こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

世界はきみの夢/『ガラスの花と壊す世界』

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 ぼくのフィクションの分類棚には「長い夢みたいなやつ」という区分がある。
 長く、濃密で、鮮明な夢。物事が断片的にしか語られない。時間も場所も跳ぶ。しかしそれらは継ぎ目なしに繋がっていて、一瞬一瞬の情報量は過密で、覚醒してしばらくはそれらがすべて現実だったのだと確信しているほどに鮮やかな夢。すべてが夢だとわかったあとも、数日後にふいに「あれは現実だったのだ」と頭をよぎるような夢。
 そういう夢を見たあとと同じ感触を頭のなかに残してくれる映画、あるいはフィクション。
 時系列のシャッフルや不条理な展開など、構成が夢のようだと思えるだけではだめなのだ。多くのフィクションは人に「リアルだ」と思わせることを指向していて、それに対して「アンリアルだ」と思わせてもいいという方針で作られているフィクションがあるけれども、ぼくが言いたいのはそういうことではない。アンリアルなだけではいけない。
 観ているうちはとてもリアルに思えるが、終わったあとは、決してリアルではなかったことがまざまざとわかる。それでも、それが作りものであったという事実は、自分がそのフィクションをリアルだと思っていた確信を、決して揺るがさない。
 そしてぼくはそういうフィクションが大好きなのである*1

 

 『ガラスの花と壊す世界』は上映時間67分のアニメ映画である。ポニーキャニオンが2013年に開催した公募企画「アニメ化大賞」での大賞受賞作を原案としているが、世界設定や物語の多くは新たに練られたようだ。
 残念ながら、そうして作られた本作の物語は、巧く語られてはいない。人類滅亡後の世界で動き続けるコンピュータ・プログラムたちの物語と、それらを作り上げた人間の数世代にわたる物語とが、両者が密接に繋がっていることをふくめて描かれていくのだが、その語り方は勢いやテンポに頼りすぎていて、乱雑ですらある。
 主人公のデュアルとドロシーは、現実世界をデータ化して保存した巨大なバックアップ保管庫を守るアンチウイルスプログラムであり、彼女たちは日々ウィルスと戦うのだけれども、戦闘シーンのアニメーションとしての面白さ、かっこよさは中の中といったところで、あまり目を惹かれはしない。

 

 ではつまらなかったかというと、まったくそうではないのだ。映画館で、大好きだ、と大声で言いたいくらいに興奮した。
 それはこの映画が前述の「長い夢みたいなやつ」という個人的なフィクションの分類にばっちり当てはまったからである。
 さきほどは、この「長い夢みたいなやつ」の特徴を色々と書こうとしたけれども、最終的にはこれはぼくの超個人的な感覚の話である。映画館で自分が「長い夢みたいだ」と感じたから、そういう分類に入るのだ。そういう自分勝手な話ではある。申し訳ないです。

 

 思うに、この映画の構成、演出、テーマのそれぞれに、ぼくの「夢みたいだ」という感覚を刺激する要素が色濃くあったから、その分類に当てはまり、かつ大好きになってしまったのだと思う。


 構成は前述のとおり乱雑さがみられる。終盤の謎の明かし方は過密すぎてついていくのに苦労するし、興が冷めると感じる人も多かろうと思う。けれども、その過密さ、論理を繋げるのに苦労する違和感が、「長い夢みたいなフィクション」という感覚をぼくにもたらす。

 

 映画の中盤、挿入曲が二曲立て続けに流れるパートがある。人気の女性声優たちが歌う曲を使おうという商業的な目的も透けてみえるのだけれども、一曲目では様々な時代・場所を訪れて、二曲目ではともに日常を過ごすなかで、それぞれに未知の世界を知っていくデュアルとドロシー、リモの姿が実にかわいらしく、いきいきと描かれている。
 デュアルたちが膨大な未知の世界を、その多くを受け止めきれないままに次から次へと知っていく感覚は、映画の終盤まで持続する。データアーカイブの未知の世界を知って驚いていた彼女たちは、やがて自らの存在意義や、データアーカイブの現状にかくされた真実を知っていく。観客がその膨大な謎の開陳に戸惑うのと同様、デュアルたちも戸惑う。戸惑うし、物語は決してハッピーエンドには着地しない。それでも、デュアルたちは世界の理の片鱗に触れてなんらかの確信を得た。未知の世界を知り、ほんのわずかな真実をつかんだ彼女たちの変化を、表情やしぐさが強く物語る。
 そんな演出を見る喜びだって決して充分ではないのだけれども、断片で示されるからこそ輝いて見えることもある*2。たぶん世界の理はたしかにどこかにあるのだろうけれども、主人公たちと観客はそのすべてに触れることはできず、しかし一瞬でも触れられたことによって、世界が一変して輝いて見えるあの感覚。それこそがいいのだ!

 

 テーマについては詳しく言わないでおくけれども、オーソドックスなポストヒューマンSFの物語が、茫漠とした時間感覚で、これまた断片的に語られることに強い魅力を感じた。
 何をもって人とするのか? ほんとうのこととは何か。現実とは何か……。そうやって世界や人間そのものへの問いを放ちつつ、そこに執着せず、これからも凄まじく長い時間を生きていくであろう主人公たちが楽しそうに笑うさまをもって物語を終えるところがよい。

 

 思考を続けるコンピュータプログラムたちが、このあとどんな存在になっていくのか。映画のラストで、ある登場人物は、(生きる目標としての)「夢を見つけた」と言って喜ぶ。彼女の生きるコンピュータの世界を作り出した、おそらくは数百年前に生きた人間たちの姿がフラッシュバックする。両者をつなぐ、人間でもありプログラムでもある存在が歌う歌が聴こえてくる。

 人間がプログラムを創造し、プログラムがふたたび創造の入り口に立つ。それを過去の人間が微笑んで眺めている。「夢」を見ているのは人間なのか、プログラムなのか……。
 「長い夢のようなフィクション」を好むぼくは、この終幕に、「あるいはすべてが夢なのではないか」という感慨をいだいた。いや、じっさい、これはフィクションであり、夢のようなものであり、しかし――。

 

 そういうわけで(どういうわけで?)、ぼくは大層気に入りました。
 自分はほとんど前知識なく、まっさらな状態で観たことで、登場人物たちが世界を知っていく驚き、喜び、悲しみを共有できたので、親切にすぎる公式サイトのストーリー紹介などは目にしないまま、ノーガード戦法で劇場へ行くのをおすすめします。
 よい夢を。

 


劇場アニメーション「ガラスの花と壊す世界」予告編

 

音楽がとてもよいです。劇伴と主題歌を手掛けるのは横山克。サントラ買ってしまった。


【ガラスの花と壊す世界】主題歌CD「夢の蕾」【試聴PV】

*1:例:ヨースタイン・ゴルデル『カード・ミステリー』、ジョー・ライト『PAN』、ウォシャウスキー&ティクヴァ『クラウドアトラス』など。

*2:貧乏性の人間がわずかに与えられたご褒美に喜んでいるだけだと言われたらそれまでだ。

ぼくは「ガルパンはいいぞ」とは言わない/『劇場版ガールズ&パンツァー』


ガールズ&パンツァー 劇場本予告

 

 『劇場版ガールズ&パンツァー』を観てきました。
 年末年始にテレビ版12話+OVAを観て予習を済ませ、立川シネマツーの極上爆音で鑑賞。
 テレビシリーズは初回放送時に一話だけ観ていました。戦車道という大嘘を、空母上の学校という超大嘘を重ねることで通用させちゃう蛮勇にそれなりに心躍りつつも、その嘘に自分はのれないなと思って視聴を止めてしまった記憶があります。
 今回ようやくテレビシリーズ・OVAを通して観て、戦車と少女という極端な大嘘のつきっぷりのよさ、そこにからまる各人の成長や友情のドラマを大いに楽しみました。映画はさらにそれを拡大した楽しさに満ちていて、たいへん楽しかったです。

 …楽しかったのですけど、完全に乗っかりきる、いわゆる「ガルパンはいいぞ」状態にはなりきれませんでした。

 

 理由の一つ目。
 アクションがあまりに濃密で、追いつききれなかったこと。十代のころ、タミヤの年鑑カタログを毎年買って眺め、1/35キットをいくつか組み立てる程度には戦車を知っているつもりでしたが、いやはや、まったく目が追いつきませんでした。学校ごとのわかりやすいマークや色分けによって、認識しやすくするための工夫がされてはいるものの、乱戦で細かく視点が切り替わるとなかなか厳しい。
 物語やキャラクターにも、のりづらい部分がありました。知波単学園の無策ぶりには、物語への没入を妨げるくらいに腹が立ってしまって辛かったです。プラウダのカチューシャと仲間たちのくだりもちょっときつかった。あそこ、もっと逼迫している描写を入れないと、カチューシャ以外の自己犠牲が納得しづらいと思うんですけど。

 ただし、これらのことは、二度目には気にならないはずです。むしろ、飲み込みづらさを乗り越えて「わかるわかる」となったとき、楽しさは増していくでしょう。欠点のあるキャラクターたちも、繰り返し目にすれば愛着もわいていくかもしれません。

 

 結構大きな問題なのかも、と思うのは理由の二つ目。
 あまりに、登場人物たちが傷つかないことです。

 劇場版は、TV版の時点でもすでにスピーディで迫力のあった戦車アクションに、一層の力をかけています。何十両という戦車・重戦車が行きかい、大量の砲弾が飛び、爆発を巻き起こす。映画版にふさわしい巨大兵器も登場する。TV版にあった呑気なスポ根もの雰囲気はかなり減退して、破壊のスケールと危険の度合いは確実に増している。
 しかし当然、戦車道は安全だという設定は変わりません。どんなに大口径の砲弾を近距離でやり過ごしても風圧で人体が破壊されることはないし、ハッチから半身を乗り出している車長が、横転した車両の下敷きになったり、爆発の余波を受けたりして傷つくことはない。
 ぼくには「戦車内はカーボンコーティングされているから安全」という設定がカバーできる範囲を超えて、少女たちは危険にさらされているように見えます。

 

 ぼくが違和感をおぼえるのは、少女たちが傷つかないことを論理立てる設定の弱さそのものではありません。
 「これがガルパンだから」という前提のもとに、傷つかない少女たちを受け入れられる、受け手・作り手の心です。

 

 この構図は、戦意高揚のための戦争映画に近いのかもしれないと思います*1
 現実の兵士たちは傷ついている。しかし、自陣営の兵士は強く、傷つかないということを信じたい作り手・受け手の欲望のもとに、映画のなかの兵士たちは傷つくことを許されない。
 『ガールズ&パンツァー』の場合、少女たちは作り手・受け手の燃え/萌えを充足させるために、傷つくことを許されない。
 それはとても不遜なことではないでしょうか。

 

 これまで、アニメその他であまた描かれてきた戦闘美少女たちはみなそういうことを強いられてきました。それでも、彼女たちの傷つかなさはあくまで特別な能力や存在としてのみ描かれてきたはずです*2ガルパンは、アクション描写の苛烈さと、傷つかなさとの距離が、あまりに離れすぎている、とぼくは思います。あれほどのアクションが描写されるいっぽうで、少女たちの傷つかなさが、作品世界内でも、作品外の受け手にも、「普通のこと」ととして受け入れられすぎてはいまいか。

 

 ここでぼくの考えは飛躍します。
 このように、フィクション内の少女たちの傷つかなさを無自覚に受け入れられることは、萌え文化がしばしば、現実の女性の味わう傷を実にあっさりと無視してしまうことに繋がっているのではないか、と。
 たとえば、SNS上で、性的な表現に対してなんらかの不快感を示す人たちへ「それはあなたの気のせいですよ」「価値観の違いですよ」と声をかけることのできるおたくたち。彼らの行為は、表現によって心が傷ついたことを表明している人間に対して、「あなたは傷ついていませんよ」と言っているに等しい。たとえ過敏であろうと、不幸なアクシデント的接触だろうと、萌え文化によって「傷ついた」と感じたその人の心のありよう自体は確かにあるはずなのに、それを否認してしまう。
 他者の傷に対する不感ぶりは、『ガールズ&パンツァー』が示すような「少女たちの傷つかなさ」によって育てられるのではないか?

 

 いやいや、もちろん、フィクションはフィクション、現実は現実です。それはぼくだってわかっている――というか、そう信じたい。娯楽は娯楽として楽しんで、現実は現実で他者を慮って生きている。ガルパンおじさんたちはみなそうだと思いたい。
 しかし、かようにもやもや考えてしまう要素をもつ映画を「ガルパンはいいぞ」の一言*3で済まされてしまうと、いやいや、この映画ってそんな簡単に済むんですかね、と疑問を呈したくなる。
 時折見かける「『マッドマックス 怒りのデス・ロード』と並ぶ傑作」という意見もまた、ぼくの疑問に拍車をかけます。あれは、そうした倫理的ハードルをクリアした傑作なのだから。

 

 そういうわけで、自分は「ガルパンはいいぞ」とは言わないでおきます。

 

 なお、はっきり言っておきたいのですが、ぼくはこの映画が好きです。二度と観ない、とは決して思わない。
 これまで語ってきたような、少女たちの傷つかなさについても、その歪みこそが日本の萌え文化の根っこにあるのであって、そこで育ってきた歪んだ文化に自分は魅了されてもいる、ということもわかっているつもりです。
 だから、もし今後、どうしても、最短の言葉でガルパンのことを讃えなくてはいけない場面がきたとしたら、こう言うと思います。「それでも、ガルパンはいいぞ」、と。
 潔くないって? ま、それがぼくの「道」なんすよ。

*1:とか言いつつ、ぴったりくる具体例を引けない程度にしか戦争映画を知らないのがぼくのいかんところです。

*2:あるいはパロディ、ギャグとして。

*3:自虐的・露悪的なニュアンスを含んでもいることもまあ、わからないではない。わからないのだけれども...。

2015年の映画ベスト10

 昨年は合計56回映画館で映画を観ました。うち9回は同じ映画の再見*1。また現時点で『スターウォーズ フォースの覚醒』『劇場版ガールズ&パンツァー』『クリード』と多くの人が年間ベストワンに選びそうなものを観ていない状況です。
 母数をもっと増やすべきだし、前述の話題作を観てから考えるべき――とちょっとは思うわけですけど、たいへん偏ったベスト10なので、あんまり影響がない気もする。なので元旦にえいやっと選んでしまいました。以下、10位から発表。

 

第10位『マッドマックス 怒りのデス・ロード』

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 映画の完成度としては、10本中ぶっちぎりのベストなのではという気がします。倫理的なこと、映画の技術、シリーズの蓄積、ジャンル映画の規律、そういった色々なものを背負って生真面目に綺麗に一本背負いをキメているジョージ・ミラーは本当にすごい。
 

 第9位『セッション』 

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 鑑賞中の興奮度ではマッドマックスを超えていたかもしれない。人間の得体の知れなさ、それと何の不具合もなく同居する底の浅さを見せつけられて死にそうになるんですけど、最後の最後にむちゃくちゃ気持ちいい時間がやってくる。J・K・シモンズはぶん殴られて地獄に落ちるべきなんだけど、それを生かしておいて音楽で叩きのめす。そんな映画/芸術でしかできない復讐を成し遂げつつも、現実的にはなんの解決もしていないかもしれないし、むしろ主人公もまた常人は踏み込んではいけない地獄へ足を踏み入れてしまっている……ということも示しているあたりが好きです。

 

第8位『バードマン』

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 憧れの作家からもらったメモを後生大事に取っておく(けどあっさり無くしてしまう)主人公の姿に泣いた。十代のころに見てしまった夢はどんなにバカにされても、自分でもばかばかしいと思っていても、止められない。くそくだらない中年男のそういう心理を、ああいう低い温度で描いてくれたことに礼を言いたい。映像も音楽も超かっこいいのに、主人公はきちんとかっこわるいのが偉い。

 

第7位『フォックスキャッチャー』

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 冒頭、鏡を見ながら自分を殴打するチャニング・テイタムに泣いた……ってまあ泣いてばかりですが。遠慮なく殴り合えるはずの友人と出会っているのに、嫌われたくない恐怖や自己愛のせいでまっとうに殴り合えない男たちの悲しさと滑稽さといったら。一人になったチャニング・テイタムが、誰かと戦い続けていることを描いて、たとえ地獄であっても戦い続けることができるはずだ、と小さくも力強く希望を示して終えるところも好きです。

 

第6位『ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション』

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 トム・クルーズは自己言及の多い俳優です。自分を彷彿とさせる役や物語をよく演じるし、自分の演じる役に、その鏡像となるような人物と対決させることが多い。本作でも、主人公イーサン・ハントと仲間たちは、元スパイの男が率いる悪の組織と戦うことになる。けれども、トムの姿には(『フォックスキャッチャー』ほかのような)自分と殴りあうような悲惨さ、あるいはそれが裏返った自己愛みたいなものは見えない。そういうところにぼくは惹かれるんだろうなと思います。そんなトムのヒーロー性と、イーサン・ハント的スパイの挟持の双方をあざやかに示したクライマックスがすばらしい。

 

 ここでついでに2015年のスパイフィクションベストもざっくり。
1.欠番
2.『ミッション:インポッシブル ローグ・ネイション』(クリストファー・マッカリー
3.『クロニクル』(リチャード・ハウス、武藤陽生・濱野大道訳)
4.『ジョーカー・ゲーム

 一位は『メタルギアソリッドV』がランクインするはずなのですが、まだプレイできていないので欠番。三位は四部作の半分も読めてないんですけど、一作目からしてもうル・カレを超えた面倒くさい読み口がたまらんです。そのうちドラマ化するんじゃないかなあ。4位、大量のビッグタイトルが公開されたスパイ映画年だった今年、MI以外で一番スパイフィクション愛好家以外に広く届く楽しさをもっていたのは意外とこの映画だったのではないか。
 別サイト*2の更新がすっかり滞りがちですが、近々早川書房から『冒険・スパイ小説ハンドブック』の改訂版が刊行されればこのサイトの役目は概ね終わるのでこのまま放置するつもりです。

 

第5位『黄金のアデーレ 名画の帰還』

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 ヘレン・ハント様最高ですよひゃっほー、とはしゃぎつつ、すぐに揺らいでしまう老いた人としての演技もよくって、元気をもらいつつ始終しみじみ泣かされたのでした。失ったものを取り戻すとはどういうことか、そしてそれがいかに困難なことか。奪う者たちも人として描きつつ、立てるべきときには毅然と中指を立てる、凛とした佇まいの映画でした。人間、間違ったことをしたときには素直に謝りましょう。

 

第4位『PAN ネバーランド、夢のはじまり』

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 今年の秋にけっこう手痛い失敗をしまして、後悔に苛まれて自分をぶん殴る毎日を過ごしているなか、ぼんやり観に行ったら見事にぐっさり刺さってしまったのでした。詳しくは当時書いた記事*3にて。今はそこそこ回復したので観直したらどう思うかわかりません。

 

第3位『プリデスティネーション』

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 自分のことが嫌いになったり愛おしかったり忙しいなお前!じゃあこれでも観てろよ、一本で済んでお得だぜ!とばかりに愉快なジャンル映画作家スピエリッグ兄弟が投げつけてきてくれたウルトラ豪速球。受け止めきれずに死にました。
 先日、古書市でぼんやり本を漁ったら、原作を論じた文章*4に行き当たって「ファッ」みたいな変な声が出ました。
 たぶん当分見返さないけどこれはおれの映画...とすごくためらいながら思う。

 

第2位『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』劇場版二部作

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 フル3DCGアニメの技術的達成が、脚本・演出陣の手堅い仕事、出演者たちの技巧と情熱、そしてキャラクターソング/アーティストの人気などに隠れてほぼまったく見えなかったことこそが凄い歴史的一作。フル3DCGとかまあ今時普通じゃん?問題は何をどう物語るかじゃん?という、個人的に好きなタイプの作り手のドヤ顔が垣間見える映画でありました。
 物語の終盤は、いかに他者と健康的に殴り合いをするか、という話になっていて、困難なコミュニケーションを達成しようとするファーストコンタクトSFは、同時にセカイ系的な心の物語にもなるのだなあ、という認識をあらたにしました。青臭いけれども、諦めずにコミュニケートを試みる主人公たちの姿を見習いたいです。

 

第1位『ラブライブ! The School Idol Movie』

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 で、そういう、生きる指針として観たときにも、娯楽映画として観たときにも、ひとつの芸術作品として観たときにも、はたまた映画館の外へ出たあとも、すべての点で規格外の感動を与えてくれたのがこの映画でありました。
 人間の跳躍が、場所も時間も越えてゆくさまを描出した演出・構成はほんとうに美しかった。散々ブログに記事を書いてきたけれども、この映画のそういう面はぜんぜん伝えきれていないと思うのであらためて強く言っておきたいです。

 

 2015年は日本のアニメにずいぶんずぶずぶとはまった一年でした。
 関連して、ライブや聖地巡礼、即売会といった「いま、このとき、この場所」を最優先にする娯楽の場に出かけることが増えました。よかったことも悪かったこともたくさんあった。
 そのぶん、映画館へ、単純に一本の映画を観るためだけに出かけることは減ってしまった。
 反省したいこと、やり残したことも多いけれども、引き続き、短期的に希望せず、長期的に絶望せず、の日野啓三リスペクトな姿勢でもって日々を生きていきたいと思います。

終わりを受け止めるということ/「蒼き鋼のアルペジオ -アルス・ノヴァ-」Character Songs LIVE “Blue Field”〜Finale〜ライブレポート

 2015年12月19日、会場はよこすか芸術劇場

 ライブの帰り道って、みんな何聴いて帰ってるんでしょうか。ぼくはたいてい、全然ライブに関係ない曲しか聴けないです。ライブを思い出しちゃうから。ライブ音源が手元にない限り、そのライブで歌われた曲のCD音源を聴いても、「今日のあの音はもう二度と聴けないんだ」って切なくなるだけじゃないですか。
 今日の帰途はずっと、カニエ・ウェストの昔のしんみりした曲を聴いていました。

 今日のライブが終わったあと、まずは、ライブ前に夕飯を食べたどぶ板食堂Perryに戻って、ビールを一杯飲みました。9月のTridentのライブ後も、品川ステラボールのドリンクカウンターで買った缶ビールを、会場近くの路地で一人で飲んでいました。あの頃、自分がこんな気持ちになるとは思ってなかったなあ。
 要はすっかり油断していたのです。
 今日のライブで興津和幸さんが仰っていたように、なんか続くんでしょ?終わんないんでしょ?って思っていた。何の根拠も、具体的予測もなかったのに。

 ライブはとても楽しかったです!全部で三時間はあったんでしょうか。あっという間でした。
 トップバッターはまさかのBlue Steels。前座とか茶化してましたけど、これまでのTridentのライブでの盛り上げぶりからすれば納得の打順です。実際、超盛り上がっていたし。
 ぐっと来たのは、彼らが登場するまえ、ライブ冒頭の演出。群像(興津和幸)が、霧の艦隊と人類との交流を促すべくライブを開催するぞ!という口上を述べるのです。いわば、今日のライブ自体が、劇場版後編『Cadenza』の後日譚になっていく。ライブ中には、3DCGアニメで描かれた各キャラクターたちの『Cadenza』後の様子がバックスクリーンに投影されていました。『Cadenza』という映画自体、登場人物のその後を豊かに想像させるオープンエンドでしたが、今日のライブはより一層、『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』という物語を「開く」ことに成功していたように思います。

 Blue Steelsにつづいては、401クルー女性陣のお二人(津田美波東山奈央)、刑部家の三人(原紗友里内山夕実、山村響)、ヒュウガ&タカオ(藤田咲沼倉愛美)が順に登場。ぼくの特に好きなキャラソン群を連打される流れで、とても楽しかったです。
 前半のベストアクトは、藤田さんの歌詞飛びあるいはマイクトラブル?もありながらも、二人の声質の相性の良さが特に特に際立っていた藤田さんと沼倉さんの『Ray of Hope』かな。
 津田さんと東山さんは、ライブパフォーマンスはもちろんですが、トークや後半のあいさつ時の雰囲気が魅力的でした。津田さんは、ちょっと話の方向が定まらなかったから「ぽんこつ」と卑下してましたけど、個人的にはああいう話をする役者さんっていいなあ、と思います。そういう、論理で言葉にできないなにかを、演技や歌でこちらに垣間見せてくれるのが役者さんなので。あのとき笑った客席の人たちはちょっと反省してほしいですよまったく!

 中盤には、シークレットゲストとしてナノさんが登場。これまた盛り上がりました。CD買ってないことがバレますが、歌詞を覚えていなくて、盛り上がりたいサビなんかを一緒に歌えなかったことが実に悔しいです。反省。
 テレビ版OP・『D.C.』EDのあと、『Cadenza』の映像とともに歌いあげられた劇中挿入歌には、場内が聴き入っていた印象でした。改めて『Cadenza』クライマックスの映像の力を思い知ったし、ナノさんの歌唱力、そして曲のよさを強く感じました。

 なお、シークレットゲストはナノさんのみで、個人的に超期待していたコンゴウ様(ゆかな)とマヤ(MAKO)が登場しなかったのは残念でした。うーむ。
 登場できなかったけど登場した、のがヤマト(中原麻衣)で、映像のヤマト・録音の中原麻衣さんの声にあわせて、渕上舞さんがイオナとして歌うという演出でした。キャラクターの設定上、イオナはヤマトと同時にいられないキャラクターでもあるわけで、聴くものにそんなことを考えさせるという意味では、中原さんの不在を逆に活かしたとも言えるでしょう。

 霧の生徒会(M・A・O、福原綾香三森すずこ佐藤聡美五十嵐裕美)は持ち歌が一曲しかないにも関わらず、なかなかの存在感だったと思います。キャラが立った5人なので、観ているだけでたのしい。水中でのしゃべりを生で再現した三森さんのユーモラスな自己紹介や、随所で恐縮する低姿勢な人物ながらもヒエイとしての声はばっちりかっこよく決めていくM・A・Oさんが特に印象的でした。

 そして最後はTrident。
 渕上舞さんが最後のあいさつで口にしていたように、一言一言大切に歌っていることがわかるパフォーマンスでした。あいさつ聞く前から、「渕上さん、すごく丁寧に歌っているぞ…!」と思っていたので、あいさつ時には「やっぱり!」と嬉しくなりました。三人のチームワークも自然に安定していて、3月のファーストライブ時はあった、固さもまったく感じられなかった。

 ……なので、それがずっと続くと思いたくなっちゃうわけです。
 わけですけど、そうはいかない。ライブ終演後、来年4月のライブをもってTridentが解散することが発表されました。

 東山奈央さんが、終演時のあいさつでこんなことを言っていました。

みなさんは、『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』が放映された二年前、自分が何をしていたか覚えていますが? 二年経った今も、同じ一つの作品が存在して、みんなで楽しんで、それって凄くないですか?*1

 ぼくが『蒼き鋼のアルペジオ アルス・ノヴァ』、そしてTridentを明確に認識したのは、まだ一年も経たないつい最近のことです。だから、今自分が抱いている寂しさや感慨は、テレビ放送当時から追いかけてきた人に比べればまだ小さいのだと思います。でも寂しいし辛い。

 よき物語は時として、人の人生と併走してくれることがあります。東山さんが言った通り、『蒼き鋼のアルペジオ』も、Tridentも、この二年の間、ファンと併走してきた。物語の中身自体に感銘を受けたり慰めを得たりすることもあれば、作品が作られていく舞台裏に魅せられて、励まされることもある。
 『蒼き鋼のアルペジオ』が完結する、あるいはTridentが解散する。それは、ファンが、自分の人生を乗り切る励みとするなにかを一つ失うことにほかなりません。
 だから、寂しいし辛い。
 大切な誰かが、自分を駅のホームに残して、次の駅へ去っていってしまうような感覚。

 ライブが終わったあと、しばらく、4階バルコニーの自分の席でぼうっとして、誰もいないステージや、人のはけていく客席を眺めていました。もう今日のみんなが集まるライブはないんだ、と強く思いながら。
 終わってしまうこと、もうその人やものに再会できないことは、辛い。『Cadenza』でイオナが思い悩んだのも、そういうことです。けれども、コンゴウは「私が覚えているから大丈夫だ」と彼女を送り出した。
 ぼくはコンゴウのように、強くTridentたちを送り出すことはできそうにありません。そうありたいけれど。

 帰り道、家が近くなってようやく、ケータイの音楽プレイヤーを操作して、カニエを止めました。やっぱりTridentを聴くのは辛かったので、山村響さんのhibiku名義のオリジナル曲『Love is Simple』を聴きながら、最寄り駅から家までの暗い道を歩きました。
 久々に聴くせいか、もともと好きな曲ですけど、一層心が動かされて、「ま、Tridentが終わったら、山村さんを応援していこうや」ってな具合に、ちょっとだけ、気が楽になりました。ちょっとだけ。

 誰かに置いていかれるのがいやなら、笑顔でがんばって前へ向かうしかないんですよね、まったく。

*1:うろ覚えです。すみません。