背中を押したこと」こそが重要なのであって、花丸が遅れたこと自体はさほど重要ではないからです。高槻さん/花丸の「走れなかった」という経験はあくまで彼女自身の経験に留まっていて、Aqours全体のものにはなっていない*2
 このあたり、ラブライバーがどんなことに「エモさ」を感じるかの境界を如実に示しているのかもしれません。『ラブライブ!』二期9話、高坂穂乃果たちのライブ参加を阻まむ大雪と、同年春のμ's 4thライブでの荒天とを重ね合わせて「エモさ」を感じる見立てはラブライバーのなかではいまや共通理解になったと言ってよいと思いますが、そのような現実と虚構の重ね合わせを『サンシャイン!!』4話に対して行う人は、少なくともわたしの観測範囲には見つかりません*3


 4話でAqoursに加入したあと、アニメ版における花丸の花丸らしさは薄れたようにみえます。スクールアイドルなんて自分は向いていない、と言っていたはずが、5話以降、彼女がスクールアイドル活動に躊躇するさまは見られません。コンプレックスであったはずの「ずら」も、冗談または萌える語尾として使いこなしており*4、あの内気なはずの花丸はどこへ、と思わざるをえない。
 自分の挫折やコンプレックスにとらわれないで、かように友達とはしゃぐことのできる花丸の笑顔はまぶしい。同じような挫折をしたらぜったい内にひきこもる自信のあるわたしのようなネガティブオタクには少々まぶしすぎるくらいです。

 しかし、この変化もまた、花丸らしさの現れなのではないでしょうか。
 4話に描かれた「走れなかった花丸」は、走れない自分より、そんな自分に気を取られて走るのをやめてしまうルビィのことを優先して考えた。そもそも彼女は、スクールアイドルなどという自分には似合わない活動に、ルビィがAqoursに参加しやすくするためだけに挑戦することにしたのです。彼女は誰か自分の愛する人のためならばためらいなく勇気ある行動をなしうるし、自分の慣れないスクールアイドル活動をすっかり楽しむこともできる。自分の失敗や弱点にとらわれすぎない。いざやると決めたなら、飄々とスクールアイドル活動をこなしていくことができる。
 5話以降、Aqoursの山あり谷ありな活動に花丸が付き合うことができたのは、そこにルビィがいたからなのでしょう。そして、ルビィと同じくらいに大切な仲間もできたから、ということでもあるかもしれない。

「大好きな小説を読んでるといっつも思うんだ。どこにいっても誰といても、しょせん人間は1人なんだなあって。」
(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.44)

 花丸はもともと、このような考えをいだいている人間のはずです。
 そのような人間が、みんながわいわいやっている部室でのっぽパンをむしゃむしゃ食べたり、ステージのうえで踊って歌ってと輝いていたりしていることの変化の大きさは、驚きであるとともに、「誰かのためならば、誰かと一緒ならば強くなれる」という花丸らしさの実感をもわたしに与えてくれます。
 そのように考えると、13話の彼女の(ステージ外での)最後のせりふが、「黄昏の理解者ずら」だった、ということがとても筋が通ったことであるように思えます。ヨハネの文体を引用する、という活字中毒者らしいスタイルで、ヨハネ・ルビィとの絆を確認し、相手に愛おしむ感情を伝える。本好きであることと、友達思いであること、その花丸の二つの側面を込めた名台詞だとわたしは思います。


 さて、「走れなかった」ときから時は経ち、花丸とおなじく、高槻かなこさんもまた、変化し、仲間を見つけ、前に進まれているようです。

「今は二人三脚というか……。ホント、くっついたまま歩いている気持ちです。」
「「誰になにをいわれても、マルちゃんの気持ちを伝えるために、私が持つ力のすべてを出して演じよう。それが運命的に私のもとに訪れてくれた彼女への最大の恩返しだ」と。今ではそう思っています。」
(『電撃G's Magazine』2016年10月号 Special Interview より)

 あの合宿のあと、高槻さんは自分の至らなさを痛感し、一層の努力をするようになったといいます。トレーニングを継続し、減量とスタミナアップに成功しているとのこと。

 ブルーレイ3巻付録の公野櫻子による『ラブライブ!サンシャイン!! School Idol Diary』善子・花丸・ルビィ編は、一年生のつながりを公野先生ならではの細やかな筆致でみごとに描いて出色なのですが、とくに、保育園のお泊り会で夜の闇に怯えた花丸が、ルビィと手をつなぐことで自身の勇気を発見するくだりは、アニメにおける花丸とルビィ、そして現実における高槻さんと花丸とのつながりを思わせるようで、わたしは読んでいて涙ぐんでしまいました*5
 花丸も高槻さんも、かつては皆と同じようには走れなかった。けれどいまのふたりならきっと、心のなかで大切な人の手を握って、力強く走ることができるに違いありません。

 

 

 

 

 

 

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

ラブライブ!サンシャイン!! FIRST FAN BOOK

 

 

*1:そんなことないよ、ここで話題になってたよ、という人はぜひ教えてください。

*2:少なくとも、公になっている限りでは。とうぜん、ファンには見えないところで、この出来事をきっかけにAqours九人に波及するような何かが生じていた可能性は十分にありえます。

*3:ラブライブ!』二期9話のそれが現実のエピソードとは関係なく製作されていたらしいのに対し、今回はそのあたりが不明瞭である、ということも大きいかもしれませんが。/二期9話の製作については、このようなコメントが公式の誰かから行われていたように記憶しているのですが、わたしの勘違いかもしれません。こちらも詳細ご存知の方がいたらぜひぜひ教えてください。

*4:もともとそういう気配はありましたが、彼女の「ずら」はほとんどもう音ノ木坂の先輩たちの「にこ」あるいは「にゃー」と同じような、萌え記号としての変わった語尾、という感じのものになっています。さらに、地区予選に訪れた名古屋では「だぎゃー!」と声をあげてはしゃいでいる。これらは明らかに、自分の方言的口癖を客観視したうえで彼女自身が意図的に行っているとみていいでしょう。
出生地の言葉や習慣を笑いに転化する行為はかなりリスキーであり、方言をかように笑いや萌えのために使っていいのか、観る側としては少々困惑しないではなかったのですが、名古屋弁を扱ったことにわたしは少し安心しました。東北弁も名古屋弁も花丸のなかでは等しく「楽しい言葉」であり、正しい標準語とおかしな方言、といったような対立構造や上下の順序付けがなされるものではないことが明らかにされたからです。

*5:ところでアニメ版の描写に従うなら、ルビィと花丸が同じ保育園であるとは考えにくいので、このエピソードはアニメ版のふたりは体験していない、と考えざるを得ないようです。しかし、このエピソードは読むものにアニメ4話のことを強く思い出させます。確かにアニメ版のふたりは保育園で手をつなぐことはなかった。けれども、彼女たちは高校生になって、スクールアイドルという未知の世界に足を踏み出すときに、たしかに手をつないでお互いの勇気の糧となっていた。そこが同じならば全然問題ないじゃないか。わたしはそう思います。

「嘘をつく人」黒澤ダイヤのこと/『ラブライブ!サンシャイン!!』とAqoursを考える・その1

ラブライブ!

――ダイヤも浜辺に"Aqours"の文字を書いていたことを考えると、もう一度スクールアイドルをやりたいという思いがずっとあったのでは?
小宮「どうなんでしょう。彼女があの文字を書いた本当の思いは、皆さんのご想像にお任せします(笑)」

(『声優アニメディア』2016年11月号Cover Special Aqours 三年生Interview)

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』のアニメ版において、それまでのキャラクター設定ともっともかけはなれた設定を課されたのは誰か。わたしは黒澤ダイヤだと思います。
 旧家のお嬢様で、真面目で硬い人。スクールアイドルには興味なんてなくて、千歌からの誘いも突っぱねていた。G's Magazine版のダイヤはそういう人でした*1
 アニメでは、第1話冒頭でこそG's版そのままに千歌のスクールアイドル部設立の申請を断ってみせるものの、2話以降、実は熱心なスクールアイドルファンであり、自身もかつてはスクールアイドルであったこと、また千歌たちの活動をときに厳しく、ときに陰からフォローしていることが描かれていきます。
 アニメ本放送を見終わり、アニメ版ダイヤに慣れた今もう一度G's版に戻ると、改めてその違いに驚かされます。現時点での最新号である2016年11月号・Q&Aコーナーでも、「ルビィとどんな話をするか」という読者からの質問に対し、「あの子の好きなアイドル話はよく知らないの」と答えている。G's版では、スクールアイドルについては興味がない、という設定は固く守っているように見えます。

 

 この違いをどう受け止めればよいのか。ともすれば、アニメ版とG's版のあいだには越えようのない壁が存在して、断絶しているようにも思えてきてしまいます。でもそこで諦めてしまっては、寂しい。

 

 たとえば、「G's版はアニメ版より過去のダイヤを描いている」という考え方はどうでしょうか?
 G's版でも、徐々にスクールアイドル活動に魅了されつつあるダイヤの姿が描かれています。その延長線上に、スクールアイドルにドハマリしたアニメ版の状態を想像することは、そう難しくない。
 G's版ダイヤはすでにAqoursに加入しているのであって、その先の延長線上に、Aqours加入前のアニメ版ダイヤ像を直接繋げることには物語上大いに無理があります。二人のダイヤをきれいに統合することは難しい。なので、それぞれのダイヤを、別の人格として認識しつつも、「アニメ版のダイヤも、スクールアイドルにはまる前はG's版みたいな雰囲気だったのかな」「G's版のダイヤは、スクールアイドルやAqoursの仲間たちと出会ったことで、アニメ版のくだけた雰囲気を獲得していくのかも」と、それぞれのダイヤの過去あるいは未来に、もういっぽうのダイヤを仮に置いて想像をふくらませてみる。

 

 G's版のダイヤのなかでわたしが一番好きなのは、砂浜で歌う彼女の独白を描く点描です*2。スクールアイドルに興味なんてない。生徒会の仕事も、それなりにこなしているだけ。名家の娘としての日常を忙しく過ごす、かたいお嬢様であったダイヤでしたが、Aqoursの一員として歌を歌ううちに、自分のなかの新たな感情を見つけます。夕陽のなか、感情をこめて歌うダイヤの姿を瑞々しく描くイラスト、そして読者に向けて声を潜めて、でも畳み掛けるように熱く気持ちを訴える文章。それらがあいまって、そのページを眺めると、いつも強い感動が呼び起されます。
 夕陽のやわらかな光のなかで、心を開いて歌うG's版のダイヤのこの先に、スクールアイドルに心をときめかせるアニメ版のダイヤの姿を思い浮かべれば、二者はそうかけ離れたものではないと思えます。


 各メディアにおけるキャラクターの違いに動揺するラブライバーの姿は、いつでもどこでも目にすることができます。
 しかしいちばん戸惑っているのは、Aqoursのキャストたちでしょう。なにせ、それらの物語や設定を足がかりに、演技を組み立てなければならないのですから。
 そしておそらく、ダイヤのことに関してもっとも悩んできたに違いない人といえば、ダイヤを演じる小宮有紗さんです。
 そんな彼女が、つい先日、こんなことを言っていました。Webラジオ『ラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院RADIO!!!』*3でのひとこまです。

(三年生の各キャラクターが嫌いな食べ物を克服するにはどうすればいいか?というお便り*4に対して)

小宮有紗(以下、こ):(嫌いな食べ物が)「ハンバーグ、グラタン」のダイヤは、これはね、意地っ張りで嫌いって言ってるだけで本当は好きなんじゃないかと思うんだけど
鈴木愛奈(以下、あ):かわいいんだけど!
諏訪ななか(以下、す):ハンバーグ・グラタンを嫌いだって言ってる人あんまりいないよ
こ:いや、これ、嫌いじゃないでしょ。ほんとは好きでしょ。ほんとは好きだけど……
す:ルビィに、おねえちゃん感を出すために
こ:「わたしはみなさんとは違いますのよ」みたいな
す:「ハンバーグとグラタンなんか食べませんのよ」
こ:「そんなおこちゃまな食べ物は食べませんわ」とか
あ:かわいいー!
こ:……とか言ってるだけでほんとは好きで、よだれ垂らして見てる
あ:かわいいかわいいかわいいかわいい!何なん!
(中略)
す:だから、レストランとか行ったら、ルビィがハンバーグやグラタン食べてるのを、指をくわえて見ている
こ:横目で「本当はわたくしも食べたいのに…」とかなってる
あ:和食、隣で、ダイヤ様は食べる、みたいな
こ:鮭定食
あ:あははは

(『ラブライブ!サンシャイン!! Aqours浦の星女学院RADIO!!!』2016年10月19日配信回)

 

 毎度毎度この手の話題になると、リスナーのおたくを代弁するように「かわいい!」しか言わなくなる鈴木愛奈さん、いいやつだよなあ……ということはさておき。
 ここで小宮さんが指摘しているのは、たとえプロフィール情報という作品の基礎にあたるものであっても、そこにはダイヤによる嘘が含まれているかもしれない、ということです。

 

 なかなか過激な考え方です。
 表に出た公式の情報を「それは嘘ではないか」と言い始めたらきりがありません。そのキャラクターであることを確かに維持するものがなくなってしまう。けれども、そのキャラクターがもともと「嘘をつくかもしれない」キャラとしてあるのならば、そしてその嘘がキャラがついてもおかしくない嘘ならば、そのような読解はアリでしょう。

 小宮さんは、自身がとらえたダイヤ像と、「ハンバーグとグラタンが嫌い」という公式設定上のダイヤ像が一致しないとき、ただ「嫌いなもの」設定を無視するのではなく、「ダイヤは本当はこれらが好きなんじゃないのか? じゃあなぜそんな設定になっているのか?」と、そのふたつの像を結び合わせる方向へと考えをめぐらせた。その結果、もっとも自分のダイヤ像と公式設定上のダイヤをうまく結びつけるのは、「ダイヤが嘘をついている」という仮定だったわけです。公式設定も、自分の解釈も、どちらもないがしろにしないすばらしい解釈だと思う。


 余談ですが、このような発想ができるのは、小宮さんがもとからの声優ではなく、実写畑の出身だからということもあるのでは、とちょっぴり思います。
 アニメや漫画、ゲームといった二次元のコンテンツは、ゼロから絵を作らなければ成立しません。それゆえに、絵がすべてである/作品の表面に現れている情報がすべてである、というふうにとらえてしまいがちです。
 実写作品は、そこに存在するものをそのまま写し取る、ということをします。たとえば背景の木々の葉の揺れ方、俳優の服の上の塵、そうしたものをすべて統御することは難しい*5。俳優は自分の演技プランに従って演技しますが、人間の身体がすべて脳で思い描く通りに動くとは限りません。大なり小なり、実写作品には作り手の想定外のことが映像に映ってしまいます。
 だから、作り手がAという意味をもたせようとした映像であっても、A'やBという意味になってしまうことがある。そこを逆手に取って、Bという意味に取れる映像に、Aという意味を隠すということも可能です。
 そのように、映像そのもの、表面にある情報そのものがすべてではない、という考え方があってこそ、G's版とアニメ版の設定面での違いについて、あっさりと前提を覆せてしまうのではないか。


 またそもそも、『ラブライブ!』シリーズはもともとこうした読解を可能にする作品だとわたしは思っています。
 G'sマガジン誌上の『ラブライブ!サンシャイン!!』の文章はつねに、Aqoursたち自身が綴った言葉という体裁をとっています。それは彼女たちが、世間の目に触れることを知った上で発した言葉です。部活内の交換日誌という体裁でありつつ、他の部員にも明かさない秘密*6が書かれることも多い『School Idol Diary』シリーズに慣れてくると忘れがちですが、基本的にはG's Magazineの誌面では彼女たちはスクールアイドルとして、ファンに向けて言葉を選んでいる。
 すなわち、その言葉が伝えるものは、「ファンに見せたい自分」に留まります。彼女たちは物語理論における「信頼できない語り手」なのだといってもよいかもしれません。
 とくにダイヤの場合、名家の長女として、また生徒会長として、守りたいパブリックイメージが強固にあるはずです。そうした心情から、食べ物の好き嫌いにおいてすら、真実を明かさないでいるということは大いにありえる。


 話を最初に戻します。小宮さんのアイディアをもとに、G's版ダイヤの他の発言にもまた嘘が含まれる、と考えると、スクールアイドルについてのG's版とアニメ版の違いも、見え方がからりと変わります。
 もしG's版ダイヤもまたスクールアイドルオタクだとすれば、自身がオタクであることを誌面で素直に明かすでしょうか。しかも、アニメ版に沿えば、彼女はかつて一度アイドル活動を行いながらも、友情のために、スクールアイドルを禁忌のようにして足を洗った過去があります。簡単に「じつはスクールアイドルが大好きでしたー」と言えるほど、彼女と彼女を取り巻く状況は気楽ではない。ルビィや、同級生たちへの見栄もあるでしょう。
 スクールアイドルに興味のないG's版ダイヤと、スクールアイドルを愛してやまない、けれど素直にそれを明らかにはしないアニメ版ダイヤは、それが彼女の嘘によってわかたれたコインの裏表である、と考えれば、二つの像はひとつに繋がります。そしてそのようにひとつの像として複数のダイヤを見たとき、それぞれの物語や言葉から受け取れる感動は何倍にも豊かになり、たくさんの意味をもつようになる。


 アニメ4話では、中学生時代のダイヤがμ'sの絢瀬絵里にあこがれていることが描かれています。

(ルビィとダイヤ、μ'sを取り上げた雑誌を眺めながら)
「ルビィは花陽ちゃんかなー」
「わたくしは断然エリーチカ! 生徒会長でスクールアイドル。クールですわあ」

 恐らく彼女は、絢瀬絵里のような、有能で冷静な生徒会長になりたいと願っているはずです。それが成功しているときのようすが、G's版のダイヤなのではないか。
 いや、彼女はなにしろ名家の長女として育った生まれつきのお嬢様です。そのように、クールに、有能な才女として振る舞うことのほうがむしろ生来の生き方に近いのかもしれません。スクールアイドルおたくとして感情がダダ漏れしているときや、スクールアイドルとしてかわいく華やかにふるまっているときのほうが、彼女にとっては虚実の虚のほうなのかもしれません。
 なんにせよ、アニメの4話において彼女はまだ、自分の本心を明らかにしません。
 4話は、ダイヤの妹・ルビィが、ダイヤに対してついに、スクールアイドルになりたいという自分の本心を打ち明けるエピソードです。そのぶん余計に、本心を偽り続けるダイヤの姿はより痛ましく、愛すべきものに思えてしまいます。


 ダイヤは嘘をついているかもしれない。
 この仮定について考えていると、G's版とアニメ版との違い、彼女の「嘘」のことにも増して、どんな違いや嘘があったとしても変わらない、彼女の中心にあるものの尊さが強く感じられるようになってきます。
 アニメ版のダイヤが、果南・鞠莉とのスクールアイドル活動ののち、二年間の長きにわたって自分に課してきたのは、自分のスクールアイドルへの思いを封印し、クールなお嬢様として振る舞うことでした。
 海外で一人生きた鞠莉、友達との繋がりを切って地元/実家で日常を繰り返す果南。彼女たち二人も辛かったと思うけれども、自分の本心を隠し続けたダイヤの二年間もまた、辛く切ない日々だったろうと思う。
 だからアニメ版の後半、Aqoursの面々によってその本当の気持ちを自由に表せる場に迎えられた彼女の姿が、わたしは心底愛おしい。
 そして、G's版でも、そのようにAqoursのなかで自分の心を解き放つ彼女の姿に、わたしはメディアの違いを超えて同じ感動をおぼえるのです。

「これまで、私は一度だって、歌を歌ってみたいなんて思ったことはないし、もちろん、スクールアイドルになんて――千歌ちゃんからどれほど誘われても、絶対にそんなことありえないって思ってかたくなに拒絶し続けていたのに。
今、なぜか――。感じるの。誰かに何かを伝えたい。
今の私の気持ち――。
(中略)
私、そんな気持ちが私の中にもあったこと――知らなかったの。」

(『ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.31)

 

 

 

 

 

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声優アニメディア 2016年 11 月号 [雑誌]

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*1:CDドラマ版も真面目すぎて馬鹿に見える、という意味でG's版の延長にあると思います。

*2:ラブライブ!サンシャイン!!FIRST FAN BOOK』p.31

*3:http://www.onsen.ag/program/llss/

*4:なお投稿者は常連の「DIA様のロードローラー」さんによるもの。ラジオもG'sも、常連の人たちの取り上げられる率には毎度驚かされるんですけど、その裏には、読まれやすいタイミングに毎回毎回きちんと投稿していく勤勉さがあるのだと思います。尊敬します。

*5:まあ、デイヴィッド・フィンチャーのように、完全な統御をしようとしている作り手もいます。逆にアニメにおいても、複数の意味、相反する意味をひとつの映像に込める演出はいくらでもなされています。そういう傾向があるよね、という話です。/そういえば『ラブライブ!サンシャイン!!』3話では、沼津駅前にフィンチャー作品を模した映画ポスターが並んでいました。アニメの作り手はフィンチャーの作風に共感を寄せやすいのかもしれません。

*6:矢澤にこ』第4話「GO HOME!」など。にこ編は涙なしには読めない。

祝・松浦果南センター獲得、とAqoursの九人について考えて書くよという話

ラブライブ!

 松浦果南さん、サードシングル総選挙・センター獲得おめでとうございます!
 いやはやめでたい。
 自分が票を入れた人がトップ当選するなんて、これまでの人生で投票してきた選挙のなかで初の体験かもしれない。まったくもってめでたい、まったくもってうれしい。
 当選には様々な背景があると思います。Aqours界隈には有能なシンクタンクが存在するので、これから各種の分析がなされていくでしょう。
 個人的には、

 

1.アニメ版において、出番の多さ、印象の強さ、物語上の重要性などが常に上昇していた。下降すること(最初は目立ったが終盤は目立たない、など)がなかった
2.アニメ内で、感情的な見せ場・萌え的な見せ場・歌唱/ダンス的な見せ場、と各分野の見せ場がすべて揃っていた
3.渡辺曜に似ていた。優しい体育会系に男性オタクは弱い。
4.鞠莉という本命がいながらも、確固たるカップリングとしては成立していない(あくまで鞠莉は鞠莉が果南を追っかけているだけだから。果南にはAqoursの誰とでもくっつける余白があると思いますね…)。

といったあたりが当選の要因だったかなと思います。諏訪さんがかわいいから?そんなことは大前提ですよ!言うまでもないよ!

 

 でも色々言えるいっぽうで、「これだ」という人気の理由はいまいち見当たらない人だなあとも思います。

 まあ単純に「渡辺曜の次に見栄えのする水着グラビアがあったから」とかなのかもしれないですけど。

 

 そもそも松浦果南ってどういう人なのか。

 ぼくは彼女のことが大好きなんだけど、そのうえで、全貌がつかめていないという実感がある。
 具体的には、アニメ版における二年前の彼女が東京のイベントで踊れなかった理由にいまだ完全には得心がいっていないのですね。だから、8話のあの残酷なまでに頑なな果南の姿に心をかき乱された瞬間こそが個人的な松浦果南の最大瞬間風速のタイミングで、それ以降はちょっと距離をもって見ている感覚がある。
 果南ほどの人間でもすくんで踊れなくなってしまう。今のスクールアイドルのステージというのは、そんな恐ろしい場なのだ――ということが強く押し出されていたほうが、物語の内と外の双方でAqoursが背負うものの大きさをより強く訴えられるように思うのですが、9話の描かれ方だと、踊らなかった理由のほとんどは鞠莉のためだった、という印象になる。じゃあもしあの場で彼女たちが踊れていたらそれなりに活躍できていたのか?というとそれはちょっと違う気もするし。
 とはいえ果南は12話で、SaintSnowをかつての自分を見るようであり、かつ、彼女たちとは違うスタイルを望む。このへんに、彼女が初めての東京で踊れなかったことの余韻みたいなものが漂っているような感じもします。
 色々考えてみると、芯はしっかりしつつも、エピソードや設定のあいだの余白がたくさんあることが彼女の特徴のような気もしています。点と点をつなぐラインはどのようにでも引けるので、各人が愛したいやりかたで愛せる、というか。

 まだぜんぜん彼女については考えがまとまっていないので、いずれはきちんと書きたいと思っています。

 

 なんにせよ松浦果南がセンターという結果には諸手を挙げて大喜びしているわけですけど、その他の順位、そして同時発表の浦ラジパーソナリティ総選挙中間発表の結果などには言いたいことも多々あります。
 とくにルビィ/降幡愛の不遇っぷりには声を大にして文句を言いたい……ってんならまず自分が投票しろよって話なんですが、いや、ふりりん、ぜったい浦ラジパーソナリティになったらいいと思うんだよ!あの時々突発的にやってるsakusakuみたいなニコ生、すげー雰囲気がいいんだよ!あれを毎週聞きたいよわたしは!降幡・小宮・諏訪の落ち着いている系三人による放送がいいなあ。浦ラジが駄目なら他メディアで、深夜放送的にやってくんないかな…。


 さてさて、アニメの本放送が終わったとはいえ、かように『ラブライブ!サンシャイン!!』は様々な動きをみせてくれています。
 選挙にラジオにニコ生にグッズ発売にリスアニTVに、そして沼津・内浦の公式イベントや地元商店の様々な自発的取り組みなど、ものぐさなわたしには到底すべてを追うことはできず、ただただ呆然としてしまうのですが、そのような流れに身を任せていては見えるものも見えなくなってしまう。こういうときこそ意識を集中させて『ラブライブ!サンシャイン!!』というものに向き合っていかねばならぬ……などと考えている今日このごろです。
 で、じゃあ何について考えるべきか、といえば、Aqoursの九人でしょう。

 

 というわけで、しばらく、Aqoursの九人それぞれに焦点をあわせて、各人の魅力をわたしになりに考えていく記事を書いていきたいと思います。全9本をファーストライブまでに書きたい。初回はダイヤ様の予定です。近日更新の予定です。よしなに。

「向こう側」へ行く/新海誠監督の話を聞いて『何者』を観たこと

映画

 今日は『言の葉の庭』を観て、新海誠の話を聞き、そして『何者』を観ました。これってけっこうすげーいい体験だったのでは?と思ったので、簡単に記事を書きます*1

 

 今日・10月23日に『言の葉の庭』の上映と新海誠監督のトークショーが行われたのは、中央大学でのこと。同大の卒業生向けの「ホームカミングデー」というイベントの一貫でした。卒業生が親交を温めて、人脈を拡げたり、家族サービスの場にしたり、大学としては卒業生の子供や知り合いに中大を知ってもらって将来の学生増につなげよう、というイベントです。著名な卒業生の講演会などもいくつかあって、新海誠監督も同大の卒業生として招かれていました。なお、イベント自体は『君の名は。』公開以前から発表されていたので、今年新海監督に目をつけた企画者は大金星といったところではないでしょうか。
 で、基本は卒業生向けなものの、一般客も自由に入場可能でしたので、友人と一緒に出かけてきました。

 

 開場の30分ほどまえに現地に着いたのですが、ホールの前には長蛇の列ができていました。観客の5割くらいが現役の学生で、1割くらいが新海誠ファン、あとの4割が卒業生、といった感じだったでしょうか。
 イベントの第一部は、新海監督の前作『言の葉の庭』の上映会。ぼくは初見でした。公開当時のタイムラインで、監督ファンだけでなく、アニメと実写映画を両方たくさん観ているタイプの人たちから好評を得ていた印象があったのですが、それも納得のよい映画でした。まず新宿の街、自然の描写がすばらしい。終盤の大雨のシーンには息をのみました。他の映画でも感じられるナイーブな饒舌さも、クライマックスの叫びまで連続していてひとつの表現として活かされているし、その言葉を発する入野自由花澤香菜の声と演技がすばらしいからどうしたって気持ちいい。ぼくが嫌悪する『秒速5センチメートル』の卑怯さ*2とも一線を画していて、なるほどこれがあってこそ『君の名は。』だなあ、という感想を抱きました。
 花澤香菜演じる27歳の女教師は、年齢的にも精神的も、今まで観た新海誠作品のなかでいちばん共感できる人物だったかもしれません。べつにあんな辛い目にあったわけじゃないけど、昼間っから酒を飲みたくなる感覚はすごくすごくわかる。

 

 続く第二部では、新海誠監督と、同じく中大卒の川田十夢さんが登壇し、約一時間ほどのトークショーを行いました。
 川田十夢さんは「AR三兄弟」の長男。個人的には、セカイカメラなんかが話題になっていたころ、ネットの記事でよくお名前を拝見した記憶があります。お二人は川田さんがパーソナリティをつとめるラジオ番組に新海監督が出演したことをきっかけに知り合ったとのこと。心底新海誠作品が好きであり、かつ、なぜ新海誠作品はよいのか?ということをよくよく考えフレッシュに言語化できる、更に、自分自身もとてもおもしろい人、というトークショーの相手役としては大正解な方でした。

 トークショーの話題は多岐に渡り、最後の質疑応答まで含めて大変興味深く、また心に残るものでした。後日、大学のサイトで配信される予定もあるそうなので、新海監督ファンのかたはぜひ目にされるとよいと思います。

 

 母校でのトークショーですから、大学在学中を中心に若い頃の話題が多かったのですが、印象的だったのは新海監督が子供のころは作り手になるとは考えたことも望んだこともなかった、という話です。大学になっても明確にやりたいことはなく、アルバイトに熱心だったそうです。しかし、常に何か焦っていた。確固たるやりたいことがあるわけではなく、ただ、きっと何かが自分にはあるんだ、という気持ちがあったとのこと。
 川田さんがこれに対して、若い人がこれを聞いたら希望を持てると思うんです、だってあの新海誠ですら大学生のときには何か作っていたわけじゃなかったんだから、と返すと、監督いわく、中高生などの若いファンから、アニメを作りたい、といった悩みや質問の手紙をもらうことが多いけれど、みんななんてシリアスなんだ、と思う。自分がアニメを仕事にしようと思った、向いているかもしれないと思ったのは『秒速5センチメートル』をつくった三十代なかばのころです、と*3

 

 そういう話の途中で出たのが、映画『何者』の話題でした。監督はつい最近同作をご覧になったそうで、そうした自分の学生時代の焦りの気持ちを思い出しつつ、SNSでそうした気持ちや人間関係が見えるようになってしまった現代の辛さを感じた、と仰っていました*4

 

 トークショーのあと、近所で『何者』がちょうどすぐ上映されることを確認して、ぼくは映画館へ向かいました。劇場にはぼくと同じく新海監督のトークショーからそのまま流れてきたと思しき青年もいた*5

 

 『何者』はいい映画でした。
 ぼく自身は大学を出てから十年以上経っていますが、仕事の関係で学生と接する機会が多少あるので、この映画が描き出す就職活動にまつわる息詰まる感覚はとてもリアルだろうと推察できます*6
 その息詰まる状況で、登場人物たちは、自分がどうありたいのか、どうあるべきなのか、を見つけようと右往左往します。
 映画は彼らの姿をときにおかしく、ときにまがまがしく描きながらも、ひとつずつ彼らをとらえる枷のようなものを解き放っていきます。
 映画の最後で描かれるのは、ある人物が、自分自身の物語を背負いはじめる瞬間です。要約と嘘が自分たちの武器だと言っていた人間が、短い言葉では語りきれない自分自身の物語を語り、その物語を背負うことを恥じないと決める瞬間。
 けっきょくそれはただ背負い始めることを決めた瞬間に過ぎません。その物語がどのような物語になるのか、その物語の中心にいる自分が何者になるのかはまったくわからない。
 けれどその、自分自身の物語を背負うことの怖さ、辛さ、その選択の瞬間の尊さを描くことに、この映画は成功しています。
 そしてそれは、『君の名は。』が、その題名どおりの問いかけが行われる瞬間をもって終わることと通底しているように、ぼくには思えました。

 

 トークショーの最後に行われた質疑応答で、こんな受け答えがありました。
 「自分は『君の名は。』を観て自分の心臓をつかまれたように感じました。ご自分にとってのそんな作品を教えてください」という学生からの質問に対して、川田さんが、やはり自分にとっては新海誠の映画がそういう作品なんだ、と前置きしてこう言います。新海監督の映画には、「向こう側」へ行く物語が多い。その、「向こう側」へ行くきっかけをどうやってつかんだんだっけ?と思いながら新海作品を見返す。
 そして新海監督いわく、就職も「向こう側」だしね。物語は、どうやってみんなが「向こう側」へ行っているのかを教えてくれるんです。

 

 『何者』もまた、「向こう側」への行き方を教えてくれる映画だと思います。かつて「向こう側」へ渡った人も、これから「向こう側」へ渡る(渡らなきゃいけない)人にも、この映画たちは色々なことを示してくれる。

 こんなわけで、『言の葉の庭』と『何者』とを、立て続けに観て、映画のそんな部分について考えることのできた今日は、なかなかに楽しい一日でした。『君の名は。』とまではいかずとも、『何者』もまた多くの人に届くとよいなあ、と強く強く思います。

*1:文中、トークショーの内容に多々触れていますが、録音できず正確な引用ではありません。誤りを見つけたかたは教えてくれたらうれしい。

*2:決して再会は不可能ではないのに勝手に諦めて自閉し、甘い記憶に浸ってよしとする主人公の判断と、その怠慢をまるで運命が強いたかのように錯覚させる山崎まさよし『One More Time』の打ち出す欺瞞。

*3:そしてこれに続く、自身と宮﨑駿のキャリア・才能を比較分析し自分のできることを探っていったくだりもまたたいへん興味深い話でした。たいへんだったんだなあ。

*4:ただし『何者』は決してこうした息苦しさが現代の情報化社会固有のものではなく、人間社会に普遍のものだということにも触れており、非常にフェアです。

*5:入場者が渡される、大学のパンフレットが入った袋を持っていたのでわかった。

*6:ただしこれは関東圏在住の感覚で、地方に住む学生たちの就職活動にはまたかなり異なる空気感があるのだろうと思います。唯一、そうした地方の空気感を有村架純が少しだけ垣間見せるのですが、あの話、もうちょっと描かれてもよかったなあ。