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こづかい三万円の日々

30代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

Aqoursの「自由」について/『ラブライブ!サンシャイン!!』12話までのこと

ラブライブ!

 現在のアイドルがどれほどに「自由」なのか。アイドルを愛好する人間ならば、一度はそのようなことについて考えを巡らせたことがあるのではないでしょうか。
 AKB48によってあらためてクローズアップされた苛烈な競争制度を、アイドルが飛び込まざるをえない「不自由さ」としてイメージする人は多いと思います。しかしその不自由さはあえてアイドルによって自主的に選び取られているのであり、その競争のなかで自分の思い通りに戦うことで「自由」になるアイドルもいるかもしれません。
 いっぽうで、インターネット、そしてSNSや動画配信サイトの発達はアイドルに「自由」な発言・行動の場を与えたようにみえますが、ファンや関係者によってつねに見られていることで新たな「不自由」さを産んでいるとも言えるでしょう。
 なんにせよ、どちらがよい、悪い、と断言することは極めてむずかしい。究極的には、アイドル個人が、そのとき・その場所で楽しく感じるかどうかに思いを馳せつづけるしか、このテーマへの対処方法は存在しない、とわたしは思います。

 

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 『ラブライブ!』が作り出した「スクールアイドル」という概念は、アクロバティックな方法でこのテーマへの回答を弾き出してきました。フィクションのなかで「自由」なスクールアイドルたちを描き出すことで、実際には確定できないアイドルの「自由」を保証してみせたのです。


 『ラブライブ!』アニメ二期、そして 『ラブライブ! School Idol Movie』の劇中で、μ'sは三年生卒業と同時の解散を自ら選択します。学院理事長やファンたちからの穏やかな反対・嘆きの声は描かれつつも、スクールアイドルとしてのμ'sの「自由」はそのまま世の中に受け入れられる。
 アニメのなかでμ'sが解散を選び取り、それが尊重されている以上、現実のμ'sもまた同様の行動をしてもよい――アニメ内のμ'sの解散は、そのような価値観を現実世界のファンや関係者たちに刷り込んだはずです。その刷り込みあればこそ、現実のμ'sもまた16年4月のラストライブをもっていったんの活動終了を無事に迎えることができたのではないでしょうか。二次元のキャラクターのダンスシーンを、三次元の声優がライブ上で再現してきたように、μ'sは二次元で獲得した解散の自由を、三次元でも行使したのでした。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』12話において、Aqoursもまた「自由」を手に入れます。ずっとμ's、そして高坂穂乃果を目指してきた千歌が、ついに自分たちが歩むべき道を、μ'sの姿の外にみいだすのです。千歌はこのように言います。

 

 μ'sみたいに輝くってことは、μ'sの背中を追いかけることじゃない。

自由に走るってことなんじゃないかな!

全身全霊!

なんにもとらわれずに!

自分たちの気持ちにしたがって

 

 『サンシャイン』はそのシリーズを通して、μ'sを繰り返し取り上げてきました。Aqoursの憧れの対象として、あるいはAqoursの背中を押してくれる存在として。その言及の頻繁さは、シリーズ作品としての先輩格へのリスペクトを感じさせてくれる、ファンとしては嬉しいものでありつつ、一方でμ'sがAqoursに投げかけるものの重さを感じさせるものでもありました。

 そんなμ'sから、ついにAqoursは自由になる。しかも、μ'sの美点を理解することによって。
 フィクションのなかでも、現実でも、今後Aqoursがどんなにμ'sと異なることをしたとしても、そこに安易な批判や拒絶を加えることは難しくなるはずです。なぜなら、Aqoursの自由さは、μ'sの美点に立脚しているのですから。

 

 ただし、この「自由」と、μ'sの獲得した「自由」とは大きく異なる、ということもわたしは忘れられません。
 μ'sは、スクールアイドルであるがゆえに、(スクールアイドルより大きな意味での)「アイドル」という存在でなくなること(=解散)を選び取る自由を手に入れました。
 12話におけるAqoursは、プロデューサーや世間からの指示に従うのではなく、自分たち自身で活動方針を決められる、というスクールアイドルの特徴をもちいてμ'sからの脱却を可能にしたわけですが、それはAqoursとしての存在がようやく始まったということでもあります。

 

なんか、これでやっとひとつにまとまれそうな気がするね

 

 果南がこのように言うとおり、これは始まりに過ぎない。むしろAqoursは、これからアイドルとしての苛烈な活動に身を投じていかなければならない。μ'sから自由になったということは、同時に、μ'sの加護を失ったということでもあるのです。

 

 そのようなことを考えながら、わたしはこの、『ラブライブ!サンシャイン!!』13話が放映されるまでの七日間を過ごしてきました。
 自由であることは、不確かであるということでもある。
 このような不安に、μ'sの古参ファンは、そして数多のアイドルファンは耐えてきたのか。わたしは彼らを尊敬してしまう。

 こんな気持ちは、Aqoursたち「18人」の抱える気持ちに比べれば大したことはないはずです。
 そう頭ではわかっていますが、まあ、そのように動いてしまう気持ちというのは、どうしようもない。


 AqoursAqoursとして「自由」に活動していくとき、彼女たち――そしてファンであるわたし――の拠り所になりうるのは、なんでしょうか。
 その一つは、Aqours自身が通過してきた過去の積み重ねではないでしょうか。
 そのように考えてこの三ヶ月を振り返ったとき、わたしの目の前には、極めて丁寧に作られた12話のアニメーション作品が存在する。
 前回の記事でのべたように、言いたいことはたくさんある。あるけれども、たしかにAqoursの過去はそこに積み重なっている。

 先日、久しぶりにファーストシングル『君のこころは輝いてるかい』におさめられた、Aqours九人それぞれによるメッセージボイス「はじめましてのごあいさつ」を聴き直してみました。伊波さんの芯の確かさはこのころからみごとなものだなあ、とか、小林愛香さんはだいぶ甘々な雰囲気を作っていて微笑ましいな、とか、小宮有紗さんの演技の確かさはさすがだなあ、とか、今の声優さんたちの声と比べると感じ取れるものがたくさんあって、実に楽しかったです。
 きっとこれから何年か経ったら、今日、ひとまず完結するであろうアニメもまた、そのように振り返ることができるのでしょう。
 そんな日を、楽しい気持ちで迎えられるように、祈っていたいと思います。

渡辺さんはそれでいいんですか/『ラブライブ!サンシャイン!!』11話のこと

ラブライブ!

 『ラブライブ!サンシャイン!!』11話を観て一週間が経ちました。その間、スクフェス全力疾走しながらえんえん考え続けていた渡辺曜さんのことについて書きます。

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 11話は脚本も演出もとても力が入っているのがわかって、というかもう『ラブライブ!サンシャイン!!』は毎週のように最終回のような密度・熱気が感じられて、もう圧倒されるほかないのですけれども、それでもやっぱり正直に言わざるをえない。11話、なんか引っかかる。

 

 10話で、梨子にはAqoursよりも自分のことを優先してほしいと言った千歌。彼女の心はいま明らかに梨子のほうを向いています。その姿に戸惑う――あるいは戸惑う自分に戸惑う曜。11話は、彼女を中心に、ラブライブ地区予選に臨むAqoursが描かれました。

 

 鞠莉は、曜は嫉妬しているのだと言います。曜はそれを否定するけれど、鞠莉は自分の気持ちを正直に言うよう諭す。自ら言うとおり、正直になれなかったからこそ、彼女と果南・ダイヤは二年間すれ違い続けたのですから、その言葉には重みがあります。

 けれども曜は、「正直に言うって何を?」と思い悩む。千歌に、梨子と自分のどちらを取るかはっきり訊く? 正面から好きだと告白する? ……思い悩む彼女の妄想が次々とコミカルに描かれますが、そのいずれもが彼女にはしっくり来ません。
 そうこうしているうちに、今度は東京に行っている梨子からの電話がかかってきます。話しているうち千歌は、自分は千歌に必要とされていないのではないかという心情を、彼女にとってはもっとも千歌に必要とされているように思われる梨子に対して吐露します。いわば、恋敵に対して弱音を吐く。
 なぜ曜はそのように思うのか。
 曜は鞠莉に、要領がよいと見られがちな自分が、千歌にとっては一緒にスクールアイドルを続けたくないたぐいの人間なのではないか、という疑問を明かしています。やや飲み込みづらい話だと思うのですが、これは恐らく、梨子と比べてのことでしょう。ピアノの曲が作れないからと、東京から内浦まで引っ越してくるのですから、梨子はまったく要領がよくありません。けれども、そのように音楽と格闘している梨子だからこそ、千歌は彼女との出会いに運命を感じた。

 

 梨子に、千歌もまた曜のことを強く思っていることを聞かされた曜。彼女のなかで、何かが変わります。そこにちょうど千歌が現れて、ラブライブ地方予選では、梨子の代わりではなく、曜のために作りなおしたダンスを踊ろう、と呼びかける。そんな千歌に、昂ぶった曜は思い切り抱きつく。その訳を千歌に訊かれても彼女は答えません。
 やがてラブライブ予選でのステージと梨子のピアノコンクールの様子が交互に描かれるみごとなライブパートに移って、11話は終わります。

 

 さて、11話の最初と最後で、曜はどう変わったのでしょうか。なぜ曜は予選のステージで、あれほどまでに晴れ晴れとした顔でいられたのか?

 ライブパート直前に語られる梨子と曜の会話に拠るならば、曜は千歌が自分を含めた「仲間たち」と一緒にスクールアイドルをやりたがっているということを理解したことで変わった、ということになる。

梨子「私ね、わかった気がするの
あのとき、どうして千歌ちゃんがスクールアイドルをはじめようと思ったのか。スクールアイドルじゃなきゃ駄目だったのか」
曜「うん。千歌ちゃんにとって、輝くということは、自分一人じゃなくて、誰かと手を取り合い、みんなで一緒に輝くということなんだよね」
梨子「私や曜ちゃんや、普通のみんなが集まって、一人じゃとてもつくれない、大きな輝きをつくる。その輝きが、学校や、聴いている人に広がっていく。つながっていく」
曜「それが、千歌ちゃんがやりたかったこと。スクールアイドルのなかに見つけた、輝きなんだ」

 これは、1話でμ'sについて語る千歌の言葉ともきちんと符合しています。

「みんなわたしと同じようなどこにでもいる普通の高校生なのに、キラキラしてた。
それで思ったの。一生懸命練習して、みんなで心を一つにしてステージに立つと、こんなにもかっこよくて、感動できて、素敵になれるんだ、って」

「気づいたら全部の曲を聴いてた。毎日動画見て、歌を覚えて。そして思ったの。私も仲間と一緒にがんばってみたい。この人たちが目指したところを、私も目指したい。
私も、輝きたい、って!」

 

 自分が一番に、とか、ある特定の誰かと、とかではなく、「みんなで」あるいは「仲間と」輝くことこそが千歌の目指すスクールアイドルだ、というわけです。だから、千歌はセンターで組む梨子だけではなく、曜を含むAqours全員を必要としている。
 と同時に、梨子によれば、千歌は曜とスクールアイドルをやり遂げることも強く想ってくれている。
 これらのことを理解して、曜は自分のなかの不安を解消する。

 

 恐らくわたしがこの曜の変化を飲み込めないでいるのは、ここで曜が求められているのが、(少し強い表現になりますが)自分の否定だからです。
 曜以外の人々はみな、自分を解放することでAqoursの一員になってきました。スクールアイドルへの思いを解放したルビィ、彼女によって自分も気づいていなかった気持ちを解放される花丸*1。突飛なキャラを解放できる場としてAqoursに迎え入れられた善子、そしてそれぞれの感情を露わにすることで和解することができた三年生たち。

 程度の差はあれ、彼女たちはみな、自分のなかの気持ちを肯定されてAqoursに入ってきた。ですが、曜は違う。11話で起きたのは、曜の変化であって、彼女の千歌を求める気持ちが肯定されたわけではありません。いや、千歌は確かに曜を求めてはいるのですが、それはこれまでの話数でたびたび描かれてきた曜の千歌への視線に見合うほどのものではないように思える。
 視線ということで言うならば、曜の家を訪ねてきた晩、千歌は曜を正面から見ることができていません。それは涙を見られたくない曜のせいでもあるし、どこかとぼけた態度の千歌のせいでもある。視線の行き違ったままの二人の抱擁は、10話ラストで描かれた梨子と千歌の手を繋いでの愛の告白とは、到底並び得ない。

 

 11話ラストの『想いよひとつになれ』を聴いていてわたしは複雑な気持ちになりました。

何かをつかむことで/何かをあきらめない
想いよひとつになれ/どこにいても同じ明日を信じてる

 確かに梨子はピアニストとしての道とAqoursにおける繋がり、両方をつかみとっています。けれど曜は、「みんな」のなかの一人になることで、千歌にとっての特別な一人になることをあきらめてはいないか。そのように思えてならないのです。

 

 わたしはかねがね『ラブライブ!』シリーズをある種のドキュメンタリーだと思っているので、多少の物語の不備や、自分が飲み込みづらい部分があったとしても、「とはいえ現実にAqoursたちがそうやって生きているんだから、部外者のぼくが文句をつける筋合いはないな」というややトチ狂ったスタンスで静観することができます。だから今回も基本的にはそのように思っている。思ってはいるのですが……ぐぬぬ

 

 三年生の和解のドラマですでに示されているように、『ラブライブ!サンシャイン!!』においては、複数の話数をまたいで展開されるドラマや行動、繰り返しの表現が実に効果的に使われています。
 ですから、曜と千歌のあいだにおいても、今後、曜がさらになんらかの決定的な行動をすることで、真の決着がつくことを期待しています。
 これまでの話数でもっとも印象的な曜の行動といえば、千歌が苦境に陥ったときにあえて「辞めちゃう?」という声をかける、というものでしょう。最初は効果的だったその言葉も、東京でのイベント開催後には事態を変えることはできませんでした。そのとき千歌を助けたのは梨子です。
 ならば、もう一度彼女の口から、「辞めちゃう?」という言葉が放たれ、今度こそ千歌を変えることになる、そんな展開があってほしい。あるいは、これまでの曜なら「辞めちゃう?」と言っていたはずの状況で、それを言わないことで、千歌を変える、ということでもよさそうです。
 一度果南が否定した鞠莉の「ハグ」を、果南から鞠莉へ投げ返すことでかなまりの関係が再生されたように、ようちかにおける「辞めちゃう?」も彼女たちの関係を決定的に変えてくれるのではないか。

 

 かような期待をわずかに持ちつつ、残りの二話を思いっきり楽しみたいと思います。Aqours、いったいどうなるんだろうなあ。

浦の星女学院の三人の矢澤にこ/『ラブライブ!サンシャイン!!』6話までのこと

ラブライブ!

 『ラブライブ!サンシャイン!!』第6話を観た。

 

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 5話を観終わった段階で、どうも鞠莉は作為的にμ'sに近い環境にAqoursを置くことによって、第二のμ'sを内浦に生み出そうとしているのではないか、ってそれ『メタルギアソリッド2』じゃん!S3計画かよ!*1などと思っていたわけですが、いよいよそういう彼女の思惑が明らかになってきました。『ラブライブ!』シリーズ上もっとも腹に色々抱え込んでいるふうの鞠莉さん、とてもよい。
 でも、廃校のことがわかったとき、千歌が絶望なんぞ全くすることなくむしろ音ノ木坂学院と同じ境遇であることを喜んで、「廃校!キター!」とはしゃいでいて笑った。
 なんにせよ非常にメタフィクションな展開でおもしろい。視聴者にとって「廃校の危機」自体はあまりサプライズになっていないけれど、「廃校の危機」というμ'sと共通の視点から自分たちと内浦の町を振り返る機会が、シリーズ中盤になってから生じたのは非常によいタイミングだと思う。Aqoursが挑む試練が、シリーズの進展にあわせてどんどん大きくなってきているわけで。
 それでお次の7話はサブタイトルが『TOKYO』とくる。内浦を再発見した千歌たちが、今度は東京と内浦を比較することになるんだろう。


 今日の本題にうつります。

 Aqoursの9人には、μ'sの9人の様々な要素が分配されている。
 例えば、1stシングル『君の心は輝いてるかい?』で、大サビを歌うのは千歌と梨子だ。μ'sの場合、多くの楽曲の大サビを穂乃果が一人で担当していた。楽曲の中心となるメインボーカルの役が、二人に割り振られているわけだ。
 ともに強烈な「キャラ」を演じていること、そして第5話のサブタイトル『ヨハネ堕天』と『ラブライブ!』1期5話『にこ襲来』の相似からもわかる通り、矢澤にこの役割を色濃く継いでいるのは津島善子だろう。
 では、Aqoursの三年生とμ'sの三年生はどんな関係にあるのだろうか。Aqoursの三年にはにこを引き継ぐものはおらず、絢瀬絵里東條希の二人を三人で分けあっているだけなのか。
 恐らく、そうではない。Aqours三年の三人は、三人ともに、矢澤にこを引き継いでいるのではないか。
 第6話で示されたとおり、松浦果南・小原鞠莉・黒澤ダイヤの三人は、矢澤にこと同様、かつて一度はスクールアイドルを目指し、失敗した人間だ。彼女たちはみな矢澤にこなのだ。

 

 にこは、μ'sの誕生から遡ること二年、音ノ木坂学院アイドル研究部の仲間とともにスクールアイドルの道を歩もうとした。しかし彼女の理想が高すぎたことを主因に仲間が離れていき、一度はスクールアイドルとして表舞台に立つことを諦める*2

 一方、これはアニメ中の断片的表現からの推測ではあるが、果南たち浦の星女学院の三年生もまた、一年生のころにスクールアイドルの道を歩もうとしながら挫折している。
 にこも果南たちも、挫折から二年間、学校のなかでくすぶってきた人間だ。いずれもが、大きな挫折を経て再生する運命にある。『にこ襲来』で、μ'sに加わったにこの物語がユーモラスながらも非常に感動的であったように、果南たちがAqoursに加わるこれからの物語も非常に感動的なものになるだろう。
 更に、ここで見逃してはいけない、にこと果南たちとの間の決定的な違いがある。にこは仲間に去られて一人になったが、アイドル研究部の部員として、最後までスクールアイドルに関わることをやめなかった。それに対して果南たちは、三人が三人ともに、スクールアイドルの道を一度完全にはずれている。すなわち、にこの元を去っていった元部員と同じ側の人間でもあるのだ。

 

 かねがねわたしは、にこの元を去っていった元部員たちがその後どんな学校生活を送ったのか、ということが気になっていた。彼女たちは、どんな目でμ'sの活躍を見守っていたのだろうか。
 一度はにこの仲間だったのだから、スクールアイドルが好きだったはずだ。にこや、花陽や、千歌と同じように。それでもにこの理想についていけず、彼女を見捨ててしまった。
 三年になった彼女たちは、にこが穂乃果たちに出会い、学校内にとどまらない活躍を果たすさまを、目の前で見続けることになったはずだ。それを彼女たちは素直に受け入れられただろうか。そのとき彼女たちは、後悔と葛藤を抱えざるを得なかったのではないか。そんな彼女たちとにこは、再び顔をあわせて笑うことができただろうか。
 にことともに走りきれなかった――μ'sになりきれなかった、名も無き三年生たちの物語は、もちろん『ラブライブ!』本編中では描かれない。それは当然のことだが、しかし「μ'sになれない人間」という、視聴者のわたし自身に近い存在*3である彼女たちのことについて、わたしは時折考えを巡らさざるを得なかったのだった。

 

 浦の星の三年生はみな「矢澤にこ」であると同時に、この「矢澤にこを見捨てた同級生」でもある。
 これから『サンシャイン』本編では、彼女たちの過去がさらに詳しく描かれていくのだろう。それは、あの名も無き音ノ木坂の人々の語られざる物語の変奏であるのかもしれない。


 にこの同級生がμ'sになれなかったように、また果南たちがμ'sになれなかったように、誰もがμ'sになれるわけではない。
 6話のラストシーンで示されたように、愚直なまでにμ'sの後を追ってきた千歌は気づき始めている。μ'sと自分は違うのだと。
 結局、果南たちがなぜμ'sになれなかったのか(にこの同級生たちがなぜμ'sになれなかったのか)といえば、それはただ単に彼女たちがμ'sとは異なる人間だったからだ。極めて単純かつ残酷なことに、人はどんなに憧れても理想の他人とまったく同じ人間にはなれない。だから自分たちのことを(秋葉原ではない、内浦を)見つめなおすしか道はない。6話で、Aqoursと内浦の双方をPRするためのPVを作成した千歌は、そのことに気づいている。
 千歌は、果南たちの心をどのようにときほぐしていくのだろうか。その物語は、果南たち三年生だけではなく、かつてのにこの仲間たち、そしてμ'sを目指しながらもμ'sには決してなれないAqours自身、その三つの層を貫いて解放をもたらす物語*4になりうるように、わたしには思える。そしてそれは間違いなく、Aqoursにしか語れない物語だ。

*1:プレステ2用アクションゲーム『メタルギアソリッド2:サンズ・オブ・リバティ』は、世界的大ヒット作『メタルギアソリッド』の続編として作られた。一作目と同様に伝説の兵士・スネークの物語であるとみられていたが、発売直前に新人兵士・雷電の物語であることが明らかにされ、ファンの間に物議を醸した。雷電はニューヨークで起きたテロ事件の現場へと潜入するミッションに挑むが、徐々にその事件がかつてスネークが解決したシャドーモセス島事件を模倣していることが明らかにされていく。小島秀夫らしいメタフィクショナルな語り口を織り込みながら、運命を乗り越える人間の力強さを描いた傑作で、個人的にはシリーズ中でいちばん好き。ていうか『ラブライブ!』の記事なのになんでこんなに脚注でメタルギアの話してんの?と思わないではないけど、「作り手が制御できないくらいに大ヒットしてしまった一作目の続編をどうやって作るか」という問題をメタフィクションな語りで突破するという意味で、両作は強く共鳴しうると思うのですよね。

*2:ラブライブ!』アニメ一期5話、東條希の証言に拠る。

*3:などと劇中の人間と自分のことを引きつけて語るのって超きもいと思うんですけどこういう人間なのでご容赦ください。

*4:中心の一人だけではなく、色々な立場の人間が同時に解放される、あるいは自分を解放する。『ラブライブ!サンシャイン!!』はそういう物語なのだと思う。それは、絶対的な「善きこと」を語るのではなく、複数の価値観を共存させることを重視する昨今のハリウッドメジャー(というか、ディズニー)の傑作群とも重なることのように思う。6話で描かれる『夢で夜空を照らしたい』の情景が傑作『塔の上のラプンツェル』を強く連想させることも、その印象に拍車をかける。

わたしの物語の終わり、わたしたちの物語のはじまり/『ラブライブ!サンシャイン!!』4話のこと

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 『ラブライブ!サンシャイン!!』4話が素晴らしかった。以下、おおよそはその内容を辿っただけのものだけれども、今の印象を書き留めておく。

 

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 前回も書いた通り、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、前作『ラブライブ!』を強く意識している。劇中のスクールアイドルAqoursのメンバーたちが、『ラブライブ!』のμ'sを強く意識しているからだ。
 千歌をはじめとした『サンシャイン』の登場人物たちは、われわれ視聴者と同じようにμ'sの物語を知っており、その物語をなぞって生きようとする。μ'sはこんな練習をしていた、こんなふうにライブを経験した、といったふうに。
 そこには、『ラブライブ!』というコンテンツが成し遂げた成果や、それを作り上げてきたスタッフやファンへの敬意が込められているから、前作から追いかけてきたファンにとって非常に気持のよいものになっている。
 しかし同時に、そこには息苦しさがある。あらかじめ規定されたレールを走らざるを得ない不自由さ、つねに他者の目を気づかうことで生じる弱さがある。

 

 第4話は、浦の星学院一年の国木田花丸の語りによってはじまる。子供のころから本に親しみ、無限の物語を提供してくれる図書室こそ自分の居場所だった、と彼女は言う。彼女にとって、他者が描いた物語を読むこと、それこそが自分の物語なのだ。

 いっぽう、花丸と同学年の黒澤ルビィもまた、スクールアイドルという他者の物語に胸をときめかせている人間だった。二人は、読むものは違えど、同じ図書室で多くの時間を共有する。同じ、他者の物語こそ自分の物語だと思っている人間として。

 千歌たちAqoursのメンバーは、新たにスクールアイドル部の部室として使うことになった閉鎖された学院内の一室で見つかった本を返却するために図書室へ赴き、花丸とルビィに再会する*1
 千歌たちに勧誘され、紆余曲折ののち花丸とルビィはスクールアイドル部に体験入部することになる。
 ルビィはとうぜんスクールアイドルになりたいのだけれども、姉のダイヤが嫌っているから、という理由で躊躇している。ルビィの回想のなかで、ダイヤもかつてはスクールアイドルを、μ'sを愛してはばからなかったことが描かれる。ダイヤがμ'sのなかで一番好きだったのが絢瀬絵里であり、その生徒会長としての姿にも憧れていたことも触れられる。過去の3話で描かれていたダイヤの頑なな生徒会長としての振る舞いが、まさに絢瀬絵里の物語に沿ったものだったということが示される。おそらくはそれゆえに、絵里を目指しつつも途中で挫折した、自分のスクールアイドルとしての物語から忌避していることも。
 ダイヤは、絵里の物語に縛られている。そしてルビィは、ダイヤの物語に縛られている。

 

 体験入部の日々のなかで、花丸は自分の限界を悟る。そして、ルビィがダイヤの束縛を抜けて自分の進みたい道に進む後押しをしたうえで、皆の前を去る。そもそも彼女は自分の物語ではなく、ルビィの物語を進めるためにこそスクールアイドル部に参加したのだった。

これで丸の話はおしまい
もう夢は叶ったから
丸は本の世界に戻るの
大丈夫、一人でも

 花丸の主観によって語られてきた彼女の物語は、彼女の手によって終わりを迎える。
 しかし、ここで二つの物語が彼女の目の前に差し出される。

ルビィね、花丸ちゃんのこと見てた

 一つは、ルビィによる花丸の物語だ。

ルビィに気を使ってスクールアイドルをやってるんじゃないかって
ルビィのために無理してるんじゃないかって心配だったから
でも、練習のときも
屋上にいたときも
みんなで話してるときも
花丸ちゃん、嬉しそうだった

 他者によって語られた物語が、花丸が自ら語ってきた物語では描けなかった、新たな光景を花丸の前に描く。
 そして花丸を変えるもう一つの物語は、μ'sのメンバーである星空凛のものだ。

そこに映ってる凛ちゃんもね
自分はスクールアイドルに向いてないってずっと思ってたんだよ

 スクールアイドルに向いていないと思いながらも、μ'sの一員として輝いてみせた星空凛の物語が、花丸の背中を押す。


 花丸は、他者の物語によって縛られていたルビィを解放した。
 いっぽうルビィは、自分自身の物語によって縛られていた花丸を、他者の物語をもちいて解放するのだ。


 ここでついにはじまる彼女たちふたりの物語を、わたしはどう表現すればよいだろうか? それは彼女「だけ」の物語ではない。オリジナルな物語ではない。μ'sの物語なり、お互いの物語なり、他者の物語を糧にしてこそのものだからだ。だがそれでも、それは他者の物語ではない。それは確かに、彼女たちの物語だ*2

 

 花丸とルビィの物語を通じてわたしは新しい希望を抱く。
 いまだμ'sの物語を強く意識するAqoursの物語だけれども、いまやAqoursの物語はμ'sの物語「だけ」を模倣するものではなくなっている。μ'sの物語が、あの輝ける九人それぞれの物語が不可分に撚りあったものであったように、Aqoursの物語も、μ'sの物語、そしてAqours九人の物語を撚り込んで、彼女たちの物語になりつつあるではないか。

 そのような物語をどう形容すればよいか?
 答えはすでにある。「みんなで叶える物語」だ。

*1:このとき発見された本は、そしてホワイトボードにうっすらと残されていた詩は、誰が読み、誰が書いたものなのか? この謎はわたしの胸を大きくざわつかせる。

*2:なお、この最後の図書室のシーンで流れる音楽がわたしは好きだ。『ラブライブ!』のテーマを強く意識したメインテーマと異なり、『サンシャイン!!』固有の音が鳴っているように思える。自分の音楽についての記憶力の薄さは筋金入りだから、実はそんなことはないのかもしれないけれど。