こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

『落下の王国』


 世界中でおさめられた非現実的な映像は確かにすばらしいが、そこで活躍する物語の登場人物たちの挙動がいただけない。現代劇パートとあまり変わらない演出じゃあ、いまいちのれないじゃないか。
 もちろんそれは、語り部の男が実に情けない願望から物語を作っているということのあらわれではあるのだけれど……。だったら超絶的に美しい映像を作る必要はなかろう。ミシェル・ゴンドリーが監督して、ご近所マジックリアリズムなファンシーさで装飾すればいいことである。

 また、物語ることが人の心を救う(あるいは闇に引き込む)という映画なら、『ダスト』とか『ローズ・イン・タイドランド』とか、もっとすごいのがあるじゃない!といいたい。

ダスト [DVD]

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ローズ・イン・タイドランド [DVD]

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 とはいえ、登場人物たちのその後の人生を観客にそっとゆだねるラストなど、愛すべき小品としての味わいはじゅうぶん。邦題の素晴らしさに期待しすぎず、おだやかに観賞するのが正解らしい。

初音ミクのことを考え続ける

 ひさびさにニコニコ動画散策。世の中、神がたくさんいるねえ。

 VOCALOIDにあって人間にないものとは、とか言った舌の根も乾かないうちに、人によるカヴァーを聴いてじーんときている。uionaというインディーズのひとだそうで、ブログ*1によれば活発に曲を作られているご様子。CD探してみよう。

「輝度というワンパラメーターを変えるだけで質感は変わる。『クオリアは脳科学の難しい問題』などと言われていたが、人間が感じるリアリティは、たったワンパラメータで変わってしまう。Second Lifeの世界にもそのパラメーターさえ入れば、ものすごくリアルになるかもしれない。そういう世界を目の当たりにしたときに、僕らは何を考えるのだろうか」
「いまミクはユーザの都合のいいように『調教』されていると思うが、それを超えて『成長』していった時、わたしたちは、今までとは違った音楽を聴き、本当にミクへ声援を送るのかもしれない。それが具体的にどういうことなのか私は分からないが、それはちょっとした希望のようにも思える」
――Itmedia瀬名秀明に聞く「仮想世界」「ケータイ小説」「初音ミク」」*2

 瀬名秀明初音ミクについて発言していないかとぐぐったらすぐに出てきて笑った。「「ハジメテノオト」などに感動したという」。個人的には『ハジメテノオト』を聴いたとき、『八月の博物館』での"A Whole New World"を思い出した記憶があって、非常に頷ける話だ。

八月の博物館

八月の博物館

 八月に東北大で行われたという櫻井圭記との対談も非常に面白い。
「時代と共に変わる「ネットは広大」の意味〜瀬名秀明氏×櫻井圭記氏の公開対談@東北大学オープンキャンパス*3
「これからの人と機械とネットを取り巻く世界観とは? 〜想像力の限界を超えて【瀬名秀明氏×櫻井圭記氏インタビュー編】」*4

 いっぽうで、こういう意見も。

「ユーザの都合」を超えて「成長」していったときには、今「初音ミク」を支える大勢の人ひとりひとりがもっている「初音ミク」像から乖離することだけは確実だが、このインタビュアーはそこまで考えて質問してるのか?
(中略)
初音ミクだったら、最初の「声」を入れた声優さんやヤマハの技術者さんとか、アイマスだってあの動きはモーションキャプチャーだっていうから、振り付けを考えた人やそれを実際に踊って元データを作った人がいるわけじゃん。初音ミクとかアイマスの話ってこのへんがすげえ抜け落ちてる、あるいは意図的に無視しているように感じることが多い。
――「初音ミク初音ミクってうるせえよ」『SKiCCO ALTERNATiVE*5

 前半、意外と、乖離する部分も含めてファンは初音ミクのことを愛していけるように思う。愛ってそういうもんだし、そういう愛すら捧げられるほどのものだから初音ミクはここまででかくなったのではないか、と。初音ミクに愛されるかどうかは非常に不安ですが。
 後半の指摘は重要な話で、もっと語られていいよなあ。模造元は模造に対してどんな感情を抱くのか。藤田咲いわく、

――「ミク」の歌を聞いて自分が歌っている、と思う時ありませんか?
藤田 そう言われることもあるんですが、私自身は「初音ミク」が歌っている、という感覚です。自分で歌うと自分の表現があると思っているからです。「初音」さんの場合は、その、二日間かけて作った「初音ミク」というキャラクターが私の中でちゃんと確立していて、あとはクリプトンさんにお任せしますという形でお別れをしてきましたので。クリプトンさんの力で一つのキャラクターになっているのを見て、素直に「わー素晴らしい」と思っているんです。
(中略)
「初音」さんの場合は…何て言ったらいいのか試行錯誤したんですが、自分の分身だけど私は「初音」さんに魂を入れた段階でお別れをして、そのあとのストーリーはユーザーさん、一人一人の力で作って下さった、と捉えているんです。100人ユーザーさんがいたら100通りの「初音ミク」のキャラクターが存在している。
――「声優・藤田咲さんインタビュー(下)「初音」ユーザーの一途な思い その連鎖がブーム作った」『J-CASTニュース*6

ということだそうだが。
 インタビューは短く、もっと詳しく訊いてみたい気がするが、そもそも彼女は声優であり、自分以外のなにかを演じて顕現させることに馴れている人なわけで、あまりこだわっていないのかもしれない。

 人外のもの、人というには何か欠けたものへの愛を発動させるには、その本人じしんのなかに何か欠けているものがなければならないように思う。または、欠けているでのはないかという不安感*7
 そういう情動を切って捨てるのも簡単だけど、そこから生まれるものもあるんじゃないか。科学にせよ、芸術にせよ。

初音ミクNightに行く

 というわけで行ってきます。

 このイベント、ぼくの趣味を知らない仕事上の付き合いの人にたくさん会う可能性が高くって、実はちょっと躊躇していたりもする。
 伊藤氏を扱ったitmediaの記事*1などをあらためて読むと、初音ミクという存在は、根暗で反社会的で個人的な嗜好の対象(要は「オタクっぽいなにか」)とはかけ離れたところまでリーチできるものになっていたんだなあと思う。そういうわけで、あまり気張らず目立たず参加してこようと思う。

 自分の自意識過剰ぶりが嫌になるな。なんで自分の視点からしか世界を見通せないんだろう。

初音ミクNightに行ってきた

Q.VOCALOIDにあって、人間の歌手にないものはなんだと思いますか?
A.難しい質問ですね。普通に考えれば、VOCALOIDは人間の歌を模しているのであって、むしろVOCALOIDのほうが何か欠けているはず。それとは逆の考え方ですよね……。
結局のところ、VOCALOIDはソフトウェアでしかない。そこに想いを乗せたい、音楽を吹き込みたいという何万人というユーザの存在、でしょうか。共用し、サポートする存在は、人間の歌手にはないものでしょう。

――伊藤博之氏・「初音ミクNight」質疑応答における発言より

 サイエンスカフェ初音ミクNight」@紀伊國屋書店札幌本店。
 開場が17:30からで、ぼくが現地に着いたのは16:50ごろ。その時点ですでに開場をまつ長蛇の列が、紀伊國屋書店前にできあがっていた。最終的に、ビルの外側を囲む格好で行列が出来、関係者に聞いたところ、紀伊國屋書店札幌本店でのサイエンスカフェ史上最高の人出だったそうである。おおよそ100人くらいだったろうか? 北海道新聞の取材も来ていた。
 ネット各所での反響はScience and Communication*1にまとまっている。

 一時間半のうち、前半は司会者と伊藤氏のトーク、後半は事前に受け付けた質問をもとにした質疑応答が行われた。

 前半で主に語られたのは、VOCALOIDの歴史、VOCALOIDの基本的な仕組み、科学と芸術の関係、といったところ。
 伊藤氏の発言の中で、特に下記のような部分が印象深かった。

  • あくまで音楽ソフトとして作っているので、キャラクタービジネスを行うつもりはなかった
  • VOCALOIDは改良の余地がまだまだある技術であり、逆にそれがユーザに力量を競わせてもいる
  • 音声のサンプリングは苦労する。声優も一日演じていれば疲れてくるので、一定のコンディションで録音することをこころがけた
  • 新しいコンピュータが発売されると、必ず最初にゲームと音楽のソフトが創られる。最新技術を音楽に応用したいという欲望が人々の根底にあるのではないか

 質疑応答では、技術的なところから、現象としての初音ミク、その他もろもろ幅広い質問が出た。

 質疑応答にせよトークショーにせよ、mixi上の日記で笹本祐一先生(!)が指摘されている*2ように、全体的にクリエイター的な部分への言及が多く、初音ミクのサイエンス的面白さをクローズアップしようという運営側の意志は薄かったように思う。
 でもまあそういうことは、札幌でSF大会でもやったときのためにとっておけばいいことだ*3

 で、冒頭に掲げたものは、ぼくが後半で発言させていただいた質問と伊藤氏の回答だ*4
 ロボットとか人工知能とかもっと言えばラブドールとか、人が創り出した人的なものが持つ魅力とはなんなのだろう、と初音ミクの声を聴く度にぼくは思う。
 あるいは、人なのに「人間らしさ」を持たない人や、社会や組織やなんやらはいったいなにものなのか、と(また、そう感じてしまうぼくの「人間らしさ」の判断基準はいったいなんなのか)。
 そういう文脈で、この質問をしたかったわけである。
 ふたたび笹本先生のご指摘を引くなら「プロバイダーにクリエイター的なことを聞いても無駄」なのだし、そもそもこれは受け手たるぼくが考えるべき問題だ。
 それでも、一度、初音ミクを売り出した人に、聞きたかったのだ。
 伊藤氏は、ぼくのめんどうくさい質問に対し、丁寧に答えてくださった。それはいわば、初音ミクというキャラクターが成立する環境についての言及であって、初音ミクそのものへの言及ではなかったとも思う。しかし、なんというか――ぼくが考えるべき問題の範囲はより狭まった、というか、外堀は埋まっていることを確認できた、というか。

 いっぽうで、ぼくのように初音ミクに熱狂するものがいれば、いっぽうで、伊藤氏のように初音ミクを「楽器」ととらえ、ツールとして冷静にあやつるものもいる。初音ミクを取り囲む幅広い人の存在を知ることができたというその一点だけでも、ぼくにとってはとてもたのしいイベントだった。行ってよかった。

 私たちは、「ミク」が実在しないことをよく知っている。それがデータの塊でしかないことも分かっている。にもかかわらず、ただ「いる」という存在感だけは受けとってしまう。逆にいえば、そこには「誰もいない」、いや「何もない」ことを知悉している。だからこそ、この圧倒的な空虚、絶望的な孤独の前に、あるいは、ただ世界に「存在すること」だけがむき出しのまま放り出されているという事実の前に立ちすくみ、涙するのである。
――伊藤剛「ハジメテノオト、原初のキャラ・キャラの原初」(『ちくま』08年3月号)

*1:http://sciencecommunication.blog.so-net.ne.jp/2008-10-12-2

*2:http://mixi.jp/view_diary.pl?id=961576867&owner_id=209282

*3:いま発作的に思いついてしまったが、いいじゃん、札幌でSF大会。どうか、どうなのか、おれ。

*4:メモからおこした文章なので、あくまで概要である。伊藤氏の本来の発言と異なる可能性がないとは言えないので注意されたい