- 出版社/メーカー: アトラス
- 発売日: 2008/07/10
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しかし、「生」とは、本来、そのようにわかりやすく分けては考えられないような、混沌そのものだと思うのだ。その混沌を引き受け、「影と光りの像」と正面から向き合うこと、それが「生の充実」ではないだろうか。
なるほど、この世には恵まれたひともいれば、恵まれないひともいるだろう。この世は不条理で不公平だろう。しかし、だからといって、ひとを「リア充」と決め付け、妬み、そねみ、うらやましがっているだけではいつまでたっても「充実」にはとどかないと思う。
リア充なんてこわくない! - Something Orange
彼、彼女が「リア充」であることが問題ではなく、共に青春を謳歌する主人公とプレイヤーの落差に絶望を覚えるんですよ。それにくらべておまいらときたら問題。つまり作品じゃなくておれの問題。はてなブックマーク > ドイツチェーンソー大量虐殺
ぼく自身が『ペルソナ4』に怒りや嫉妬を感じるわけではないのだけれど、そこにリア充云々の言説が生じることを簡単に切り捨ててほしくはないので、書いておく。
なぜ『ペルソナ4』をプレイする人は、自分がリア充でないことを意識しながらプレイしなくてはいけないのか、ということが気になるのだ。
中年の消費者たちが、英雄が活躍する時代小説やビジネス小説を読んで「これに比べておれのサラリーマン生活は...」とか、ハーレクインのロマンス小説を読んで「こんな美貌や強運、私にはない...」などと絶望して、「リア充め!」と怒っている姿ってぼくには想像できない。
むかしは(あるいはむかし生まれた大人たちは)そういう自分よりもすぐれたヒーロー・ヒロインを目にしたとき、自分との落差をてきとうにやり過ごしたり、あるいは「おれもあんなふうになってやる!」と成り上がりの夢を抱けるだけの余裕があったんじゃないか。
でも、いまの若い人たちの中には、そういう余裕がない人が多い、ってことじゃないか。
『かんなぎ』の非処女問題とかもここに通じると思う。
フィクションのなかのことだとわかっていても、全力で嫉妬して罵倒しないと気がすまないような、雰囲気。
インターネットという新たな表現の場が出現したことによって、今までは読者の中ですぐに消えてしまっていたちょっとした嫉妬や怒りがオープンになりやすくなっている、ということもあるのだけれど、それでもこの傾向って、もうちょっと深く考えたほうがよくないか。
どんなに安っぽく考えなしでばかばかしいものでも、絶望するものにとって絶望は絶望であり、それを「その価値観は誤りだ」とか、「世の中にはもっといいことがある」などと言っているだけでは何も変わらない。「お前たちが何と言おうとおれは絶望しているんだ!」と逆ギレされて終わりだよ。
けっきょく、最終的な答えは「それでも絶望せず、自分にできる全力を尽くして生きていくしかない」ということではあるのだろうけれど、みんながみんな、がんばれる人間ばかりじゃない、と思うのだ。
<追記>
この後、海燕さんのリア充なんてこわくない! - Something Orangeという記事を受けて、「ルサンチマン充」という言葉を、ぼくは口にしたくないという記事を書きました。通して読んでいただけるとうれしいです。