- 作者: 泉和良
- 出版社/メーカー: 講談社
- 発売日: 2008/07/02
- メディア: 単行本
- 購入: 11人 クリック: 130回
- この商品を含むブログ (69件) を見る
フリーゲーム版『ラブソングができるまで』というか。
もちろん、あの映画みたいにマディソン・スクウェア・ガーデンも豪勢な音楽業界の舞台裏も出てこないが、ドリュー・バリモアとヒュー・グラントなみにキュートな男女は登場する。
- 出版社/メーカー: ワーナー・ホーム・ビデオ
- 発売日: 2007/09/07
- メディア: DVD
- 購入: 1人 クリック: 23回
- この商品を含むブログ (79件) を見る
物語の中心になるのは、主人公泉くんが抱える「エレGYは自分のことを全て知り、そのうえで愛してくれるか?」という苦悩だ。んなもん無理に決まっているだろうしそれができなくたって愛は成り立つよ、とも感じるが、もちろんその程度の回答では、90年代にネットのなかで狂乱と混沌の青春時代を過ごし、人と衝突する機会をあまり持たずにいま20代後半にさしかかる、エイティーズ・ボーンな主人公は納得できない。ほぼ同年代のオレも納得できない。
心理学ブームによって醸造された、人の心の裏の裏まで「読める」(決して「理解できる」じゃなくて)という誤解。行き着くところまで行った新自由主義とそれを裏付けるテクノロジーが要請する、完璧な自分と完璧な世界という強迫観念。そしてなにより、そうした生きづらさから救ってくれるはずだったオタクカルチャーの、いいようのない閉塞感。
これはあくまでぼくがいま感じることであって、泉和良を含む同世代みんながそう感じているかどうかはわからないけれども、おおかたこんなような内的障壁が、いま恋をしたいと感じる若者たちの中には発生してしまうように思える。
いま、恋愛を物語るのならば、作品内ではこうした障壁を認識し、乗り越えなければならない。
本作の場合、この障壁を描くことには成功している。たとえば、自分と周囲の女の子たちの関係を、こんなふうに「分析」してしまう主人公の思考。
飛躍した幻想など、あっという間に覚めてしまう事を僕は知っている。
これまでも何度か、僕のゲームのファンである女性と直接会う機会があったが、誰もが幻想で僕を見ていた。
そして幾らかの会話を交わしていくうち、彼女たちは現実とのギャップを上手く埋められず、僕に対する情熱から冷めていくのだ。
また、恋に落ちると同時に
ぼくの失恋が確定した。
魔法が切れ、彼女が「泉和良はジスカルドとは違う」と理解した時……、僕は傷ついてしまうのだ。
エレGYが好きだ……
エレGYに嫌われたくない……
と思い詰めてしまう主人公の心性。
それに対応するエレGYの暴走ぶりもリアルだし、泉の友人・小山田とその彼女のエピソードも効いている。
なによりぼくがいいなあと思うのは、そんなかれらが過ごす日常が、こんなふうにみずみずしく表現されていたことだ。すっごく、いい。いまのラノベや講談社BOX界隈では、このくらいの表現は標準レベルなのか?だとしたらうれしい。
ずっと続く街並みの先に、真円の月が浮いている。僕の両隣には友人二人。僕を中心にして、全てがシンメトリカルに構成されているように見える。バハムートくらい召喚できそうなほど荘厳な雰囲気だった。
酔っていい気分になっていた僕は、「この世は我等の物ぞー!」と、コンビニ袋を掲げて叫んだ。
さて、その後のもう一つの問題は、この障壁をいかに乗り越えるか?というところなんだけれども、正直なところぼくは少し物足りなさを感じてしまった。個々のモチーフ、展開はすばらしい。けれども、クライマックスはこの倍の分量を費やして描かれてもいいくらいだったと思う。前半で、これでもか細かく描かれた恋愛の障壁に対応するように。
とはいえ、おそらくそれは嗜好の範疇の問題で、きめ細かさよりスピードを取った(そりゃあのシーンで終わるならスピード感が必須だよね)というだけのことだろう。
かくして泉くんとエレGYは障壁を乗り越える……あるいは、障壁を無効化させる。
その速度と走法は、たしかに乙一のいう通り「今、自分たちが呼吸している文化はたしかにこういうものだ」*2と感じさせるに足る*3。
前述の通り、惜しい!もう一声!と言いたくなるところはあるけれども、まずはゼロ年代も終わりに近いいま、新たなマイルストーンが打ち立てられたことを喜ぼう。傑作!