8月17日に公開された『ペンギン・ハイウェイ』を観た。
原作の森見登美彦が好きだ。これが初長編監督となる石田祐康、そして彼の所属するスタジオコロリドが好きだ。エンディング曲を歌う宇多田ヒカルも好きだし、そもそもSFとアニメが大好きだ。公開日が自分の誕生日だという偶然まで重なって、これは嫌いになれというほうが無理である。
結論を先に言えば、ぼくはこの映画がとても好きだ。たぶん2018年のベスト映画に挙げると思う。『シェイプ・オブ・ウォーター』よりも上というわけなので、要は偏愛している、ということなのだ。
いや、偏愛と言ったけれど、まっとうに、よくできたアニメ映画だとも思う。偏らなくたって愛せる映画ではないのだろうか?
前々から石田祐康と新井陽次郎を中心としたスタジオコロリドは、やがては名実ともにスタジオジブリと宮崎駿の後を継げるかもしれない*1と思っていたけれど、今回の長編第一作を観てますますその思いを強くした。商業的な成功のための力も、映画表現を究めていく力も、両方バランスよくそなえた類まれなる若い才能たちだと思う。のちのち、彼らの長編第一作を映画館で観た、という自慢をするためにも映画ファンは映画館に行っていい。特に、終盤のある重要なシーンの演出が本当に見事だと思った。あれは映画館で――デジタル化されているとはいえ、コマの連なりとしてのアニメーションを感じられる映画館という上映環境で――こそ観たいタイプの演出だと思う。
森見登美彦の原作と上田誠の脚本によるストーリーも巧みだ。シンプルなスリルと決定的な驚きがあって、SFとしての出来もすばらしい。さすが原作が日本SF大賞を受賞しているだけはある。
そして、声優たちの演技もいい。主人公アオヤマくんを演じる北香那、そして謎の「お姉さん」を演じる蒼井優の演技は、それぞれすでに実写畑で評価されている人たちなだけあって何の問題もない。蒼井優の演技には映画の冒頭でこそ若干の違和感を抱くものの、やがてその違和感こそが彼女がキャスティングされた理由であったのであろうことがわかってくる。そもそも蒼井優はすでに傑作『REDLINE』を始めとした多数のアニメ映画に出演しているわけで、演じる本人もキャスティングする側もそうした違和感が生じることは織り込み済みだったのだろう。
かれらを脇でささえる人々もよい。特にぼくは潘めぐみさんの声が好きなのだけど、好きとか思っているくせにスタッフロールを見るまで彼女が出演して(かつ見事な演技をして)いたことに気づかなかった。同じく脇で見事な演技をみせる釘宮理恵といい、あれだけ特徴的な声質をしているにも関わらず、本作のような配役においてはみごとに自分の特徴をおさえてみせる職人芸にほとほと感服するほかない。
さて、そういうわけで、『ペンギン・ハイウェイ』がもつ、よい映画としてのファクターをつらつら挙げたのだけれども、そうしたことがらを超えて、やっぱりこれはぼくにとってあくまで偏愛の映画なのだ。万人に自信をもって薦めることはできない。
主人公であるアオヤマくんは、自身の住む街で起こるペンギンをめぐる怪奇現象に対して科学的な姿勢で研究を進めていく。と同時に彼が取り組むのは、近所の歯科で働いている「お姉さん」の研究である。
冒頭からアオヤマくんはお姉さんの「おっぱい」について、それがどれだけ魅力的で謎めいた存在なのか、立て板に水の勢いで語る。お姉さんとその身体は彼にとって、住宅街に突如現れるペンギンたちと等しく「謎」だ。彼はそれらの謎を解くために知恵を絞り奔走する。
女性を「謎」として描く物語はあまた存在する。その多くが、女性を謎というブラックボックスのなかに閉じ込めて神聖化してきた。
意地の悪い見方をしようとすればいくらでもできる映画だと思う。映画を観るぼくは、アオヤマくんに自分の欲望を仮託して、お姉さんに萌えることができる。それも、「研究」という、無邪気で理知的なふりをして。ミステリアスに恋愛と性愛の予感をふりまくお姉さんが、子供としての自分も、男としての自分も受け入れてくれると妄想することができる。
こういうことも言える。
わかりたいと思えば思うほど、謎は遠ざかる。世界は、人間は、自分とはまったく異質だ。ふれあえばふれあうほどに、相手のなかにそれまで見えていなかった小さな異質さを見つけてしまう。それらを理解するにはとてもたくさんの労力が要る。
他者のなかの謎の連なりを見て、ときどきぼくは音をあげてしまいそうになる。もう謎を解くのはたくさんだ、と。すべてを大きな謎のままにして、放り投げて、青空の向こうにぼんやりと浮かばせてそのままにしておきたい、という欲望にかられる。
別に遠くから愛でていたいわけではないのに、そうするしか謎との付き合い方はないんじゃないか、などと思ってしまう。
かように、力のない人間は、謎と正しく付き合っていくことができない。
アオヤマ君は優秀な研究者だから、お姉さんをミステリアスな「お姉さん」のままで放っておかない。彼女の実存について真剣に悩む。その真摯さは、もしかしたら優しさや愛情からくるものではないのかもしれない。あくまで研究者としての真剣さゆえのものなのかもしれない。謎を謎としたまま、ロマンの籠に入れて放っておくのは、科学者としての敗北にほかならないからだ。
そんなに人は強くあれるものだろうか? アオヤマくんは、あの物語もあともずっと、そんな科学の心を強く持ち続けることができるのだろうか? ぼくは少し疑問に思ってしまう。
そのあたりの、彼の科学の心と愛情とのあわいが描かれているともっとよかったかもしれない。彼の友人であるウチダくんやハマモトさんからみれば、アオヤマくんも大いなる謎ではないか、と思うのだ。
石田祐康の短編『陽なたのアオシグレ』は、アオヤマくんとウチダくんをあわせたような小学生男子の恋と別れを描くのだけど、結末がすこし変わっている。それまで恋の対象だった女子に視点が移るのだ。彼女の口から、男子へのささやかな憧憬が語られる。『陽なたのアオシグレ』でのその転換は、あくまで実らない初恋の情感を最大限に引き立てるためのものであったとは思うのだけど、『ペンギン・ハイウェイ』にも、そうした外から見たアオヤマくんについての描写が含まれていたなら、映画はさらに一段上のものになっていたかもしれない。
……いや、単にそれはぼくが安心したいだけかもしれない。アオヤマくんのように生きられない自分と彼の距離をはかって、自分には彼のような生き方はできなくてもしかたがないのだ、という安心を得たいだけなのかもしれない。
当然のことながらこれは、観るものの弱さを糾弾するような映画ではない。単にぼくが自分で自分を殴っているだけだ。でもそういう気持ちになってしまう映画なのだ。気色悪いと言われるだろうけれど、だからぼくはこの映画が好きだ。
この映画が大好きだ、とぼくは何度でも何度でも繰り返せるが、内心は意外と穏やかだ。
映画は、お姉さんとアオヤマくんが過ごす時間のうち、彼らにとってもっとも重要な一瞬のひとつをスクリーンに映さない。それはアオヤマくんだけが見ることを許される瞬間だからだ。おそらくはあの世界でもっともお姉さんのことを考え想っていた人間であるアオヤマくんだけがそれを観ることができる。
映画は感情をゆさぶり、たくさんの問いかけを放つ。けれども、アオヤマくんとお姉さんにとってのそうした瞬間は隠したままにする。
こういう慎ましさをもった映画が、ぼくは好きだ。