こづかい三万円の日々

40代の男がアニメ、映画、音楽などについて書いています。Twitter:@tegit

わたしの物語の終わり、わたしたちの物語のはじまり/『ラブライブ!サンシャイン!!』4話のこと

 『ラブライブ!サンシャイン!!』4話が素晴らしかった。以下、おおよそはその内容を辿っただけのものだけれども、今の印象を書き留めておく。

 

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 前回も書いた通り、アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』という物語は、前作『ラブライブ!』を強く意識している。劇中のスクールアイドルAqoursのメンバーたちが、『ラブライブ!』のμ'sを強く意識しているからだ。
 千歌をはじめとした『サンシャイン』の登場人物たちは、われわれ視聴者と同じようにμ'sの物語を知っており、その物語をなぞって生きようとする。μ'sはこんな練習をしていた、こんなふうにライブを経験した、といったふうに。
 そこには、『ラブライブ!』というコンテンツが成し遂げた成果や、それを作り上げてきたスタッフやファンへの敬意が込められているから、前作から追いかけてきたファンにとって非常に気持のよいものになっている。
 しかし同時に、そこには息苦しさがある。あらかじめ規定されたレールを走らざるを得ない不自由さ、つねに他者の目を気づかうことで生じる弱さがある。

 

 第4話は、浦の星学院一年の国木田花丸の語りによってはじまる。子供のころから本に親しみ、無限の物語を提供してくれる図書室こそ自分の居場所だった、と彼女は言う。彼女にとって、他者が描いた物語を読むこと、それこそが自分の物語なのだ。

 いっぽう、花丸と同学年の黒澤ルビィもまた、スクールアイドルという他者の物語に胸をときめかせている人間だった。二人は、読むものは違えど、同じ図書室で多くの時間を共有する。同じ、他者の物語こそ自分の物語だと思っている人間として。

 千歌たちAqoursのメンバーは、新たにスクールアイドル部の部室として使うことになった閉鎖された学院内の一室で見つかった本を返却するために図書室へ赴き、花丸とルビィに再会する*1
 千歌たちに勧誘され、紆余曲折ののち花丸とルビィはスクールアイドル部に体験入部することになる。
 ルビィはとうぜんスクールアイドルになりたいのだけれども、姉のダイヤが嫌っているから、という理由で躊躇している。ルビィの回想のなかで、ダイヤもかつてはスクールアイドルを、μ'sを愛してはばからなかったことが描かれる。ダイヤがμ'sのなかで一番好きだったのが絢瀬絵里であり、その生徒会長としての姿にも憧れていたことも触れられる。過去の3話で描かれていたダイヤの頑なな生徒会長としての振る舞いが、まさに絢瀬絵里の物語に沿ったものだったということが示される。おそらくはそれゆえに、絵里を目指しつつも途中で挫折した、自分のスクールアイドルとしての物語から忌避していることも。
 ダイヤは、絵里の物語に縛られている。そしてルビィは、ダイヤの物語に縛られている。

 

 体験入部の日々のなかで、花丸は自分の限界を悟る。そして、ルビィがダイヤの束縛を抜けて自分の進みたい道に進む後押しをしたうえで、皆の前を去る。そもそも彼女は自分の物語ではなく、ルビィの物語を進めるためにこそスクールアイドル部に参加したのだった。

これで丸の話はおしまい
もう夢は叶ったから
丸は本の世界に戻るの
大丈夫、一人でも

 花丸の主観によって語られてきた彼女の物語は、彼女の手によって終わりを迎える。
 しかし、ここで二つの物語が彼女の目の前に差し出される。

ルビィね、花丸ちゃんのこと見てた

 一つは、ルビィによる花丸の物語だ。

ルビィに気を使ってスクールアイドルをやってるんじゃないかって
ルビィのために無理してるんじゃないかって心配だったから
でも、練習のときも
屋上にいたときも
みんなで話してるときも
花丸ちゃん、嬉しそうだった

 他者によって語られた物語が、花丸が自ら語ってきた物語では描けなかった、新たな光景を花丸の前に描く。
 そして花丸を変えるもう一つの物語は、μ'sのメンバーである星空凛のものだ。

そこに映ってる凛ちゃんもね
自分はスクールアイドルに向いてないってずっと思ってたんだよ

 スクールアイドルに向いていないと思いながらも、μ'sの一員として輝いてみせた星空凛の物語が、花丸の背中を押す。


 花丸は、他者の物語によって縛られていたルビィを解放した。
 いっぽうルビィは、自分自身の物語によって縛られていた花丸を、他者の物語をもちいて解放するのだ。


 ここでついにはじまる彼女たちふたりの物語を、わたしはどう表現すればよいだろうか? それは彼女「だけ」の物語ではない。オリジナルな物語ではない。μ'sの物語なり、お互いの物語なり、他者の物語を糧にしてこそのものだからだ。だがそれでも、それは他者の物語ではない。それは確かに、彼女たちの物語だ*2

 

 花丸とルビィの物語を通じてわたしは新しい希望を抱く。
 いまだμ'sの物語を強く意識するAqoursの物語だけれども、いまやAqoursの物語はμ'sの物語「だけ」を模倣するものではなくなっている。μ'sの物語が、あの輝ける九人それぞれの物語が不可分に撚りあったものであったように、Aqoursの物語も、μ'sの物語、そしてAqours九人の物語を撚り込んで、彼女たちの物語になりつつあるではないか。

 そのような物語をどう形容すればよいか?
 答えはすでにある。「みんなで叶える物語」だ。

*1:このとき発見された本は、そしてホワイトボードにうっすらと残されていた詩は、誰が読み、誰が書いたものなのか? この謎はわたしの胸を大きくざわつかせる。

*2:なお、この最後の図書室のシーンで流れる音楽がわたしは好きだ。『ラブライブ!』のテーマを強く意識したメインテーマと異なり、『サンシャイン!!』固有の音が鳴っているように思える。自分の音楽についての記憶力の薄さは筋金入りだから、実はそんなことはないのかもしれないけれど。

千歌が越えた一線と、言葉について/『ラブライブ!サンシャイン!!』3話までの感想を語る


Aqours ラブライブ!サンシャイン!! OPテーマソング 「青空Jumping Heart」CM (60秒ver.)

 

 アニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の放送が始まってから三週間が経った。16日の放送で、3話目までを放送したことになる。

 

 驚いたのは、予想以上にμ'sの存在が大きく描かれることだった。これまでの『ラブライブ!サンシャイン!!』におけるμ'sの扱いからして、μ'sはμ's、AqoursAqoursと割りきった姿勢になるものと思っていたのだけれども、むしろμ'sへの言及は回を重ねるごとに色濃くなっているようにみえる。
 シリーズものの作品は、ファンから過去作への敬意を求められるものだが、『サンシャイン』におけるμ'sへの言及はそういったマナーの範疇を超えている。
 これは、作中の登場人物たち自身が、μ'sへの並々ならぬ感情を抱えているからに他ならない。Aqoursの発起人・高海千歌はμ'sのライブ映像を観てスクールアイドルを志す。彼女を叱咤する(そして暗に助ける)黒澤ダイヤも、μ'sの熱心なファンであることが示される。
 ダイヤは、波乱含みながらもファーストライブを成功させた千歌に言う。「これは今までのスクールアイドルの努力と、町の人たちの善意があっての成功ですわ。勘違いしないように」、と。これはそのまま、現実でのAqoursが置かれた状況への言葉としてもとらえられる。『ラブライブ!サンシャイン!!』がヒットし、Aqoursのイベントに客がつめかけたとしても、それはμ'sと『ラブライブ!』から継続して応援しているファンあってのことなのだ。
 これに対して、千歌はこう応える。
「わかってます。でも、でもただ見てるだけじゃ始まらないって。うまく言えないけど、今しかない瞬間だから。だから、輝きたい!」
 この言葉によって、Aqoursも『ラブライブ!サンシャイン!!』も、ある一線を越える。自分たちが置かれた状況を指し示して、全てわかっていることを示したうえで、そうした周囲のことを差し置いて、自分たちの「輝きたい」という願いを一番大事なものとして掲げる。
 恐らく、3話までぼくの予想以上にμ'sについての言及が多かったのも、この跳躍をより明確にさせるためだ。この発言を起点として(そしてもちろん3話全体で描かれたファーストライブを起点として)、Aqoursの物語がいよいよ本格的に走りだすのだと思われる。

 

 千歌の言葉をもう少し詳しくみてみる。
 物語の転換を告げる大事な台詞のなかに、「うまく言えないけど」という言い訳めいた部分が含まれていることに、僅かな違和感を覚える。そここそが重要なんじゃないのか、と思う。そここそを言ってくれよ、と思う。
 思うのだが、一方あの高坂穂乃果もまたしばしば、言葉では達せられない何かについて、しばしば言葉の無力さを吐露していたのだった*1
 こういう「言葉では掬い取れないものがある」ということを、割合無防備に提示してしまうところは、しばしば『ラブライブ!』(の特にアニメ二期以降)を批判する人の論拠の一つになってきた。
 だが、言葉を使わないことは、真に責められるべきことなのだろうか? 論理や根拠が明白に示されることはおしなべて善なのか。むしろ、言葉や論理を超えたところにあるものこそ、スクールアイドルや『ラブライブ!』が示す善きものなのだ――、と言い張りたくなる気持ちはあるのだが、言わないでおく。『サンシャイン!!』が劇中でそうした瞬間を示した後で(これ!これだよ!と指差しながら)言い張るつもりだ。


 また、こうも思う。ここで千歌は「うまく言えないけど」と言うものの、続ける言葉で見事に心情を伝えきっているじゃないか、と。「輝きたい!」という一言をストレートに解するなら、μ'sのように歌って踊って活躍したい、注目されたい、楽しい気持ちになりたい、ということになるだろう。実にまっすぐな欲望の宣言である。
 「うまく言えないけど」というのは、「体裁よく言えないけど」という意味でもあるのだろう。μ'sがどんなにすばらしかろうと、ファンが献身的に支えてくれようと、そんなものは究極的にはぜんぶ脇において千歌は「輝きたい」と言う。

 個人的には、結局のところそれでいいのだ、と思う。自分がなりたいと思えばなれる、それこそがスクールアイドルなのだと思っている。
 けれども、劇中でも、現実世界でも、Aqoursがスクールアイドルとして認められるまでには、まだいくつかの試練があるのだろう。
 何が――誰が、Aqoursの、そして千歌のまえに立ちはだかるのだろうか。
 μ'sにおける各人の役割が二人に分担されていることが多いAqoursにおいて、『ラブライブ!』一期終盤におけることりの位置には、果南と曜が配置されているのではないか、といまは予想している。そしてさらに妄想を膨らませて、3話でファーストライブを満員の体育館で終わらせたAqoursは、最終話で誰もいない体育館でライブを行い、その状況でこそ掴み取れる輝き、自分たちのためだけの輝きを得るのではないか――などとも思っている。まったくの思いつきですが。


 少なくとも、千歌がひとりで言った「輝き」という言葉を、9人それぞれに「輝きたい」という言葉を裏付ける自分の心を見つけ、抱きとめるところまでAqoursが進むことができれば、彼女たちの「輝き」はμ'sに匹敵する強いものになれるのではないかと思う。いまは期待するしかない。

 

 最後に、エンディング曲『ユメ語るよりユメ歌おう』についてひとこと。

夢を語る言葉より
夢を語る歌にしよう
それならば今を伝えられる気がするから
夢を語る言葉から
夢を語る歌が生まれるんだね
広がるこの想いは
大好きなメロディの繋がりだよね

 ここでもやはり「言葉より」「歌」、と、言葉(論理)を超えるものが提示されるのだが、しかし「言葉から」「歌が生まれるんだね」という転換もあって、ぼくは少しほっとした。
 どんなにμ'sやAqoursに魅せられていても、歌をうたう力はなく、ただ考えたことを言葉に書き留めることしかできない人間にとって、こんな一節は、ある種の救いであったりもするのだった。

*1:たとえば『Heart to Heart』の「難しいことなどわからない/だったら笑顔で語ろうかな」などが端的でわかりやすい。ここでは言葉よりも表情のほうが雄弁であるという価値観が示されている。なお、同曲はゲーム『スクールアイドルフェスティバル』の劇中で穂乃果が作詞した楽曲として描かれる。

『ラブライブ!サンシャイン!!』放送直前に思うこと


【番宣PV】TVアニメ「ラブライブ!サンシャイン!!」番宣PV

 

 いま、2016年7月2日の21時49分にこの文章を書き始めている。

 ついにあと三十分でアニメ『ラブライブ!サンシャイン!!』の放送が始まる。

 幸運なことに、ぼくは今年の1月に行われたAqours初のイベントに参加できた。
 その時、Aqoursの9人には幾度も輝く瞬間が訪れていたのだけれど、群を抜いて印象に残ったのは、演者たちがあるシチュエーションを設定され、各キャラクターのセリフを自分で考えて演じる、というコーナーにおける伊波杏樹の演技だった。彼女の演技が終わったとき、会場にはどよめきが起きた。それほどに彼女の演技は、言葉は、μ'sにあこがれてスクールアイドルを目指す沼津の少女、高海千歌の真髄を捉えていたのだ。
 あの瞬間、ぼくは伊波杏樹という人がこのまま高海千歌を演じる限り、『ラブライブ!サンシャイン!!』は大丈夫だ、と思った。

 イベント後半で行われたライブシーンのころになると、その直感は安心に変わっていた。Aqoursはμ'sと同様に素晴らしい歌とダンスを披露し、輝いていた。スクールアイドルという虚構を背負って、現実の世界でみごとに輝いていた。

 

 アニメ化の発表以降、セカンドシングル、各種イベント、そしてユニット別シングルとAqoursの活動はテンポよく様々な展開をみせていった。メディア露出も増え、また特に楽曲のクオリティが高いことから、世間の評価も徐々に上がっていったように感じる。
 ぼくはといえば、当初注目していた国木田花丸(高槻かなこ)に加え、松浦果南(諏訪ななか)、津島善子(小林愛香)と好きな人が三人に増えて困惑している。こんなに好きになるつもりはなかったんですけど。
 要するに、Aqoursはアイドルとしてすでに成功している。少なくともぼくのなかでは。

 

 そもそも、異常な成功をおさめたμ'sに続くチームとして招集され、たった一年でアニメ化を迎えるという無茶な境遇に置かれているのだから、Aqoursに一定の人気が集まるのは当然のことなのだ。アイドルとは、その実力そのものの値ではなく、さまざまなギャップの表れ(逆境に負けず頑張る、とか、実力を越えて魅力を打ち出す、とか)こそ愛されるのだから。判官贔屓と言ったっていい。
 なお、そういう無茶な戦場に放り出される異能者集団としてぼくは勝手にAqoursは『スーサイド・スクワッド』であり伊波杏樹マーゴット・ロビーであるという直感を得ているのですけどまあそれは本当にたわごとなので省略します。

 

 『ラブライブ!サンシャイン!!』がアニメで問われるのは、Aqoursの「スクールアイドルの物語」としての価値だと思う。
 Aqoursの人たちは、ステージ上にスクールアイドルとしてのAqoursを一時的に召喚することはできるけれども、真にスクールアイドルとして生きることはできない。だから、その物語は、アニメでしか語りえない*1

 スクールアイドルの物語として、μ'sの『ラブライブ!』を振り返るとき、たとえば一期一話、『ススメ→トゥモロウ』の直前でμ'sの9人の「いったいどうすれば?」という言葉を経て穂乃果が歌い出す瞬間であるとか、映画の『Sunny Day Song』においてスクールアイドルたちが歌う情景であるとか、スクールアイドルの物語でしか表現しえない感動のポイントが幾度も思い出される。
 かような感動を、『ラブライブ!サンシャイン!!』では、何度味わえるだろうか。
 できることなら何度も味わいたい。けれど、贅沢は言わない。たった一度でもいいのだ。ぼくはその瞬間を心待ちにしている。

 あと二十分で、物語の幕が開く。

*1:公野櫻子による物語はすでに公野櫻子が書いているという時点で合格している。

『そして夢みるものたちは』 序.六月の映画館

 『ラブライブ! The School Idol Movie』公開一周年記念。

 一週間遅れたし途中ですが。

 小説です。連作短編です。

 未完とはいえたいへん長いので、ここではさらにその一部だけ載せました。

 全文はpixivに載せました。

www.pixiv.net

 

 また、以下にてこの続きを含むepubファイルを公開しています。

https://drive.google.com/open?id=0BzrrvYn0CvL5U2YtelpLSzZJV1U

 

 完結は2016年夏の予定です。

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