アメリカの片田舎。嵐の翌日、深い霧が街を包み込む。霧の中には得体の知れない怪物が潜み、人間を襲いはじめる。
非常に重い映画である。こういうくだらない宣伝をする配給会社の人たちは、なにか別の映画を観たのではないかと思うくらい重い。
主人公をはじめとする人々は、スーパーマーケットに立てこもり救助を待つが、怪物に次々と殺されていく。と同時に、おなじくらいの数の人間が、自らを殺めたり、一緒に立てこもっている周りの人間に殺されたりする。
異常事態に陥ったとき、最も恐ろしいのは怪物ではなく人間である――これは『ゾンビ』を頂点としたホラー映画のひとつの巨大なテーゼである。本作はそのテーゼを徹底して描く。人間性を構成するものが、次々と悲劇を生んでいくさまを執拗に描くことによって。
主人公は映画のポスターを描く画家で、大卒のインテリである。冒頭、彼の仕事場が映し出されるが、壁には『遊星からの物体X』のポスターがかかり、主人公が作業中なのは『ガンスリンガー』で、なんだかそのまんま過ぎて笑った。でもこれは、彼がそういうジャンルの映画を得意としている=その後の事態にも普通の人より順応できる、という伏線だろう。
主人公のお隣さんは都会で活躍する弁護士で、事態の異常さにいちはやく気づいた主人公は彼の知性を頼りにするのだが、弁護士は知性があるゆえに主人公を信じることができず、彼と分かれてしまうこととなる。犠牲者の血やモンスターの身体の残骸を示し、信じてくれ、とさけぶ主人公に、「証拠が不十分だ」と吐き捨てる弁護士。冷静すぎる知性が人々を殺すこととなる。
怪物たちの何度かの襲撃を経て、人々は疲労困憊する。増え続ける犠牲者と、全く良くならない状況。
そのうち、普段は狂信者としてさげすまれていたはずのキリスト教原理主義者がとつじょ求心力をもって人々を引きつけはじめる。
映画の前半で彼女は、自分が周囲からやっかまれ、嘲笑されていることを知っていると独白している。スーパーのトイレで、それでも神様は自分と一緒だ、と泣く姿は哀れさも誘う。しかし彼女は、信仰と自分のエゴとを混同し、差し伸べられた善意の手も無視して、異常な妄言を撒き散らし続ける。やがて彼女の言葉(すなわち、聖書の言葉)は人々を扇動し、惨たらしい結末を迎える。信仰が人々を殺す。
主人公は数々の修羅場をくぐり抜け、自分の息子とともに生き延びようと奮闘する。
知性に偏らず、信仰にのまれず、愛をもち、必死に生きようとする。
しかし、彼は結局自らを途方もない悲劇のなかにぶちこんでしまうことになる。
この映画のキモなので詳細は書けないが、ここで彼を悲劇に追い込んだのは、想像力だ。自分の置かれた状況から未来を想像し、結果とってしまった行動がとんでもない過ちとなる。
知性、信仰、想像力。
いずれも、非常事態にあって、多くの人々を救うであろう人間性の根幹を支える力だ。しかしそれらも、時には人を殺めてしまう。
この映画の結末があまりに絶望的なのは、愚かさでなく、讃えられるべき人間性こそが招いた悲劇だからだろう。
一昨年の傑作『トゥモロー・ワールド』*1は、主人公を人間の愚かさが招く地獄のなかをさまよわせながらも、最後に生命力を讃えることで穏やかな希望にあふれる結末とした。『ミスト』は、それをたどりながらも、最後の最後まで人間を信じない。世界と人間を、何の希望も抱けない荒涼としたものとして描く。
おそるべき映画だ。
以下雑事と補足。
最初の(はっきりと描かれる)犠牲者を演じるのは、『アメリカン・パイ』シリーズのクリス・オーウェン*2。シャーミネーターも田舎から脱出できなかったうえにこんなことになるとは……。
ここのサンフランシスコ在住のゴマさんによる07年11月公開時のレビューは、アメリカでの反応が少しだけ伺えて興味深いが、併載されているサンフランシスコの霧の写真が非常に恐ろしい。
そういえばぼくの住む札幌もけっこう霧の多い土地なのだ。
そして妻の実家である釧路はもっと霧の多い土地らしいのだ。今年の夏は行くのやめておこうかなあ……。
*1:『ミスト』監督のフランク・ダラボンも、『映画秘宝』のインタビューで『トゥモロー・ワールド』を賞賛している。